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緑間真太郎は縁を結ぶ



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3214242
※秀徳モブ出没

 緑間真太郎の半生、などというタイトルでこの男の今までの人生が一遍の小説にでもまとまってしまったら、その中身は大層濃いに違いない。自分で仮定しておきながら、高尾はその存在しない書籍の購入を真剣に検討した。高尾が緑間と出会って丸一年――初対面の時期を正確に遡ればもうすこし長い時間が経過しているが、あんな出会いで緑間を知ったとはとても言えないと思う。試合によっぽど入れ込んでいたのかラッキーアイテムにも気づかなかったし、緑間の言動に口角を上げることさえなかった。今の高尾がその場に居たら親切に教えてやっただろうに。知ってるか、ソイツ笑いの玉手箱なんだぜ。しかし、ああいう出会いがあったからこそ今があるとも思っている。敵だろうが味方だろうが、緑間の一挙手一投足すべてが高尾の闘志に油を加え風を送る。ついでに笑いも送ってくる。頼んでない。楽しいからいいけど。

 ともかく、ようやく一年だ。いかにキャラクターズバイブルを何度となく読み返そうとも、Replaceを全巻揃えようとも、緑間の16年の大半を高尾は知るべくもない。特別知る必要があるわけでもなかったが、その人生に高尾の笑いのツボが満ちていることだけは確かなので、その一点がひたすらに惜しい。いつか家に上がりこんだ時アルバムの場所を探り当てて質問責めにしてやる、というのが目下の野望だ。

 その野望が叶うまでは、ひとまず一年間で得た知識で『緑間真太郎の半生』を補わなければならない。どうせ家庭環境、学業、趣味、そしてバスケにおいてはさぞかしきらびやかな言葉が連なるに違いない。もう両手で数え切れない程度に緑間の家を訪れているが、緑間の母が彼を「真太郎さん」などと呼んでいることからして高尾にとってはカルチャーショックだった。ついでに緑間が母親に敬語を使っていたのも異文化だ。高尾の家なんて「カズー!」「あーうっせー狭いんだから怒鳴んなくても聞こえてるっつーの!」そしてゲンコツ、が基本である。

「……黙っていたところで何も変わらない。時間の無駄なのだよ。そしてオレには――オレたちには時間が無い。手短に済ませろ」

 沈黙に割り込んだ、低く落ち着いた声音にハッと逸れていた意識を戻す。高尾は今緑間の意識の外にあるので、どれだけ突拍子のないことを考えていても緑間の冷たい視線を受けずに済んでいるが、そのせいでくだらない想像に終わりを見出せないのだった。しかもこのまま考えていると確実に噴き出して自爆する。物陰に潜んでいる姿を緑間一人に発見されるならまだしも、その正面に立つ女子生徒に見つかるのはさすがに気まずい。

 押し付けられた体育委員の仕事を終えて体育館に向かえば、先に行くと言っていたはずの緑間の姿が無かった。若干の心当たりがあり探しに来てみればこの状況である。うっかり盗み聞きのような体勢になってしまっている自覚と罪悪感は当然あったが、今まで何度となく猫の代わりに自分自身を殺しにかかってきた旺盛過ぎる好奇心が体の動きを制御していた。ちなみにどうにか免れてきた死因の大半は先輩の軽トラによる轢死である。

 季節は高尾と緑間が出会って丸一年の春。遅咲きだった桜もほぼ葉桜に変わった。わずかに枝に残る花びらも風に乗ってちらちら舞い落ちていく。少しずつ活動時間を延ばし続ける春の陽が、名残惜しげな茜色で部室棟裏に佇む二人の人間を照らしていた。部活の開始と終了に鉢合わなければ人通りはほとんど無く、案外日当たりが良い。密かな人気告白スポットとなっていることを高尾が知っている理由は言わずもがなだ。自慢じゃねーけど。

 高尾の位置からは肌を茜色に塗らす横顔がよく見えた。長く通った鼻筋とシャープなあごのラインが涼しげだ。野暮ったい眼鏡が目に付きやすいが、緑間の目鼻立ちはかなり整っている部類だ。色素の薄い髪の毛先と睫毛の先が夕日に透けてなんとも言えない色見を作っている。黒い制服に相対して白い頬も、引き結ばれた唇も、いつもより血色の良さそうな色が乗って見えた。全身の意識を女子生徒に傾けているその背はピンとまっすぐに伸び、隙の無い立ち姿である。『緑間真太郎の半生』の作者も、彼の容姿だけ描いていれば芸術的な何かを味わえるだろう。左腕に抱えられた時期外れの扇風機さえなければ――と、美術で3より上を取ったことのない高尾ですら残念に思った。ただし、6月中旬並みの気温を記録した今日、4時間目の体育の後の昼休みでそのラッキーアイテムが大活躍したことは併記せねばなるまい。高尾もそのおこぼれを頂戴した身だ。

「……緑間君」

 黙っていた女子生徒がやっと意を決したように口を開いた。うつむいていた顔が上がって、そこで初めてその女子生徒が四月から一緒になったクラスメートであることに気が付く。あまりに普段と違いすぎて気が付かなかった。目は赤く潤み、頬も桜と同じ色で上気している。夕日のせいだけでは決してないだろう。いつも高尾を初めとしたクラスメートたちに馬鹿を言っては大口で笑う彼女の姿はそこには無かった。注意深く息を吸う音が高尾にまで届く。

「お願いします!5組の伊藤とうまく行きますように!」

 パンパン、静寂に女子生徒のかしわ手が清々と響いた。たちまちげんなりした緑間の表情に込み上げる笑みを耐えたのは、高尾自身から見てもなかなかの快挙だったと思う。

「どうしてオマエらはそう……だから何度も言っているが、オレにはそういった……」
「ごまかしても駄目だよ!バレンタインに奇跡を起こしたってもう伝説になってんだからね!」

 これはまずいことになった。

 遠く10mほど離れた高尾と緑間だが、きっとこの瞬間だけは同じ言葉を脳内で共有している。ただし、そこに含まれる感情は正反対に違いない。緑間がまずいと感じているのは、放っておけば立ち消えるだろうと高をくくっていた馬鹿馬鹿しい噂が、最早矯正の余地も無いほど肥大化していると改めて認識させられたからだ。そして高尾がまずいと感じているのはひくひくと震える喉である。今にも飛び出しそうになる笑いを最早抑え切れそうにない。

 緑間真太郎のあらゆる努力――曰く「人事を尽くして天命を待つ」は常軌を逸している。これを目にした大抵の人は、彼を「変人」で片付ける。緑間にとってここまではまだ良かった。何故なら彼はそういうレッテルを貼られることに慣れきっており、また一目見ただけで安易にレッテルを投げて寄越し、その先からは思考を停止する人々に元々興味を持っていなかった。だがあまりにも徹底されたこだわりと実績が釣り合ってしまった時、ついでに高尾の笑いを誘発する常識外れの現象をも伴ってしまった時、周囲の反応は緑間の思いもしない方向へ変わってしまったのだった。いや、一体誰が予測できただろうか。緑間を「参拝」すれば願いが叶う、などというファンタジーな着地点を。高尾が緑間の真似をしてエンドラインからシュートを放ったって、そんな滅茶苦茶な方向へは飛ばない。緑間の頭にうっかり当てる、くらいならあるかもしれないが。

 受験シーズンの2月、ただでさえ受験生の「参拝者」で賑わっていた緑間大社だが、とある一日は群を抜いてごった返していた。ついでにお賽銭代わりと言いたげなチョコレート菓子でも机上が賑わっていた。2月14日、バレンタインデーである。授業の合間の休憩時間、当時のクラスメートの女子生徒が、緑間の背に突然抱きついたことが発端だった。緑間が一瞬前まで優雅に飲んでいたおしるこを顔面に浴びた高尾はよく覚えている。もう怒る気とか全然湧かなくてひたすら笑えた。昼休み本命のとこ行くからご利益を、というのが彼女の主張だったが、万が一にもその現場を本命に誤解されていたらどうするつもりだったのか。結果から言えば彼女は見事に成功してしまったので、そんな懸念は今更何の意味も持たないが。緑間に新たな伝説が加わってしまったことだけは確かだ。一日中我も我もと女子に抱きつかれ、フリーハグ状態になっている緑間の死んだ目は見物だった。嫉妬と羨望という怨嗟の視線を浴びる側と浴びせる側。バレンタインデーは日本中の男をその二つに分ける。ただ嫉妬と羨望を含みつつ大半は哀れみを込められた視線をクラスメート中から集めたのは世界中でも緑間くらいのものだろう。どさくさに紛れて高尾も緑間に抱きつこうとしたところ、頭でドライブされそうになったことは記憶に新しい。あれは本気だった。本気で顔面潰されるとこだった。相変わらず冗談通じねーヤツ。

 何がどう功を奏してしまったのか、緑間に抱きついた女子生徒は全て狙い通りのデスティニーを手にしたらしい。受験シーズンを終え、短い春休みをバスケで満喫した後、高尾と緑間が新学期も同じ教室で顔を合わせた頃には、すっかり緑間大社の縁結びの効能は同級生に知れ渡っていた。そして今では恐らく全校生徒の知るところとなっている。さすが緑間真太郎、望まないシュートもオールレンジ。余談だが、不得意科目がほとんど無い緑間と、国語や地歴に比べ理数が多少はマシである高尾が、同じ理系クラスにまとめられるというのはなんとも面白い話である。おかげで文系クラスに対し圧倒的に女子生徒が少ない男女比に緑間がそっと息を吐いていたのをばっちり目撃できた。

「そういうことだから……、いくね!」
「どういうことなのだよ!来るな!」

 女子生徒が勢いをつけて両手を伸ばすので、緑間はその先手を取って長いリーチを生かし右手で相手の額を押さえている。まっすぐに伸びた緑間の腕が必死さを訴えかけてくるようだ。女子生徒も余程本気のようで、次第に緑間の腕が震え始める。利き手じゃないとは言え、誠凛対策に鍛えまくった筋肉はどうした。情けねーぞ緑間。確かその子レスリング部って聞いてるけど。

「どうしても、ダメ……?私じゃやっぱり、アイツに釣り合わないかな……」

 随分粘っていた女子生徒の顔が少し歪んだ。瞳が夕日の中で光って見えるのはそこに涙の膜が張っているからだろう。人よりかなり良好な視界にぴくりと動いた緑間の指先を捉える。あ、これ、もうダメだなコイツ。高尾がそう悟った瞬間、目を獰猛に光らせた女子生徒が野太いかけ声とともに緑間にしがみついた。うおっしゃあ、静寂に響く歓声が趣き深い。オレももうダメだわ、笑い死ぬ。

「いいか!その強引さで人の心を惹きつけられるなどと思うなよ!人に好かれたいと考えるならそれなりのしおらしさを身に着けておくべきなのだよ!別に女らしくだとかそういうことを言いたいわけではない!ただ人間としてだ!あの強引で自分本位な態度を誰が好き好むのだよ!まったく、」
「し、真ちゃん頼む、もうヤメテ……!」

 発言者によっては正論に聞こえたかもしれないが、残念ながらこの言葉は緑間真太郎という生きる傍若無人の口から吐かれている。うずくまって震えている高尾をようやく発見した緑間は、機関銃のように怒りを放出し始めた。目的を達成しさっさと走り去ってしまった女子生徒にぶつけるはずだった怒りをどこに向ければいいか分からないため、高尾が代用されているらしい。まったく自分本位で強引である。

「っていうかソレ、さっきの子に言ってこいって……!真ちゃん神社のありがた~いアドバイスだろ?」
「だからオレは神社ではないのだよ!」

 緑間は分かりやすく押し黙り、話は終わりだと言わんばかりに不機嫌面で部室に向かって歩き始めた。高尾も慌てて後を追う。好奇心は満たされたが貴重な練習時間をかなりロスしてしまった。三年生の怒りは緑間のワガママ二回分で鎮めてもらうとして、後は残された時間の密度を上げるほかない。愛は惜しみなく与え(高尾に笑いを)、惜しみなく奪うのだよ(緑間の時間を)。先人の名言は心に染みる。

「オマエって結構女子に優しいよなあー」
「死ね」

 実際、緑間はあの場で女子生徒と力比べなどしてやる必要は無かった。振り払うこともできただろうし、それこそ頭をボール代わりにドライブくらいは易々やってのける。実際高尾もやられかけた。今からでも女子の首根っこを捕まえて呪詛の言葉を吐いてもいいし、そもそも用件が分かった時点で踵を返したって良かった。つまるところ、緑間は女子の扱いが下手なのである。彼にとっての猫と同じで、極力避けたい対象なのだろう。だからこそいつものように強く出れない。

 推測するしかない『緑間真太郎の半生』の中身は、驚くほど濃くてきらびやかなのだろう。しかしそこに恋愛という章があるとすれば話は別だ。そこは恐らくペラペラで空白ばかりに違いない。ひょっとするとこれから充実していくのかもしれないが、現段階では残念な章のはず。そんな緑間に少女たちがこぞって恋愛成就の願掛けをしていると思うと、高尾はおかしくてしょうがないのだ。表情にわずかに滲ませただけなのに振り返ってまで睨まれた。やっぱり理不尽だ。

「なー真ちゃん」
「何だ」
「オレにも願掛けさせろ、よっと!」

 怪訝げな表情が振り返ってくる前に、笑みを隠さず背中に抱きついた。前回は正面から行こうとして失敗したので、今回は抜からない。人事を尽くしたのだよ。鼻の頭を肩甲骨あたりにぐりぐり押し付けると、緑間の家と同じ匂いが鼻先をかすめた。

「……その必要があるのか」

 人目が無いからか、緑間の反応は静かなものだ。静かながら肘鉄を胸元で受けるのはキツイ。頭ひとつ分の身長差を考慮してほしかった。思わず咳き込むと、その胸元に扇風機を押し付けられる。持てと言いたいらしい。頑なに前方を向いている横顔にくっついている耳を見つめつつまた笑った。

 翌日芸術選択の音楽で5組と一緒になったため、前日のこともあってついつい伊藤と話し込んでしまった。緑間の視線がつららのように鋭く冷えきって背中に刺さっていたが、伊藤はマイペースかつのんびりした男だった。緑間の威圧に気づく素振りすらなく、どこか間延びした語尾が何故だが牧草地を連想させる。だから高尾が「オマエみたいなヤツにはしっかりした女の子がついてた方がいんじゃね?」などとこぼしたのは、純粋な厚意からだ。他意も無ければ何かを示唆したわけでもない。数日後に学年中に名の知れ渡るようなバカップルが成立したとしても高尾には一切関わりはないのだ。当然緑間はそんな主張聞き入れちゃくれなかったが。

「それは……何と言うか。コロコロ鉛筆ですね……」
「は?ナニソレ?」

 誠凛と練習試合を組むことになったのは、秀徳にとって思いがけない有難い話だった。毎年、どの学校どの部でも、いやプロだって変わらないだろう。必ずやってくる「引退」というサイクルが、一年ごとに新たなバランスをチームに要求する。特にウインターカップの準決勝ギリギリまで大坪世代が力強く形作っていた「秀徳」を壊すのは容易なことではない。実践経験とそれに伴う細かい調整が急務だった。昨年のウインターカップを制した誠凛との試合はその絶好の機会と言える。インターハイを控えた今、誠凛にとっても新しい秀徳の情報はどんなリスクを払っても惜しくない価値を持っているはずだ。同じ都内の強豪、必ずどこかでぶつかり合うことになる。

 ただ、緑間の機嫌は始終麗しくなかった。元々緑間は黒子とも火神ともソリが合わないのだという主張を崩さない。気になってしょうがないくせにぃ、とつつきに行きたいところだが、そこで「あいつらはどちらもA型なのだよ」とでも怒鳴られたら笑い崩れない自信が無い。ただでさえここのところの「参拝」で機嫌を損ねているのだ。そっとしてやることにする。試合が始まることで上向いていた様子だったご機嫌も、火神がゴールリングを叩き落して試合を中断させてからは放電でもできそうなくらい気が立っていた。エコだね真ちゃん。怒っても年季の入ったボロな体育館が新しくなるわけでもないのに。ゴールの修理と点検のため急遽休憩を取ることが決まるなり、緑間はさっさと体育館の外へ出て行ってしまった。

 手持ち無沙汰の高尾は仕方なしに黒子と火神と世間話を始めたわけである。ついでに何やら真剣にへこんでいる火神をフォローするつもりで緑間の不機嫌の原因を簡単に教えてやる。どうやら火神はゴール破壊の前科持ちであり、あの勇ましい女カントクにこっぴどく絞られた上、白熱していた試合をふいにしてしまったことを何より悔やんでいるらしかった。相変わらず規格外の男だ。緑間より常識はあると思うけど。――そんな御託を並べているが、どうせ高尾自身が話したかったのだろう、と問われれば否定しない。むしろ全力で肯定する。こんな面白い話黙っといたらもったいない。

「はい……湯島天神の鉛筆がありますよね。あれに緑間君が番号を書いてコロコロ鉛筆に。当時の帝光バスケ部では密かに有名だったんですよ」

 聞けば、黒子がレギュラーになったばかりの頃、彼は一軍のハードな練習に追いつくのに精一杯だった。帰宅すれば夕飯もそこそこに熟睡、授業中も船を漕いで夢の大海へ乗り出すという毎日を送っていたのだ。高尾も新入生の頃はそんな調子で毎日が矢のように過ぎ去って行った。疲れすぎて動かない体がベッドに重く沈む感覚まで鮮明に思い出せて苦笑する。運動部経験者なら誰もが通る道だろう。そんな中黒子は、常にうまい具合に平均点に乗り上げさせていた定期試験の成績をガクリと落としてしまった。追試に戦々恐々としているところに、見かねた緑間が差し出してきたというのだ。お手製コロコロ鉛筆を。だめだ、想像しただけで面白い。

「ヤケはよくないと思ってはいたんですが……使ってみると効果てきめんで。青峰君なんかは緑間君本人以上に彼の作ったコロコロ鉛筆を信頼していたかもしれません」
「ぶっは、ちょっ、青峰ヒデェ!」
「火神君もお世話になっていましたよね。ボクが貸して」

 ピクリ、と体育館の壁に寄りかかって座り込んでいた火神の体が小さく動いた。苦虫を噛み締めたような顔を隠すようにタオルで顔を拭っている。火神も緑間に対しては良い印象など持っていないようだから、例え間接的でもその相手の力を借りたという事実は気に入らないのだろう。好ましいくらいの分かりやすさにやっぱり笑ってしまう。

「テメェ、ナニ笑ってんだよ……」
「怒んなってぇ!真ちゃんみたいになっちまうぞ!」
「それは……ちょっと嫌ですね。緑間君みたいな火神君」
「オレこそ嫌だしならねーよ!」
「ちょっ、まっ……ぶふ……っ、さっきから思ってたけど黒子が一番ヒデーな!」

 最近晴れの日が続いていて、体育館に籠もる空気もむわりと湿っぽい。いよいよ春が終わり、インターハイがやってくる。そんな時期に宿敵の誠凛とバスケットボール片手にのんびり世間話、だなんて少しおかしな気分だ。当然、他校生だからって四六時中いがみあっている必要はない。そんなこと無論分かってはいるが。やはり緑間は偉大だ。どんな気まずい相手との会話も、緑間を中心に置くだけで盛り上がれる気がする。

「でもさ、ホント。実際すげーのよ。こういう噂ってほっとくとどんどんデカくなるのな。受験シーズンだけじゃなくてさ、1on1すりゃ部活でレベルアップ、抱きつきゃ恋愛成就ってホントあいつ神社状態なんだぜ?あっそうそうこの前……」
「あっ……!」

 尽きない緑間伝説を嬉々として語ろうとした高尾の言葉を火神の声が遮った。強い光を持つつり気味の目を丸く見開いている。高尾は思わず黒子に視線を飛ばしたが、黒子も不思議そうに火神を覗き込んでいた。

「どうしたんですか、火神君」
「オレもしたぞ。アイツと1on1。ムカつくけどその後気づいたこともあったし……」
「……そうですね」
「あの鉛筆使った時もありえねー点数取っちまったし……ひょっとして緑間、マジなのか……?」

 ミステリーによく出てくる、事件の真相に近づいてしまい犯人に消される一瞬前の登場人物みたいな表情だ。高尾は最早笑いを堪える気すら起きなかったが、黒子は小さくため息を吐き出しただけだった。ゼッテー睨めっこ強いだろコイツ。とりあえず手近なので黒子の肩を叩きながら笑っていると心底迷惑そうな顔で見上げられた。

「あのさあ火神、あん時の緑間はオマエにアドバイスしたくて1on1したんだぜ?そりゃーなんか気づくことくらいあるだろ。まーオマエにとっちゃ余計なお世話だったかもしんねーけど、緑間オマエらのことすっげえ気に入ってるから勘弁してやってくんね?ツンデレだから、アイツ」
「お、おう……まあ……そっか」
「それに鉛筆だって、フツーに考えたらスゲーのは緑間じゃなくて天神さんのほうじゃね?大体その鉛筆選択問題でしか使えねーしさ、オマエの運が良かっただけじゃねーの?」
「あー……まあ、だよな……」

 今は特に火神と対立したいわけでも煽りたいわけでもないので、フォローを入れつつ訂正する。火神まで変な方向へ着地させたくない。放っておいても面白そうではあるが、本人の姿勢も努力も関係ない超人的な何かだけが緑間のバスケを作っている、と万が一にも火神に誤解されるのは緑間にとって不本意だろう。

「さて、そろそろ再開……ん、緑間が居ないね」

 中谷の声は特別張り上げられているわけでも無いのに耳にするりと滑り込んでくる。掴みどころが無く飄々としているその性格をそのまま声にしたかのようだ。目を上げると案の定バッチリ目が合った。ひとつ頷いて体育館を飛び出す。当たり前のことになりすぎて面倒すら感じない。さながら緑間担当大臣だ。ヤベ、今のはちょっとウケる。

「さーて、どっから探すか……」
「手分けしたほうがいいなら、協力します」
「そっか?でも……って黒子ォ!?」
「……君に驚かれたのは初めてのような気がしますね」
「何で嬉しそうなんだよ!言っとくけど、誰かついて来てんのは分かってたんだからな!」

 てっきり仮入部一日目から緑間に懐いている例の新入生あたりだろうと思っていた。緑間との1on1が決め手となったのか以前からそのつもりだったのか、結局彼は味方として秀徳に在籍している。

「いい加減、ボクも早く試合をしたいので。人手は多いほうが早いでしょう」
「あー……有難いけど、大体の見当はついてんだよ」

 どうせまた「参拝」に捕まっているのだろう。休み時間などのちょっとした時間なら傍観していて愉快だが、最近はどうも部活動の時間まで侵食されている。やれやれと前髪を乱雑に掻き上げながら水飲み場を目指す。緑間は休憩時間、体育館付近の水飲み場以外に留まらない。普段ならば顔に水を浴びせた後はすぐに体育館に戻って来るが、今日は火神たちが居る。水飲み場で時間を潰しているところに「参拝客」が現れたのではないだろうか。そうなると、すぐに戻れるような場所にしか移動していないはずだ。

「園芸倉庫の前かな……。とりあえず行ってみっか」
「はい」

 協力は遠慮したつもりだったが、黒子は体育館に戻るつもりが無いらしい。居て困るわけでもないので好きにさせておく。それにしても手分けすると言っていたが、不案内な学校の中をどう探すつもりだったのだろうか。黒子なら涼しい顔でやり遂げそうな気がしてくるから不思議だ。

 体育館の裏手に、「倉庫」とも言えないような小さな物置がぽつんと設置されている。主に園芸用の肥料や用具が詰まっていて、用務員や園芸部が出入りしているのを時折見かけていた。人目につきにくく、存在を知る人も多くなく、人に聞かれたくない話をするにはもってこいの場所だ。そうやって説明してやりながら小走りで体育館裏に回った瞬間、高尾は急ブレーキを踏んで足を止めてしまった。反応しきれなかった黒子が背中に衝突事故を起こしてくる。

 やや南向きに作られている体育館裏の空間は、日陰と日なたの二色に塗り分けられていた。静寂をわずかに震わせているのはか細い嗚咽のようだ。喉が引きつるような音がする度、日陰の中で細い肩が跳ねる。制服姿から察するに女子生徒だが、その顔が広い胸板に押し付けられていて知り合いかどうかまでは判別できない。だが、オレンジ一色に包まれた胸板の持ち主の方には見覚えがありすぎて釣りが返ってくる。そいつは日なたの中で仏頂面を極限まで歪め、両手を女子生徒の背に優しく回す――なんて気が利くわけもなく満員電車で痴漢の冤罪を避けるかのように両手を挙げている。

「……言っておくが、最初から泣いていたのだよ」

 つまりオレのせいじゃないのだよ、と言いたいらしい。なるほど、女の涙は武器という言葉は緑間に対しても真実だったようだ。いつもの緑間なら部活中に声をかけられても応じないだろう。しかし扱いの得意ではない女性の、ただならぬ雰囲気に呑まれてしまったに違いない。ざりざりとスニーカーで土を踏みながらゆっくり近づく。できるだけ刺激を与えないように女子生徒の肩を叩いた。

「あのー……大丈夫?タオルいる?ちょい汗くさいけど」

 ボタンを閉じていないジャージの合わせの間、ユニフォームにしわを作りながら女子生徒は首を横に振った。高尾のタオル以上にそちらの方が汗臭いだろうに。なんだか駄々をこねて母親から離れようとしない幼児を髣髴とさせる。緑間の表情が益々嫌そうに翳った。

「無駄なのだよ。さっきからこの調子で、一向に口を割ろうとしない」
「口を割る……ってどこの取調室だよ!ったく、機嫌ワリー真ちゃんが怖くて泣いてんじゃねーの?」
「っだから、最初から……!」
「真ちゃんに抱きついてるってことは『お参り』?」

 もしそれ以外の個人的な用事なら高尾たちはとんだお邪魔虫になってしまうが、幸いにも女子生徒が今度は縦に首を振る。やはり緑間神社の「参拝者」らしい。だとしたら何故泣いているのだろうか。緑間に後光でも差して見えたのか。待て待て、想像するなオレここで噴き出したらややこしくなる。

「これさ……緑間に口止めされてたから黙ってたんだけど。実は緑間って無限に縁結びできるわけじゃないんだぜ?」
「高尾?オマエ突然なにっ、」

 咄嗟に腕を伸ばして緑間の口を塞いだ。掌の下でもごもごと唇の感触を感じるが、あまりに唐突な高尾の行動に緑間は実力行使の抵抗を忘れている。女子生徒に抱きつかれているおかげでもあるだろう。正直助かった。今度こそボール代わりに地面をバウンドしなければならないかと思った。

「生まれ持ってるスゲー恋愛運を削ってでもみんなに幸せになってほしいっつってさ……みんなが幸せになってくほど、自分は脱童、ええいや、どこかにいる運命の人から遠ざかってるかもしれねーのに……!」

 涙を堪えるように空いた手で自分の口元をも塞いだのは、笑みを堪えるために他ならない。緑間の凄絶な視線が「後で殺す」という意思をテレパシー並みに明確に伝えてくる。同じようにして笑いを堪えている黒子にはお咎めが無さそうなのが納得いかない。高尾からはばっちり見えているというのに。

「ホントなんですか……!?ごめんなさい、私全然そんなこと……!」

 女子生徒ががばりと涙で濡れた顔を上げ慌てて緑間から離れた。どうやら春に入ってきたばかりの新入生だったらしい。っていうか信じたのか。マジか。一年生にまでこれほど信頼される緑間神社の霊験に乾杯だ。敬服はするが羨ましくは決してない。力いっぱい口を塞ぐ手を振り落とされたので、緑間が何か喋り始める前に身を乗り出した。

「そうそう!だから……まず真ちゃんに頼るんじゃなくて、できるだけの人事は尽くしてくんねーかな?このままじゃ真ちゃん一生童、」
「高尾ォ……!」
「あの……良かったら、これ。使いませんか」

 高温と低音で悲鳴がハーモニーを作る。女子生徒はもちろん、やはり緑間も黒子の存在に気がついていなかったらしい。驚きで涙も引っ込んでしまったのか、差し出されたポケットティッシュを女子生徒はぱちくりと見つめている。

「何故泣いていたか聞かせてくれませんか。緑間君みたいな力はボクにはありませんが、」
「オレにもそんなものは無いのだよ!」
「話すだけで少なくとも気は楽になります。それに、完全な部外者ですから、客観的なアドバイスができるかもしれません」

 さすが同中、緑間の扱いにすっかり慣れきっている。おまけに地味な見た目に反して女子の扱いにも長けている気がする。これは少し予想外だった。案外モテる男なのかもしれない。よく見とけ緑間、これが正解だぞ。

 時折涙をぶり返しながらたどたどしく女子生徒が語ったところによると、彼女は中学時代からの彼氏が居るらしい。しかし高校が分かれてからはすれ違ってばかりで、ついには別れを示唆されているような気がして、相手の気持ちが分からず辛い――というのが大筋である。高尾の頭の中でここ数年流行した曲がメドレーのように駆け抜けていった。彼女の涙の直接の要因となったメールを見せてもらったが、高尾の目からは学校の行事で会えなくなった旨を丁寧に謝罪したものにしか見えない。こういう問題は当人間にしか分かり得ないので敢えて口には出さなかったが。はあ、と苛立ちを隠さないため息が緑間の口から漏れ出ている。

「だったら……これを使え。言っておくがこれはオレの大事なラッキーアイテムなのだよ。貸せるのは1セットだけだ」

 本日10位の蟹座のラッキーアイテムは「かわいいレターセット」である。抱き付かれた拍子に落としたのだろうものを拾い上げ、緑間は便箋と封筒を一枚ずつ引き抜いている。一体どういった基準で緑間が「かわいい」の判定を行ったのかが朝から気になって仕方がなかったが、世間の認識と大きなズレはなく高尾の目から見てもファンシーなハート柄だ。これを持ち歩く緑間、という図は世間の認識とズレまくっていただろうが。

「手紙……を書けっつーこと?」
「少し違った環境に身を置けば、普段はできないことができるようになることもあるのだよ。口頭やメールで言いづらければこれを使え。少なくとも、黙って泣かれているだけではオレには何も伝わらなかったのだよ」
「でも、私……何を書けば……」

 差し出された淡いピンクの便箋と封筒を女子生徒はぎこちなく受け取る。緑間はもうこれ以上何かを言う気も起こらないようだ。眼鏡のブリッジを押し上げながらすたすたと歩き去って行く。

「なんでもいいんじゃないですか。少なくともあなたが普段と違う、ということは相手に伝わります。それこそ『月が綺麗ですね』の一文だって構わないと思いますよ」

 少々夢見がちな女子生徒には、黒子の言いたいことがしっかり伝わったのだろう。白い頬がレターセットと同じ色に染まっている。ってか黒子やっぱりコイツ、ぜってーモテるだろ。いや、モテる前に気づかれねーのか?

「あーあ……なんでわざわざ呼びに行ったオレまで外周になんだよお……」
「それはオマエがダラダラしていたからなのだよ。オレこそ納得いかん」
「ハッ!まあ頑張って走れよ!」
「……フッ、負けた口でよくそんな呑気な言葉が吐けるのだよ」
「んだと!?」

 試合は秀徳の辛勝だが、公式戦と違い互いに温存した戦力もあり、また試合の流れが妙な形で中断されたこともある。正直に言えばほとんど勝った気のしない試合だ。試合後の中谷の言葉も厳しく、休憩からなかなか戻らなかった高尾と緑間は罰として外周が命じられた。緑間の機嫌も益々悪い。ただ、火神の分かりやすい挑発に乗る元気が残っているのは、今回の試合で緑間が何を感じたかを如実に示していると思う。高尾も結果にはやはり納得できていないが、試合の中身には満足している。本当に熱くて楽しかった。

「外周、頑張ってください。先輩たちも待っていますし、ボクたちはこれで」
「あーうん。できればオマエも外周に引きずってきたいとこだけど勘弁してやるわ」
「それはどうも」

 飄々とした黒子の反応がおかしくて笑ってしまう。以前から黒子に感じている自分とよく似た匂いや、これまで何度も戦ってきた因縁から思うことは多くある。だが黒子の人間性は高尾のツボをかなり突いているのだ。「キセキの世代」って奴らはお笑いでも天下が取れるのではないだろうか。

「オマエってさー思ってたよりなんつーの?ロマンチストだったんだな。実はモテんじゃね?」

 エナメルバッグの肩ひもに手をかけたまま、黒子は瞳をゆっくりと瞬かせた。色素の薄い瞳がきょとんといつも以上に丸くなっている。

「そんなことないです。ボク、クラスメートにすらよく忘れられるんで」
「あー……やっぱそなの」
「それに、君みたいな周到さもないです」
「は?」

 ちらりと視線が逸れたのでそれを追いかけると、その先には火神と今にも掴み合いでも始めそうな緑間が居る。190cmを超えた男たちの睨み合いはその迫力だけでも充分な暴力だ。レターセットの生み出す和みも今は殺されている。知り合いでもなければ絶対に近寄りたくない。

「周囲が彼に持っている印象を改めさせるのは楽しいのに、独り占めできないのは嫌なんですね」
「……は?」
「見当外れだったらスミマセン。それじゃあ」

 黒子は言いたいことだけ言い切ると、怯む様子も見せず火神の膝に背後から自分の膝をぶつけた。所謂膝カックン、古来から伝わるイタズラだ。大口を開けた火神が何かを怒鳴る前に、そのバッグを引っ張って歩き出している。手馴れたものだ。緑間に全く動じなかった理由が分かる気がする。遠くの方から聞こえていた誠凛のにぎやかな声がすぐに小さくなっていった。ボーっとつっ立っていてもノルマは減らない。拍子抜けした表情をしている緑間をつついて走り出す。

「なー真ちゃん」
「……なんなのだよ」
「『月が綺麗ですね』」

 どうしても生じるコンパスの差で前方に出た緑間が、怪訝げに振り返ってきた。普段は外周中いくら話しかけても振り返ったりなんかしないくせに。なんだかイタズラが成功した気分になって口角を引き上げる。オレも忘れたころにやってやろうかな、膝カックン。

「ってさー、アレだろ?夏目漱石だっけ……I love youの訳はこうだって言ったんだよな」

 はあ、何かに呆れるような、ごまかすような深いため息だ。眼鏡のブリッジを押し上げつつ緑の目が高尾から離れていくのが少し惜しい。夕方の茜色が緑に混じって形容しがたい色を作っていたのだ。もう少し見せてくれれば、ぴったりくる色の名前を見つけられたかもしれない。

「別にその英文を見たら何が何でもそう訳せと言いたいわけではないのだよ」
「ってーと?」
「……同じ場で、同じものを見て、同じ感情を共有していれば、直接的な言葉は不要だ、という話だろう」

 は、は、と息を吐き出しながら空を見上げた。試合にフルに出てからすぐの外周はさすがに少しキツイ。西の果てが真っ赤に塗りつぶされて、空に浮かぶ雲も、黒く浮かぶ建物も、前を走る緑間もその色に影響されている。東に向かうにつれて茜色は薄くなり、紫を経て深い藍色へ変わっていく。東の空に月が浮かんでいるのが見えたが、夕日に比べれば薄く小さく儚いものだ。

「なーなー、真ちゃん」
「なんなのだよ!」
「勝とうな、絶対。インターハイも、冬も」

 緑間は何も答えない。だが高尾が言葉を重ねないのはそれ以外の言葉が不要だからだ。

 『緑間真太郎の半生』なんて本があれば、その中身のきらびやかな章も残念な章も大抵は高尾の知らないことばかりだ。しかしその中のどこかに高尾和成の名前があるのは間違いない。そしてそれはきっとこれからも増えていく。できれば一章分くらいにはなってほしいものだ。そんな想像を愉快に思う。そんなこと、誰に言われなくても知ってる。

 その後、自己犠牲を払った緑間のご利益は多くの女子生徒の感動を誘い、緑間の時間を奪う「参拝者」は減った。しかし高尾が爆笑と共にうっかりこぼしてしまったコロコロ鉛筆のエピソードと、一組の遠距離恋愛カップルに幸運をもたらしたレターセットが、緑間の爪の垢を煎じて飲む(物理)と言わんばかりの新たな参拝者を作ってしまうことになるとは、この時点で誰も予想していなかった。

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