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愛について (パラレル)



 僕が初めて見た彼は、ちょうど空から落ちてきたところだった。

 なんて言うと、僕はファンタジー小説の読み過ぎか、もっと悪くなると頭の具合を疑われるのかもしれない。だけどこれは何の偽りも無い事実だ。当然ファンタジーな奇跡が目の前で起こったわけでもなく、この学校の中で最も段差の多いだろう階段から彼が足を踏み外したところに居合わせてしまった。それだけの話だ。

 昇ろうとした階段の先で窓の陽光が不安定に遮られたから、おかしいと思って顔を上げると、そこにはぐらりとバランスを崩す彼がいた。正確に言えば、「人間が落ちてくる」ということだけを先に認識していた。とにかく僕は咄嗟に数歩階段から離れた。落ちてくるポイントを予測しながら細かく位置を修正していく。

 何故こんなに冷静な判断が下せたかと言えば、それはきっと階段を踏み外す人を受け止めるのが二度目だからだ。

 幸い、彼は段差で足を取られることなく、比較的きれいな放物線を描いて僕の予測したポイントに飛び込んできた。不思議だ。世の中の全ての落下物体と同じように、重力は彼の体を地上へ引きつけているはずなのに、スローモーションでも見ているみたいだった。その時に僕は彼が「彼」で、わざとらしいくらい鮮やかなブロンドとブルーの瞳を持っていることに気がついたくらいだ。

 覚悟はしていたつもりだけれど、同世代の男の落下運動を僕一人で受け止めようと言うんだから凄まじい衝撃だった。すっかり下敷きになって廊下に打ちつけた背中は電撃が走ったみたいだ。なんとか受け止めたはずの彼はぴくりとも動かない。ひょっとして気でも失ったのか、厄介だな、急いで起きあがって声をかけようとしたけれど呻き声しか出なかった。だが有り難いことに、彼はその声でがばりと身を起こしてくれた。その時の彼は多分、真っ青な顔色だったんだろうな。眼鏡が飛んでしまっていたので正確さに保証は無い。でも声色から言えばほぼ間違いない推測だ。

「大丈夫かい!?なんてことだ……!下に人が居たとは……!」

 どうぞお構いなく、僕は巻き込まれたわけじゃなく貴方の過失に進んで付き合いましたから。

 そう返そうと思いはしたけれど、背筋の痺れと押し潰された胸板が発声を阻んでいた。助け起こされるまま起き上がる。ひとまず深呼吸で圧迫された肺の動きを取り戻した。どうやら骨や筋に異常は無いみたいだな。痺れが引くのを待ってゆっくり体を捻る。

「平気かい?」
「ええ……おかげさまでしばらくは痛むでしょうが、生活の支障もその程度だと思います」
「ええっと……その、すまない。だが……念のため病院で診てもらった方がいい。もしよければ付き合うよ」

 彼が明らかに顔色に影を落として初めて、僕はこの男が身も知らない初対面の人間だということを思い出していた。そう、今更になって。バーナビー・ブルックスJr.は誰に対しても紳士的で落ち度の無い優等生だって言うのに。けれど、額面通り受け取られてしまった皮肉を後から取り消すのもひどく馬鹿馬鹿しい。この踊り場はこの瞬間に限って言えば僕のテリトリーのはずなんだ。そこに飛び込んできたのは彼の方だ。取り繕うのはさっさとやめる。

「僕は当然のことをしただけですから。その責任を誰かになすりつけるようなことはしません」

 できるだけ付け入る隙を与えない声と態度を。普段の親切な印象があればもっと良かったんだけどな。このスイッチで、大抵の人間は僕が一定以上の距離に誰も必要としていないことを悟ってくれる。一部の例外はよっぽどの鈍感かよっぽどのお人好しだ。

「……君の名前、聞いてもいいかい?」

 けれど、薄々そんな予感はしていたが、彼はその『一部』に含まれているらしい。まるで彼の罪を代わりに背負ったキリストを目の前にしているみたいな顔だ。ひょっとして、階段で足を滑らす人の統計を取ったら鈍感とお人好しが大半を占めているんじゃないか?ヤケ気味に馬鹿なことを考える。

「あ……すまない、私はキース・グッドマンだ」
「僕はバーナビー・ブルックスJr.です」

 顔をしかめてため息を吐き出す仕草を、彼は自分から名乗らない無礼のせいだと思い込んでいる。妙に格式ばった話し方のくせに、声にも表情にも素直な柔らかさが滲み出ていた。僕はこういう人間があまり得意じゃない。世の中の全てが正しい感情で循環しているみたいな主張の相手とは、そもそも住む世界が違うので議論が成り立たない。形ばかりのあいさつを交わして踊り場から階段を降った。まだ背中から脇腹の辺りにじりじりした痛みが残っていたけれど、急がなければ優等生のバーナビーが午後からのクラスに遅れてしまう。

「バーナビーくんありがとう……そしてありがとう」

 なんの意味があるのか分からない言葉の重複が彼の口癖だと知ったのは、すぐその後のことだった。

「また来たんですか」
「ああ。私はここが気に入っているんだ」

 軽やかに階段を駆け上がる姿には、全く危うさが見えない。こうしていればうっかり足を踏み外すような気の抜けたところなんて見えやしないのに、神という存在は傲慢で、どんな人間にもできるだけ多くの欠点を作りたがっている。

「学校は学生みんなの物だろう?追い出さないでくれると嬉しいよ」
「……学生ではなく、オーナーの物だと思いますけど」
「それもそうだ!では一緒に使用許可をもらいに行こうじゃないか!」

 染めていないだなんて嘘みたいなハニーブロンドと、鮮やかで柔らかい色のブルーが彫りの深い顔立ちに幼い印象を与えている。堅物みたいな話し方のくせにその内容はどこかとぼけている。何を取ってもちぐはぐな人だ。おまけに価値観もよく分からない。審美眼に関しては完全に別の星の人間だと思っている。けれど、初めに抱いた印象――ステレオタイプが大好きな人々とはまた毛色が違っていたせいで、完全に突き放すこともできないでいた。

「それだと結局貴方と共用になるじゃないですか」
「もちろん!私は君のことも気に入っているからね!」

 高い天井に沿って並ぶ細い窓から燦々と降る陽光は、その下にある笑顔のために誂えたライトじゃないかと疑っている。爽やかで裏が全く見えない笑みを前に咄嗟の言葉が浮かばない。僕としたことが、ついうっかり油断して苦笑をこぼしてしまった。

「……それはどうも」
「どういたしまして!そしてどういたしまして!」

 許可も取らずに彼はすとんと隣に腰を下ろす。けれど、僕ももう気にしないことにしている。こういう人を前にした時は、いちいち気にしていたら身が持たない。養父の書庫から適当に抜き出した経済論の本を一度閉じる。半端な集中で読んだはずのページを戻るよりは、きっぱり読むのをやめてしまった方がいい。案の定、覗き込む瞳と目が合った。

「……邪魔だったかい?」
「邪魔と言えばここへ来るのをやめるんですか」
「ううーん……難しい問題だ」

 笑顔のまま困ったように首を傾げる様に呆れてしまう。難しいことなど何も無い問題だと思うが、他人の主観まで否定する気はない。どうせ明日も彼はここへやって来るんだろう。それなら、さっさと話題を変えてしまったほうがいい。

「この学校に少しは慣れたんですか」
「そうだね……とにかく校舎の中で迷子になってしまうのさ。こんなに迷う建物は小さい頃よく行っていたショッピングモール以来だよ」
「一体どうしたらそうなるんです?クラスは何を取っているんですか。分かる範囲でなら教えますけど」

 僕がいつも手持ち無沙汰に引き抜いている本の大半を、彼は既に読んでしまっている。学力や興味の分野に大きな違いを感じないけれど、彼の姿を同じクラスで見たことは一度も無い。仮にことごとく僕と全く違う場所でのクラスを取っているなら、全ての教室の位置を正確に教えてやるのは難しいかもしれない。

「さすがは『スーパーヒーロー』、とても親切だ。とても!」
「……何ですか、それ」
「知らないのかい?君のことを話す時、いつも女の子たちがそう言っているんだ」
「時代遅れの格好で摩天楼を飛び移って貴方の案内板にならないといけないんですか?勘弁してください」
「安心してくれ、君になら時代の方がついてくる!」
「一体なんの話ですか……」

 ここでやっと、話題が別の物にすり替わっていることに僕は気がついた。いつもだったらあり得ない。こんな何の価値も生み出さない情報の交換になんて寄り道したりはしないのに。知らず知らず苦笑なんか浮かべていた表情を改めて、だからクラスは──そう切り出そうとしたけれど彼の口は先に開いていた。

「この前の本はもう読み終わったのかい?」

 この本は少し退屈だよね。彼が来るまで僕が思っていたことをまさしく言い当てて、彼は明日の天気の予想でも尋ねるように、さりげない様子で返事を待っていた。時折、彼が実は僕しか知るはずのない答えを知っているんじゃないかと疑う。

「……やめました」
「途中で?」
「この気持ちの起源は僕の中にしかない。その流れつく先も」

 多分、説明しようと思えばいくらでもできるし、今までもずっと頭の中にあるあらゆる言葉を代わる代わる宛てがってきた。だけど、この感情に尤もらしい説明がついたとして、それが一体なんだって言うんだろう?その目を覆いたくなるような醜悪さは何も変わらないのに。不毛な事実に豊富なバリエーションで繰り返し打ちひしがれているよりは、退屈でもためになりそうなことを考える方がまだ健康だ。

「君に、ひとつだけ知っていてほしいことがある」

 考えを一旦放棄して、彼を見る。彼は膝の上で頬杖をついていたのをやめて、少しだけ距離を詰めた。いつもは過剰なほど力の籠もった発声が、今は低く穏やかに静寂に零れている。オペラの緩急みたいだった。

「私は君にいつでも、誠実でいる。そう決めている。君がどう思おうとそれは変わらないよ」

 彼がそうやって念を押すのは、僕が少しも彼の言葉を信じていないことを知っているからに違いない。だけど、僕だって駄々をこねているだけの馬鹿じゃないんだ。短いつきあいではあっても、この人が僕よりは随分マシな性根を持っていることくらいは理解している。彼が自分のブルーの瞳を正面から見つめ返すことが無いのはきっと幸いなことだろう。それがどれだけ澄んでいて、汚泥をすすんで歩くような人間をどれだけ恥ずかしい気分にさせるか、知らないで済むんだから。

 また寄り道してる。気を取り直して立ち上がった。

「貴方に裏も表も無いことくらい、見れば分かります。それよりランチタイムが終わりますよ。次はどこの教室ですか」
「次は……しまった、なんだったかな。ロッカーで確認してからにするよ」

 はあ、大きなため息に狼狽えている彼に呆れる。本人がこれでは、いくら僕が手を貸してやっても意味がない。彼を見捨てて階段に足をかけた。僕は授業に遅れるような学生じゃないんだ。だけど彼は不平の声ひとつ上げない。

「バーナビーくんありがとう!そしてありがとう!」

 いつもの時間、いつもの場所に彼の姿は無かった。僕の推測では、ドアに『OPEN』の札がかかっているからだ。彼の誠実は徹底している。それは僕も認めざるを得ない。

 ドアをそっと押し開けると、退屈そうに帳簿をめくる虎徹さんが笑みをこちらに向けてくれる。椅子を回して体ごと僕を見て、親しげなあいさつをしてくれる。

「最近どうなんだ?ちゃんとメシ食ってる?」
「第一声でそれですか……、僕をいくつだと思ってるんです?」
「腹減んのに歳は関係ねぇだろ歳は!」

 本当は年齢なんか関係なく、それが虎徹さんの最大限の気遣いだと知っている。この人はまるで呼吸をするかのように人を思いやって、なんの躊躇いもなく人のために飛び出していける人だから。だからこそどんな些細なことでも、それが僕だけに向けられていることが本当はとても嬉しい。

 裏口の『OPEN/CLOSE』も虎徹さんが僕のためだけに作ってくれたものだ。今は慣れてしまったけれど、初めは生まれて初めて玩具を与えられた子供みたいに何度もあの札の存在を確認して、触れて、満足しては微笑んでいた。目の前この人には絶対に言えないことだ。

「ここ以外じゃあんまり会わなくなったもんなぁ……お前もうPE取っちゃってるし……お前が居るとすんげー盛り上がんのに」
「客寄せパンダじゃないんですから、やめてくださいよ」
「バニーじゃありません、パンダですって?」

 虎徹さんはよく自分で言って自分で笑う。おじさんの特徴だ。そういうところ、本気で呆れている。でも目元に浮かぶ嫌味のない笑い皺を見ているのは好きだ。この人の表情、言動のひとつひとつがささくれ立った心を知らない内に和ませてくれる。

 それだけだ。別に、それから先がどうとか、何かしたいだとかされたいだとかは思わない。と言うよりも考えることができない。少し仮定を立てるだけでも、僕の中の潔癖な部分が悲鳴を上げて思考を阻む。でも、その潔癖が取り払われてしまったら?そうしたら僕は、「この前」のようなことを、それ以上をまたやりたくなるんだろうか。それはとてもおぞましい、醜い感情だと思う。自分で自分のことを殺してやりたくなるくらいに。

「バニー?」

 ひとつのことを考え込むと、つい周囲へのスイッチを切ってしまうのは自分の悪いところだと自覚している。突然目の前に現れた虎徹さんの顔に驚いてバックステップを踏んでしまった。からかわれる、と悔しく思ったけれど、虎徹さんは少し顔をしかめただけだ。

「本当に……大丈夫か?なんつうのかな……息抜き、みたいなさ……そういうの、ちゃんと取ってんのか?あんまり真面目過ぎんのも……」
「僕はバーナビー・ブルックスJr.ですよ。いつも完璧で、トップでなければダメなんだ」
「はいはい、バニーちゃんはエライエライ」

 形だけ不本意な態度を取って、撫でようとしてくる手を遠ざける。からかっているフリをしながら、本当は別の意味を込めて虎徹さんは僕のことをふざけた愛称で呼んでいるんだろう。でも僕の考えは変わらない。それにこれは、僕の事情について少しだけ詳しくなってしまった虎徹さんの「等しい」優しさのひとつだとちゃんと分かっていた。それでも僕は、この人がこの人でいることをきちんと嬉しいと思えている。それに安心する。

「暇ですし、ここ少し整理しますよ。虎徹さんは暇があっても寝ているだけみたいですから」
「っだ!俺だっていっつもかっつも寝てるわけじゃ……」

 虎徹さんの言葉が途切れた。「この前」のことが頭をよぎって、心臓の動きが活発になる。ひょっとして気づいていたかもしれない。もしくは、何か引っかかる物を彼に残してしまった?断頭台に立たされた気分を必死で押し隠しす。

「そういやお前、アレ……キース知ってる?転校生なんだけど」
「ええ……まあ」
「ひょっとして仲良かったりすんの?」
「……どうしてですか?」

 返す言葉を慎重に選んだ。あの人はいかにも嘘のつけないような人だ。本人は誠実を貫いているつもりでも、うっかり何かを取り落としているかもしれない。そこまで考えて、僕は彼に対して想定以上の信頼を預けていることに気づいてしまった。僕にはもう何も必要無いのに。僕にあるのは、ひとつだけ持っている物を、誰にも気づかれないように手放すだけの毎日だ。

「いや……あいつ、ちょっとした問題児なんだよな。必修のクラスにも取ってるクラスにも全然顔出してなくてさ」
「は……?」
「この前やっととっ捕まえて話してみたんだけど、本人は素直そのものっつー感じだし……ま、ちょっとズレてるって感じだったけど……そん時は真面目に授業受けてたんだけどなあ……」
「聞いてない……」
「え?」

 恐れと疑心暗鬼にまみれた予測は当たらなかった。その代わり、思いもしていなかった夕立が心の中を奇襲している。激しい雨風をなんとか掻き分けながら、怪訝な顔の虎徹さんへ取り繕う言い訳を掴み上げた。

「あ、いえ……僕にも真面目そうに見えていたので……」
「だよなあ!前の学校じゃ、クラスでもクラブでもトップだったらしいんだよな」
「ちょっと虎徹さん、喋り過ぎです」
「あっ!いや、そのだな……ホラ、お前だと思って喋ってんだよぉ、分かってるくせにぃ!」

 浮き上がりそうになる心を必死で押さえ込む。今はそちらに気を取られるべきじゃない。虎徹さんは優等生のバーナビーに然るべき行動を求めているだけだ。僕だからうっかり口を滑らせたわけじゃない。ごまかすように頬を掻いて、虎徹さんは僕の背を軽く叩いた。

「……ま、見かけたら授業出ろって突っついといてくれ。このまんまじゃ卒業に何年かかるかって感じだぞって。お前と結構クラス被ってるらしいから」

 考えてみれば、いつもあの人はあの踊り場に残っていた。その後はどうしていたんだろう?振り返ればいつも、僕とはまるで違う穏やかな日々を送っているかのような顔をしていたのに。

 僕は確信した。彼は意識してクラスの話を避けている。顔を合わせる度にその話をしようとするのに──いつの間に僕は、彼と顔を合わせることを当然のように思い始めたんだろう?そして驚くべきことに、僕は彼のテリトリーを意識し、尊重しようとさえ考えている。どのような事情があっても、人は規範の中に組み込まれれば良と不良にしか分かれないはずなんだ。本来、僕が良から弾かれた彼の事情を考慮する義理は全く無い。

 一度別れたフリをして階段を戻る。問題の転校生と話をしてみますと持ちかければ、いとも簡単に遅刻の許可は下りた。他の生徒が申し出ればそうもいかないだろうけれど、こればかりは普段の素行に自負がある。

 けたたましい始業のベルの中、彼はただその場に座り込んでいた。立てた膝に顔を伏せているから寝ているのかもしれない。僕が彼について考えたあれこれは全て余計な勘繰りだったんだろうか?本当に馬鹿馬鹿しいな。彼のことを虎徹さん以外の誰かで片づけることのできなかった僕が悪いみたいじゃないか。靴音をわざとらしく響かせようと足を上げる。

 けれどふと彼が顔を上げた。影の中に居た彼の顔が昼間の光に照らされる。備え付けの笑みがそこには無い。無理に表情を表現するなら透明だ。清々しさを感じるが、その実体が掴めない。彼は立ち上がり、一歩、一歩と階段に近づく。最初の一段までギリギリのところで止まり、側面の壁に手を当てて、自分の足下だけを見ている。その下に立ち尽くしている僕に気づかないくらいに。ぐらりと体が傾く。

「何を」

 タン、僕の声を聞いた彼は一段目に足をつけた。瞳孔がぎゅっと小さくなったのを見上げていた。僕が階段のふもとに居るんだということを理解するのに、彼は大量の時間を消費しているらしい。

「何をしているんですか。今、何をしようとしていました?」

 一瞬時間が止まったのかと思うくらい居心地の悪い沈黙の後、彼の吐息がゆっくりと下階に落ちてくる。はは、小さく弱く笑った彼は脱力してその場に座り込んだ。階段にひとつ足をかけ、ひとつそれを追い、段々とスピードを上げる。座り込んだ彼と目線を合わせて足を止めた。隣に並ぶつもりだったのに、足が勝手に止まっていた。

 違和感はずっとあったんだと思う。スローモーションの中で見た澄んだブルーは、うっかり足を滑らせてしかめられたブラウンとはまるで重ならない。それは彼のとぼけた性格のせいだと思っていた。思おうとしていただけかもしれない。

「あの時もわざと落ちたんですね?」

 彼はイエスともノーとも答えず、返事の代わりとして弱く微笑んでうつむいた。『下に人が居たとは』──記憶の中の彼はそう言う。僕の認識にいる彼と、目の前に居る彼がかけ離れていくことに何故だか僕は焦っていた。もう一段、二段と階段を昇って、彼の顔を覗き込む。

「一体、何考えてるんですか?怪我で済めばいいですけど、運が悪ければ……」
「本当に、何を考えていたんだろう。ずっと考えているが、私には……分からないんだ」

 彼は途方に暮れたように呟いたけれど、その言葉はまるで他人のことを語っているみたいだ。会話が成立しないことに益々焦燥を覚える。

「誠実を」
「……え?」
「貴方は、僕に誠実をくれると言った」

 逸らされていた目が、ゆっくりと僕のほうへ戻ってきた。その呆けた表情に苛立つ。彼は光の中でしばらく僕のことを観察して、僕が少しも視線を動かさないでいると、やっと口を開いた。

「君は……屋上から飛び出してしまいたいと考えたことがあるかい?」

 その言葉は耳よりも先に心臓に飛び込んで来る。まさか、とかすれた声が出た。僕の反応は彼にとって意外なものだったらしく、彼は少し慌てたふうに首を横に振ってみせる。

「私には無いよ。屋上よりはずっと低いこの階段でも、飛び出そうとすると足が竦んでしまうくらいさ」
「じゃあどうしてそんなこと……」
「彼女は、全く怖がっていないように見えたから。まるで空の散歩に出かけるみたいにね」

 慌てて走ったよ、彼は優しい目で苦笑した。両腕を伸ばし、何も無い空間をそっと掴む動きをする。その先に壊れやすい何かが実在するかのような、丁寧な手つきだった。

「彼女は私のことをじっと見ていた。手を掴んだ時も、引き上げる時も、引き上げた後もずっと。目がね、朝の空みたいにとても澄んでいて……綺麗な色だった」

 この校舎は複雑で比較的高層だから、安全のため解放されている屋上は存在しない。前の学校での話に違いないだろう。口数の少ない不思議な少女のことを、彼は大事そうに丁寧に象った。美しい瞳の中に自分が存在したことを、林檎を分け合ったことを誇らしげに語る。

「でも、彼女は居なくなってしまった」

 ふっと彼の瞳から光が消えたように見えて、僕はそれを怖いと感じていた。

「彼女の口から、せめて名前ぐらいは聞いておけば良かった。他の人が呼ぶ彼女の名前なんて全部ニセモノだろう?私にはチャンスがあって、それは実にラッキーなことで、もしかすると彼女は大事なことを私だけにこっそり教えてくれていたのかもしれないのに、私はどうして」

 伸ばされた両手が落ちる前に僕はそれを掴んだ。僕がここに居ることを今初めて見つけたみたいな顔に少しだけ腹が立ったけれど、文句を言う気にもならない。どんなに後悔して反省して呪って願っても、過去が少しも形を変えないことを僕は知っている。その過去に決定された未来がせめて変わることを願うしかない。それは、この世でもっとも白々しい祈りだ。

「キース・グッドマン」
「……え?」
「返事」
「あ……うん」

 彼はくだらない話が好きだが、思えば以前住んでいた土地の話は全くしなかった。尋ねれば誠実な彼は馬鹿正直に僕の質問に答えるんだろう。もしその方法を避けたければ、虎徹さんに彼の以前の学校を聞き出して、自分で『彼女』のことを詳しく知ることもできる。けれどそんなことしたって、僕にとっては意味が無い。彼にとっても意味が無いだろう。彼の――キースの世界から彼女はもう出て行ってしまったんだから。

「キース」

 彼女は、私の名前を呼んでくれなかったし、私も呼ばないままだった。呟く彼が本当に欲しがっている物を、この世の誰も手渡すことはできない。たった一つの名前にしがみついている僕には尚更できないことだ。もう一段、階段を昇って彼に近づく。

「キース」
「……うん、バーナビー。ありがとう。そして、ありがとう」

 彼は一人で、そして必要なのは考える時間だ。それは多分僕も同じで、手を取って向き合って名前を呼び合っていても僕たちは一人だ。だからこそ、僕は何度も彼の名前をなぞっている。

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