文字数: 10,950

飛べ、想像力の翼で



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3240373

「宮地さんじゃないっすか!」

 高い天井に反響する愉快げな大声に半眼を寄越す。早めに体育館へやって来ていた後輩たち数人のストレッチを手伝ってやりつつ、取り留めもない会話を交わしているところだった。口角をぐいと引き上げるようなクセのある笑みを浮かべ、全部員の中でも五本指に入るくらいにはやかましい後輩が駆け寄ってくる。

「見に来てくれたんっすね!マジテンション上がるわー!」
「……相変わらずウルセー奴だな」
「ちょ、今舌打ちしたっしょ!相変わらずキッツイっす宮地さん!」

 とか言いつつもう笑っている。高尾の笑い上戸は、その理解不能なツボの在り処も含めて病気か何かを疑うレベルだ。集中して自主練習に臨んでいる時に耳にすると本気で不快なので、幾度となく怒鳴りつけた覚えがある。バスケのセンスは群を抜いているし、集中力も本来はかなり高い男だ。この調子の良い所が無ければと日々苛立っていたが、同時にこれが高尾の愛嬌だとも思っている。やかましいことこの上ないが、基本的には素直に目上を慕う可愛い後輩なのだ。その有り余る愛想をいつも一緒に居る生意気な相棒に分けてやれば丁度良いだろうにと思わない日は無かった――と、そこまで考えて宮地ははたと気が付いた。高尾と同じクラスのはずのその男の姿が見えない。視界に入る時は大抵有難くないセット売りになっているので、高尾が一人で体育館に現れるのは珍しいのだ。

「お前一人か?緑間はどうした」
「あー……」

 日直か委員会か呼び出しか。すぐに返ってくるだろうと踏んでいた返事を高尾はあいまいに濁した。思わず眉根を寄せると、宮地さん顔怖いっす、などとごまかすような笑みを押し売りしてくる。ぎろりと高尾の半笑いを睨みつけた。高尾はよく口が回るので、問い質してもうまくかわしてしまうことがある。こういう時は黙り込んで観念させるのが一番だ。実を言うとこれは宮地が大坪と衝突する際によく使われていた手である。不本意ながら。

「いや、別にそんな大したことじゃねんすよ、マジで」
「だったらさっさと吐け。じゃなきゃ潰す」
「何を!?……って、あー来たっぽいっすね」

 微塵も先輩を恐れる気配を見せずに愉快げな悲鳴を上げていた高尾が苦笑を浮かべた。その視線を追うようにして振り返ると、地面をトントンと蹴ってバッシュの履き心地を確かめている背の高い男が視界に入った。小憎たらしいくらいいつもと変わらない仏頂面を上げ、表情筋を動かす努力を1ミリも見せずに会釈を寄越してくる。相変わらず可愛くない。そのまま歩み寄ってくるかと思っていたが、すぐに踵を返して用具倉庫へ歩き去ってしまった。あの自己中が自分から用具を準備しに行くのは珍しい。原因は一目瞭然だったが。宮地の肩あたりに視線を動かしたかと思えば、いつもは冷凍でもしたかのように動かない表情を瞬く間に歪めていた。当然、宮地の後方から緑間を窺っていた人間は一人しか居ない。

「オイ高尾……!」
「ハイ!」
「返事だけが一丁前じゃねーか!何オレらが引退してすぐ揉めてんだ?あ?ふざけてんのか?」
「や、揉めてんじゃないですって!ケンカとかでもないっすから……」
「あー?じゃあなんなんだよ。ただでさえメンドくせー緑間がこれ以上メンドくさくなったらどうすんだよメンドくせぇ!」
「ぶっふ、宮地さん笑わせないでくださいって……!」
「笑わせてんじゃねえキレてんだよ!」
「何回メンドくさがってんですか……!」
「マジ殺す!コイツ殺すわマジで!」
「ぎゃー!秀徳高校バスケ部イケメン殺人事件ー!」

 はああ、苛々と大きなため息を吐き出し、拳骨で高尾の頭を一発軽く殴っておく。いつでも大抵は高いテンションを保っている男だが、今日は特別にやかましい気がする。無理をしているのか、何かを隠したいのか。ともかく、引退したとは言え先輩と後輩の関係が変わるわけでもない。後輩に何か問題があれば、やり過ぎない程度に手を貸してやるのが先輩の務めと言うものだ。再び口を閉ざして高尾をじっと睨みつける。

「ホラ……練習始まりますって……」
「まだ時間あんだろ。それにオマエ、ストレッチもロクにしてねーし。オラちゃんと伸びてっか見ててやる」
「……長くなるっすよ?」
「長くなんじゃねえ。簡単に手短に結論から言え」

 横暴、という小さな呟きをしっかり聞き取って視線を鋭くすると、高尾は慌てて床に腰を下ろした。前に腕を伸ばし始めたので、悲鳴も聞こえないふりで思い切り背中を押してやる。ちらりと周囲に視線を飛ばせば、高尾から遠く離れた床で緑間もストレッチに励んでいる姿が見えた。

「簡単に手短に結論から言うとっすね……」
「オウ」
「オレ、セックスしたんすよ。緑間と」

 すぐ傍に居た数人の部員たちと共に時間と空気の流れを止めてしまったかのような錯覚を覚える。ついつい手加減を忘れていたらしく、高尾はギブギブと叫びながら床を叩いている。この期に及んでも爆笑しているので感心すら覚えた。今、コイツなんて言った?

「……は?」

 高尾が「それ」に気づいたのは、必然と言えば必然だった。何故なら四月からの高校生活で緑間と過ごした時間だけは、誰にも負けていないのだ。自慢になるかと問われれば微妙なところだが、名前すら口にしてもらえなかった当初に比べてかなり打ち解けたように思う。あの偏屈頑固な変人緑間の牙城を少しでも崩せたとしたら、やはりそれなりに嬉しい。拾った人間不信の猫に懐かれたあの時の気持ちである。猫嫌いの緑間にそのまま伝えたら、嫌そうな顔で悪態を吐かれるのだろうが。

 最初は、ウインターカップ予選前にレギュラーミーティングで試合のDVDを見ていた時だった。スカウティングの対象は霧崎第一。誠凛や泉真館とはまた違った意味で要注意カードだった。ポイントガードとセンターの連携もクセものだが、何より目に付くのは巧妙にファウルを逃れたラフプレーだ。

「えげつねー……」

 審判どころか映像でも捉えづらいそのプレーは、ある種職人技とも言えた。人より優れた「目」のおかげで、恐らく高尾はこの場で誰よりもその危険性を把握できているだろう。間違いなく故意に、しかしひとつのファウルも取らずに、相手校の選手が突き指で交代になった。

「ありゃ指折れてんじゃないっすかね。いったそー」
「ふーむ……場合によっては、一時的にスタメンを組み替える必要があるかもしれない、かな」

 中谷は明言しないが、その本意は緑間の温存も考えているというところだろう。秀徳のエースをこんなところで万が一にも故障させるわけにはいかない。さて肝心のエース様のご意見は――とちらりと横目で視線を送って初めて異変に気がついた。

「真ちゃん?」

 ささやくような声で呼んだのが悪かったのか、それともただ無視しているだけなのか。緑間には高尾へ意識を傾ける様子が微塵も無い。眉根が寄ったひどい渋面で画面を睨みつけている。ラフプレーの続く試合に気分でも悪くしたのだろうか。確かに見ていてあまり気持ちの良い試合ではない。ミーティングが終わり次第、案外繊細だな、なんてからかってやろうと企んでいた。そこでまたふと、緑間の左手が右の人差し指をしきりに撫でていることに気がつく。手ブレのひどい遠目からの撮影で分かりづらいが、今しがた交代した選手が負傷したのも右手の指だったように見えた。その後も膝を負傷した選手が運ばれて試合が中断し、中谷と大坪があれこれと試合分析をしている最中、緑間は選手が負傷したであろう箇所をさり気なくさすっていた。

 次は「本」だ。緑間はちょっとした空き時間を潰す時、高尾と楽しくお喋り──などは当然してくれない。大抵はいつも違うタイトルの本を手にしていて、高尾がいかに話しかけようとも黙々と文字を追っている。だがこれは別にわざとやっているわけではないのだ、ということに最近ようやく気がついた。というのも、緑間はひとつのことに取りかかると周囲への関心をスイッチ式に失ってしまうところがある。ボタンをオフに切り替えたかのように、自分とその対象だけに世界を絞ってしまうのだ。その証拠に、本を読み終わった頃に感想などを聞いてみると案外素直に返してくれる。あれは陳腐でつまらなかった、これは滑稽で笑えた、それは感動して胸が詰まった。どの感想の時でも、本を読んでいる姿勢と表情にほとんど違いが見い出せないのが緑間である。ピンと背筋を伸ばし、腕を持ち上げ、少し眉根を寄せた難しい顔でページを繰る。それがなんともおかしくて、本のカバーとタイトルから表情とかけ離れた緑間の心情を推し量る遊びが高尾の密かなブームになっている。普段の高尾なら会話どころか何の動きもないこの数十分に耐えられるはずも無いのだが、視線の先にあるのが緑間というだけで何でも面白おかしく感じてしまうのだから不思議だ。

 そういうわけで緑間観察が長じた結果、時折緑間の表情がぴくりと動く瞬間があることに高尾は気がついた。眉間の皺が露骨に増え、不機嫌と言うよりはどこか苦しげな表情が浮かぶ時があるのだ。ジャンルごとに統計を取れば、サスペンス、ミステリー、ミリタリー、読んでいること自体があまり無いがバイオレンスに多い。

「真ちゃんて、結構なんでも読むよな。もっとカタイやつばっか読んでんのかと思ったわ」

 しおりを挟んだタイミングで声をかけると、緑間は煩わしそうなポーズを取りつつも高尾へ視線を寄越してくれた。眼鏡の位置を修正しつつ口を開く。

「黒子ほどではないのだよ。アイツの読書量は常軌を逸しているからな」
「へー?オマエに常軌を逸してるとか言わせちゃうんだからスゲーんだろーな」
「……何が言いたい」

 オマエという存在が常軌を逸してんだよ、などという本音は舌の裏に貼り付けて微笑むだけに留める。留めておいたのに文庫本の背が頭に振り下ろされる。普通に痛い。聞けば、緑間家では一般教養のためその月に出た新刊や話題書のほとんどを買い揃える習慣があるらしい。一体どれだけの蔵書を抱えているのだろうか。置く所に困りそうもないご立派な家に住んでいるのは知っているが。

「んで?今日の本はどーよ」
「……売れているらしいが、描写が行き過ぎなのだよ。これが終わったらしばらくこの作者はやめておく」

 その場で気の無い返事をしつつ、家に帰ってその本を調べてみた。描写がリアル過ぎるだとか、後味が悪いだとか、でも面白いだとかそういう言葉がざくざく出てくるミステリーだった。

 そして確信を得たのは何気ない会話を交わしていた時である。ここでひとつ注意しておきたいが、「何気ない会話」とは言っているが、入学当時の緑間との会話を思い返せば全く何気なくはないのだ。以前は話の九割近くを聞き流され無視を決め込まれていたが、ここ最近に至ってはその比率が完全に逆転している自信がある。残りの一割は、むしろどこまでくだらない話をしたら相槌を返さなくなるか試した割合に等しい。つまり緑間はほぼ100%高尾の話を聞いている。すごい。こんな当たり前のことに感動している自分がすごい。

「そんでさー前も話したと思うんだけど、上の階のおっちゃんがなーまた魚とか貝とか分けてくれたんだよ」
「ああ……釣りが趣味と言っていたか」
「そうそう!でもさ、ウチはそういうの全然やんないから、いきなり魚まるごと一匹とか渡されても誰も捌けないわけ。貝も漁師さんにもらったとかってどっさりくれんだけど、あれも結構メンドーらしいぜ。砂抜いたりとか」

 有難いんだけどね、と母親がぶちぶち文句をこぼしていたことを思い出す。近所の親切な人への罰当たりな不満と言うよりは、恐らく手伝わず食べるだけの兄妹に対する遠回しな怨嗟である。

「慣れてねえからこの前のハマグリも砂いっぱい残っててなあ……噛む度にじゃりじゃりして、変な塩味?つーか苦味みたいなのがいつまでも残っててもったいなかったわ……」

 思わず口をもごもごと動かしながら緑間の反応を伺うと、見事な渋面が高尾を見下ろしていた。よくよく観察すると、心底不快そうな表情で口元が小さく動いている。

「真ちゃん想像しただろ、スッゲー顔だぜ!」
「……次にそういうことがあれば持って来い。母はそういうことが得意なひとなのだよ」
「マジ?家族全員で行ってもいーかな?」

 ぎゃはは、と大口で笑ってみせるが緑間の反応は予想外に薄い。高尾家が本当に生魚片手に揃って食卓に押しかけても特に問題は無いとでも言いたげだ。いや問題大ありだろ。オマエは良くてもオマエのかーちゃんがビビるわ。緑間の母親はとことん濃い息子と反比例するかのように物静かでいかにもおしとやかだ。甲斐甲斐しく息子の世話を焼いている様は何か弱みでも握られているのかと疑うレベルだった。原始女性は太陽だったんですよ、と真顔で言いたくなった。見たことはないが、多分緑間の性格は父親似だ。

「ほいじゃ、まあ口直しに甘いモンの話でもしてやんよ」

 高尾自身も妹も父親の味覚を引き継いで辛党である。甘いものはむしろ苦手なのだが、たった一人甘党の母親があれやこれやと甘味を買い込んでくる。ちなみに、休日に家に誘った際緑間が持参したお土産の羊羹のおかげで、母親の緑間に対する好感度はかなり高い。緑間は常識からはかなり外れているが折目は正しいのだ。母親が何かと緑間と比較して息子をけなしてくるようになったため、高尾はそこのところが少し面白くない。そんなオレに誰が育てたよ。

「高尾」

 思春期の複雑な息子心はともかく、辛党の高尾でも感心した甘味の数々の食べ応えを臨場感たっぷりに語っていると、栗大福のあたりで緑間が口を挟んだ。眼鏡を左手で押し上げつつ、右手で拳を作って差し出してくる。一瞬殴りたいのかと思ってあまりに猟奇的な唐突さに驚いたが、そのままの姿勢で動かないところを見ると予想違いらしい。恐る恐る拳の下に両手を差し出すと100円の硬貨一枚、10円の硬貨が二枚落下してきた。

「……おしるこ」
「ぶっは、おま、食べたくなっちゃった!?食べたくなっちゃったか甘いの!?ってかさり気なくパシんじゃねーよ!」

 少し悔しい頭ひとつ分の身長差が、唾を飲み込んで動く喉元をよく見せてくれる。湧き出る笑いを垂れ流しながら、高尾は結局自販機まで走ってやったのだった。

 そういう発見を繰り返していく内に、緑間に付随される新たな特性にぼんやりと気づき始めたわけである。これだけ一緒に居るのだからもっと早くに気づけたような気もするが、ただでさえ目立つ特徴の多すぎる男だ。高尾の鷹の目でも撹乱されるのは仕方ない。ミスディレクションオーバーフローってやつだ。

 そしてつい昨日の話になる。その日の自主練習で最後まで残っているのは緑間と高尾の二人だけだった。三年生が引退してからこういう状況になることが度々ある。いつもはもみ合いへし合いになるロッカーも、自主練後はがらんと広い。居心地の悪い静寂の中、帰る身支度を整えていた。

 緑間は二年生の先輩たちのからかい半分のお説教をまともに聞いてから機嫌が悪い。曰く、これから進級して後輩も入ってくるのだから自重しろ。今までのようなわがまま放題はやめろ。チームにおんぶにだっこで甘えるのはやめろ……と、いうような内容だ。これから部を引っ張っていく二年生にとって最大の懸念は緑間の強すぎる個性に違いないので、きっとガツンと先制攻撃を加えたかったのだろう。高尾も先輩方の言いたいことは分からないでもなかった。ただ、高尾が一番迷惑蒙ってんだぞ、は余計だった。そう思うなら放っておいてくれ。そしたら八つ当たりの矛先を向けられることも無かった。

「あのさー真ちゃん?そのさ……先輩たちもオマエを悪く言いたいわけじゃないと思うぜ?『チーム』で戦えた誠凛戦とか洛山戦とか……だいぶ新しい攻め方できたわけじゃん?」

 それは緑間自身ももう分かっていることに違いない。だが、この自尊心の塊に正面切ってそういうことを言い聞かせても逆効果なのだ。大坪たちと違い二年生はまだそういうところが分かっていなかった。しかも口出ししてきた先輩自体があまり良くない。「悪く言いたいわけじゃない」などとフォローはしたものの、才能に対する隠し切れない嫉妬心が露骨で、言葉はやたら皮肉げで刺々しかった。普段何を言われても柳に風と意に介しない緑間の機嫌が著しく損なわれたのも、このあたりに原因があるのだろう。

「それで?仲間の……オマエのおかげでオレのバスケがある、とでも言ってほしいのか。ふざけるな。オレはどこでもただ人事を尽くしてオレのバスケを貫くだけなのだよ。オマエがどうあろうと何の影響も無い」

 別に、そんな恩着せがましいことを考えていたわけではない。緑間のバスケが、緑間の執念とも言える努力の上に成り立っていることは、恐らくこの部で高尾が誰よりも理解している。誰のバスケだって完成させるためにはきっと孤独な鍛錬が要るだろう。ただ、それぞれのバスケをうまく組み合わせていく内にまたひとつ強くなれるのは確かなのだ。秀徳として勝ち進んでいける。それを嬉しいと思う気持ちまで無かったことにだけはされたくなかった。同じユニフォームを着て同じコートに立ち、ここ一番で高尾のパスが緑間に通って――それでも何の影響も無いだなんてそんな言葉聞きたくない。

「オイ、緑間……」

 汗で湿った前髪を苛々とかき上げながら緑間に一歩近づく。そこでその顔を見上げ、高尾の怒りは早くも霧散してしまった。どうせ明後日を向いているのだろうと思っていた顔がしっかりと高尾に向けられているのも驚いたし、その表情に明らかな後悔が滲んでいるのにも噴き出しそうになった。いつもはあれだけ動かない仏頂面をしかめて、こんなのは本心じゃない、そんなことくらい分かっているだろうと訴えかけてくる瞳がおかしい。足やら手やら心臓やら、あらゆる体の裏がぞわぞわとくすぐられているような不思議な心地がした。笑みが浮かばないようにわざとらしく大きなため息を吐き出す。

「なんつったっけ?オレがどうしようとなーんの影響もねえんだよな。真ちゃんは」
「……ああ」

 知っていた。緑間の性格上、一度言ったことを曲げるなんてできないことは。ここで高尾が緑間を茶化して本心だろう言葉をなぞってやらなければ、この男は永遠に先ほどの発言を訂正できない。だが訂正どころか高尾には正しく真意が伝わっているのだから、それ以上に何かをしてやる必要も義理も無いと思うのだ。ちょっとした仕返しさえさせてもらったらこの話は終わり、全てはチャラだ。と、いうことがたった今高尾の中だけで決定した。

「そっかあ……ふーん?そっかそっか……」
「高尾……?」
「んじゃあさ、この手」

 緑間の前で両手を開いて見せる。先ほどまで指の先まで詰まっていた熱気は、1月の冷気がもう冷やしてしまっていた。緑間はそれを警戒するように窺っている。唐突な展開に追いついていけないのか露骨に怪訝げだ。噴き出さないように苦労する。

「汗で冷えてちょっと冷たくなってんだけど、これをオマエのシャツの中に突っ込んでも何の影響もねえ?」
「は?」

 緑間は目を丸くしてたった一音だけを口にして押し黙った。うまく緑間の理解を超えることに成功したらしい。我慢できずににやりと口角を上げる。緑間が驚きを露にすることはあまり多くない。どこか幼く見えるその反応が高尾は気に入っていた。

「や、丁度ボタン全開だし?腰のあたりに突っ込んで、そっから脇腹撫でても?何ともねえ?」
「何を馬鹿な……、」
「オマエ結構そこらへん弱いだろ?知ってんぜー。脇までゆっくり撫でてって、二の腕の筋肉の筋まで懇切丁寧になぞってやんよ。そっからあ……せっかくだし腹筋触っとく?ホント、キレーに鍛えたもんだよなあ……割れてるとこ一個ずつ確かめてく?真ん中の筋に指当ててー、あーヘソは?どう?」
「……っ!」

 まるで本当に触れられているかのように息を呑む姿に案の定だと思った。緑間は恐らく、少ない情報から状況を把握することに優れている。言い換えれば、想像力に非常に富んでいる。高い集中力と一緒になるとそれは更に加速するのだろう。だからただの映像でも、文字でも、高尾のくだらない話でも情景を現実感たっぷりに描くことができる。まるで本当に高尾がべたべたと無遠慮に体を触れているみたいに。

「あっれ?ヘソ弱い?んなわけねーか。何の影響もねえもんな。じゃあ舐めたりしたら少しは違う?」
「っやめろ……!」
「さっき指で触ったとこ、全部これ……で舐めてみるってのはど?さすがにキくんじゃね?」

 べ、と舌を突き出して見せる。緑間の体が小さく震えた。しかめた顔を逸らし、シャツの合わせを手でひとまとめにして一歩後退した。そんな弱々しい反応をされると、高尾までまるでいけないことをしている気分になってくる。さっきからその場から一歩も動いていないと言うのに。それどころか指一本だって動かしていない。

「気色が悪いのだよ……!」
「あ、そ?いやでもオレはそうでもねーわ。真ちゃんならヨユーだから安心しろって」

 緑間が正気を疑うような目を勢い良く注いできた。失礼な話である。これがどこの誰とも知らない中年太りのオッサンだとかなら高尾だって嘔吐くが、相手はこの緑間真太郎だ。だからどうしたと言われても、緑間だから大丈夫としか言いようがない。マジで舐めろと言われても多分いける。恐らく反応がいちいち面白いので、好奇心が勝つのだろう。深く考えないことにした。

「マジだって。チクビとかもキレーな色じゃん?唇くっつけてえ、舐めたり、触ったり……あっ、ついでに吸っとくか!なんてなー!」
「っふ……も、」
「あー後さ、オレ結構真ちゃんの鎖骨も好きだぜ?オマエ、ガタイでけえくせに骨っぽいもんな。汗ごと舐めてったら……さすがにしょっぺえかあ……」
「高尾……!」
「ん?どった?触ったらどうなんのかねーって話してるだけじゃん?そうそう、耳とかは?耳って誰かに触られることもあんまねーけど、舐められるなんてそうそう無いよなー」

 右からね、と宣言して耳の穴に到達するまでをできるだけ克明に告げたらついには右耳を塞がれた。繰り返すが、高尾はその場から一歩も動いていない。馬鹿だね真ちゃん、そんなに嫌なら両耳塞げよ。

「あっこれな、噂で聞いたんだけどー……」

 心なしか息が上がり、頬が赤いような気のする緑間の表情がもっとよく見たい。一歩近づくと緑間が一歩後退する。一歩進んで、一歩下がられて。そうしてロッカーを横切っていくうちに緑間の背が壁にぶつかった。そんな当然のことに今更驚いている緑間がおかしい。

「耳塞いでキスしたら、口ん中の音とかちょー響いて、すんげーだって。試してみたくね?耳塞いで、ちゅーして、舌突っ込んで口ん中めっちゃくちゃにしてさ。どんな音すんだろーな。ガム噛んでる音とか近い?」
「もう……よせ……!」
「は?なんで。影響ねえんだろ?」

 高尾の持てる限りの国語力を以ってして言葉だけで緑間の口内を貪ると、ついに緑間はその場にへたり込んでしまった。実は自分でも気づかない才能が思わぬところに隠れていたのかもしれない。もっと頑張れば現国の点数上がるかな。

「は、っ……高、高尾……さっきは……悪」
「真ちゃん、カワイイ。どこまで影響ねえかやってみよーぜ?」

 何事かもごもごと呟いている緑間の前にしゃがみ込み、できる限り邪気のない笑顔を浮かべ首を傾げてやった。

「待て」
「えっ?まだ、全然、半分、くらいっすけど」
「……オレがいいって言うまで絶対に口開くんじゃねーぞ。いいか。口を開いたらその時点でオマエは軽トラの下敷きだ。分かるな?」

 それまで心底愉快そうに語っていた(時折ゲラゲラ笑ってもいた)高尾は素直に口をつぐみ、首を縦にブンブン振ってみせる。宮地は鷹揚に頷きを返した。ここに大坪や木村が居ないことだけが悔やまれた。いや、むしろこんな話を受験前に聞かせなくてよかったのだろうか。宮地の脳裏にらしくもなく「自己犠牲」という言葉がよぎった。大坪、木村、安心しろ。責任持ってコイツらはオレがシメる。ちなみに今は高尾の外周に付き合っている真っ最中だ。途中から雲行きの怪しくなってきた話を危惧し、練習開始までの時間を走ることに決めた。今思えば我ながらファインプレーこの上ない。ずっと喋り通しだった高尾の息が乱れて切れ切れになっていることなど何の問題にもならない。むしろざまあみろである。そのまま練習行って死ね。

「大体オマエ話のほとんどが緑間のデレ報告じゃねーか!話長くなる原因がオマエにしかねーんだよ!」

 今度は必死に首を横に振って反論しようとしているらしいが、完全に黙殺する。まさかこんなことになっていようとは。歴史と伝統を背負った不撓不屈の文字もきっと泣いているだろう。緑間に小指の爪の先ほどの同情を覚えないでもなかったが、こんな高尾を放っておいている時点で同罪である。大体生意気だし。後であいつも轢く。木村よ、黙ってオレに軽トラだけ貸してくれ。

「高尾、オマエ少し冷静になって考えてみろや。明らかにおかしいとこがあったよなあ?ひとつふたつじゃなくな」

 引きつる笑顔で迫るが、高尾は心底不可解そうな顔をするだけだ。どうせ緑間マジウケるっすよねーくらいしか考えていない。だがここで頬を染めるなどの「それっぽい」反応を取られても正直困る。本当に心底腹立たしい。

「分かった。よーく分かったわ。オマエがマジもんの馬鹿っつーことがな。オマエ今日一日外周。監督にはオレが言っとく」
「は!?ちょ、待ってくださいよ宮地さ、」
「まだ『いい』っつってねえだろ?誰がしゃべっていいつった?」

 丁度校門の前まで戻ってきたので減速する。ついて来ようとした高尾を無理やり校門の外に追いやった。律儀に黙ったまま、しかし不満たらたらの表情で走り出す背中に大きなため息が出る。緑間も外に引きずり出して、とりあえず外周を走らせよう。宮地は重い頭を少しでも軽くするためにそう決心した。

-+=