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緑間真太郎にはご利益がある



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3189215
※秀徳モブ出没

 緑間真太郎という人間を一言で表せ。そう街頭インタビューでもしたら九割くらいの回答者が「変人」と答えるに違いない。自分で仮定しておきながら、脳内で鮮明に描けてしまったその想像に喉が震える。正面で弁当を突いている「変人」の目は冷たい。そのくせ、その虹彩の色は窓からの陽光を柔らかく取り込む緑色だ。入念にテーピングを施した長い指が、黒塗りの箸を正しく操ってきんぴらを掴みあげている。その箸先が目指すのは俯きがちに小さく開かれた口であり、目で追うと怪訝げに細められた緑とまた視線がかち合うことになる。二月の教室を暖める陽光は、窓の外の冷気に洗浄されて白い。それに照らされると目前の人間もやはり白い。そうして肌に落とされる眼鏡の下の睫毛の影は、対照的にくっきりと長く黒い。目元にかかる前髪は不思議な色合いで光を透かし、形の良い眉毛を隠している――残り一割の想像も容易だ。きっとこの偏屈で自己中な男のことを詳しく知らない女の子たちで、カッコイイだとか育ち良さそうだとかインテリだとかキャアキャアそういうコメントをするに違いない。危ね、焼きそばパンを正面にぶちまけたら呆れられるくらいでは済まない。

「さっきから一体なんなのだよ」
「いんや?べっつにぃー?」
「言いたいことがあるならさっさと言え。不愉快なのだよ」
「えっマジで?いいのかよ?オマエに言ってやりたいこととか積もりに積もりまくって昼休みじゃ終わんないくらいあっけど」
「……手短に。今考えていたことを吐け。話を逸らすんじゃないのだよ」
「ちぇー。最近カワイくねーぞ真ちゃん!」
「元からオレは可愛くなどない」
「ブッハ!照れんなってぇ!」

 ついに我慢しなくてもいいタイミングを掴んだ。一応唾を飛ばさないように体を横向きに捻って腹を抱えて笑う。すると足元に鎮座しているアロエの鉢植えとモロに目が合ってしまった。咳き込むほどに笑い崩れた高尾を誰が責められようか。ちなみに何故アロエの鉢植えが昼休みの教室に登場するのか、という問いは最早このクラス内では――もしかすると秀徳高校内においても愚問である。高尾の笑いのツボを最も刺激するのは、「アロエ」と指定されて迷わず鉢植えを選ぶ彼の彼たる所以である。

「おい……いい加減に……!」
「緑間ー!呼ばれてんぞー!」

 緑間は身を乗り出したまま怒気を抜け切れないままに、高尾は体を折ってひいひいと笑いの余韻を引きずりながら声の主に視線を送った。ざわざわと落ち着かないクラスメートたちの頭の向こう、前方のドアの前に見慣れない男子生徒が立っている。緑間の名を呼んだクラスメートがその手前でひらひらと手を振っていた。高尾は目を瞬き、緑間に視線を戻す。

「……知り合い?」
「いや。覚えはない」
「あれ三年生じゃねーかな、多分だけど」
「何年生だろうが覚えがないものはないのだよ」

 緑間の眉間には深いしわが刻まれており、苛立ちを隠しもしていない。見知らぬ上級生の突然の訪問に心当たりがあるのだろう。そしてそれは高尾にしても同じで、またぶり返しそうな笑みを押さえ込むのに失敗し口角を吊り上げ、緑間の機嫌を更に下降させてしまったようだった。

「で、どーすんの?」
「どうするもこうするも……オレはまだ食事中なのだよ。『頼みごと』なら終わるまで待て……と、伝えて来い」
「は!?オレぇ!?」
「それ以外に誰がいるのだよ」

 オマエがいんだろオマエが、という言葉は吐き出さず、代わりに大きなため息をひとつ。五分の一ほど残っていた焼きそばパンを口に詰め込んで渋々立ち上がった。かれこれ一年間弱の付き合いだ。緑間の言い出したことを覆すことができるのはおは朝くらいのもの、というのは身に染みてしまっている。所在なげにドアの前に立つ生徒にやれやれと近づいた。廊下に顔を出すと冷えた空気がひやりと鼻先を撫で、全校分の昼休みの喧騒が反響しながら耳元をくすぐる。やはり三年生だと名乗った生徒に対し、高尾は緑間の言葉を伝えた。オブラートを重ねに重ねまくったことは言うまでもない。先輩である男は気分を害したふうもなく、言われたとおりその場で待つつもりらしい。やっぱりか、高尾は苦笑を男子生徒に見せないように緑間を振り返った。北側の廊下と違い、緑間と高尾が前後に並ぶ窓際の席は冬のベストポジションだ。日光を惜しみなく浴びながら、緑間は飽くまでマイペースを崩さず優雅に箸を運んでいる。

「……人事は尽くしたのか」
「は?」
「人事は尽くしたのか、と聞いているんですが」

 廊下に出て少しだけ教室から離れ、緑間は三年生の話を聞いた。廊下には人影がちらほら見えるうえ、緑間のすぐ背後にはアロエの鉢を抱えた高尾が控えているのだが、切迫した状況の男子生徒にとってそれは大した問題ではないらしい。生意気な一年生のわけの分からない噂に頼らざるを得ない状況を恥じ、できるだけひと気の少ないところへ緑間を呼び出す生徒も少なくないのだが。そう、緑間にかかるこのような呼び出しは初めてではない。受験シーズンの今、むしろ呼び出しのピークとも言えるだろう。

 まず、緑間真太郎という人間は全校生徒にそこそこ知れ渡った有名人だ。中学時代から一度でもバスケをかじった人間ならまず間違いなく彼の名を知っているし、そうでない人間でも秀徳高校に在籍していればバスケの強豪校としてその戦績やレギュラーメンバーの名を一度は耳にする。中でも「キセキの世代」なんて呼ばれ方をして突出し過ぎた能力を持っている緑間の噂は帰宅部の耳にだって届いているに違いない。

 そして「緑間真太郎」を秀徳高校の全校生徒から探し出すことは驚くほど簡単である。珍しい苗字と髪色、バスケ選手として恵まれた高身長も当然その要因のひとつだが、何より緑間は「変人」だった。その最たる例として挙がるのは、常におは朝の星座占いコーナーが指定する蟹座のラッキーアイテムを携帯していることだろう。厳しいと名高い秀徳高校の校則を一体どうやってくぐっているのか、早朝から高尾を呼吸困難に陥らせてきたその習慣が欠かされたことは「ほぼ」ない。「ほぼ」――かつて一度だけ緑間はラッキーアイテムを入手できなかった時がある。その惨憺たる一日はReplaceⅡ第2Gに詳しい。

 ともかく、ただでさえ有名人である「変人」緑間が持つ妙な習慣、そしてそれを易々と笑い飛ばせなくなるエピソード。それらが尾をつけひれをつけ高尾の笑い声をつけながら噂として大きくなっていった結果、緑間真太郎には天命に愛されし何らかの力――例えば学力向上、家内安全、恋愛成就、安産祈願……があるというとんでもない着地をしてしまったのだった。特に受験生が多いのは、「オレのシュートは落ちん」3Pに原因があるに違いないと高尾は踏んでいる。「きっと勝つ」に音が似ているだけでチョコが売れまくるシーズンなのだ。仕方ない。ちなみに言うと、初めて相談を受けた緑間の「オレは神社ではないのだよ」が現在高尾の中にある緑間オモシロ発言ランキングの暫定1位である。この珍事の一から十まで全てが面白すぎるので言い始めるとキリがないのだが。

「初めに言っておきますが――オレに人の願いを叶える力など無いのだよ」
「いや、でも、第一志望の推薦受かったやつが緑間におしるこ缶もらったって……!」

 ぶっふ、怪音に会話が止まった。高尾は鉢植えを片手に鼻をすすってみせる仕草を加え、なんとかくしゃみか何かだとごまかすことに成功する。ただ成功したのは受験を控えた先輩に対してのみだ。緑間の鋭い眼光を避けるためにアロエの葉を撫でる。痛い。さては緑間の仲間だな緑だし。なんか刺々しいし。

「あれは……」

 緑間は何かを言いかけて、並べるべき言葉を脳裏に思い浮かべ、それが音になる前に「面倒」という結論を見てしまったようだ。フーと長いため息を吐き出して左手で眼鏡のブリッジを押し上げている。過去の自分の行動を呪っているに違いない緑間がおかしくて、高尾はまたもごまかしの咳をこぼさなければならなかった。そして緑間に睨まれる。

 冬休みが明けてから連日続くこの「参拝」に緑間はいい加減うんざりきているのだ。そしてある日、ついには何か言葉を返すことすら億劫になったらしく、無言で手に持つおしるこ缶を参拝者に押し付けてスタスタと教室に帰ってしまったことがあった。無論おしるこ缶は空である。緑間はきっと迷惑料としてごみを押し付けた、程度にしか考えていなかったに違いない。高尾としては第一志望校に合格したという先輩の家でそのおしるこ缶がどのような処遇を受けているか気になるところだ。神棚とかに祀られてたりしてな。やべえまた笑う。

「頼む!なんでもいいんだ……!ここで合格できなきゃオレは……!オレにも緑間のご利益をくれ……!」
「黙れ!やめろ!恥ずかしくないのか!」

 パンパンとかしわ手まで打ち始めた男に、あまり頑丈でもない緑間の堪忍袋の緒が早々に切れてしまったようだ。高尾は今でこそ慣れ切っているが、190cm半ばの大男の怒声を正面から受け止めるというのは中々迫力がある。ただでさえ緑間は表情に乏しく高圧的だ。しかも今それを身を以って体感している男子生徒は、二つ上と言っても身長は高尾に2、3cm届かないほどだし、どうやら運動とは遠い生活を送っているようでヒョロリとして見える。

「最初にオレは言ったはずなのだよ。人事は尽くしているのか、と。それは目上に対する敬意として聞いたまでなのだよ。答えは分かりきっているからな」
「真ちゃんにも一応でもそーゆーのあんだね」
「オマエも黙っていろ!」
「へーへー」
「オレのシュートが落ちないのは、オレが人事を尽くしているからだ。人事を尽くした人間は必ず天命に選ばれる。貴方が人事を尽くしてさえいれば、オレが居ようが居まいが結果は変わらないのだよ。それを信じることができないならただ単に努力が足りんだけだ。そんなことにも気づかず、入試の目前に一年生の教室までノコノコやって来て、わざわざ自分の努力不足を白状している。恥と思わないのなら馬鹿としか言いようがないのだよ」

 相変わらず緑間の言葉には気遣いというものを感じない。青くなったり赤くなったり忙しない先輩の顔色を盗み見ながら、高尾はひっそりと同情の念を寄せた。もう少し言葉を選べばねえ、とひっそりため息を吐き出したところで、男子生徒の震える腕がわずかに動くのを視界の端で捉える。反射で緑間の左腕を強く引けば、空いた空間を虚しく拳が突き刺した。全身の力を乗せていたのだろう、男が前のめりになって床に膝をつく。あまり威力は無さそうに見えたが、間一髪だ。

「くそ……っ!」
「悔しいと思うなら最後まで人事を尽くせ。こんなことに投じる時間も労力も無いはずなのだよ」

 緑間は礼どころか一瞥すら寄越さず高尾の手を振り払い、緑間に届かなかった掌を睨みつけている男子生徒のその手を強引に取って立たせた。彼は悔しげな表情で何かを言いかけたようだが、そのまま何も言わず走り去っていく。フー、もう一度長いため息を吐き出して緑間は眼鏡を押し上げた。そのまま教室に戻ろうとするのでもう一度腕を掴んで止める。

「……文句でもあるのか」
「へへぇーとんでもねえ。お奉行サマの見事なお裁きでっ!」
「茶化すな!」
「うっはは、お奉行サマこええー!山吹色の菓子いる?……ま、どっちかってえと緑のアロエだけど」

 緑間の右腕が伸びて、左腕を掴んでいる高尾の手首に軽く触れ、すぐに離れていった。それは口に出す気は無い言葉が通じ合っている合図だ。苦笑し、茶化しながら手を離してやる。アロエを抱え直して緑間の後を追い教室に入った。今更だけど結構重かったからね、コレ。予鈴を聞きつつ、先ほどの男子生徒が名乗った際に聞いたクラスを思い出していた。確か宮地と同じだ。

 この時点では知る由も無いが、無事人事を尽くしたらしいこの先輩を発信源として「緑間との握手で願いが叶うらしい」などという会いに行けるアイドルもびっくりの新説が生まれてしまうのは一ヶ月ほど後の話である。

 緑間真太郎は「変人」である。街頭インタビューでもすれば絶対に九割はそう答える。何故そう答えるのか理由は多々あるだろうが、簡単にまとめてしまうと彼には常識を外れたこだわりが多すぎるのだ。では何故、嫁をいびる姑みたいに日常の隅々にまで細やかな取り決めがあるのだろうか。

 ヒュッ、長い指から放られたボールに空気が切り取られた音がする。美しい放物線が1mmの狂いもなく描かれ、ボールとゴールネットの軽やかな接触音で静かに結ばれる。

 彼のバスケを知らなければ、その理由は一生謎のままで終わるのだ。本当にもったいないことだと思う。謎のままで終わるから、神様の気まぐれか何かが彼に宿っているだなんて思い込む。彼はきっとそれを侮辱だと思うのだろう。緑間は目前に立ちはだかる事物に関して偏執的なまでに真摯だ。

 部活動が終わった途端ゴールに向かい自主練を始めた背中を横目に、笑みを隠すようにしてTシャツであごを伝う汗を拭う。二年生の部員たちとのミニゲームに一段落ついたところだった。次に秀徳を引っ張っていかなければならない二年生たちの熱気は相当のもののはずだが、三年生の居ない体育館は何故だかガランと広く感じる。感傷を感じさせない、いつもの美しい放物線が好ましかった。

「まっ、真ちゃんが大坪サンたち居なくなって寂しくて寂しくてしょーがないってのは知ってるけどさー。そろそろ拗ねてねーでパス練しようぜ!」
「うるさい黙れ邪魔をするな。邪魔をするなら帰るのだよ」
「邪魔なんてしてねーって。むしろ居た方がいいだろ?」

 フラれたフラれたと囃し立ててくる二年生たちにわざとらしく拗ねた表情を作りつつ合図を送る。すると間髪入れずボールが渡ってきたので、緑間と鋭く名前を呼んだ。ひとつも見向きしなかったはずの緑間が高尾の放ったボールを難なく受け止め、また放物線を描く。フン、と不本意そうに鼻を鳴らしてみせるのが緑間らしい。今度は隠さずに笑う。

「まったく、仕方がないのだよ。ノルマは終え――」
「緑間、君!」

 緑間の声を遮った元気の有り余ったような大声に、体育館に居た誰もが目を丸めた。一様に声を辿って戸口を振り返っている。そこに立っているのは学生服姿の男子生徒だ。顔に見覚えは無く、バスケ部員でないことは確かである。ここのところ連日続く光景と重なったが、さすがに体育館まで乗り込んできた「参拝者」は居なかった。その場に居た誰もが恐る恐ると緑間に視線を戻している。言うまでも無く、不機嫌を隠さない渋面が待ち構えていた。

「緑間君にお願いがあってきま、来た!少しでいいので聞いてくださ、くれ!」

 顔面は緊張の一色に塗りつぶされ、どこかの帰国子女バスケ部員を髣髴とさせる覚束ない日本語を口にしているのだが、体育館に踏み入る足取りは案外しっかりしている。緊張し過ぎて自分の行動を制御できていないのかもしれない。緑間ほどではないが上背はかなりある。高尾を数センチは超えているだろう。

「……合格祈願か?」

 緑間は一切の遠慮も含まずじろりと相手を見下ろしている。その針でも出そうな冷たい眼差しの下男子生徒は深く頷いた。つまりは数多くの「参拝者」と同じ三年生、先輩ということらしい。それが分かったところで呆れた表情の緑間の目には敬意の一かけらも宿らなかったが。

「うーん?」

 首を傾げると、ひとまずは傍観を決め込んでいる二年生たちから低い声でどうしたとつつかれる。だが、何かが高尾の勘をふわりとかすっただけで明確な返事はできなかった。そんな外野に構いもせず、緑間はしばらくしかめ面を維持して、しかし最後には諦めたように小さく息を吐き捨てる。

「分かった」
「えっ」

 思わず声を出したのは正面に居る男子生徒ではなく高尾だった。今まで何度となくこの「参拝」に付き合ってきたが、いかに自棄になったって緑間が馬鹿げた噂を肯定することなど一度も無かった。他の面々にとっても予想外の展開なのだろう、息を呑んで緑間を見つめている。

「オレのご利益とやらを分けてやってもいいのだよ」
「真ちゃん?」
「ただオレとの1on1で十本のうち一本でも抜けたらの話だ」

 場が驚きで固まったのは一瞬だった。二年生たちは「また緑間が」という空気で仲裁に乗り出そうとしている。鬱憤が溜まりに溜まった緑間がついに……という予測だろう。だが高尾には分かった。緑間は何か確信を持って男子生徒と対峙しているのだ。その証拠にしばらくじっと俯いていた「参拝者」は意を決したように顔を上げた。隅に荷物を置いて学ランを脱ぎ始めている。当然、二年生の先輩たちはざわついた。繰り返すが、突如現れたこの生徒は決して秀徳高校バスケ部員ではないのだ。ただ高尾としてはじっと一点――アロエの鉢植えを見つめ続ける彼の心境のほうが気になった。そうだよな。不自然なアロエだよな。萎えたら悪い、全部おは朝と緑間のせいだから。

 男子生徒の動きは驚くほど機敏で、「経験者」の一言では片付かないほどだった。正直に言えば、この場に残っているメンバーの幾人かは技術面では彼に及ばないかもしれない。ただ相手が余りにも悪すぎる。緑間は一度もオフェンスに回らず、一本もゴールを許さなかった。そして十本目のボールをスティールし、その場でシュートを放ってゴールを決めてしまう。嫌味なほど鮮やかな勝利だ。

「人事を尽くして天命を待つ。それがオレの信条だ」

 膝に両手をつき、荒い呼吸を繰り返している男子生徒は緑間の声に顔を上げた。どうしようもない絶望と、止め処なく溢れる悔しさ、それでも消すことのできない心の奥底の「何か」。複雑そうなその表情から感情が読み取れたのはきっと、高尾にも同じ表情をさせられた覚えがあるからだ。

「だが……人事をどれだけ万全に尽くしたと思っていても、天命に選ばれないことはあるのだよ」

 卑怯なことに緑間は眼鏡を押し上げるために左手を上げていて、表情をあまり窺えない。表情を見てみたかった。いつもの緑間ならこんな言葉は絶対に口にしないだろう。何故ならそれは、コートと観戦席で共にウインターカップを戦い抜いた仲間にしか正確に理解できない言葉だ。聞く人が聞けば弱音や言い訳と取るだろう。ちりちりと胸の奥が焦げる音を聞く。ウインターカップの準決勝を終えてまだまだ日は浅く、あの身を切るような悔しさは未だに鮮明だ。

「それでもオレは信じるものを変えるつもりはない。人事を尽くさない人間に、天命は絶対に下らないのだから」

 緑間はほんの少しだけ身を屈め、緑間をじっと見上げる男子生徒を覗き込んだ。君は、尽くすだけの人事を尽くしたのか。その言葉に彼は大きく息を吸い、深々と頭を下げた。学ランと荷物を回収して、今度は体育館に居る全員に頭を下げドアを目指して歩く。

「またな、春に会おーぜ!」

 靴を履き替える背中に高尾が声をかけると、バタバタと慌てたように走り去ってしまった。そもそも彼がバッシュを持参していたことに、今更になって気づく。

「気づいていたのか」
「……真ちゃんこそ、いつから気づいてたんだよ?」

 いつの間にか隣に並んでいた緑間を見上げると、相変わらず無愛想な顔が高尾を見下ろしていた。なんでもないのに笑えてくる。そして緑間の表情が険しくなって高尾の笑いを更に煽る。好循環か悪循環かは知らないが、緑間自体が高尾の笑いのツボなんじゃないかと最近思い始めている。痴話ゲンカは後にしろ、どういうことだ、と二年生に冗談交じりにどつかれて仕方なく口を開いた。先輩方は元より緑間の説明を期待していない。

「アイツ、中学生っすよ多分。誰かOBに制服借りて潜り込んできたっぽいっすね。首のとこのアレとか、デザインびっみょーに違ったっしょ?大坪さんたちより上の先輩がそういう制服だって聞いてたんで」

 正確に言うと高尾は大坪たちが一年生の頃のアルバムまでばっちり見せてもらったのだ。オレたちから制服がよりダサくなったという宮地のコメントについ笑って、割と本気で殴られたので記憶に強く残ったらしい。加えて、三年生だとしても顔に全く見覚えが無いことに違和感を覚えていたし、制服のサイズがだぶついているのも気になった。大抵の場合、当初はだぶつく制服も三年目になると成長期に追いつかれて小さめだ。

 入試を控えているからか、最近校内に部外者が立ち入るのが難しくなっている。秀徳バスケ部を志し、正式な見学や試合観戦以上の練習風景を垣間見たいという願望があったのかもしれない。そもそも彼の目的は緑間神社の参拝だったので、秀徳の生徒だと思われた方が話が通りやすいと考えた可能性も――高尾が二年生たちとあれやこれやと推測していると、何故中学生にまでこんな馬鹿げた噂が広がっているのだよ、と緑間が重そうに頭を抱えた。うける。いや、かわいそうに。口に出していなかったのに頭にボールが飛んできた。理不尽だ。

「オーイ、やってかあ?って、ああ?何サボってんだお前らあ!何のための自主練だ轢くぞ!」

 耳慣れた怒声にその場に居た全員の背筋が伸びる。もちろん緑間もその例外でないことを高尾は見逃さなかった。制服姿の宮地が鉄扉に手をかけて体育館を覗き込んでいる。さながら監獄を覗き込む看守だ。何も言っていないのに睨まれた。理不尽だ。

「宮地さんこんな時間まで学校いたんっすか?」
「そーだよ。ベンキョーしてたんだよ、ベンキョー。オレらが必死に受験に備えてるってのにお前らは優雅にサボリかよ……ったく!」
「こんな時間まで残らなければならないほど合格は難しいんですね。どうぞ頑張ってください」
「テメ……緑間ぁ……!削ぐぞ!」
「ちょ真ちゃん削がれる!ホント削がれるから謝って!何で何を削ごうとしてんのか分かんなくて怖すぎっから!」

 こんな言い回しでもなければ素直に応援もできない緑間に呆れつつ、ふざけ半分にぐいと背を押して宮地から距離を取らせる。恐ろしい笑顔でズシズシ近づいてくるこの先輩も心ではそういう緑間に気づいているとは思うが。そして同じように呆れているのだとは思うが。

「高尾ぉ……緑間のやったことはお前も連帯責任だからな……?」
「いやいやいやなんでっすかあ!勘弁してくださいよ宮地さん!」
「勘弁なんて……っと、そうだった思い出したわ、削ぐのは後にしてやる。ほらよ」

 宮地は胸ポケットから小さな紙片を取り出して高尾に差し出した。メールで頼んでいたことを早速遂行してくれたらしい。やはり根はどこまでも面倒見の良い先輩だ。面倒見の良い上に案外照れ屋なところもある宮地は、高尾の礼から逃れるようにして二年生のしごきに向かっている。ついでに絶体絶命のピンチから免れた。昼過ぎに宮地さんにメールしたオレにオマエも感謝しろよ、緑間。

「なんなのだよ、それは」
「ん?気になる?」

 緑間があからさまに嫌そうな顔をした。こういう返し方をすると高すぎるプライドが二の句を次がせないからだ。存分に噴き出して案の定睨まれつつ、特に隠す必要もないことなので素直に白状する。今日の昼休みに教室を訪れてきた参拝者先輩のメールアドレスだ。てっきり宮地はメールで返事を寄越してくるものだと思っていたが、部に顔を出す理由として手頃だったのだろう。

「何故そんなものを……」
「いやさ、オレの近所にあの先輩の志望校行ってる兄ちゃんが住んでんだよ。あそこの大学の入試ってちょっと特殊で、OBに色々教えてもらうのが一番って言ってたの思い出したんだよな。ま、もう知ってるかもだけど一応伝えといて、ついでに兄ちゃんも紹介してみようかなってな」
「わざわざか」

 心底不可解、という顔をする緑間がおかしい。だが高尾だって何も心の底から善意でこんな面倒なことをやっているわけでもない。あのまま放っておいて万が一にも緑間を逆恨みするようなことがあれば、より面倒だと思うだけだ。何せ緑間のやったことは連帯責任、らしいので。

「そういや、真ちゃんがなんでさっきの中学生クンのこと分かったのかまだ聞いてねえんだけど、オレ」
「……顔を見た瞬間に分かった。全中で好成績を残した選手なのだよ」

 話題の転換に納得しきれない様子を残しつつ、緑間は比較的素直に口を開いた。もっと渋られるとばかり思っていたが、名前や簡単な身体能力データまですらすらと口にしている。

「なんかやけに詳しくね?」
「もうすぐ敵か、奴の運が良ければ味方になる選手だ。ウチが勝つには頭に入れておくべき情報だろう」

 思わず見上げる緑間の表情はいつもの仏頂面だ。照れ隠しの眼鏡の位置直しすら無い。高尾を見下ろすために、体育館の照明を背負って影を落としている緑の瞳をしばしまじまじと眺めてしまった。

「オレさあ…………オマエのそーゆーとこ好きだわ!マジで!」

 バシバシと緑間の背を叩き、胸の奥から湧き出る笑いをこらえずに吐き出す。宮地がサボるなと怒鳴る声が遠い。緑間真太郎を拝み倒したってご利益なんて当然無い。緑間に奇跡じみた何かが起こったとしたら、それは全て緑間が全身全霊をかけてそうなるようにボールを放ったからだ。そして高尾はその無数のボールの内いくつかを手渡せる位置にいる。

「当然なのだよ」

 煩わしそうに高尾の手を遠ざけながら、緑間は隣に居る高尾に辛うじて聞こえる程度の声音で呟いた。何に対する当然か、なんてことは言わなくても聞かなくても分かる。だからそれを知らせるためだけに高尾は緑間の左腕に軽く触れた。

 そして数ヵ月後、「緑間との1on1でこっぴどく負けると部活でレベルアップできる」などという新説を新入生が持ち込んでくることなど、当然現段階では誰も知る由もない。

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