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夏度体温・ウルトラブルー (円+豪)



夏度体温

「豪炎寺、海に行こう!」

 次は体育の授業なので、男子だけになった教室は着替えに騒がしい。女子は原因不明の理屈でやたらと着替えに時間をかけるが、男子の着替えなんて早いものだ。頭から体操服を被ろうとしていた豪炎寺は、それを両腕に引っかけたまま円堂を見返した。

「何だって?」
「だから、海に行こうって!」

 円堂の表情は真剣そのもので、豪炎寺の机に両手を置いて身を乗り出している。着替える気も無いらしく白いシャツにズボンのままだ。

「……どうした、急に」

 体育の授業となれば一番に着替えて一番にグラウンドに飛び出すような奴が、珍しいことを言い出すものである。珍しい冗談だな、と着替えを続けようとすると、円堂は豪炎寺から体操服を奪って、机の上のシャツを押しつけてきた。

「円堂?」
「ん?」
「……本気か?」
「ああ!オレはいつだって本気だ!」

 確かに言われてみればそうだ。そうではあるが、だからと言って納得できるわけではない。次第に人口密度が下がっていく教室で、同級生たちの背を見送る。風がロクに通らず蒸し蒸ししていた室内が、本当に少しだけ涼しく見えるような気もした。どちらにしろ暑さに違いは無いが。

「サボるのか?」
「いーや!海を見に行くんだ!」

 円堂が体操服を取り上げたままなので、仕方なく脱いだばかりのシャツをもう一度着た。夏休みも近い七月の気温に根負けして、シャツはわずかに汗くさい。

「プールが無いのがそんなに不満なのか?」

 小さく笑ってやると円堂は不本意そうに顔をしかめた。『宇宙人』騒動で一度見事に破壊されてしまった校舎だが、今では既にかなりの棟が建て直されている。むしろ以前より立派になっているような感さえあった。そういうわけで豪炎寺たち生徒は今やほとんど不便を感じることなく学校で生活できる。しかしもちろん完璧に、というわけにもいかない。プールなどの一部の施設はまだまだ工事中だ。

「違うのか?」
「違わないけど違う」
「どっちなんだ。大体、海って言ったって今から……」
「大丈夫!部活までには帰ってこれるからさ!」

 確かにそれも気になっていることのひとつではあるが、根本的には何も『大丈夫』ではない。

「な?」

 真剣な顔をやめて、円堂は有無を言わさぬ笑顔だ。言いたいことがあったとしても、これが出ると結局は仕方ないなと苦笑することになる。疑問を差し挟む余地もなく、もうそういうことだから、今更何を考えたって意味は無いのだ。

 体育館の裏の門──体育館の建て直しで随分雰囲気が明るくなって見えるが、それでもうら寂れている──から外へ出た。校舎からなるべく人目に付かない道を選んで駆けている間、二人とも無言だったが、門を出た途端に円堂が大きく息を吐き出す。

「授業抜け出すのなんて、初めてだ……!緊張したー!」
「いいのか?キャプテンさん」

 もちろん他人事ではないが、先ほどの威勢を失った円堂の動揺ぶりがおかしい。ムッときたらしく、円堂はピシリと豪炎寺に指を突きつけた。

「今から帰ってくるまで、オレはキャプテンじゃないからいいんだよ!」
「じゃあ、何なんだ?」
「うーん、そうだな、海隊長?うん!海隊長だな!」

 意味の分からない称号に満足している円堂が余計におかしくて、笑いを我慢できない。口でへの字を書いた円堂がずかずか歩き始めるので豪炎寺も続いた。

 今日も空は青が染みてきそうな快晴だ。一歩進む度にじわりと汗が滲む。日中の学校沿いの道路は、セミの声が主役だ。確かにこんな日は、頭から空の色を浴びてしまいたい。

「待てよ海隊長」
「言っとくけど、お前は副隊長だからな!」

 いつもと変わらない、毎日のくだらないことを話しながら歩く。そうすれば、呼吸するのもひと苦労な夏の熱っぽい空気も気にならずに吸い込める。

 駅に着いたので、少し高めの値段に感心しながら切符を買った。電車で数十分、ちょっとした遠征くらいの距離はある。ホームの案内板を確認して、滑り込んできた電車に飛び乗った。方向さえ合っていたらいいだろうと飛び乗った普通電車は、ガラガラ空いていて、冷房でひんやりしている。汗ばんだ肌がぞわりと粟立った。気休めにシャツに腕をこすりつけながら手近な座席に腰掛ける。

「涼しーなー……」
「風邪引きそうだな」

 向かい合う座席の窓際にそれぞれ座って、日光を浴びた。ゆっくり動き出した電車が、レールを踏む音と一緒に揺れる。窓の外を見慣れた街並が流れて行った。電柱や鉄橋の影が時々車内を走る。

「……静かだな」
「遠征以外じゃ、電車なんてほとんど乗らないもんな!その時はみんな一緒だし……」

 そうだ。今は二人きりだ。だが円堂も豪炎寺も、今それに気がついたかのように感じている。駅を跨ぐごとに静かになっていく車内がそうさせたのかもしれない。

「円堂」
「ん?」
「そろそろわけを話さないのか」
「うん」
「円堂……」
「わけなんてないからさ」

 円堂はどこまでもあっけらかんとしている。だからこそそれ以上何か突っ込む気にもなれなかった。別の話題にボールを転がしても良かったが、なんとなく黙る。窓の外で流れる知らない街をぼんやり眺めていると、短いトンネルに入った。窓の反射で、円堂がこちらを見ていることに気づく。

「あ、ごめん」
「円堂お前、やっぱり何か……」

 トンネルを抜けると松林が見えて、そしてその向こうから海が窓に広がった。どちらともなく、あ……と声を上げる。夏の日差しを余すことなく反射してきらきらと光る海は、空と大体同じ色をしている。何を言おうとしたかも全部忘れて顔を見合わせた。

「海だ!」
「ああ」
「海だぞ!豪炎寺!」
「ああ、海だな。円堂」

 ははっ、円堂が心底嬉しそうに笑う。電車が減速を始めた。やっと到着だ。

「ここ来るの、久々だ」
「ああ、オレもだ」

 この界隈で『海水浴』と言うと、普通はこの浜辺のことを指す。この一帯に住んでいてここに来たことのない人間はそうは居ないはずだ。足を砂浜に取られる度、立ち昇ってくる熱気に浅く息を吐いた。もっと人が居ても良さそうなものだが、平日だからか閑散としている。子供連れがちらほら居るくらいか。軒を並べた海の家から、夏の定番曲が流れてくる。その隙間に、波がざあざあ寄せては返る。靴の裏で砂がざらざら騒いでいる。

「海って、こういうものだったか」
「沖縄の海を見ちゃうとなあ」

 円堂が困ったように笑った。ひょっとすると悪いことを言ったかもしれない。円堂に向き直ろうとしたところで思いっきり腕を引かれた。普段ならなんとか持ちこたえただろう。だがここは不安定な足場だ。引っ張られた方向にそのまま体が傾き――波打ち際に倒れ込んでしまった。ざぶん、と運悪く打ち寄せた大きめな波に呑まれる。

「円堂!」

 下敷きになった円堂の名を心配半分、呆れ半分で呼ぶが、円堂は愉快そうに笑うだけだ。次第に豪炎寺も馬鹿らしくなってきて、笑みをこらえずに円堂を助け起こした。体中がぐっしょり湿っているが、そのおかげで潮風が心地良い。クーラーよりこっちの方がいいな、円堂がおどけて言った。

「うー……鼻に海水入ったみたいだ……」
「急にこんなことするからだろ」
「だって来たかったからさ。豪炎寺と、海」

 ざん、波が足元まで迫って、それからまた戻っていく。何年、何十年にも感じた沖縄での時間を思った。豪炎寺の心の中とは違って、沖縄で目にするものは大抵綺麗だ。でもそれは、沖縄と比べ物にならないようなこの海でも同じことだったのだ。

「オレは今日、学校に戻るまではキャプテンじゃないから、だから豪炎寺とここに居るんだ」

 まだ気になるのか、円堂はすんすん鼻をすすっている。それから海水に対して文句でも垂れるように、ありがとう、と何でもない様子で呟いた。何に対する礼かは分からない。だが円堂よりも豪炎寺の方が遥かに、言わなければならない感謝や謝罪の言葉がたくさんあるのだ。それら全てが怒涛の勢いで胸をよぎり、流れ去ってしまって、結局残ったのはやっぱり円堂と同じ言葉だけだった。ああ、ありがとう。

「へへ、なんだよ」
「……円堂は、今日はキャプテンじゃなくて海隊長だからな」
「そうだよ!副隊長との下見は終わり!次は隊員全員を連れてこないとな!」
「うん」

 素直に同意されたのが嬉しかったのか、もう一度制服のまま海に飛び込もうとする円堂を止めていると、遠くから太い声が聞こえる。半袖でもどこか暑そうな小太りの中年の警官で、どこの生徒だと聞いているらしい。

「行こう豪炎寺!」

 いつもなら立ち止まってきちんと謝ったところだろう。悪いのは全面的に円堂と豪炎寺だ。でも今は、海隊長と副隊長だから仕方がない。怒られるのは学校に戻ってからだ。

「すみません今から学校に帰るんです!」

 スピーカーから音の割れた曲がのんびり流れる。空は青く、絵に描いたような入道雲が遠くに見える。波は相変わらず同じことを繰り返して寄せては引く。濡れたスニーカーが砂を跳ね上げる。鬼道も怒るだろうなと呑気に呟くと、走れ走れと円堂が急かしてきた。

 豪炎寺の腕を強く握る円堂の手のひらは熱い。

(2010-05-20)

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