In the war of love, who flies is victor. (三十六計逃げるに如かず)
ロッカーのベンチの上にはくすんだ白と褪せた黒の慣れ親しんだ盤面。手元の白い駒が黒の王国を前に呆然と立ち尽くしている。キースも今は見えない対戦相手をただじっと見つめていた。繊細でクセのあるアッシュブロンドと、その隙間の明るいグリーンを探るように覗き込む。それは結局、記憶をなぞるだけの行動でしかなかったが。
「……何してんだ?スカイハイ」
「わっ、ワイルド君!」
グリーンが唐突にブラウンに差し替えられて驚く。何気なく覗き込んだだけだったのだろう虎徹は、キースの過剰反応を不思議そうな表情で観察した。しかしキースの手元にある物に気づき身を乗り出してくる。
「あっ!」
「なんだい何かな!?」
「いいのかー?それ触って!バニーちゃんに怒られっぞ!」
一瞬、バーナビーの気に障ることを何かしただろうかと考え、それから虎徹の心配が見当外れであることに気づく。笑って一人かと問えば、バーナビーは単独でのテレビの仕事があると返された。首位をひた走るバーナビーは最近益々多忙を極めている。仲間としては嬉しいし、ヒーローとしては良い刺激だ。だが友人としては少し寂しいのが本音だろうか。
「多分、怒られることは無いと思うよ。これは私のチェスボードだからね」
「お前の?っかしーな、触ろうとしてメチャクチャ怒られたぞ俺……」
「一つでもコマを動かされると大問題なんだ、真剣勝負だからね。どうか許してあげてほしい」
「いやバニーに怒られんのはいつものことなんだけどな?」
未だ事情の呑み込めない様子の虎徹に、このチェスボードがトレーニングルームに置かれている理由をキースは簡単に説明した。一度対局してからと言うもの、チェスはキースとバーナビーの間で静かなブームになった。しかしバーナビーは益々多忙になるばかりで、長引く一局を無事に終えることすら難しくなっていた。何度かコールのために流れた対局もある。
「一度はコールに慌ててボードをひっくり返してしまってね。本当にダメになってしまったこともあるんだ」
「ああ、そりゃあ……取り返しつかないな……。俺もそれで怒られたワケね……」
「いや、私も彼も指した手は覚えているさ。でも同じところまで駒を進めようとすると途中で見落としていたミスに気づいてね。結局は全く違ったゲームになってしまうんだ」
そのため、時間が合わなくても必ず利用するトレーニングルームにチェスボードを置き、時間が合えば打ち合い、すれ違っても残された盤上から一手ずつ進めていくことでチェスを楽しんでいるのだった。実質は時間が合わないことの方が多いため、虎徹が知らなかったのも無理はない。
「なるほどなー、それでかあ」
しげしげとチェスボードを眺めながら虎徹が納得するように何度か頷いている。続きのありそうな空気に首を傾げると、虎徹があごのあたりを撫でながら口を開いた。
「いやな、仕事の……つってもインタビューとかそっちの方のなんだけど……休憩とか移動の時にたまにむずかしー顔してるんだよな」
「バーナビー君がかい?何かあったんだろうか……」
「そうそう、そう思うだろ?だから何考えてんだって聞いたら、スカイハイさんのことをって言うわけ。で、俺はまたスカイハイのことを見習えっていつもの説教でも始まるかと……」
「いつも?バーナビー君がかい?」
バーナビーはヒーローになって一年も経たずして王座にまで上り詰めたスーパールーキーだ。思い切った戦術や状況分析に感心させられることも多い。そんなバーナビーから高い評価を得るのは、キースにとって思ってもない喜びだった。尊敬する仲間たちに認められるのは、会社や世間や自分の評価とはまた違う意味を持つものだと思う。
「あー……分かった分かった、スカイハイはすごいです!俺も見習ってるよ!だからフリスビー持って帰ってきた犬みたいな顔やめろな」
「あれは可愛いね!実に可愛い!もう帰ろうと思うのにジョンにそんな顔をされるとつい遊び過ぎてしまうんだ!」
「お前それに例えられてんだって分かってる?」
先ほどとは逆の方向に首を傾げると、虎徹はもういいと首を振ってみせた。ええっと……と話の軌道を戻そうと努力している。
「何だっけ?そうそう……説教されるかと思ったらそれっきり黙ってるからケンカでもしたのかと思ってたぜ?」
「無用な心配だよ、ワイルド君!」
「だったみてぇだなあ」
だけど本当にいつの間に仲良くなったもんだな、そのきっかけである虎徹が他人事のように呟くのが少し面白い。だがそれをすんなりと表情に出せなかった。仲が悪いとは思わない。バーナビーもそれは間違いないと言ってくれるだろう。けれどキースには必要な一手が欠けていたのではないだろうか。バーナビーの一途なグリーンの瞳を思い返す。――貴方は、守りに徹し過ぎです。
「でも……でも、そんなに考え込んでいてくれていると聞いてホッとした。実は彼には一度も勝てていないんだ」
「え、そーなの?」
「ほら、今も絶体絶命のピンチに追いやられているんだよ」
「ほら、ってもねえ……さっぱりだなーこりゃ」
「この白のキングが私だよ。黒はバーナビー君で……彼のナイトが次の手で私の首を取る。逃げたいけれど、王は崖っぷちだ」
「ふーん?」
盤面を指差しながら虎徹に今までの戦跡を語るが、あまり手応えは無い。将棋みたいなもんだろ、と問われても残念ながらキースには『ショウギ』のことは全く分からなかった。イワンなら詳しいかもしれない。尋ねてみて新しいゲームに挑戦してみるのも悪くはないだろう、などと考えるのは追い詰められた逃げだろうか。
「弱った、そして困った……」
「本当にそう思ってるようには見えねぇけどなあ」
「え?」
「ここんとこ、元気無かっただろ?」
顔が笑っていることを指摘され、それはいつでも誰でもどこでも言われることなのに、妙に照れてしまった。確かにここのところ思うところが多かったのは確かだ。ネガティブなループから救ってくれたあの女性とも未だ再会を果たせていない。きっとどこかで見ていてくれると信じてはいるが、それでも蓄積する寂しさのようなものをチェスはうまく和らげてくれる。
顔を意識して引き締めたのに、それが何故だか余計に虎徹の笑いを誘うらしかった。
「そう言うワイルド君だって、そうだろう?なんだかあまり元気が無いような……ファイヤー君たちも心配していたよ。体調でも……」
「っだ、俺はいいんだよ俺は!おじさんはナイーブなんだ、色々あんの!それよりほらほら、ピンチなんだろぉ?」
「そうだった……とにかくここはルークを盾にして……いやだめか、時間稼ぎにしかならない」
虎徹にバーナビーと共に約束をすっぽかされたあの日から、虎徹は時々様子がおかしい気がする。会えばその話をしようとするのだが、虎徹も最近は多忙だ。今回のように時間が合うことは稀だし、何よりこうしていつの間にか話をごまかされてしまう。バーナビーは気づいているのだろうか。彼らは最高のバディだ、心配はしていないが。
「あれ?これ……」
「ああそれは、もらったんだ。バーナビー君にね」
「へえ……バニーがねえ……」
虎徹が不意に持ち上げたのは、時を贅沢に消費した対局をチェスボードの横で観戦していた小さな箱だ。薄い青色の上蓋には箔押しでシンプルなロゴが印刷されている。中身はチョコレートだ。キースはこういうことには全く疎いのだが、バーナビーが用意したからにはきっとそれなりの品だろう。味も素晴らしいに違いない。
興味深げに観察する虎徹は柔らかい笑顔である。恐らく虎徹もバーナビーから同じような物をもらったはずだが、何がそんなに珍しいのだろう。
「急にどうしたんだい、嬉しそうだね?」
「元気が無いよりはいいだろ?」
ありがとな、と何故か礼を言い渡されて戸惑った。全く思い当たる節が無い。真剣に考え込もうとすると、分からなくていいんだよと乱暴に背中を叩かれる。
「痛いよ!ワイルド君!」
「お前ってチェスに勝ちたいのか?それともバーナビーに勝ちたいの?」
「それは……どちらも違う意味なのかい?」
「同じ意味だと思うのか?……ま、スカイハイらしいけど」
先ほどまで優しいカーブを描いていた目元や口元は、益々それを深めてにんまりとした笑みになっていた。明らかに何かを企んでいる顔だ。あまりの笑顔に釣られて笑っていると、ずいと身を乗り出される。
「バーナビーに勝ちたいってなら、今おじさん、いいこと思いついちゃったぜ」
昼過ぎにトレーニングルームのロッカーへ向かうと、珍しくバーナビーと鉢合わせた。と言うよりも、恐らくキースを待っていてくれたのだと思う。バーナビーは私服でチェスボードを前にベンチに座っていたのだ。トレーニングはと聞けば、もう済ませたと答えられた。
「……随分大きな駒だね」
盤上はキースが一手進めてから動いていない。バーナビーにしては随分悩んでいるなと思っていると、fgファイルあたりの空いたスペースに小さな箱が置かれた。菓子箱のようだ。
「贈り物ですよ。僕から貴方に」
「そうなのかい?ありがとう!そし……でも急に、どうしてだい?」
箱を持ち上げ、青と金糸のリボンをほどいて中身を確認した。小さなチョコレートがいくつか行儀良く並んでいる。そう言えばと脳内のカレンダーの日付を確認した。この季節は何かとこの行事に絡んだ話題や取材を受けることが多いが、今日がその当日だったとは。キャンペーンやイベントは、休日に前倒しで行われることが多いので、すっかり過ぎ去った気でいた。
「虎徹さんに聞いたんですけど、オリエンタルタウンではバレンタインには必ずチョコレートだそうです」
「折紙君に聞いたことがあるよ。しかも女性から贈る物だって言っていたっけ。ああ……でもあれはジャパンの話だね」
「まあここはシュテルンビルトですから」
「みんなに配っているのかな?さすがバーナビー君だ!参ったぞ、私は何の準備もしていなかったよ」
「いえ、あなただけに。後はお世話になっている虎徹さんくらいですね」
咄嗟にその意味を問おうとして何故だかできなかった。バーナビーは笑うでもなく、かと言って緊張した様子も無く、ひたと視線をキースに合わせている。
「今日の夜、予定はありますか?飲みに行きましょう」
その誘い文句も、いつもと特に変わりはない。しかしキースはいつものような二つ返事が返せなかった。バーナビーはそれに構わず黒のナイトを持ち上げる。あっ、と思う時は大抵、時機を逃しているものだ。
「チェック」
異論の無いことを目で確認すると、バーナビーは立ち上がった。白のキングは戦術的にすっかり逃げ場を失っている。あと数手は苦し紛れの逃避行を続けていられるが、すぐに銀盆に首が載せられることになるだろう。
「これから取材があるので失礼します」
「あ、ああ……行ってらっしゃい」
「何も無ければ夕方にまたここへ寄る予定です。チェックメイトはその時に」
「まだ……勝負は決まったわけじゃないさ。そしてこれからだ!」
歩き去ってロッカーから出ようとしたバーナビーは、足を止めてキースを振り返った。てっきり呆れた笑みが待ち構えていると思ったが、どこか不機嫌そうにも見える真剣な表情だ。
「貴方は、守りに徹し過ぎです」
シャッと軽い音を立てて自動の扉が開閉する。
この小さな箱の中に、一体バーナビーのどんな感情が詰まっているのだろうと思った。簡単な答えや言葉は当てはまらないだろう。むしろきっと考えても意味の無いことなのだと思う。今重要なことは、バーナビーが感情を形にしてキースに残そうとしているその事実だ。そしてその重大さに今更気づいているキースの読みの浅さが問題なのだ。
待ち合わせの場所はゴールドステージの外れにあるこぢんまりとした店だ。カウンターの他はいくつかの個室があって、店員の対応は落ち着いていて丁寧である。この雰囲気が人を選ぶ店なのか、顔を出して活躍しているバーナビーと共に居ても、騒ぎになったことは一度も無かった。
「……何ですかあれは」
「勝負はまだついていない、バーナビー君!」
店内の淡い照明を受けたバーナビーの顔はすっかり呆れ顔だ。それにはさすがに申し訳ない気分になって、誠意を示そうとバーナビーのために椅子を引いた。暖色の光を反射する眼鏡の奥を笑顔で覗き込めば、バーナビーは遅れて来たことを詫びながら素直に腰を下ろしてくれた。
「あんなのイカサマ……にもなってないインチキですよ……貴方の考えじゃありませんね?」
「実を言うとね、ワイルド君に知恵を貸してもらったんだ!」
「虎徹さんですか……なるほど……」
正々堂々と常識を破ってくるのがあの人らしいと言うか……頭を抱えてしまったバーナビーに代わって彼のお気に入りのカクテルを頼んでやる。少し考えてキースも同じものにした。元々酒には強くも明るくもないので、度数が高くなければあまりこだわりはない。
キースが虎徹に授かった戦術は、バーナビーにイカサマと言われても仕方の無いものだった。王の追い詰められたチェスボードに、もう一枚新しいチェスボードをくっつけたのだ。新天地に王は逃げ放題、バーナビーのチェックも無効だ――もちろん、ルールを完全に無視してしまっているけれど。
「バーナビー君?」
カクテルがやって来ても顔を上げないバーナビーに不安になって声をかける。もちろん呆れられることも怒らせることも覚悟の上ではいたが、無言を貫かれると居心地が悪い。めげずにもう一度名を呼ぶと低い声が漏れ出た。
「そんなに……僕から逃げたいですか?」
「え?」
照明に透き通るアッシュブロンドから拗ねたようなグリーンが覗いている。そこにはいつも感心させられる鋭敏さも冷静さも無かった。何故そんな表情を嬉しいと思ってしまうのか分からない。いつも周囲から言われるように、キースは少しおかしいのかもしれない。
「……あれ?」
しかし今はそれより、速やかな訂正が必要だろう。キースは逃げたつもりは無いし、むしろ忠告通りその真逆を突き進んだだけなのだから。
「これで君とチェスを続けていられると思ったんだが……」
逃げたのはキングで、キースではない。キングが生き残れば、いくら駒を取ったってチェスは終わらないのだ。バーナビーがついに顔を上げた。ぽかんと口を開けてキースを見つめている。なんだかそれが、イカサマ負けのはずだったチェスの試合をまるで勝ち抜いたような気分にさせた。笑うと、バーナビーは眼鏡をくいと上げて表情を渋くした。
「……ボードをいくら増やしたところで負ける気はしませんけど、続きは飲んだ後でもいいでしょう」
「次こそは一勝だ!私だけドライヤーの餌食になるなんて不公平だからね!」
「ジョンになった気分だって褒めてくれるじゃないですか」
「それとこれとは別さ!別だよ全く!」
ついに我慢できなくなったらしくバーナビーが小さく笑う。それがキースを益々愉快な気分にさせた。悔しいことに、キースの一手はバーナビーの一手に及ばないことがあるようだ。それでも、そのひとつひとつを見落とさないように大事に拾い集めることはできる。それがキースの戦略だ。
「ああ、そうだ。来年はきっと、私も君みたいに素敵なプレゼントを用意するよ」
確かなもののひとつもないあやふやな約束でも、信じてもいいと思える何かがキースとバーナビーには築かれつつあると思う。それをバーナビーが教えてくれたのだ。彼は何も言わず、ただ満足げな笑みで返事をした。
(2012-02-14)