When fortune smiles, embrace him. (奇貨、居くべし)
「どうして謝るんですか?」
彼の女性ファンなら悲鳴を上げて卒倒したかもしれない。完璧な笑みだ。おかしな人だな、そう続いて話は終わってしまった。そうして、キースはそれ以上言葉を重ねることができなくなってしまったのである。
バーナビーは決して、言葉や態度で怒りを露わにしたわけではない。それどころか、一見すると何もかもがいつも通りだった。以前のキースなら彼の異変に気づくことさえ無かったかもそれない。しかしこの状況では、その発見を喜ぶこともできない。
「ワイルド君……私は、どうしたらいいんだろうか……」
トレーニングを切り上げて休憩室へと向かった虎徹をキースは追った。何も言わずともキースの用件に見当がついているらしく、呆れた顔でソファーに腰掛け、待ってたよと水を差し出してくれた。有り難く受け取るが、喉を通る気がせずカップを手にしたまま項垂れる。
「そこまでしょげてるスカイハイってなかなか貴重だな……。写真撮っていい?」
おもむろにスマートフォンを取り出した虎徹と見つめ合う。しばらくそのレンズを見つめていたが、ため息と共に再び頭を垂れる。
「……君の言う通りだ……。こんな私は一人で反省しているのがお似合いさ……。ありがとう、そしてありがとうワイルド君……」
「だぁぁ!やめろやめろ!罪悪感で死んじゃうだろ!冗談だよ!」
スマートフォンを机上に放り出した虎徹が、慌てた風に両手を上下させる。顔を上げろと言いたいのだろう。
「放っときゃいいんだよ。そうすりゃ寂しがりなバニーちゃんの方が『スミマセンでしたースカイハイさーん』とか言って寄ってくるって」
「彼は寂しがりとは思わないが……むしろ私の方が寂しいと感じているんだ」
分かってねぇなあ、兎は寂しいと死んじゃうんだぜ?虎徹は言うが、今ひとつ納得が追いついて来ない。バーナビーの日常からキースとのチェスという駒が欠けたとして、彼は何の影響も受けないだろう。それはキースにとっても同じだ。ただキースの心がひとつ、それを惜しいと思うだけで。
「私は彼に一体何をしてしまったんだろう。考え始めると……思い当たることばかりで、実に情けない……」
キースは人より数多い欠点を自覚している。だからこそ努力はしているつもりだが、その内のどれかが彼の怒りに触れたに違いない。あれだろう、これだろうと悪い憶測を重ねることは簡単だ。しかし肝心の答えを聞くことができそうになかった。バーナビーの「僕は怒ってませんけど」は崩し難い牙城だ。
「あー……うん……」
「言いにくいことなのかい?」
「いや……言いにくいっつうか……説明しづらいっつうか……」
一体どれだけ複雑で深刻な間違いを犯してしまったのか。キースの気分は益々重くなった。彼は怒っている。表面上は笑っているが、きっとキースは彼の中の何かに傷を付けたのだ。
「このまま……チェスもできないままなんだろうか……」
チェスボードは、陽動を仕掛けたキースのルークをバーナビー討ち取り、キースが残ったルークでバーナビーのキングをチェックしてから動いていない。いつもの店で会ったのも先日が最後で、後の予定を照らし合わせることすらしなかった。八方塞がりだ。考えてみれば、キースは今までこんな風に人を怒らせて立ち往生したことは無かった。それが幸いなことなのか不幸なことなのかは分からないが。
「だから大丈夫だって。しばらくすりゃバニーの方が謝ってくるから」
「どうして言い切れるんだい?」
「どうしてって……」
バーナビーもよく口にしている通り、虎徹は優しい人間だ。そんな彼を言い淀ませている自分が、まるで聞き分けの無い子供のような気がしてくる。しかしキースにはどうしてもこの状況がやがて好転するとは思えなかったし、もし自分が原因ならキース自身からこの状況を変えるべきだと思う。
「私はきっと、チャンスを逃してしまったんだ」
「いや、だからそんなに深刻にならなくても……」
「CEOにも相談したんだが、君個人の人間関係は私の関わるべきところではないと言われてしまってね……」
「そりゃそうだろ……社長さんも困ったと思うぜ?」
せめて背筋だけでも伸ばした。暗い考えに囚われ、同じところを行き来するのはもうやめにしたはずだ。『彼女』にもそう教わった。何故?問いに答えが無いなら、答えが分かるまで探し続けるしかない。見通しの悪い道を前に意気込むキースの肩を虎徹が軽く叩いた。
「お前、本っ当にバニーのこと好きなんだなぁ」
え、と声を出したはずが出ていない。その言葉は、何か重要なことをキースに示すようでいて、あまりにも当たり前の事実としてさっさと目の前を流れて行ってしまった。少し待ってくれ、少し。そう思うのに、もう虎徹の中では話題が変わってしまっているようだ。
「あ、そーだ、イイコト思いついたぞ!」
「虎徹さん、ここです……」
ここですか、と言おうとしたのだろう。けれどドアがスライドする音と一緒に語尾が途切れている。時間にして数秒、彼はすぐに状況を把握したようだ。にっこり、とすぐさま音が出そうな笑みが浮かぶ。
「休憩中に失礼しました。お話を邪魔するつもりはありませんけど、あと30分で一度本社に戻りますからお忘れなく。では後で」
虎徹やキースが声を上げる隙は1インチも与えられず、キースには目もくれなかった。ドアはキースの感情などもちろん考慮せずさっさと彼の背中を廊下に送り出す。はあ、響くため息は隣の虎徹から漏れたものだ。
「めんどくせぇ奴らだなぁ……」
「すまない、そしてすまない。ワイルド君」
「はいはい、分かったからそんな澄んだ目で俺を見ないでくれる?」
今更、虎徹に申し訳ない気分が込み上げてくる。彼はバーナビーの相棒だ。バーナビーの異変に気づいているだろうし、その原因であるキースを快く思ってもいないだろう。言葉通り視線を正面に逸らすと何故だか頭を抱えられた。
「あーもうお前は……」
「そう言えばさっき、何か言いかけていなかったかい?」
「ああそうそう……ええっと?スカイハイはバニーとチェスがしたいんだよな?」
いつか見たような笑みが虎徹の顔にはある。キースもつられて笑みになってしまった。虎徹はキースよりもベテランのヒーローだが、時々キースより身軽で愉快な考え方を示してくれる。バーナビーの話を聞いていてもそれを再認識する。思えば、バーナビーは虎徹の話をする時はいつも楽しげだ。「にっこり」だなんてわざとらしい音のしない、さり気ない笑みが脳裏に浮かぶ――うん、私はこちらの方が好きだ。
「『個人』がダメってんなら団体サマを巻き込む、ってのはどうだ?」
ランキングの外で、スカイハイの挑戦状がバーナビーに叩きつけられた――その情報は半日でシュテルンビルト中を駆け回った。ジェイクとの戦いを経て、昔ほど過激なポイント合戦が見られなくなったと嘆く市民は一定数存在しており、そんな人々にこのニュースは特に好ましく映ったようだ。やや過剰とも思える書き方で二人の対決を煽るメディアもあり、キースは当惑した。しかし引き下がろうとは思わなかった。
スカイハイとバーナビーのチェス合戦――虎徹とキースの提案は、アニエスに熱烈な歓迎を受けた。以前、テレビショーのインタビューでバーナビーとチェスに興じていることを話したことがあったが、それが思いのほか話題を呼んでいたらしい。こんな状況ではあるが、キースはそれが少し嬉しかった。とにかく誰かにそれを自慢したくて話したことだったのだ。
「いいか?スカイハイ。男同士はな、どーっしても言葉が通じない時がある。そういう時どうするか分かるか?」
「ええっと……理解できるまで話し合う、だろうか」
「っだ!なんでこの流れでそうなんだよ!言葉以外のものを使うんだよ。ほら、グー作れ。練習だ。この牛を思いっきり殴れ」
「えっ」
「ハァ!?」
乗りかかった船だと思うのか、虎徹はトレーニングルームで顔を合わせれば声をかけてくれた。相変わらずバーナビーとの接触は減ってしまったし、ロッカーの盤上も動いていない。きっと心配して元気付けようとしてくれているのだろう。しかし特番の撮影が近づくほど、キースの気持ちは上を向いていた。
このキースの行いはきっと、バーナビーを更に怒らせただろう。もしかすると、もう二度とチェスなんかできず、一緒に夕飯を共にすることも無く、彼の細い髪にこわごわドライヤーをかけることは無いのかもしれない。でもこれで、シュテルンビルトのより多くのファンに、キースはバーナビーとのチェスを大手を振って自慢できる。それが同時に市民の楽しみにもなる。油断すると塞ぐ胸をその事実が和らげてくれた。
「また負けに来たんですか?物好きな人だ」
バーナビーとの距離は遠い。ホールをひとつを貸し切っての特設舞台だ。足下にはどこまでも白と黒の盤面が広がっており、その上にチェスの駒を模した衣装の人々が整列する。
「おや、君はこんな言葉を知らないのだろうか?ならば、教えようじゃないか。驕りはいつも、破滅の前にあるものだ」
「面白い意見ですが……同意はできないな。勝利の前にあるのはいつも誇りだ」
友情出演のヒーローたち、テレビでよく見る芸能人、それからポーンは一般から公募された市民たちだ。古い時代の貴族じゃあるまいし、打ち合わせでのバーナビーの苦々しげな言葉を思い出す。ただのチェスじゃ画が地味なの、とはアニエスの言だ。
「まあ……いいでしょう、結果はすぐに分かります。これから」
収録は公開型で、運良く抽選に当選し観戦席を獲得した市民たちがわっと歓声を上げる。この点はかなり揉めたが、所属会社とスポンサーの強い意向でスコアは既に決まっており、結果も引き分けと決まっている。いつもなら、市民を騙しているような気分になって後ろめたさを覚えたかもしれない。プレイヤーとしてはこんなにつまらないゲームは無いだろう。声援の中で、静寂の外套をまとっている気分になりながら顔を上げる。だがそこにはバーナビーが居る。
マスク越しに正面を見つめた。遠くに立つバーナビーもスカイハイを見ている。嬉しかったのは、自慢できるからだとかチェスできるからだとかそういうことではなくて、もっと単純な原因だったのかもしれない。
確かに、私は本当にバーナビー君が好きなようだ。
このボードゲームから白と黒以外のすべてが除外されたのは、多分そこに描かれる戦術だけを鮮明に浮かび上がらせるためだ。この盤面を眺めているとき、バーナビーの思考も白と黒にすっきりと塗り分けられていくような心地がする。記号化された思考がバーナビーのために道を開くような、一手を決める瞬間が好きだ。
クイーンを持ち上げようとしたところ、彩り豊か……むしろ過剰な表情が代わる代わる映し出される顔が白と黒の世界に割り込んできた。思わず目が丸くなる。
「なんですか、いきなり」
「いや、面白いカオだなあって思ってな」
今日のその表情はどこか意地が悪そうな笑みだ。油断して尻尾を出すと末代までからかわれてしまう。そう思いつつ表情を引き締めたつもりが、うっかり苦笑を浮かべていた。
「……虎徹さんに言われたくないんですが」
「っだ!どういう意味だよ、それ!」
「冗談ですよ」
事実、虎徹の表情の変化は見ているだけで面白いが、今それを告げても良くは受け取られないだろう。肩を竦めるに留める。最近は物思いに耽るような素振りが多々あって、いつもの調子が窺える今日を嬉しく思うけれど、それをなんとなく口に出せないでいる。
「ちったあ手加減してやれよ。すんげーニヤニヤしてたけど」
「そんな顔してましたか?」
「してたしてた、わっるそーな顔だったぞ」
若干不満げな表情を引きずりつつも、虎徹は反撃の一手を繰り出すことを選んだようだった。突きつけられる指に苦笑を維持する。
「今回も僕が勝ちみたいなので。勝者に笑みがあったっておかしくはないでしょう?」
「どうだかな。勝つヤツってのはいつも色んな女神さんを必死で笑わせた方だろ?」
「なるほど、その考え方は面白いな」
「あっ、そーお?」
あと数手、彼の動かす駒は見えている。スカイブルーを凪いだ海のように静かにして、こちらの指先に没入する姿がバーナビーには見える。ほぼ一手ずつでしか進まないゲームなのに、キースが目の前に居るかのようだ。彼の戦術は堅実で、戦況に即した柔軟性も備えている。しかしどこか素直すぎるきらいがあった。虎徹の言葉で言うなら、きっと彼は女神を笑わせるのが少しだけ下手なのだ。もしかしたらそれは女神より先にバーナビーが微笑んでいるせいかもしれない。
「さあ、行きましょうか。別に僕を笑わせたって何にも勝てませんからね」
「へいへい」
クイーンでルークを討ち取り、ベンチから立ち上がる。盤上の駒が動かぬよう、そっとチェスボードをチェストの上へ戻した。のらりくらりとロッカーを出る虎徹に並び、トレーニングルームへと足を踏み入れる。まっすぐにトレーニングに入ろうとしたが、既に中に居た仲間たちが集っているのが気になった。
「お?なに見てんの?」
「見て見て、スカイハイだよ!」
パオリンが抱えたタブレットをイワンとアントニオが愉快げに眺めている。そこには昼下がりのテレビショーが映し出されていた。モノレールとのタイアップイベントの際に撮影された、スカイハイへのインタビューのようだ。数日前、楽しげに話していたことをすぐに思い出していた。
『……今回のイベントには多くのモノレールマニアも参加しているようですね』
女性のインタビュアーが皮肉げに呟く。カメラを抱えた熱心なモノレールファンが、彼女らを邪魔者扱いしたのに立腹したのだろう。
『ああ!そのようだね。何かに熱中できることは実に素晴らしい!そして美しい!私もポセイドンラインモノレールが大好きさ!ただ……』
スカイハイと並ぶこのイベントの目玉はイベントに合わせた記念車両だ。この特集番組もその宣伝の一環に違いない。ただ、それに集中するあまりマナーを忘れたファンも居たようだった。
『もちろん、周囲の人々も楽しめてこその趣味だが』
内緒の話でもするように声をひそめたスカイハイは、ピンと背筋と指先を伸ばした。青い燐光をまとって腕をまっすぐに上げ、器用に風で人々を整列させている。
『電車が参ります!そして参りまーす!乗客の皆さんは白線の内側に!ゆっくりと、そして順番にご乗車ください!助けの必要な方には手を貸して、どうぞ譲り合ってください!どうぞ!』
そう言いつつも、スカイハイは自ら率先して助けの必要な人々に手を伸ばしている。白線の内側へと押しやられたモノレールファンも、しぶしぶ一般客の邪魔にならない方法を模索しているようだ。
「……あの人らしいな」
「カオ、カオ」
「今度はなんですか?」
「俺のお手柄だーっつー感じのカオ」
突然そんな風に指摘されると、どのような顔をしていいか分からなくなる。バーナビーは何もしていないのに、彼の友人であると言うだけで妙な誇らしさがこみ上げたのは確かだ。あいまいな表情を虎徹が笑う。
『スカイハイさんには、何か熱中している趣味はありますか?』
『趣味かい?そうだな、愛犬の……おっと、この話にはもう飽きられてしまったかもしれないな』
モノレールに関する紹介が挟まれた後、映像がインタビューに戻る。すっかり機嫌を持ち直した様子のインタビュアーは苦笑しつつも、一応はスカイハイの言葉を否定した。ヒーローに関心のある人間ならば、一度はスカイハイが大の愛犬家であることを耳にしたことがあるに違いない。ひょっとすると、ファンでなくてもその愛犬の名前まで耳にしているかもしれない。
『いいんだ、構わない。実は、最近とても熱中していることがあってね。言いたくてたまらなかったんだ』
『これはスクープですね。シュテルンビルト中のスカイハイファンのみなさん!ご注目ください!』
「あ、待っ……!」
「バニー?」
アニエスの番組ならここでCMでも入っただろうか。しかし視聴者にとって比較的良心的に番組は続いた。バーナビーにとっては無情にも。
『最近、バーナビー君とよくチェスに興じているんだが……彼がなかなか手強い。さすがはニューキングだ』
「やあみんな!おはよう!そしておはよう!」
一斉にバーナビーへ集った視線は、ドアがスライドする音と暢気な挨拶の発生源へと移って行った。
「あの……バーナビーさん、何してるんですか?」
背中にかかる声はどうやらイワンのものだ。ロッカールームの扉が開く音がしても振り返らなかったのは、この時間、スカイハイは夜間パトロールに出ている時間だと知っているからだった。我ながら姑息なことだ。しかしこの状況を相手に見せるのも、バーナビーは姑息だと思う。反省も贖罪も、自分の内に堆積する罪悪感を軽減するために行われるべきではない。
「反省です」
イワンの声はあからさまに狼狽していた。それもそうだろう、ロッカーに入るなり奥の壁に向かって正座する仲間を目にすることになったのだ。バーナビーがイワンの立場でも驚く。そのため、バーナビーは最低限の補足を加えることにした。
「虎徹さんが反省たいならこうしていろと言っていたので」
「そ……そうですか……。でも多分それ、冗談だったんだと思うんですけど……」
「いいえ、虎徹さんは僕のためを思って言ってくれたんです」
「そ……そうですよね……」
落ち込むバーナビーを虎徹は何かと気遣ってくれた。確かに「なんつって」が後に続いたこの提案は冗談だったかもしれない、しかしバーナビーは感動したのだ。そうだ、落ち込むよりも前にやることがある。まずは自省、それから適切なアクションを取らなくては。さすがは虎徹さん、闇雲に励ますだけじゃない。
「じゃあ、僕も一緒に」
「先輩……」
「僕は正面向きますけど」
着替えを終えたイワンが隣にそっと腰を下ろした。いつもトレーニングルームや休憩室で行っている「座禅」の座り方だ。そのさり気ない優しさを嬉しく思う反面、自分を情けなく思う。イワンはもちろんあの収録現場に居合わせていて、バーナビーの暴挙をその目で見ていたのだ。詳しい事情が気になるのは当然だ。
「反省って言うと……この前の……チェスのことですか?」
スカイハイが新生キングに叩きつけた挑戦状――その響きは好奇心を煽るのに充分過ぎる効果があっただろう。ポイントとは関係ない盤上での戦いとは言え、結果的に多くの市民の注目を集めることに成功した。特番はかなりの視聴率をマークしたと聞いている。
だがバーナビーの心情は少しも穏やかでは無かった。ただでさえ波の高い海にハリケーン上陸だ。意図せずに耳に入る、当人たちを無視した報道合戦からして耳障りだった。特に、スカイハイに関するものは中傷と取れるものも多くあり、それを甘受している当人ごと腹が立った。ヒーローとして活動していればそんなことは日常茶飯事かもしれない、けれどそもそも彼があんな提案をしなければこんな大事には到らなかったのに。他にもタイトルを巡った因縁だとか――確かにバーナビーのくだらない癇癪が距離を作っていたけれど、余計なお世話だ。
「僕は仕事だと思えばなんでもこなしてきたし、私情は差し挟まないと決めています。あの時も、そういうつもりでいました」
「でも……バーナビーさん、勝っちゃいましたよね……」
あの日、スコアも勝敗もすべて決まっていた。スコアはチェス世界大会のタイトル保持者が考えたもの、勝敗は引き分け。バーナビーを最も驚かせたのは、それを彼が承諾したという事実だ。
「段々……腹が立ってきて。あんなのはチェスじゃない」
淡々と決められたスコアをなぞるスカイハイ、移動するべき場所を指定してもすぐには理解できないチェスを知らない人々、外野の無責任な野次。こんなゲームになんの意味があるのだろうと思った――二人だから楽しいと思っていたのに。
「バーナビーさんって、そんなにチェスが好きだったんですね」
イワンの言葉に渦巻く思考が一瞬静止した。バーナビーの今までの話をまとめれば正しい指摘のはずなのだが、全く新しい事実のような気分がする。ええまあ、とだけなんとか相槌を打った。本気で大好きな趣味を弄ばれるのは僕も嫌ですね、バーナビーに構わずイワンはしみじみと呟いている。
「だけど、当然僕の行動は間違った選択です。結果的にどの方面にも迷惑をかけることになってしまった」
「市民の皆さんは喜んでましたけどね……」
バーナビーが予定外の勝利を収めた後、強盗事件が発生しヒーローたちは慌しく出動を強いられた。公開収録だったこともあり、撮り直しや編集は難しい状況だ。既に大々的に宣伝されている以上、番組も予定通り放送された。ロイズにはよくぞやったと賞賛されたが、マーベリックにはこってりと絞られることになった。それだけで済んでしまったことがバーナビーにとってダメージが大きい。一緒に頭を下げてくれた虎徹に申し訳が立たない。
「あの人にも……いやあの人にこそ一番、迷惑をかけてしまった……」
彼一人があんなことを考えたわけではないのは分かっている。虎徹が彼にアドバイスをしたのだろう。トレーニングセンターで何やら話し込んでいるのを見かけた。そしてその原因はきっとバーナビーの態度にある。トレーニングセンターで見かけた時に、何事も無かったように一体何を話しているのかと聞けていればこんなことにはならなかったのだろうか。けれどバーナビーは何故だかそんな気分にならなかった。
「僕は……彼ともう二度チェスができないかもしれない」
それどころか、共に食事をすることも、彼の柔らかいハニーブロンドに触れることも、他愛のない会話を交わすことすらもうできないかもしれないのだ。今も虎徹に、彼がどういうつもりで助言を求めたのか聞けないでいる。それがバーナビーに対する怒りで、今後の彼の態度を決定付けたものだとしたら。収録以降、彼の顔をまともに見ていない。タイトルを巡った因縁――無責任な誰かの言葉が頭をよぎる。壁をじっと睨みつけた。
ふと、沈黙を守っていたイワンがあの、と声を上げた。
「……日本には友情を深めるために伝統的な儀式があるらしいです」
ぜひ聞いてもらいたいので、トレーニングルームに行きませんか。イワンは立ち上がった。以前は気づけば目立たぬところに収まっていた彼だが、電灯を背負って颯爽と立つ彼は随分頼もしく映る。
「壁に向かっているだけじゃ、自分から逃げちゃってるだけだと思います。反省って自分と向き合うことですよね。……あ、いえ、受け売りなんですけど。僕もよく反省することがあるので」
バーナビーが何も言わないでいるのを、イワンは呆れているとでも思っているらしい。口ぶりが途端に釈明じみてくる。しかしバーナビーが足首を抱えて苦しんでいるのを見て、何も言うことができなかったのだと悟ったようだ。
「きっと……バーナビーさんは、チェスが好きなわけじゃないんだと思います」
虎徹を通して、バーナビーからシミュレーションに付き合って欲しいと申し出があった時、キースはそれをどう受け止めていいか分からなかった。バーナビーと居るとよく分からないことに度々出会う。でもそれはきっと自分にとって良いことなのだとキースは思っている。今まで考えもしなかったことを、彼はいつも気づかせてくれる。
「やあ」
久しぶりにした約束の、その時間の5分前に足を運んだつもりだったが、バーナビーは既に薄暗いシミュレーションルームでキースを待ち構えていた。タイミングが悪かったのか、現場以外で顔を見ることさえ久々だ。そこに表情は無く、キースの挨拶にも頷きしか返ってこない。やはりまだ彼は怒っているのだ。
「バーナビー君、」
「黙って」
あの収録の日からずっと何を言うべきか考え続けてきたのに、バーナビーは一言でそれを遮ってしまった。ぐっと言葉が喉元で詰まる。
「この前のチェスは……僕が無断で決まったシナリオから降りたんです。貴方にとって不利だった」
バーナビーが軽く右手を空中で払うと、足下に白と黒の盤面が現れた。こんなこともできたのか。キースは場違いに感心してしまった。
「やり直しましょう」
しかし盤上にある駒は一対のキングだけだ。バーナビーの言わんとする所を察し、逡巡する。しかし同時に虎徹の言葉が頭をよぎっていた。男同士はな、どーっしても言葉が通じない時がある。そういう時どうするか分かるか――
「白は貴方に譲りますよ」
白は先攻だ。いつからか、バーナビーとのチェスはキースが白を取るように決まっていた。しかしひとつ首を横に振り、トレーニングウェアからコインを一枚取り出す。
「我々は、より公平な条件を選ぶべきじゃないかな」
「……お好きにどうぞ」
コインを指で弾く。甲高い音を立ててコインが放物線を描いた。それは丁度、二つのキングの中央のあたりを落下点に見込む。キースが床を蹴るとバーナビーがそれに続いた。いや、ほぼ同時だったかもしれない。
バーナビーの鋭い蹴りを左手で受け流し、大きなアクションによって生まれた隙に踏み込む。繰り出した拳は腕でガードされ、反撃を脇腹に喰らう前に反動に逆らわず後退する。能力は使わない。バーナビーもハンドレッドパワーを使用していないからだ。
「能力に頼りすぎで、近距離攻撃には弱いと常々思っていました」
「いつも心配しているが君は、どうも上半身のガードが甘い。いつもね」
組んで打って躱し躱され、空気や体が擦れる音と吐息だけがチェスボードの上で踊る。
どれくらいの時間そうしていただろうか。普段から互いに体力増強に努力と時間を惜しんではいない。かなりの時間が消費されているはずだ。不意にお互い動きを止めた。荒い呼吸の合間からバーナビーの緑の瞳を見つける。その中央に映っているのはキースだ。しばらくそうやって見つめあい、やがてほぼ同時にその場に倒れ込んだ。
しばらくは呼吸を整えるための沈黙が続く。吸い込んだ空気は清涼な色をしている気がした。ほとんど言葉を発してないのに、雄弁に何かを語り合った後のような気分が不思議だ。
「今度こそ引き分けだろう?」
「馬鹿言わないでください、僕の方が一秒は長く立っていましたから」
「……一秒かい?」
「ええ。言っておきますが、されど一秒ですよ」
バーナビーが息を吸い込んで言葉を発する気配がしたので、思わず噴き出しそうになるのをこらえる。互いに仰向けになっていて顔は見えない。けれどその気配を何よりも近く感じる。
「先輩が言っていましたけど」
「うん」
「男の友情は河原での殴り合いから始まるそうです。理性的じゃないなって僕は思いますが」
天井の照明をじっと見つめながら息を止める。バーナビーの言葉を取り込んで、じっくり時間をかけて解凍し、やがて現れた答えに頬が緩みそうになる。
「チェスボードの上の組手でも……大丈夫だろうか……」
「さあ……」
喉がついに震えてしまった。バーナビーもつられたように喉を鳴らして笑い始める。肩を揺らしながら寝返って、バーナビーの顔を覗き込んだ。繊細で鋭敏な顔立ちに、いつもの優しい色がある。グリーンの瞳いっぱいにキースの顔がある。それが嬉しくてたまらない。ひょっとして、いやひょっとしなくても、まだ間に合うのだろうか。
「バーナビー君、私は至らない人間なんだ。私が君の何を傷つけてしまったのか……良ければ、教えてくれないだろうか」
バーナビーは迷うように視線を逸らして、しばらく黙っていた。それから、貴方との時間を誰にも渡したくなかったんです、と早口で呟いた。キースの追及を許さずにがばりと半身を起こす。
「至らないのは僕ですよ。でも、ワガママを言えば……気にしないでくださいとは言わなくてもいいですか?」
バーナビーは苦笑をキースに傾けた。バーナビーに続いて起き上がりながら、キースはその言葉を自分なりに咀嚼する。嬉しいような、もどかしいような言葉にならない気持ちが喉元までせり上がってくる。とにかく、何か言わなくては。彼はチャンスを逃して立ち止まってしまったキースを、振り返って待ってくれている。
「私は……チャンスだと思って……」
「チャンス?」
「うん、君とチェスに興じていることを多くの人に自慢できるチャンスだとね。だが……チャンスを掴んだようで、私は逃していたんだね」
そんなに衝撃的な告白をした覚えは無いのだが、彼は長い睫毛に縁取られた目の中で瞳を丸くしていた。困惑のまま首を傾げると、ため息と共に小さく謝罪が零れる。ますます戸惑うキースに苦笑し、バーナビーは拳をキースの前で開いてみせた。
「……では代わりに、僕が掴んでおきましょう」
そこにあったのは、キースが最初に空中に放り上げたコインだ。バーナビーはそれをもう一度、丁寧に握り締め笑みを深くした。
「勝負は僕の勝ちでしょう?」
コインに刻まれた「NC1953」の意味に彼が気づくことがあれば、勝敗はどちらにあると思うだろう。予想するだけで少し愉快だ。バーナビーとキースは、明日以降のスケジュールを確認するために共にその場に立ち上がった。
(2012-11-20)