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甘露と薄荷 (円+豪)



 

机から2冊目の社会の資料集が出てきた。一瞬驚いたが、すぐに風丸の物だったことを思い出す。昨日借りたまま返すのを忘れていたのだ。借りたのが6時間目で、今はまだ授業も始まってない朝方だから、急いで返しに行けば風丸を困らせることにはならないだろう。円堂は重たい目蓋をこすりながら、まだ人の居ないガラガラの教室を飛び出した。いつものようにギリギリに来たんじゃなくて良かった、と思うことにする。本当は寝れなくて落ち着かなくて仕方なく学校に行くことにしただけだけど。

「来てるかな、風丸……」

 もし風丸が来ていなくても、風丸のクラスには半田やマックスも居る。そのうち誰か一人でも居れば話しながら待ってもいいだろう。とにかく、机にじっと座って一日が過ぎるのを待つのだけは耐えられない。突然頭を抱えてしまいたいような、かと思えば笑い出しちゃいそうな、もうとにかく大変な状態なのだから。

 廊下を早足で歩いた。上靴が床を踏む度にぎゅっと小さい音がする。ギリギリで滑り込む朝と違って、少し早い時間の廊下は静かだ。教室の中から話し声は聞こえてくるが、ぼんやりと遠い。廊下に沿って整列した窓は、全部同じように四角で朝日を取り込んでいる。その光を踏みながら歩いた。しかし階段前を横切ろうと影に入ったところで、思わず足が止まる。

「あ」

 それは円堂自身が発したのか相手が発したのか分からない声だった。もしかすると同時に出してしまった声かもしれない。相手――階段を上ってきた豪炎寺はあと一段残ったところで足を止め、円堂を見上げている。斜め後ろの窓の光がその目に入って、きれいに円堂を映していた。

「お、はよ」

 たった三音の言葉なのに、喉が突然干上がってするりと言えない。どきどきする。もっと眩暈がするような、息の仕方も分からなくなるような、とんでもない気持ちを味わったはずなのに、目が合っただけでこれじゃあどうしようもない。そんな格好悪い自分を見せたくなくて目を逸らそうと思うのに、円堂は豪炎寺の目玉をバカみたいに見ていた。

「……ああ」

 根負けしたのは豪炎寺の方だったらしく、階段を上りきって目を逸らしている。すれ違う時に少しだけその顔が赤いのに気づいて、円堂まで顔に熱が集まってきた。借り物の資料集でパタパタと風を作りながら風丸のクラスに飛び込む。

「かっ、風丸!風丸いるか!」
「お、円堂!早いな良かった。オレも忘れてたんだそれ……円堂?」

 資料集を両手で突き出し、必死の形相をうつむかせている円堂を、さすがにおかしいと思ったのだろう。風丸が不審そうに覗き込んでくる。ので、資料集で防衛する。

「おい」
「ありがとな!ほんと助かった!」
「円堂?真っ赤だぞ熱でもあるのか?大体それ……」
「すっかり忘れててごめん!今度なんかおごるから!じゃあ後でな!」
「あ、おい、だからこれ……」

 一通り怒鳴って教室を飛び出してから、用を済ませてしまうと他にすることがなかったことを思い出す。つまり、豪炎寺の居る教室に戻らなければならない。少しずついつもの騒がしさに追いついてきた廊下で立ち尽くしていると、怪訝げな顔が目の前に飛び込んできた。

「何してるんだ。朝っぱらから」
「鬼道……!」
「……いや言わなくていい。大体分かった」

 なるべく顔に出さないよう頑張ったつもりだったが、鬼道は呆れたように首を振るだけだ。そこから動こうとせず立ち往生の円堂の背を無理矢理押して進ませている。

「まったく……。本当に手のかかる奴らだな……」

 円堂としては、教室に飛び込んでしまいたい気持ちと、今にも廊下を逆走したい気持ちが半々で、かなり歩みを渋ってしまう。だがそれを何と説明していいか分からないし、そもそも鬼道が言い訳を受け付けてくれない。無言の押し合い圧し合いの末とうとう自分の席に辿り着いてしまった。豪炎寺は頬杖をついて明後日を見ている。今の席順は少し遠い。始業の鐘が鳴った。すぐに先生が教室に入ってくるだろう。だが教室はまだざわざ落ち着かないでいる。

 豪炎寺。

 声には出していない。でも豪炎寺がこちらを振り向いて、目が合ってしまった。
 あまい、って意味も分からず思った。

「静かにしなさい。はい、席に戻ってー」

 クラスメートが目の前を横切ると、もう豪炎寺はこちらを見ていなかった。一瞬だけで驚くほど逆流した血を深呼吸で落ち着ける。と、そこでやっと円堂は、自分の机の上の資料集から『風丸一郎太』という文字を見つけたのだった。

「まったく、人に借りといてこれだもんな……」
「だからー!ごめんって!」
「ちょっと見せてもらったけど、まるで新品みたいだったよね。開いたことあるの?」
「あっ、あるよ!……たまに」
「オレも見たけど、折った跡も無かったぜ。風丸が貸す意味あったのか?」
「聞き捨てならないな。お前は雷門サッカー部を背負ったキャプテンなんだ。情けない成績を出されちゃ困るぞ」
「鬼道までー!」

 鬼道の畳み掛けるような言葉から逃げるように円堂がベンチに飛び込んでくる。はー、ひとつ大きなため息だ。話には加わっていないが、大体の成り行きは予想できる。先生が静めた教室で、社会の資料集を手に「あれ、風丸のだこれ!」だなんて叫ばれれば難しいことでもない。

「ん」
「あっ、サンキュ……」

 手元にあったボトルを差し出すと、目が合った。お互い、驚きが全面に出ないうちに慌てて明後日を向く。別に今、円堂が隣に居ることに気づいたわけじゃない。円堂だってそうだ。最初の休憩は大体近いところに座るから、その習慣が身に染みていてベンチに座ったんだろう。だが目が合うとそんな落ち着いた考えも続かなくなってしまう。意識しないように、いつも通りを念じながらこの一日を過ごしてきたはずなのに。

 今日も朝からいい天気で、6月のくせに梅雨の気配も無い。グラウンドが稲妻町に押し広げる青空のずっと遠くを眺める。もう夏かと思うくらい強い日差しだが、風があるおかげで随分過ごしやすい。練習で火照った体を風が撫でた。すぐ横の円堂のにおいがする。

 こんなに振り回されるはずじゃなかった。何が悪いでもなく、全部豪炎寺の心の内だけが勝手に暴走して、勝手に疲れている。何も考えず、ただ好きなサッカーを、好きな奴とやっていられるのなら、それが一番だったのかもしれない。いつもと違う自分自身への戸惑いが大き過ぎる。

「そう言えば円堂、今日はやたらと顔赤くないか?朝こっちに来た時も――」
「きっ、気のせいだろ!」
「そうか?」
「キャプテン、風邪でやんすか?」
「あら。心配要らないわよ。なんとかは風邪は引かないって言うでしょ」
「夏未さん……」

 ベンチについた左手の、薬指のあたりにすっと何かが触れた。それがグローブを外した汗に湿った指だと分かった途端、動けなくなってしまう。

「キャ、キャプテンをバカにしないでほしいッス!」
「誰もバカなんて言ってないわよ」
「さすがです夏未センパイ!」
「まあそりゃあともかく、円堂をぶっ倒すともなりゃ相当の風邪だよな。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だって!大体赤くなんてなってないだろ!」

 恐る恐るという感じに、薬指、中指と感触が触れては遠くなる。明後日を向いたまま平静を保つのに苦労した。ドッ、ドッ、ドッと、騒がしいはずのグラウンドが間近の音のせいで遠くなる。熱い、指が、とても。にがい、意味も分からず思った。苦しい。

「でもキャプテン、無理しないでくださいね……」
「ふふ……保健室付いて行こうか……?」
「ボクもクーラーの効いた保健室に付いて行ってあげてもいいんですよ!」
「いいっていいって!ほらーみんな心配しちゃっただろ!」

 えん、どう

 確かに声にはならなかった。でも空気は揺れて、真隣の円堂に届いたはずだ。その証拠に円堂の指がぴくりと止まった。だが気のせいとでも思うのか、ごまかしたのか円堂は話を続けている。熱くて、くすぐったくて、何より心臓の音にこれ以上耐えられない。乾いた唇を湿らして円堂の右手を思いっきり捕まえた。

「円堂!」

 思ったより怒っているような声になってしまった。ぐい、と少し引っ張ると円堂はすぐにこちらを振り向く。照れたような、でも嬉しそうな笑顔でひとつ、へへと笑った。その顔を見るともう何でもよくなるし、今まで感じていたモヤモヤしたものなんて全部吹き飛んでしまう。

「……なんでもない」
「ん!」

 よーし!練習再開だー!手を離してやると、円堂は豪炎寺からそっと離れてグローブを嵌め直した。その丁寧な動きに呆れて、それを逐一見ている自分にも呆れる。

 『何が悪いでもなく、』なんて嘘で、全部全部こいつが悪いんだ。でも、こんな円堂だから、豪炎寺は全部許してしまうし、眩暈がするほど変わる自分たちを後悔できない。

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