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愛について (パラレル)



 私が初めて目にした彼は、非常に切羽詰った、一目にも動揺していると分かる表情だ。

 そこまでに至る経緯や、彼の容姿についてを先に目にするはずだ、と君は思うかもしれない。あるいは、彼は有名人だから、彼の名前やその素晴らしい評判を先に知ったはずだと思うかもしれない。だが、私はこの学校に転入したばかりで彼のことはまるで知らなかった、まるでね。それから、目を開けると目の前にあったのが彼の顔だったんだ。階段から落ちた私の下敷きになってしまったのが彼だったのさ。今思い返しても、あれは悪かったと思っているよ。もし彼が運動神経抜群の『スーパーヒーロー』でなければ、きっと大怪我を負わせてしまっていただろうから。とにかくそういう事情で、私はまず最初に『優等生』のラベルをうっかり取り落とした彼を見たというわけだ。それは多分、滅多に無いラッキーなことじゃないかな?

 街中にあるこのハイスクールには与えられた土地がとても少ない。だから、校舎は自然と塔のように縦長になって、形も歪だ。長い歴史があらゆる場所を増築させていてまるで迷路みたいに感じる。そのせいで私は未だに学校内で迷路になって、その度親切な隣人に助けてもらっている。慣れるのにはもう少し時間がかかるだろう。どこでどう迷っても自分のロッカーにまでは辿り着けるようになったから進歩はしていると思うよ。

 その場所もそうやって迷っている時に見つけた。ランチタイムの冒険でこの迷宮をやっとの思いで制覇して、塔のてっぺんらしき場所に辿り着いたんだ。でも、そこには助けを待つ美しいお姫様はもちろん、ご褒美の絶景すら用意されていなかった。錆びた鍵で締め切られた屋上へのドアがあるだけだ。だけどその事実を知っても、私は毎日にようにこの塔のてっぺんを目指している。二度目もこの場所へ辿り着くのには大量の時間が必要だったけれど、今では随分スムーズに辿り着けるようになった。

「……懲りない人だな」

 階段を一歩一歩と昇っていくと、そこにはやはり彼が――バーナビーくんが座っている。思わず笑顔になってしまった。もっとも、彼の返事は膝の上に乗せた本のページを繰るペラリ、という音だけだ。彼は階段の踊り場で、『CLOSE』と札のかかった木製のドアに背を預け座り込んでいる。ドアにはそこがどういう部屋かという案内は一切掲げられていない。この踊り場から更に長い階段を昇ると、屋上へ続くドアだけのフロアに辿り着くんだ。本当にこの校舎はどうなっているんだろう?外観と中身があまり一致していない気がする。

「座るよ」

 返事を待たずに隣に座る。初めはきちんと待っていたけれど、そうしているといつまで経っても彼は隣を許してくれないんだ。もし迷惑なら彼はきちんとそう言うだろう。だから沈黙を返事とみなして座ってしまうことにしている。

 少し身を乗り出して彼の横顔を覗き込んだ。神は多分、特別に細い筆でバーナビーくんという人間を注意深くお作りになったに違いない。どこを取ってもそう思う。大抵の女性はそういう繊細で美しいものが好きだから彼は学校でとても人気があるみたいだ。成績が良くて運動もできて親切、パーフェクトそしてエクセレントということらしい。彼についてのことを教えてくれる女の子たちはみんな熱心だった。

「何の用ですか」

 声には全然歓迎してくれる気配が無かった。学校で優等生や人気者の代名詞で紹介される時、彼はいつも笑顔と紳士的な立ち居振る舞いを崩さないのに。つい苦笑してしまったが、それが幸いに彼の視線を少しだけ勝ち取るきっかけになった。

「何を読んでいるんだい?」

 バーナビーくんが少しだけ腕を上げ、フランス語とその訳語が一緒に並んでいる本の表紙を見せてくれる。愛想はあまり良くないが彼はやはり親切で優しい。それは私を助けてくれた時の表情でほとんど分かっていたけれど。

「授業で使うのかい?」
「僕がどういう動機でこの本を読んでいようが、貴方には関係の無いことです」
「確かに関係は無いが……感想を共有することくらいならできるよ」

今度はしっかりとバーナビーくんの二つの目がこちらへ向けられる。グリーンの瞳は私の中の何かを疑ってかかっているらしい。けれど私にはその何かにまるで心当たりが無かった。

「読んだことが?」
「あ、ああ。少し前に」
「どうしてこの本を?」
「何故だったかな……その前に読んだ本で紹介されていたんじゃないかな。私はそうやって本を読んでいるから」
「……そうですか」

 疑う視線はあっという間に温度を失って、バーナビーくんはもう本に集中を戻している。今度は、私の中の何かが彼の興を殺いでしまったらしい。このままでは沈黙だけが休み時間を食い潰してしまう。巻き返しを図るための話題を頭の中から必死で探し出そうとするが、残念なことに私にはエキサイティングな話題の持ち合わせが無かった。

「ええっと……君はすごく有名人だったんだね。誰に聞いてもみんな君のことを知っていたよ。ファンクラブまであるんだって聞いた。君と同じ眼鏡をかけているからすぐ分かるらしい」
「貴方、そんなことをわざわざ言いに来たんですか」

 バーナビーくんの声にはまるで棘が生えているみたいだ。読書の邪魔、そう言いたいんだろう。だからひとまずは口を閉ざす。私も別に彼の邪魔をしたいわけではないからね。高い天井沿いに並んだ細い窓から入る太陽光の線を目だけでじっとなぞっていた。

 私は一人で、そして必要なのは考える時間だ。この空間は私にそういう時間を惜しみなく与えてくれる。バーナビーくんはその空間に違和感なく溶け込んでいて、だから私は彼のことがもっと知りたかった。一人なのはもちろん分かっているけどね。

「……私はキース・グッドマンだ」
「知っていますよ。以前も聞きました」
「キースで構わない。名前で呼んでくれ」

 バーナビーくんは本に目を落としたまま眉間にしわを刻んだ。今までのように無関心に少しおまけを加えたような態度ではなく、明らかな怒りがそこには潜んでいる。それがぶつけられることを覚悟していたけれど、ひとつ息を吐いて立ち上がった彼の顔にはもう表情が無かった。

「僕は、名前は一つしか持たないことにしているんです」

 もう何度もここに来ているが、いつも最後はこんな風に彼の背を見送るだけになってしまう。一度はバーナビーくんにつられて立ち上がったけれど、始業のベルの音をぼんやり聞きながらもう一度その場に腰を下ろした。ここは静かで、穏やかで、孤独だ。集中して本を読むのにはうってつけだろう。でも彼はこんなところに居て、ふっとした隙を悪い考えや悲しい考えに襲われることは無いんだろうか。迷子の子供のように、立てた膝に顔を伏せた。

 いつもの場所にバーナビーくんは居なかった。代わりにあのミステリアスなドアには『OPEN』の文字がかかっている。もし君がこの場に居たらどうする?恐らく、なんの興味も示さないで引き返す人なんて居ないだろう?私ももちろん気になった。恐ろしい悪魔や獰猛なドラゴンが出てきても構わないから、その部屋の中を覗いてみたくなったのさ。

 もちろん悪魔やドラゴンが出るだなんて本気で考えているわけじゃないが、少し緊張はした。息を潜めてそっとドアノブを回す。少しずつドアと壁の隙間を広げていくと、まず目に付いたのは大きくて古そうな地球儀だった。ガラス戸の付いた棚には本やアンティークのような物が納められている。白いカーテンと多くの棚で昼間の太陽光をぼかしている部屋の中は全部セピア色をしていて、この空間が一枚の古い写真みたいだった。

 声を出さなかったのは、無意識にその空気を壊したくないと思ったからだ。

 中央には安っぽいデスクがあって、そこだけが部屋から浮いてしまっている。その上に顔を伏せているのは先生だろうか?学生には見えない男性だ。静かなセピアに規則的な呼吸が響いていて、肩がそれに合わせて上下している。腕の間から安らかな寝顔も覗いていた。そしてデスクに手を付き、その頭を見下ろしているのがバーナビーくんだ。今まで見たこともない柔らかな表情をしていた。駆け寄る女の子たちのために振りまく笑顔とは全然違う。彼女たちはこれを見れば、偽の宝石を掴まされていたことにきっと落胆するはずだ。

「……虎徹さん」

 低く、落ち着いた優しい声だった。なのにどこか泣きそうにも聞こえる。バーナビーくんは「虎徹さん」が少しも反応しないのを見ると、ゆっくりと身を屈めた。伏せられた頭の、耳の後ろのあたりに恭しく唇をつけている。昔、何かの本で見た、男性が女性と溶け合うようにしてキスを贈る絵を思い出していた。

 その時、ギイと不快な音が穏やかなセピアに割り込んだ。驚いたことに、それは私が持つ古びたドアの蝶番が鳴らしてしまった音らしい。バーナビーくんががばりと身を起こす。先程までとはまるで違った鋭い視線が向かってくる。彼は私のことを目にすると、不愉快を隠さずドアに近づいてきた。

「あっ、バー……!」

 彼は無礼な覗きを怒鳴るでも殴るでもなく、ドアを強く引き外に出て、そのまま早足で階段を降って行ってしまった。取り残された私は部屋の中に足を踏み入れたまま立ち尽くす他に無い。私の声で起こしてしまったのか、「虎徹さん」がもぞもぞと動き始めた。欠伸と共にむくりと起き上がる。ブラウンの瞳は丸く、凛々しい顔立ちの中にも独特の柔らかさがあって、親しみやすい雰囲気の人だ。彼の覚醒で部屋の空気ががらりと変わる。

「あー……やべ、すっかり寝ちまってた。おっ、なんだ、お前どっかの先生のオツカイか?悪かったな、今帳簿を……」

 彼はバーナビーくんが先程までここに居て、この部屋でセピアの写真を作っていたことをまるで知らないらしい。眠気を引きずったような喋り方でのんびりとノートを取り出して、それからガタンと音を立てて立ち上がった。その勢いで私もつい背筋を伸ばしてしまう。

「キース・グッドマン!」
「えっ、はい!」
「はい!じゃないだろお前……転校してからずっとまともに授業出てねぇな?俺の授業も必修だってのに一度も出てねぇぞ!」
「ああ……すまない。まだこの校舎に慣れていなくて。私も困っているんだ。辿り着いた時には授業が終わっているからね」
「馬鹿!んな言い訳が通るか!」
「ところで先生くんは何の先生なんだい?」
「っだ!そっからかよ!」

 目が覚めてきたらしい「虎徹さん」は段々喋りながらの身振り手振りが大きくなってきた。それが面白くてつい笑顔になると、笑うとこじゃないぞと額を指で弾かれてしまった。痛い。

「俺は鏑木虎徹、PEの先生だ。お前アレ、取っとかねぇと卒業できねぇよ?大体先生くんってなんだよ、先生くんって」
「PE……かい?」

 ここにはバスケットボールもアメフトの防具も無い。いくら見渡してもとてもPEの先生が使う部屋には思えなかった。私が思っていることはすぐに先生にも分かったようだ。ここは俺の部屋じゃねぇよ、とノートを手渡された。マジックで「貸出帳」とある。

「ここは授業とかで使う貴重書とか貴重品が保管されてんだよ。人手が足りねぇからって俺が管理任されてんの」
「バーナビーくんは……ここへよく来るのかい?」
「バニー?なんで?」

 言ってしまった後でしまったと思った。バーナビーくんは何も言わなかったけれど、多分彼の行動は先生の知らないところに置いてあるものに違いない。さっき近くで偶然会って……私は嘘や言い訳がとても下手だ。けれど幸運なことに、先生は別のことを気にしているようだった。

「あ……バーナビーだった。どうもバニーって呼んじゃうんだよなあ……あいつ、俺の弟みたいなもんだから、ここにもよく遊びに来てるよ」
「弟?」
「つっても別に血が繋がってるわけじゃねぇんだけど、しばらく面倒を……あっ、この場所女子には言うなよ。あいつ追っかけみたいなモンまで居るらしいから。いやー……ハンサムはハンサムで大変なんだなぁ」

 あいつにとってここは避難所みたいなもんなんだよ、先生はそうやって話を片付けた。取り繕った嘘の布がかけられているようにはとても見えない。明るい笑顔で肩に手が置かれた。その左手の薬指にはマリッジリングがある。「虎徹さん」、大事そうに名前を呼んで、唇を落としていたバーナビーくんの姿が頭をよぎっていた。

「おっ、午後の授業が始まるな。丁度良い、お前には記念すべき最初のPEを受けてもらうぞ!」
「助かるよ!これでちゃんと時間通りに授業が受けられる!」
「あのなあ……」

 もしかしたらもうこの場所には来ないのではと思っていた。けれどきっと、彼にとってこの場所はそんなに簡単に手放せる場所じゃない。この場所を離れるべきなのはむしろ私のはずなんだろう。ランチタイムの強い日差しが階段を二色に分ける。今日のドアは『CLOSE』だ。

「あの人に何か言ったんですか」

 今日のバーナビーくんは本を持っていない。ドアの隣の壁に背を預けて、昇ってくる私をじっと睨んでいた。私が最後の一段から足を離した瞬間に鋭い声が直進してくる。首を横に振った。

「何も言っていないし、言うつもりもない」

 バーナビーくんの欲しい返事はこれ以外には無いと思うのだが、鋭い視線に弱くなる気配はなかった。足音を忍ばせるようにそっとドアに近づく。『CLOSE』の札に触れた。この向こうの部屋にはもうひとつスライド式のドアがある。昨日はそこから賑わう廊下に出た。そのドアにはきちんと『貴重品倉庫』の札が掲げられている。つまりこの小さなドアは本来は必要の無い隠された扉だ。

「君が一つ持っている名前は……『虎徹さん』なんだね」

 パシン、という音を聞いたと思えば、札に触れていた右手がヒリヒリと痺れていた。バーナビーくんに手を叩き落されたらしい。彼は今まで、私が気分を害すようなことを言ってしまっても、できるだけそれを表面に出さないようにしていた。それは私のためではなく、彼の理性の働きなのだと思う。けれど今日の彼のグリーンの瞳には怒りだけが満ちていた。

「……知ったふうなことを言わないでください。笑いたければよそで勝手に笑えばいい」
「すまない。そんなつもりでは……」
「じゃあ同情ですか?そんなお情けみたいなもの、押し付けられても困ります。押し付けるほうは気持ち良いかもしれませんけど」
「私は……」
「貴方に何が分かるんですか?」

 何も分からない。私は何も分からないままだよ、バーナビーくん。分からないことを、もう知ることができなくなってから後悔している。右手の甲が鈍く痺れて熱い。苦しげな顔のバーナビーくんは一歩前に出た。

「僕には何も残らなかったんだ。何も無い空っぽの僕に、あの人はたくさんの物を詰め込んでくれた。僕の中にはあの人が居て、それ以外はほしいとも思わない。僕がおかしいんですか?僕が間違っているんですか?」

 もう一歩踏み出したバーナビーくんの手は私の襟元に触れた。乱暴に掴まれて壁に押し付けられる。抵抗した方がいいのかしない方がいいのか迷っていた。バーナビーくんのしかめられた顔をただ見つめていることしかできないでいると、掴む時と同じように乱暴に手が離れていった。

「僕だってこんなこと、考えたくて考えてるんじゃない……!」

 ドン、と鈍い音が真横でした。バーナビーくんの震える拳が壁に打ち付けられた音だ。それきり、バーナビーくんはうつむいて何も言わなくなってしまった。目の前に線の細いアッシュブロンドがある。それをじっと見ていた。

「綺麗だ、と思ったよ」

 バーナビーくんが顔を上げる。疑わしげな目には何の遠慮も無いけれど、正面からそれを見つめ返した。嘘がどれだけ下手でも正直を通すことなら私にもできる。バーナビーくんの目がわずかに揺れた。ゆるく首が横に動く。

「昔本で見た絵みたいにとても美しいと思った」
「……嘘です」
「本当だ」
「嘘だ!」
「本当だよ!」
「やめてください!こんな考えは醜いし、誰にも、僕にも……あの人にも理解なんてできないんだ!だったら僕は誰にも知られないままでいい!」
「でも、もう私が知っている」

 バーナビーくんが息を呑んだ。しかめられた顔には怒りというより恐れや悲しみが滲んでいるように見えた。その表情の裏にある思いを想像することには私にはできない。私には何も分からないままだから。けれど、バーナビーくんのそんな表情を見ているのは苦しい。そう思うよ。

「誰かをきちんと知って、その誰かのためを思えることは、とても綺麗だよ」

 そっとバーナビーくんの頭に、線の細いアッシュブロンドに触れた。また手を弾かれるかと思ったけれど、彼は何も言わなかったし何もしなかった。ただ黙ってうつむいている。

「君が望まないなら、私の名前なんて持たなくてもいい。ただ……時々隣に座っても構わないかな」

 私は一人で、そして必要なのは考える時間だ。彼は考える時間を経て、一人でここに居る。隣に並んでも結局は一人でしかないけれど、今の私たちには二人である理由がない。だからこそ私は、この場所を毎日目指しているのかもしれないね。

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