文字数: 8,073

人生の香辛料・人生の甘味料



人生の甘味料

 キースは実のところ、まだ彼についての大半を理解できないままでいる。

 眼下に広がるのは、形容するための言葉を猛烈なスピードで消費していく愛すべき街の美しい夜景だ。日々y軸に沿って建造物が盛衰を繰り返し、x軸に沿って文化が枝葉を広げ、人々が絶えず多種多様なグラフを結ぶシュテルンビルトは、こうしてその美しいスナップを写し取るスカイハイの瞳の中でも刻一刻と値を変えている。街灯の強い光が淡い紫で夜空に幾千と手を伸ばし、まるでこちらに外套を差し出してくれているかのようだ。マスクの下で小さく微笑む。今日もこの街の力になれることを世界中の全てに感謝したい気分だ。

「それでは、出発しようと思う。今日もありがとう、そしてありがとう諸君!」

 夜勤として事業部に控えるスタッフに早速感謝を表明する。陽の当たっているうちに干し草を作れというやつだ。伝わってきたのは数人の笑みの気配で、皆パトロールの安全を祈ってくれた。通信が遮断され虫の羽音のようなノイズも霧散する。後はマイクが風の唸りを拾っているだけだ。

 眠りを知らないシュテルンビルトの中で夜空を見つけたいと思う者が居れば、この賑やかな街の上にどのような夜が広がっていると思い描くだろうか。街の喧騒と同じようにきっと夜空にも星の輝く美しい音が充満しているのだろう、幼い頃のキースはそう信じ込んでいた。まさか正答を知る日が来るとは思いもしなかった。

 街を遥か下方に切り離したビルの上では、風だけがいつもスカイハイに寄り添っている。彼らに身を任せ夜の街に滑り出せば、ジェットパックの噴出音が後に続く。それは継続的に聴覚にもたらされる刺激だから、すぐに感覚は鈍る。つまり、シュテルンビルトの夜は静寂だ。

 無言の夜を囲い込むようにゆるく旋回しながら高度を落とし、まずはゴールドとシルバーを見回る。この二層は比較的治安が良く、この段階ではあまり時間をかけない。何も問題が無ければ螺旋を描くようにブロンズへと沈む。夜から離れるほどマイクが街の息吹を拾うようになる。同じ喧騒でもステージが違えば音色も違うように感じるのがなんとも不思議だ。音のさざ波を注意深く掻き分けながらブロンズを入念に周回する。大なり小なり、ほぼ毎晩トラブルに遭遇するのがこのステージだ。

 時間と納得との折り合いを見つけて、シルバー、ゴールドと螺旋を逆回転する。幸いにも順調に進むことができた日は、最後にもう一度ブロンズを確認する。形骸化に陥らせないためコースを固定してはいないが、概ねこれが毎晩のパトロールだ。体中の全てを注意力に注いでいて、あまり他のことは考えない。ただ無心にシュテルンビルトの音を泳いでいる。だが無音はいつも、そこに放り込まれた意識を否応無く浮き彫りにするものだ。ゴールドの見回りを終えて夜の中へ戻っていくスカイハイ――キースもその例外では無いらしい。

 結構楽しみにしてるんですよ、無音のはずのマスクの中で声がする。

 重力に逆らっているせいなのか、夜に浮き上がるための道のりで体が妙に重いと感じることがある。もしかしたら賑やかなシュテルンビルトから無音の夜空へ戻ることを無意識に惜しんでしまっているのかもしれない。しかし全てを振り切って浮き上がったゴールドの上空にその部屋はある。

 ゴールドは富裕層の多く暮らす階層だ。高層のマンションなど珍しくもない。更に言えば光に満ちた大きな窓も、奇抜な間取りも、多いとは言わないが度々見かける。さすがにその中をいちいち確認していたら、何時間あってもパトロールを終えることは出来ないだろう。何より住人のほとんどはそれを過剰な干渉だと見做すに違いない。けれど一度行ったきりの記憶のせいだろうか。どこまでも静かな夜の先に、その部屋と住人を見つけたのだ。そして彼も、夜空の無音の中でスカイハイから放り出された誰かを見つけていた。

 今日のパトロールは幸いなことにすこぶる順調だった。ゴールドのパトロールを終えたのも平均より十分ほど早かったのではないかと思う。少し高度を上げ旋回する。何故だか妙に体が軽い。

「あ、」

 つい零した声が妙に響くような気がした。視線の先にある窓は暗く、夜光を反射し美しい街のポートレートを描いているだけだ。知らず小さく笑っていた。鏡面になったその窓が随分浮かれていたらしい自分を映し出しているようで、何とも言えず気恥ずかしい。

 キース・グッドマンという人間は、スカイハイというヒーローである。だが、スカイハイというヒーローは、キース・グッドマンという人間ではない。このパトロールはキースの我侭としてポセイドンラインとスカイハイから貸し出された数時間なのだ。一刻たりとも市民以外のために使われる時間はない。ブロンズへ向かうため再び音の水面へ飛び込もうとする。

 だが、無音のはずの夜の中に音が響いている。

 一定のリズムを刻み、まるでキースにダンスのステップを急かしているかのようだ。よく分からないリズミカルな昂揚に誘われて、暗い部屋と平行に並び陽気に敬礼などしてみせる。何故こんなに弾んだ気持ちを抱えているかは分からない。けれど一度抱いたはずの落胆をどこかに落としたまま、スカイハイは騒々しい夜空から同じく騒々しいブロンズへと急降下していた。

 ずっとここに立ち止まっているわけにはいかない。

 そうでなければ、規定の睡眠時間を遵守し明日を始めることができない。頭では分かっているし、何度も神経にその焦燥を訴えている。けれど、硬いドアの感覚を背で感じたままキースの足は全く動こうとしないのだ。何故だか呼吸がしづらい。体調を崩しているのだろうか。そうであれば尚更、いち早い休養が必要だ。いや、原因が体調に無いことは分かりきっているはずなのに、思考回路のどこかで大規模な事故が起こり道路状況が混乱しているらしい。それはいけない、いけないそれは。ヒーローの出動が必要だ。なんとか踏み出した一歩は思っていたより大きく、バランスを崩してよろけてしまった。足の出る方向があべこべで、エレベーターまで辿り着くのによろよろと苦心する。

 そもそも会社を出たあたりからこの足はおかしかった。夜空の中で生まれたリズムに沿ってふわふわと、キースを思わぬ場所へ運んでしまったのだ。空でタイミングを逃したなら足を使えばいい、それは尤もらしい理屈に見えて実のところ何の正当性も持ち合わせていない。キースでさえ自分自身に呆れていたのだから、無表情のバーナビーは当然怒りを抱えているのだと思った。そしてその怒りを甘んじて受け止める気でいたのだ。けれど、これは。今手渡された物は一体何なんだい、バーナビー君。

 膨大な時間と労力を消費したような気分でふらふらエレベーターに乗り込む。キースの足取りなど構いもせず、やって来た時と同じようにドアは軽快な音で迎えの合図を歌い、キースを飲み込んだ鉄の箱は、シーツの上を滑るような慎ましい音で迅速に地上を目指す。頭上の階数表示が瞬く間に小さな数になっていく。

 48階、ここからなら家に帰り着くのは2時近くだろうか。
 43階、日記はメモだけ挟んで、明日まとめることにしよう。
 39階、起床時間は少し遅らせるべきかもしれない。明日救う誰かのために。
 31階、バーナビー君は一体、
 24階、明日のスケジュールは午後にテレビの出演があっただろうか。
 22階、午前には少し余裕がある、少し練習ができれば良いが。
 10階、額と、
  9階、鼻、
  2階、そうだ、この音は心音だ。

 坂の下への到着を知らせる合図で鼻の頭に沿わせていた指を咄嗟に浮かせた。エントランスホールに人の姿は見えない。ただキース一人が、母親の目を盗んで夜の冒険に出かける少年のようにそわそわ落ち着きが無い。

 彼が夜空の静寂を打ち破ったリズムに、つまり早い速度で存在を体中に訴える心音に、次第に歩みが追いついてきた。最後には駆け出すような速度で人通りの少ないゴールドステージのアスファルトを蹴って進む。寒暖を繰り返して思わせぶりに春をちらつかせる2月の夜はまだまだ冷たいはずなのだが、体の芯に心地良い熱が灯っていて寒さを感じることができない。

 キースは実のところ、まだ彼についての大半を理解できないままでいる。
 けれどそれは全てではないから、かすかに甘い予感を心音に刻ませている。

(2013-02-03)

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。