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リドル・ミー・ディス!



 瞼の隙間から漏れ入る光が瞳をつついているのが煩わしい。やがて耐えられなくなって目を開いた。陽光が燦々と窓からベッドへ降り注いでいる。それを認識した瞬間、がばりと体が勝手に半身を起こしていた。ベッドサイドにある時計が示しているのは7時45分。しまった。なんてことだ。これでは──

「……これでは?」

 自分には何かするべきことがあって、間に合わなかったことへ確かに焦燥していたはずだった。だがその「何か」がすっぽりと抜け落ちている。時計を見つめても、自分の両手を見つめても、その答えが浮かんでくる気配がまるでない。そもそもここはどこなのだろう──当たり前のように眠っていたベッドにも、手にした時計にも覚えがないことにやっと気がつく。見も知らぬはずの全てが妙に手に馴染んでいた。

「ああ、起きました?」

 ガチャリ、ノックもなく開いたドアからやはり見知らぬ男が顔を覗かせた。アッシュブロンドの長髪と細いフレームの眼鏡が端正な顔立ちを縁取り、その中にあるグリーンの瞳がどこか人間離れした造形美を感じさせる。一瞬、無機質な表情と相俟って怖いとさえ感じてしまったくらいだ。躊躇無く近づいて来るので体に緊張が走る。

「気分はどうです?どこか悪いところは?」
「無い……ようだが」
「それは良かった」

 顔を覗き込まれた。よく見れば、つり目気味の印象はあるけれど、その瞳のグリーンには優しい光が灯っている。素直な返事に男は満足げに頷いた。それから、凝視する視線に対して不思議そうに小首を傾げてみせる。その仕草にも労わるような微笑にも人間らしい温かみがあり、体から力が抜けていく。

「何ですか?」
「あ……いや。君は……?そしてここは?私は一体……」
「どうでもいいじゃないですか。そんなこと」

 あまりにさりげなく、あまりに気軽な様子で返されたその言葉に一瞬納得しかける。けれど、それは現在最も重要なことのはずだ。ここは明らかに自分の家とは違うはず――そこでふと気がついた。比較対象となるはずの「家」の様子が少しも頭に描かれない。

「朝食。用意してますよ。ああ、遠慮だとか感謝だとかは要りませんよ。全て出来合いのものですから」

 思考に空いた深く底の見えない大穴を覗き込もうとしていたのに、軽々と男はそれを阻んだ。事情の説明を求める視線にまるで気づかない様子で手のひらを差し出してくる。

「立てます?」
「ああ……うん。ありがとう。そしてありがとう」

 特に身体に異常があるわけではない。手を借りずに立ち上がると、男が小さく喉を震わせている。どうやら笑われているらしい。困ったことに、思い当たる節が全く無い。こちらへ、笑いを引きずる男に導かれるまま部屋を出る。と、何かが突然突進してきた。

「わっ!」

 犬だ。立派な毛並みのゴールデンレトリバーである。あまりの勢いについつい尻餅をついてしまったが、これを幸いと言わんばかりに顔や手を舐め回される。

「ふふ……はは、君やめたまえ、ははは……随分人懐こい。君の犬かい?」
「いいえ」

 てっきり肯定が返ってくるとばかり思い込んでいた。目を丸めて、容赦の無い犬を手のひらで思い切り撫でてやりながら男を見上げる。

「違うのかい?では、誰の……」
「さて、誰のでしょうか」

 まるで謎かけでもするかのように男は呟き、犬の頭を軽く撫でた。お前のご飯はこっちだぞ、と犬を引き離していく。何故だかまだまだ存分に触っておきたい気持ちがあって、それを妙に寂しく思う。

「コーヒーでいいでしょう?ミルクも砂糖も要りませんね。すぐに用意できますからまずは顔を洗ってきてください」
「う……うん」
「洗面台、ドアを出て右です。あるものは全て自由に使っていいんですからね」
「了解……そして了解です」
「なんで急に畏まるんですか」

 また愉快げに喉を鳴らす彼は何故、自分のコーヒーの好みを知っているのだろうか――そう考えて果たして自分が本当にミルクも砂糖も無いコーヒーが好きだったか分からなくなる。そんなこと分からなくなるはずはないのに。全く整理のつかない思考に戸惑いつつ鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。

「私は……こういう顔だった、だろうか……?」

 鮮やかなハニーブロンドと、スカイブルーの瞳。まじまじとそれを見つめるが、リビングから急かす声を聞いて慌てて手を動かす。神妙な顔をした鏡の中の男は、間違いなく自分と全く同じ動きで正反対のひげを剃っている。

「うん、さっぱりしましたね。どうぞ座ってください」

 ここがどこで、リビングのテーブルに腰掛け正面の椅子を勧める男が誰なのか。今度こそきちんと聞きだすつもりでいたのだが、出鼻を挫かれ素直に腰掛けてしまう。テーブルの上にはクロワッサンとサラダが乗っていて、ブラックコーヒーのカップが湯気を立てている。男はもう食事を済ませてしまったのだろうか、コーヒーだけを片手に新聞を読んでいた。ふと、こちらの視線に気づき新聞を持ち上げる。

「読みます?新聞」
「あ、いや……君が終わってからで」
「そうですか?すみません、では遠慮なく」

 つい新聞を譲ってしまったせいで声までかけ辛くなってしまった。仕方なくコーヒーに口をつけ、クロワッサンを手に取る。ああ、男が新聞から目を上げないまま声を上げた。

「昨日、強盗事件があったんです。NEXT犯罪者の。NEXT……分かります?」
「ああ……もちろんだとも。NEXT能力は素晴らしいものだと思うが、それを悪用する者が居るのは確かだ……実に残念なことだ。実に」
「……なるほど。非陳述記憶にも意味記憶にも問題は無いわけだ」
「えっ?」
「いえ、独り言です」

 男は取り繕うようにひとつ咳をして、コーヒーに口をつけている。「独り言」は小さな声量だったので聞き取れなかったが、事件に関するものだろうかと気になって身を乗り出した。

「それで、その事件はどうなったんだい?ちゃんと解決したんだろうか」
「気になります?」
「もちろん。だって私は……」

 私は、それから先が不意に消失する。先ほどまで確かに確固たる何かが存在したはずなのに。その居心地の悪さに思わず身じろぐ。男は分かっていると言いたげに頷きながら新聞を折り畳んだ。

「気になりますよね。僕も、この街の市民として増加する凶悪犯罪の解決は急務だと感じています」
「あ、ああ……」
「結果を言えば、無事解決です。ただ……僕の知人がNEXT能力の被害に遭ってしまって。幸い、命に別状は無かったんですが」
「えっ!なんてことだ……!気の毒に。怪我をしてしまったのかい?一刻も早い回復を私も祈ろう」
「ええ、たった今、すぐにでも回復してほしいです。僕も、皆も、そう祈っていますよ」

 男は新聞へ向けていた視線を上げ、ひたとこちらを見つめた。名も知らないだろう誰かの話のはずなのだが、何故だか自分に向けて言われているような気分になるほど彼の視線は真摯だ。

「とても……大切な人なんです」
「職場の同僚か何かかい?多くの人に必要とされている人のように聞こえるが……」
「鋭いな。でも僕個人にとっても大切な人ですよ。……こんなことになって、初めてそう気がついたんですけどね」

 男の視線が逸れて、テーブルの隅のあたりに移動した。リビングの大きな窓が取り入れる陽光はそのあたりで丁度途切れていて、朝の日光を背負った男は影の中で小さく微笑む。

「笑ってください。それまで僕は……その人についてきちんと考えたことがなかった。一緒に居るとなんだか不思議で、子供みたいに楽しい気分になって……そういうことを考えさせてくれない人なんです」

 最初は全然どんな人かも分からなくって、男が愉快げに笑うのでつられて微笑んでしまう。それを言うなら男も十分不思議だ。突然目の前に現れたことを感じさせない安心と優しさを何も言わずに空気に漂わせている。

「それでいいって……思っていました。でも、あの人が犯罪者の能力に倒れた時……その能力を知った時、僕は……」

 きっと彼は素直な男なのだ。だから朝の空気もそれを感じて日光の中で色や重さを変える。そしてそれを吸い込む相手――今で言えば自分もその感情を共有してしまうのだろう。思わず手を伸ばした。少しためらったが、それでも手を止めずに彼のアッシュブロンドに触れる。

「大丈夫」

 男が弾かれたように顔を上げた。グリーンの瞳を見開いてこちらを見つめている。連鎖するように驚いてしまい、反射で手を引いた。

「あ……いや、すまない。そしてごめん。無責任だったかな」
「いいえ……ありがとうございます」

 でも子供じゃないんですよ、男は苦笑して少し体の向きを変えた。椅子に斜めに腰掛けて足を組み、その上で両手を組み合わせている。

「せっかく気づくことができたんです。幸い相手も元気で生きてくれている。だから……僕は、決心しました」

 相手にどう思われるかは全くの未知で、良く思われない可能性の方が高い。だが、彼は今抱えている気持ちを伝えたいのだと言う。それを抱えたまま、並んで歩きたいということを。膝の上の指が何度も組み直されており、非常にスマートな見かけのはずが何故だか可愛らしく思えた。

「素晴らしい!実に素晴らしい!弱気になる必要はない、君ならどんな相手でも大丈夫さ!きっと、君に答えてくれるよ!きっと!」
「そうですか?貴方にそう言ってもらえると心強いな」

 男は笑みを深くして体を正面に戻した。指が組まれていた手がそのままテーブルに乗る。

「参考までに……貴方だったらどんな風に伝えられたら嬉しいですか?ぜひ聞かせてください」
「えっ、私かい?」
「実は……こんなことをしようと考えたことすら無くて」
「そ、そうか……そうだな……ううん……」

 今までの経験を振り返ろうとして――やはりそこに何もないことに気がつく。明らかにそれはおかしいことで、もっと焦らなければならないはずなのだが、正面の彼の笑顔を見ていると何故だか安心してしまうからやっぱり不思議だ。

「やっぱり僕では、難しいでしょうか?」
「そんなことはない!安心したまえ!そうだな……相手の目を見て、偽りのない気持ちを君の言葉で伝えれば、きっと相手はそれが何より嬉しいはずだ。そうだろう?」
「なるほど?では、必ずそうしましょう」

 男は楽しげに笑い目をさまよわせた。どうしたのかとそれを追えば、どうやら時計を確認していたらしい。壁掛け時計が示しているのは8時40分過ぎ。いつの間にそんな時間が経っていたのだろうか。

「……もうこんな時間じゃないか。どこまで行ったんだろう、あの人」

 男が呟いた瞬間、静かな部屋にインターフォンのベルが鳴り響いた。タイミングが良いんだか悪いんだか、苦笑と共に呟いて男が立ち上がる。少し待っていてください、その言葉に従っていると、すぐにリビングに新たな男が現れた。ハンチングの下には黒髪。褐色がかった肌は健康的だが、精悍な印象の中に穏やかなブラウンの瞳が待ち構えている、妙な親しみの湧いてくる雰囲気の男だ。

「よお、スカイハイ!目が覚めたんだな!気分はどうだ!」
「……スカイ……ハイ……?」

 どさり、テーブルの上に重たそうな紙袋が置かれる。見たところ食品類が入っているようだ。聞き覚えが無いはずなのに、妙に耳慣れた感覚のある言葉を口の中でなぞった。ハンチングの男はその反応を意外そうに見つめている。

「アレっ?お前、説明したんじゃないの?」
「まずは落ち着いてもらおうと思ったんです。この状況、寝起きで聞いても混乱するだけでしょう?」
「はあー?言わない方が余計混乱する気がすんだけどな、フツー……まあいいや。スカイハイだしな」

 ハンチングの男の言葉に納得できない様子で、アッシュブロンドの男は憮然と腕を組んだ。しかしその応酬には親しさ故の率直さがあり、むしろ仲の良さを証明しているように見える。思わず微笑んでしまった。なんだ?余裕だな、ハンチングの男に子供のように髪を手のひらでかき乱される。

「お前はスカイハイって呼ばれてる。本名はキース・グッドマン。スカイハイってのは……まあ、あだ名とでも思ってろ。じきに分かるから」
「あ、ああ……」
「NEXTの……いや、あーえっと……」
「彼はNEXTは分かっていますよ。恐らく、長期記憶に蓄積された常識や学習などの意味記憶は……」
「あーあーえー、とにかく!NEXT能力で24時間……昨日の夜11時から今日の11時までお前は記憶喪失だ。でもその後は記憶がちゃんっと戻ってくる。それまで俺たちヒーロ……や、分かんないか?……仲間がお前を助けてやっから、心配すんな!」

 最後にワイルドタイガーと名乗った男からは、アッシュブロンドの男とはまた違った安心を空気に漂わせている。おまけに欲していた情報も大体は手に入れることができたため、最早なんの不安も心に浮かんでこなかった。ここに居るのが彼らでなければ恐らくこうはいかなかったのだと思う。記憶は無くてもそれだけは分かる。

「俺たちこれから仕事だけど、入れ替わりで折紙とドラゴンキッド……って奴らが来る。午後はファイヤーエンブレムと牛も来るっつってたな。学校終わったらブルーローズも来るだろうな」
「私には心強い仲間がたくさん居るんだね……」
「そーだぞー。だから何も心配ないからな。そんじゃ、俺たちは行くな。何かあれば連絡……あー腕のコレ、こーやって使えば……連絡できっから」

 腕に巻かれたリストバンド型PDAの使い方を大雑把に伝え、ワイルドタイガーは人懐こい笑顔で手を振って歩き出した。アッシュブロンドの男も無言でそれに続いたので思わず立ち上がる。ワイルドタイガーの方も何か思うところがあったのか、男を押し留めてこちらを向かせている。

「君は……」
「当ててみてください。答えは……そうだな、23時を過ぎてから聞きに来ますから」

 こちらが何を言いたいかはもう察していたのだろう。彼は最後まで問いを口にさせなかったし、それを質問で返した上にその答えをも今は言わせる気が無いらしい。男の表情はなんとも言えない笑みだ。苦笑とも見えるし、照れ笑いとも思えたし、愉快げとも言えた。

「思い出さない方が良かったなんて言わないでくださいね」

 14時間なんてかけなくたって、そんな考えには至りもしないことだけは確かだ。そう返したかったが、男は颯爽と踵を返し軽やかな足取りで部屋を出て行ってしまった。

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