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秘密



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3304443

「結果の分かってる試合って、どんなもんだった?」

 緑間は静かな教室で二つ瞬きをした。見下ろす高尾は片眉を跳ね上げて笑っている。春先の天気は不安定で、早朝は澄んだ青色をしていた空に薄い灰色の雲を増やしてる。太陽が丁度隠されてしまったらしく、教室の中は薄暗い。

 二年生の一年間世話になった教室に残っているのは、もう緑間と高尾の二人だけだった。始業式が終わってすぐ教師に呼び出された緑間を高尾が待っていたのだ。さっさと新たな教室に移動しなければ、この教室の新たな主人たちと鉢合わせてしまう。机のフックにひっかけていた通学鞄と部活のエナメルバッグを高尾が急かすように押し付けてきた。何も聞かれなかったのは正直有難かった。昨年度の終わり頃から今日と同じように進路指導の教師から度々呼び出されていたので、察しがついているのだろう。進路とバスケを幾度となく天秤にかけられて、いい加減うんざり来ている。

「ただでさえツエー帝光で、『キセキの世代』が勢ぞろいだろ?実際中坊ん時は負けナシだったんだよな。負ける気なんてしなかったろ?」
「そうだな……。負けるという仮定すら存在しないものだったのだよ」

 唐突な問いに戸惑いながらも言葉を選んだ。無視しても良かったが、そうすると話が終わってしまう。高尾の口数は多く、その大抵が緑間にとってはくだらないことだが、時折その中にするりと何かを試すような言葉を潜ませてくることがある。いつものように聞き流しても構わない、高尾はそう思うのかもしれない。だがそれに気づいてから、緑間はできるだけその欠片を拾い集めるようにしていた。教室を出ながら何とは無しにポケットの中身に指先で触れる。今日のラッキーアイテムの桜貝の貝殻だ。砂浜からこいつを拾い上げて集める途方もない気持ちに少し似ていると思う。

「どうやって勝つか、というよりはどういう勝ち方にするか。それを考えていた」
「えげつねーなあ、それって面白いのかよ」
「だから言っているだろう……」
「ハイハイ、楽しい楽しくないでバスケをしてないのだよ!」
「真似をするな!」

 クラス替えに湧く喧騒は遠く、緑間の声は思う以上に大きく反響した。慣れ親しんだはずの廊下はどこかがらんとして他人行儀だ。まずは新三年生が新たな教室へ移り、その後に新二年生が移動することになっている。高尾は一度何かを惜しむように振り返り、早足で緑間の隣に戻った。二年間同じ教室で過ごしたが、これからはそれぞれ別の教室へと向かわなければならない。

「敗北は勿論、無様な勝利にも価値などないと考えていたのだよ。勝つことが当然だったのだから」
「勝ちだけに?」
「……」
「マジでスルーはやめてくんね?愛を感じねーよ愛を」
「馬鹿め。そんなものは元から無いのだよ」
「ハイハイ、ツンデレツンデレ」
「……ふざけるなら話は終わりだ」

 速くした足に合わせ、ぎゅ、ぎゅ、と上履きが塩化ビニールの敷かれた階段を踏んでいく。すぐに何でも茶化そうとするのは高尾の悪い癖だ。練習中の集中を無闇に乱していると何度か衝突したこともあったが、場の空気を緩和する長所でもあることは理解している。無論、本人にそのまま伝えることは一生無いだろう。

「今は?」

 通常の教室が詰まっている棟の最上階に一歩目を踏み出した瞬間、高尾が短い問いを吐いた。脳内で語をいくつか補う必要があり、そのまどろっこしさにため息を落とす。窓の遠い階段が作る影の中からまっすぐに視線が伸びて緑間を見上げていた。これより上の階はもう存在しないのだから、高尾もその自覚を持つべきだ。

「どんな勝利も逃す気はない。人事を尽くした者が手にしてこそ相応しいのだよ」

 本来なら言わずとも済む当然のことをわざわざ口にする苦痛と言ったらない。鼻白んで足早に廊下の突き当たりにある教室を目指す。振り返るつもりなど微塵も無かったが、いつもの馴れ馴れしい呼称をなぞられて仕方なく立ち止まった。高尾は斜に構えたようないつものクセのある笑みを浮かべ、ひらひらと手を振っている。

「尽くせよ、人事!」
「誰に向かって言っているのだよ」

 結局、高尾が何を言おうとしていたのかはよく分からないままだ。もやのようなものが緑間の胸の奥で蠢くのを感じる。一度もそんな経験を味わったこともないのに、赤司と挟んだ将棋盤を前にした時でさえもそんな心構えで臨んだことは一度として無いのに、まるで最初から負けだと知っている勝負に挑んでいる気分がすると思った。

 窓から冬の陽光が流れ込んでいる。廊下に満ちた冷たい空気を鋭く研磨しているみたいだ。頬や額を切りつけられているような気分がする。トレーナーやネックウォーマー、靴下なんかでできるだけ防寒したって顔だけは防ぎようがない。冷たい指先をすり合せながら上靴でぺたぺたと廊下を踏む。真冬の三年生の教室はどれもこれも受験生の缶詰だ。休憩時間、浮ついた人の気配を壁越しに感じてはいるが、廊下自体は静かなものである。時折すれ違う知り合いに交わすあいさつも自然にささやくような大きさに絞られた。独房か何かかとさえ思う。呆れた気分で窓の外にしかない高く澄んだ青空から目を逸らした。陽光が届かない薄暗い階段の前で一度足を止める。

 どうやって勝つか、というよりはどういう勝ち方にするか。

 学年が代わり、この最上階の一年限りの持ち主として初めて足を踏み込んだ時の会話を、今更になっても鮮明に思い返す。緑間は会話を交わしたことすら覚えているかも怪しいというのに。不要だと思うものに何の躊躇も持たない男だ。反対に必要だと思うものに対する執着も並ならぬものだが。自然に上がりそうになる口角を手の甲で隠しながら歩みを再開する。光の中に見るのは、茶化す高尾に不機嫌を隠さないやや早い足音と、正しくその動きに従う長い手足、それからぴしりと伸びた黒い背中だ。その背に浮かぶ骨や筋肉の動きまで余さずに思い描ける。三年弱の生活の中で何千回、何万回は見つめたはずなのに、いつになったら見飽きるのだろうか。気の遠くなる話だ。

 廊下の突き当たりの教室は、難関大学を目指す生徒で固められている。さすがと感心すべきか、やれやれと呆れるべきか、この教室には休憩時間にも廊下と同じ静寂が流れているようだ。さすがの高尾でも、戸をひとつ開ける音にすら気を使う。建てつけの悪い後方のドアがスライドする音で、教室の半分の生徒の視線が高尾に注がれた。ざっと急流が走るような音を聞いたような気がする。わりわり、と愛想笑いを浮かべつつ、目当ての人物の名を挙げる。呆れた様子でそいつは立ち上がった。やっと来たのかとこぼしつつ歩み寄ってくる。ドアの外に高尾を追いやってピシャリとそれを閉めた。

「……ったく、人の単語帳パクって行きやがって……」
「ワリーって!ホラ、お詫びのウカール付けてっから!な!」
「こんなもんサクサク言わしながら勉強できるかっての!」

 奪い取られた分厚い単語帳で頭を軽く叩かれた。同じ塾に通っている友人で、成績はかけ離れているが案外話が合う。自習室で鉢合わせた時は大抵隣り合って座り、時折分からない箇所を教えてもらっている。その流れで昨夜、うっかり友人の単語帳を拝借したまま帰宅してしまったのだった。目の前の男は口ぶりとは裏腹に笑顔だ。それを見てあいつなら容赦なく単語帳の背でブン殴ってくるな、などと考えている。重症だ。友人と言葉を交わしつつ、ちらりとドアの覗き窓に視線を飛ばした。

 そう言えば、ここは緑間のいる教室だ。

 実際のところそんなこと分かりきっているし、廊下の突き当たりを見つめる度に意識している。これは暗示だ。緑間のことなんか知らないような自分を装って、ボロをうっかり出してしまわないための。30cm四方ほどでドアを切り取る教室の絵の中に、小さく緑間は存在している。脅威の強運を駆使してまたも窓際をキープしているようだった。青空の窓の下、手元の本を見下ろす姿は折り目正しく動きも音も感じられない。何かの彫刻のようだ。ドアの外を意識している様子は少しも見えない。

「……そういやさ」
「ん?」
「緑間と話したりとかする?」
「いや、全然。なんでって……ああ、オマエら仲良いんだっけ。バスケ部だよな」
「つっても、部が終わっちゃうとなー。最近全然会わねえし」
「まー今はそうだろな」

 早く受験終わるといいよなあ、と頷きを交し合い、互いの肩をポンポン叩いて解散することにする。友人がドアをスライドさせる音は相変わらずガラガラと大きいが、窓絵の端に座る男はやはり振り返る素振りすら見せなかった。

「うっはーあ!」
「……なんなのだよ、突然」

 突然、高尾が頭を抱えて蹲った。それまでは黙り込み微動だにせずロッカーの扉を睨みつけていたというのに。漂っていた息苦しい空気がぱっと霧散する。この無駄に回る口を持つ男は、ほんのひと時口を閉ざすだけで空気の重さを瞬く間に変える。そんな安い手品のような錯覚が気に入らない緑間は、ただ黙って高尾の視線の先にあるものを同じようにして睨めつけていた。いくつもの世代が繰り返し使い込み、薄いスチール板がところどころへこみ、塗装が剥げ、留め具が錆付いているロッカー。その左端には美しいとは言い難い荒い字で『高尾』とある。春になればもう違う名札が差し込まれているのだろう。目の前にある『緑間』も同じくだ。

「いやー、後輩たちにカッコワリーとこ見られまくったなって思うとつい……」
「今更過ぎるのだよ」
「そりゃそーだけど!あークソ緑間!涼しい顔しやがって……!」
「やめろ!」

 がばり、音がしそうなほどの勢いで高尾は立ち上がり、嫌な笑顔で緑間に肉薄した。腕が伸びてきて左の頬骨のあたりの肉を思い切り抓まれる。耐え難い蛮行に憤り、すぐさまその手を払い落とした。いてえよ、と手を振りながらわざとらしく拗ねた表情を作っている高尾の目は、ひどく充血していてまぶたが少し重そうだ。

 三年目のウインターカップを終え、部員全員で一旦学校に戻った。いつもの公式戦後と同じように試合の反省をして、今後の方針について監督から訓辞を受けて解散する。自主練に残った者が一人、二人と帰っていき、最後には緑間と高尾で片付けと戸締りをする。最後の試合はとうに終わってしまったというのに、あまりにも穏やかに日常をなぞっていた。

「オマエ、泣かなかったよな」
「泣くような試合はしていないのだよ。ガキのオマエと一緒にするな」
「にゃにおー!オマエなんかこうしてやる!」
「だからやめろ……!」

 今度は両頬をぐいぐいと抓られた上に、自分でやったくせに高尾は緑間の顔を見ながら笑い始める。出会った日とまるで違わず軽薄で失礼な男だ。これが28mのサイドラインと15mのエンドラインの中に囲われている時は、誰よりも熱く猛々しく真摯にボールに噛み付いている。泣くくらいならずっとコートの中にいればいい。あの姿をもう永遠に同じコートから見ることがないのなら惜しいと思う――コートを出て仲間や後輩に声をかけられながら、笑みの狭間に情けなく涙を滲ませる顔を見ながらこう思った。我ながら子供の駄々よりも馬鹿馬鹿しい理屈だ。

「終わっちまったな。三年」
「何が言いたいのだよ」

 いつにないしつこさに抵抗すら億劫になる。一人で愉快げに笑みを零している様を睨み下ろしていると、高尾は緑間の頬に指を添えたままぽつりと言った。口角がくっと上がるクセのある笑みは変わらない。しかし声のトーンがいつの間にか少し落ち着いていた。部室の薄暗い蛍光灯を反射して、鷹の目の奥に静かな光を溜め込んでいる。

「オレ、毎日バスケのことばっか考えてた。起きてもバスケ、メシ食ってもバスケ、寝てもバスケ……ってさ。これから何考えりゃいいんだろーな」
「……っオレが知るか。受験の心配でもしてろ」

 一瞬、言葉が詰まったことを悟られただろうか。高尾ならば勘付いたかもしれない。コート上のどんな情報も拾い上げていく高尾の武器からわずかに視線を外した。ふざけるようなふりをして両手を頬に添えた本当の理由は、緑間を安易に逃さないためではないだろうか。この男の口から、ありきたりでつまらない物分りの良い言葉は聞きたくない。眉根にしわが寄るのを自覚する。意地でも意識だけは傾けない心積もりだった。そんな緑間を面白がるように、ふ、と笑みが息とともに吐き出される音を聞くまでは。なーんてな、高尾の声に視線がつい動かされた。

「ホントは、これから毎日何考えるかなんて分かってんだわ」

 口元の曲線にも声にも吐息にも笑みが混じっている。それでも目だけはコートの中にある時のようにひたりと緑間を捉えていた。どんな些細な機会でも得点へ、緑間へ繋いでみせる高尾の目だ。

「真ちゃん、勝負しよーぜ」

 すっかり流行から外れた折りたたみ式の携帯電話を開いては閉じ、閉じては開く。機種を変えるタイミングを逃したまま三年が経とうとしていた。パチン、パタンと軽い音がする度に画面が白く点灯する。そこに綴られた文字に自然と目が吸い寄せられ、表情が動くのを防ぐためにまた画面を折りたたむ。

「……なーにやってんだかな」

 苦笑とともに漏れた息は白い。隣に立って怪訝げに顔をしかめる相手も居ない完全な独り言だったが、幸いなことに高尾の言葉を聞き咎めた者は居ないようだった。参道には人が溢れていて騒がしく、小さな呟きなど掻き消されてしまったのだ。整然と敷かれた石畳をスニーカーの裏で踏みつつ、ジャケットのポケットに片手を突っ込み、やや猫背ぎみに美しい朱塗りの鳥居をくぐる。新年の一日目から空にも灰色の石畳が敷かれてしまっており、かなり冷え込んでいるが、それは初詣の賑わいを翳らせる理由にならないらしい。何かを炊くような匂いと華やかな喧騒が、冬の風と一緒に鼻と耳を撫でて行った。いつもならぼんやり眺める出店の群れに目も遣らず、携帯をぱちぱち言わせながら無心で人の流れに乗る。早く本殿に乗り込んで折り返す必要があった。

 一体あとどれほどの距離を残しているのだろうか。うんざりと目を上げ、人の群れの中に飛び出している頭があることに気が付く。あれだけ派手な髪色とあの図体が他人の空似である確率は限りなく低いはずだ。高尾は迷いなく口を開けた。携帯をポケットに押し込んで人波を迷惑承知で掻き分ける。

「おーい火神!火神だろ?」
「あ?」

 声を辿って、精悍な輪郭を持つ横顔が気だるげに振り返ってくる。どうも寒がりらしく、威圧的な体格と対照的にぶくぶくと着膨れた様子がおかしい。なんとかその隣まで辿り着くと、火神の逆隣にもう一人知り合いが居るのにやっと気が付いた。

「黒子ォ!オマエも居たんだな」
「ああ、高尾君。奇遇ですね。明けましておめでとうございます」
「……ゴザイマス」
「ぶっは、おま、そんなイヤそーにしなくたっていいじゃん!あけおめ!」
「ちげーよ……寒くて口開けたくねんだよ……」
「ぎゃははは、どんだけ寒がりよ?雪ダルマみてーになってっし!」

 黒子に関して言えば平均身長がその姿を埋もれさせていただけとも言えないだろう。さすがに人でみっちり埋まった空間を情報だけで俯瞰し、この影の薄い男を見つけ出すのは不可能だ。

「お前ら揃って初詣?ホント仲良いのなー」
「ついでだ。ついで」
「ついで?何の」
「ボクたち青峰君にバスケに誘われたんですよ」
「あーこの辺の公園ゴールとかあるしな」
「オマエこの辺に住んでんのか?」
「そうそ。出かけるついでに……って思ったんだけど人多すぎだわ。ま、オマエらに会えて良かったけどさ」

 正月から好ましいバスケ馬鹿である。ついこの間まで感じていた試合にかける熱意や激情がぐっと喉元にせり上がってきて堪えられず笑った。不思議そうに見つめてくる四つの目がまたおかしい。

「オマエも来るか?してーんだろ。バスケ」
「っはは、まあな。けどエンリョしとくぜ。言ったろ?これから出かけるって」

 わけの分からないことはとりあえずバスケでカタをつける、とでも言いたげな火神の行動にまた笑いを誘発されつつも、胸の奥がじりじり焼かれるような誘惑にはきちんと抗っておいた。火神、黒子、青峰、とくればバスケプレイヤーの血が騒がないわけがない。だがやっぱり、一番に高尾の血を沸き立たせるのはあのシュートなのだ。

「にしてもオマエらヨユーだな。受験とかどうなわけ?」
「だからわざわざ青峰待たせてこんな人ごみに突っ込んでんだろ」
「ぷっくく……神頼みかよ!」
「でも、火神君は卒業したら戻るんですよね。アメリカに」

 黒子の指摘に笑みが引っ込む。高い位置にある火神の目を黒子と共に覗き込んだ。両脇を固められた火神は、失言を取り繕うこともできず渋面を手のひらで隠す。吐き出された囁きは英語のようだが、悪態であることだけは分かった。

「言ってただろ。オマエが」
「ボクが?何か言いましたか」
「だから!だから……お守りは、人からもらうほうが効くんだろーが」
「はあ、確かに……言いましたが」

 気の置けない相棒に、思いやりを今更に直接手渡すのは恥ずかしいらしい。押し黙ってとにかく前進しようとする火神と、それを相変わらず無表情に観察して追いかける黒子。耐え切れなくなったのは第三者の高尾だった。遠慮なく噴き出す。

「ちょ、も、黒子カンベンしてやれって!」
「笑うんじゃねー!日本の受験って戦争並にヤベエって聞いてたからオレは……!」
「ってか、そんだったら湯島天神の方行っとけば良かっただろ!ここどっちかってーと縁結びとか安産祈願とかで有名だし……!」
「ハ!?神社によって違いとかあんのか!?いや、でも、その前にそっちの神社は緑間の力借りてるみてーでイヤだ……」
「ぶっ!っひ、ぎゃはは、湯島天神のコロコロ鉛筆……!」
「火神君、やり過ぎると高尾君が死んじゃいますよ」
「オレはなんもしてねー!」

 以前、夏合宿で一緒になった際に聞いた話を思い出し、いよいよ笑いが止まらなくなる。すれ違う人々に奇異の視線をもろに浴びせかけられているのが分かった。分かってはいるが止まらない。黒子の視線もその中のひとつにさり気なく混ざっているのがまたツボなのだ。オレこそ何もしてないってのにひどい。高尾がひいひいと笑いを引きずり、火神がそれに拗ね、黒子がそれを無表情に観察する。そうしている内に本殿はもう目の前だった。しめ縄のかかった軒が目に入る。やっと高尾の笑いが収まり、火神の好奇心が不機嫌を上回った頃、黒子は正面を向いたまま小さく呟いた。

「嬉しかったです。ありがとうございます」

 高尾の知る限り最も素直でない男には遠く及ばないが、なんだかんだ言ってこの二人も素直ではない。またも口角があがってしまうのはどうしようもないことだろう。

 三人並んで仲良くかしわ手を打ち、踵を返してお守りを買った。基本的に善良な男である火神が、気を遣って高尾の分まで買おうとしていたので丁重に断る。これは高尾自身が買っておきたかった。先ほどの火神の話を聞いたからこそそう思ったのだ。

 相変わらず人で詰まった参道を足早に戻る。昼時だからだろう、バスケのために先陣を切っていた火神は、先ほどから何度も出店の誘惑にぐらついている。黒子と苦笑を交わしつつその背を追った。

「そう言えば黒子、オマエに緑間から連絡あったりする?」
「緑間君……ですか。いえ。ボクたちはそもそも、そんなに交流が無いので」
「そっか」

 ふ、とネックウォーマーの中で小さく笑いが漏れた。ポケットの中で指を遊ばせれば、その先が買ったばかりの合格祈願のお守りと携帯電話に触れる。ケンカでもしたんですか、と黒子は探るような視線だ。

「オマエらみてーに休みの日まで一緒にいねーって!部も卒業したし、クラス違うし。メールもしなくなったからちょっと聞いてみただけ」

 まだ何か言いたげな黒子と、ついにたこ焼き屋の前で足を止めた火神に手を振って駆け足になる。少し時間を食いすぎたかもしれない。けれど、聞きたいことは聞けたから良しとする。

「ほい」

 それまで低いテーブルに頬杖をついてつまらなそうに参考書を眺めていた高尾が、不意に足元に投げ捨てていたジャケットに手を突っ込んだ。何かと思えば白く小さな包みで、神社の名が印字されている。

「……行ったのか。初詣」
「まーな」

 緑間が受け取るのを見届けると、高尾はまた頬杖に戻った。参考書をぺらり、とめくっているが、前のページに戻っただけのようだ。集中できていないのは明らかである。袋から取り出したお守りには金糸で「合格祈願」の四文字が縫い込まれている。だからオマエはダメなのだよ。人の合格を願う余裕があるつもりかバカめ。

 緑間と高尾が挟んで向かい合っているこのテーブルは、元々はこの部屋に存在しないものだった。この三年間で必要に迫られて増えた家具である。寄りかかりグセのある高尾がベッドを背にするのはすっかり低位置になっていて、最早違和感すら覚えない。ぺらり、ページをめくろうとして、高尾はやはり前のページに留まった。

「そんでさー……」

 気だるげに参考書を眺めていた目がちらりと緑間を窺う。未だに手のひらの中にお守りを収めている様を見られるのが癪で、机上にそれを置き眼鏡のブリッジに触れた。見下ろす高尾は緑間を見上げたまま頬杖すらやめて、ずるりとテーブルに伏せた。艶のある前髪が額に流れ、その隙間からきつい印象のあるつり目が覗いている。そのくせこの男の輪郭や目鼻立ちにはどこか幼い雰囲気があり、他人の領域へ安易に侵入してみせる柔和さをも作ることができるのだ。

「それで、何だ」
「いや、やっぱいーわ」
「なんなのだよ、オマエは。突然来たかと思えば」
「せっかく休戦日なんだから、時間無駄にしねーようにしなきゃかな、と」
「オマエの負けで決着がついたんじゃないのか」
「そんなこと言ったら、あんなメール送ってきたオマエだって負けになんじゃねーの?」

 高尾はテーブルに置かれてある緑間の携帯に手を伸ばし、トントンとその表面を指で弾いた。生意気な物言いに顔が歪む。それはそもそも、ウインターカップ以前しきりに卒部したら受験勉強を見てくれと懇願していた高尾に原因がある。今年の正月は受験生として一人で家に残ったので、その機会をくれてやってもいいと温情をかけてやっただけだ。気分が悪い。高尾から視線を逸らして窓の外の曇天を睨み遣る。と、高尾ががばりと身を起こす様が目端に映った。

「あー……待て待て、ケンカしたいわけでもないんだって」
「そうだな。さっさと問題に戻るのだよ」
「あのさあ、真ちゃん」

 パタン、高尾はついに緑間からわざわざ借りた参考書を閉ざしてしまった。身を乗り出し、珍しく真摯な表情をぐっと緑間に近づける。両肩を掴まれたので遠慮なく不快を表情に表したが、もちろんそれぐらいでこの男が怯むはずもない。

「卒業したら多分、盆と正月くらいにしか会わないようになんだぜ?今みたいに学校行きゃ会えるってワケじゃなくなるんだって。あと二ヶ月くらいしかないんだかんな?ちょー貴重じゃね?」

 高尾の丸い瞳孔の中に、一瞬映り込む記憶があった。ボールが跳ねる音、スキール音、鋭い掛け声、リングが揺れる音、汗臭く蒸した体育館、時折点滅する奥から2番目の電灯。

 真ちゃん、という呼び声。心底愉快げな笑み。放たれるボールと、それを受け止める自分。

「……その手には乗らん」
「かわいくねー」

 高尾の両手を取り、肩から外させる。座っている緑間と身を乗り出して中腰になっている高尾とでは、いつもと身長差が逆転している。気に入らない。気に入らないので思い切りその両手を引いて体を傾かせる。

「その貴重な時間を浪費しているのは誰だと思っているのだよ」

 鼻先が触れそうな距離で苦言を呈してやった。見開かれた目を見ていると少しだけ胸がすく。だがやはりまだ気に入らないので、買っていたお守りは後で気づかれない内にようジャケットのポケットにでも突っ込んでおくことにする。

 すぐに気が付いたのは、我が目ながらさすがと言うべきだろうか。英語の教材を使用するために移動した視聴覚室から戻る廊下、友人たちと笑い合っていても、馬鹿な話を舌の上に転がしていても、向かって来る人影が誰だかすぐに分かった。雨の気配を感じる湿って冷たい灰色の廊下を、背をぴしりと伸ばし堂々と歩んでいる。そうか、今日のラッキーアイテムはマグカップか。いつもよりは落ち着いていていい。噴き出すタイミングを話題に合わせるのに苦心した。

 高尾と同じように緑間はこちらを一瞥もしていない。ただ視線を前方に合わせて、鈴の音でもしそうな正しさで手足を動かしている。その歩みはまるで緑間の生き方そのもののようだ。目標に向かって脇目も振らずにペースを守って進んでいく。緑間のそういうところを高尾は好ましいと思っている。緑間はそういうふうに生きていくべきだ。でも――

 高尾は徐々に歩くスピードを遅くした。横に並ぶ友人たちの歩みも自然と緩くなっていく。緑間まであと五歩、四歩、三歩、二歩、一歩。すれ違い様に右手を小さく動かしてマグカップを持つその指先に触れた。テーピングの感触がざらりと指の腹を滑る。緑間の人生設計を思えば、最早テーピングは必要のないはずで、どうして今になってもその習慣を守っているのかは分からない。そのわけを知りたいと思う。知って共有したい。だから早く負けろ。そう念じて、指先でその小指を、手の甲を、手首を堪能して離れていく。

 高尾は最初からこの勝負の行方を知っている。初めから高尾の勝ちで、同時に高尾の負けだ。そのはずなのだ。真ちゃんの猪突猛進、面白いしスゲーしサイコーだわ。けどな、オマエもいい加減分かってるだろ?

 ――でも、こっちも向け、緑間。

「高尾!」

 突然張りのある低音に名前を怒鳴られて背筋が伸びる。友人たちも突然の大声に驚いたらしく、一様に目を丸めていた。無視を決め込むだろうと思い込んでいたので、呼び止められるのは予想していなかった。ばくばくと跳ねる心臓を抱えつつ振り返る。

「何だよビビっ、」
「来い!」

 と、既に数歩は遠ざかっていたはずの緑間が目の前にまで戻って来ていた。手首を強引に掴まれ引きずられて歩く。口をぽかんと開けて突っ立っている友人たちを追い越しつつ、空いている片手を立てて謝ってみせた。ほんと、ウチのエース様はこれだから。口元が笑うのを見られる前に視線を緑間の背に向ける。記憶と寸分違わずに学ランの下で肩甲骨が動き、高尾をぐいぐいと引っ張っていく。すれ違う生徒たちの戸惑う視線を物ともせず、ずんずん進み階段に足をかけた。今にも雨を取り零しそうな曇天が遠く小さい窓から窺える。後はHRを残すのみのこの時間ともなれば、蛍光灯が浮ついた光で階段を照らしていた。

 高尾たちの教室がある最上階に足を踏み入れても、緑間は止まらなかった。屋上へ続く扉の前で昇るべき段を失ったことを悟って、緑間はやっと高尾を振り返る。やれやれと表情を覗き込もうとしたが、それよりも緑間が動く方が早かった。一瞬では何が起こったのか分からない。

「おい……おーい?真ちゃーん?」

 腹や背に体温を感じる。鼻先に緑間の家の匂いがする。頬にぱさぱさと髪の感触がして落ち着かない。緑間が近い。体の全てが、緑間だけを知覚している。ざわ、と体中の血が騒ぎ、顔面に耳に熱が集まって来るのが分かった。クソ、カッコワリ、落ち着けオレ。

「もしもーし、緑間さーん?」

 緑間は微動だにしない。それどころか高尾の背に回した腕に力を込めた。意地でも動かないとでも言いたげだ。笑いたいのに、呼吸を奪う妙な感情が邪魔をしておかしな顔になる。緑間が見ていないところで良かった。静かで冷たく夜と雨の気配のする踊場は、浮ついた蛍光灯の光もHR前の喧騒も届かない。高尾はそろそろと緑間の背を撫で上げ、珍しく丸められたそれを腕の中に収めた。制服の上を指が滑る音がやけに大きい。

「……これは、オレの勝ちでもいいんでしょーか」
「ここまで来て勝ちも負けもあるか。もうどうでもいいのだよ」
「負けた、とは意地でも言わねーな……」
「うるさい黙れ」
「はいはい」

 ポンポン、と背を子供をあやすように叩くと、間髪を入れず背骨のど真ん中を拳で殴られた。痛い。相変わらず素直じゃない男である。あのさ、苦笑しつつも言葉を吐いた。

「朝起きた時も、メシ食う時も、夜寝る時も、オレのこと考えたりした?」

 緑間は何も答えない。だが高尾も決して言葉を求めていたわけではなかった。もう答えは知っているのだから、わざわざ聞く必要は無い。頬を緑間の肩口に擦り付ける。鼻先でまた緑間を感じた。

「卒業しても一緒にメシ食おうぜ真ちゃん」
「おごりなら考えんこともないのだよ」
「金持ちのくせにケチなこと言うなっての!そんでさ、オレ春からは一人暮らしなんだわ。真ちゃんの大学からも割と近いから遊び来いよ」
「汚し癖が治ったらな」
「オマエが潔癖過ぎんだよ!オレの部屋フツーにキレーだから!妹ちゃんも褒めてくれるから!」
「洗濯を一緒にすると文句をつけられるくせに」
「それは練習着だけだって!……多分。や、そーじゃなくて!大学ってったら、ホラ……飲み会とかあんだろ?帰れなくなったらオレんち宿にしてもいーし」
「学生の本分は勉学なのだよ。オレはそんなものにうつつは抜かさない」
「そーだろーけど!」

 ずっと言おうとして、しかし言えずにいた言葉を一気に押し出す。緑間らしい答えを聞くたびに目元に熱が集ったが、気づかないフリをして緑間の肩に目元を押し付けて笑う。泣くような試合はしていないのだよ。

「真ちゃん、勝負しよーぜ。もいっかい」

 ルールは誰にも気取られないこと。宝物を誰かに壊されないよう大事にしまい込むように、密やかに結果の分かっている勝負をする。試合終了のブザーはできるだけ遠いといい。

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