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間近の恒星 (十星・パラレル)



 目の前には恒星があった。それは遊星にとって、何かとてつもなく大きな発見に思われた。

「あれ」
「なんだ、ブルーノ」
「遊星、ひょっとして髪切った?」

 ゼミの研究室に入るなりブルーノに声をかけられた。その手のカップからは湯気が立ち昇っている。丁度小休止を入れようとしていたのだろう。研究室の机とパソコンはゼミ生全員に振り当てられるが、基本的には院生が優先されるので一人一台というわけにはいかない。遊星が机とパソコンを共有しているのがこのブルーノだ。

「……よく分かったな」
「小さな発見が大きな前進、だからね」
「なるほど」

 ブルーノらしい理由に小さく笑みを漏らして、据え置きのパイプ椅子に座る。今日はブルーノに先を越されてしまったので他の空いている机を適当に使わせてもらうしかなさそうだ。まだ人の少ない研究室を見渡せば、それはそう難しくもないこととも思えない。

「自分で切ってるんだよね?上手だね」
「いつもはそうなんだが」

 学生持ち寄りの菓子からめぼしい物を漁っているブルーノに、カットモデルの件を簡単に説明した。普段は互いにあまり縁のない話題だからか、ブルーノの相槌は興味深げだ。渡されたクッキーをありがたく受け取ると、ついでにとコーヒーも注いでくれたので笑顔で礼を返す。

「へえ、ラッキーだったんだね」
「まあな……」
「どうしたんだい?」
「いや……」

 カットモデルの件はまだ誰にも話していなかった。ジャックやクロウにも何故か話す気が起きず、自分の中にある漠然とした何かを持て余している。それを形にしてアウトプットするのは非常に難しい。ただ何度も思い出している。十代の言動とあの目を。

「すごいデュエルをする人がいるって言うのは、話しただろ。それがその美容師だ」
「ああ、えーっと遊城さん……だったっけ」
「オレは髪なんかどうでも良かった。ただ、あの人ともう一度闘ってみたかった。だが、」

 柔軟で魅せるデュエルは、忙しい仲間たちとなかなかデュエルの時間が取れない遊星の心を沸き立たせた。心からもう一度あのデュエルが見たいと思っていたから、声をかけられたのはチャンスだと思った。あわよくばデュエルに持ち込もうと思っていたのだ。しかし遊星はそれをすっかり忘れて帰ってしまい、しかもそれを悔しいとも思えないでいる。うまく言葉にならない思いを訥々と落としていくだけの要領の悪い話を、飽きることもなくブルーノは聞き続けてくれた。遊星の言葉が尽きたのを見計らって口を開く。

「遊星」
「なんだ?」
「ボクもさ、前髪気になってて……でも下手くそで自分でやると必ず失敗しちゃうんだ。ねえ、その人にボクも頼めないかな?」

 ブルーノは自分の前髪をぱらぱらと指で弄んだ。確かに言われれば長い。十代もカットの最中に、カットモデル研修は回数が必要だから他にもカットモデルを探すことになる、と語っていた。しかしブルーノが言いたいことの真意はそういうところには無いだろう。

「ね?話するだけしてみてほしいんだ。いつでも大丈夫だからさ」
「あ、ああ……」
「絶対だよ!じゃあボク、実験のレポートが途中だから」

 ひらひら手を振ってブルーノが機嫌良く机に戻っていく。気心の知れた仲間の物言わぬ気遣いをどこかばつ悪く感じながら、遊星は少しぬるくなったコーヒーに口をつけた。

 臨時に頼まれた家庭教師のアルバイトは、帰途に丁度十代たちの美容室があった。しかし時間としては8時と遅い。バイクを駐輪できない場所だと困るため徒歩で向かったが、案外に距離があったのだ。通りから眺めるガラス窓の向こうで、二人の美容師が片付けを始めている。ぱっと見たところ十代の姿は無さそうだ。ガラスの向こうの二人と目が合って、遊星は自分が足を止めていることに気がついた。ガラスの押戸に取り付けられた鈴がリリンと音を立てる。二つの顔が通りに飛び出してきた。

「あれ?遊星くん?」
「どうしたんだ。ひょっとしてカットが気に入らなかったか?」
「そりゃ大変だぜ。とりあえず入りなよ」

 足を止めてまで店内を凝視していれば不審にもなるだろう。遠慮や否定の言葉を咄嗟に出すことのできなかった遊星は、逃したタイミングの背中を目で追いながらも、結局は店内に招き入れてもらうことになった。室内の照明は少し落とされていて落ち着いた橙色だ。独特の、染髪料だか整髪料だかの匂いがする。

「もう閉店じゃ……」
「いいんだよ、閉店時間なんていつも適当だし」
「杏子とメシに行く時は1時間は早く閉まるから注意しろよ」
「さ、30分くらいだよ!」

 楽しげな二人の遊戯に背を押され施術用の椅子に座らされた。何か迷惑や面倒をかけてまで成し遂げるべきハッキリした目的があるわけでもなく、なんとなく申し訳ない気分だ。何か飲むかと聞かれて今度はタイミングを外さぬ内に遠慮する。

「あの……十代さんは」
「十代くん?ちょっと近くのコンビニに行ってるよ」
「十代に用があったのか」
「やっぱりカットに問題があったかな」
「いえ!いえ、違います」

 じゃあ、どうした。言葉はなくとも四つの瞳が不思議そうに遊星を覗き込んでいる。膝の上で手を開いたり閉じたりしつつ、なんとかそれらしい言葉を探そうとするがうまくいかない。しかしこのまま黙っているわけにもいかないだろう。

「自分でも、よく分からないんだが……」

 後が続かない。困惑を隠さずに視線を上げると、二人は顔を見合わせた。それから、淡い笑顔の遊戯が遊星の左胸のあたりに拳を伸ばし、そこに軽く触れる。

「十代くんはね、誰の心にもぽんって飛び込んできてくれる。でも十代くんの心にはぽんっと飛び込めない」

 その言葉は何故だか遊星にあの間近の茶色い瞳を思い起こさせた。少しつり目がちの輪郭に囲まれた丸い瞳は一見何の変哲も無い。柔らかくあたたかい色をしている。しかし間近で見ればあの小さな円の中では光と熱が絶え間なく生成されていて、コロナまで見えるようだった。

「……だけどそれは難しいだけで、できないわけじゃないよ。きっと」

 リリン、鈴がやかましく鳴る。勢い良く開けられた扉から飛び出してきたのは十代だ。咄嗟のアクションを取れずにいる内に、十代はずかずかと遊戯たちに歩み寄ってきた。なんだか今日は後手に回ってばかりだ。

「遊戯さん行ってきましたけど、この季節に冷麺なんてもう置いてないですって!代わりに、……って遊星?」

 ビニール袋に手を突っ込んだまま十代はぱちくりと目を瞬いて動きを止めた。十代の姿を探していたはずなのに、いざ本人を目の前にするといよいよ自分が何をしようとしていたのか分からない。気まずい沈黙を苦々しく味わっていると、ぽん、遊戯に肩を叩かれた。

「まだ日中は暑いんだぜ。もう無いのか」
「大通りの向こうにもコンビニあるよね。今度はボクたちが自分で行ってみるよ」
「え、ちょっと、遊戯さん?それならオレが……」
「ついでにおでんでも買ってきてやるぜ。留守番してろよ」
「え?えー、じゃあ……豚角煮と巾着でお願いします!」
「まったく、ちゃっかりしてるぜ」

 リリン、軽やかにまた鈴が鳴る。全くの静寂になってしまった室内には、名前も知らない音楽がかすかに流れている。しばらく遊星の言葉を待っている様子だった十代は、すぐそれに痺れを切らしたようだ。丈の高い椅子を引き寄せて遊星の間近に腰掛ける。

「どうしたんだよ。ほら、じゃがりこ」

 袋から引き抜かれた菓子を反射で受け取り、受け取ってしまった以上は軽く頭を下げる。早く開けろと急かされたので封を切ると、十代は棒状の菓子を一本口元に運んで笑った。少し気が緩む。

「この前はありがとうございました」
「こっちこそありがとな。久々にカットできて楽しかったぜ」

 ポリポリと菓子を咀嚼し切った十代は、ふと動きを止めて遊星に身を乗り出した。何事かと瞬きを返す。

「そんなこと気にしてわざわざ来たのか?」

 逆に気を遣わせたか、十代は困ったように頭を掻いている。違う。そういうことじゃない。それは確かなことだが、ではどういうことかは答えが見つからないのだ。誰でもない自分自身のことなのにと落ち着かず苛立ちさえ募る。

「……自分でもよく、分かりません。だが会いたいと思ったから、あなたに」

 腹立ち紛れにこぼれた言葉は、やはり大した理論も筋立ても無かった。呆れられたかと顔を上げれば、十代がやたらに神妙な顔で遊星を凝視している。少し居心地が悪い。あの、ひとつ声を上げれば十代はううんと唸った。

「キミって……面白いよなあ」
「そう、でしょうか?」
「飽きないぜ」

 ローラーの付いた椅子をコロコロと転がし、十代は遊星に更に近づく。髪の先が触れそうなほどの距離で覗き込まれてろくに動けない。うん、満足げに十代は頷いた。

「オレはキミのその目がすごく好きで、多分よく見たかったんだ」

 いま文字通り目前にあるのは恒星、太陽だ。そんな馬鹿みたいなことを本気で考えた。強力な重力で惑星を引き寄せて銀河を作る。ただでさえ自転しながら公転で恒星の輪郭を追いかけて、惑星はさぞ眩暈で大変だろう。よっぽど強い力が働いている。

「また見せてくれ。毎日だっていいからさ」

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