同じ階の住人というだけで、特に何かがあったわけではなかった。それでも顔を覚えていたのは、店の常連客であるジャックの同居人の一人だからだ。シャンプーの時に聞く愚痴に交じった名前は遊星。無愛想で、無口で、どこか相手を威圧する空気を持っている。
それ以上関わることは無いだろうと思っていた。しかアパートの階段に腰かけ、近所の子供たちにデュエルを教える遊星の顔は遠目の印象と全く違っていたから、十代は思わず声をかけたのだ。ふと見上げた顔は今でも覚えている。あの日から彼が気になって仕方がない。
―――その長い前髪が。
「遊星!」
息を切らしながら腕を掴んだ。同じアパートに住むこの青年が住んでいるのは階段すぐ側の端部屋、十代が住んでいるのは反対の端部屋だ。しかも悪いことに遊星の通常の足はバイクである。駆け寄らないとすぐ見失ってしまう。今日はどうやら逃さずに済んだようだ。
「遊城さん?」
「十代でいいって、そう呼ばれるの慣れてないからさ」
遊星の手にはファイルが握られている。今から大学に向かうのだろうか。休日以外はあまり姿を見ないのだが、珍しい。率直に問えば少し忘れ物があってと返された。
「ジャックは元気か?」
「はい……いつもの通りです」
ジャックは十代の勤める美容院の常連客だ。同居している遊星やクロウと違い、己のビジュアルに気を遣うジャックは、頻繁に店を訪れる。十代はまだ見習いで実際のカットはまだできないが、いつもシャンプーで彼の話を聞くのがお決まりになっている。どこか偉そうな風体だが根はいい男だ。十代のシャンプーの腕を何かと買って褒めてくれる。
「あ……急いでるんだったか」
「いえ、大丈夫です。何か」
何か。そう問われれば、十代にはどうしても言いたいことがあった。ちらり、気づかれないように遊星の目元を観察する。やはり、長い。前髪がかなり目にかかっていて邪魔そうだ。遊星は何の問題も無さそうに振舞っているが、実際邪魔に違いない。――切りたい。とても切りたい。しかし突然そんなことを言われても困るだけだろう。しかも十代はただの見習いだ。
「いや……珍しく見かけたからな。またデュエルしようぜ」
「はい!ぜひ」
「遊戯さん……オレ悩んでるんです……」
「遅刻の原因はそれなのか?十代」
開店準備のため店内を清掃しつつ、大先輩でありカリスマ美容師である遊戯に十代は胸の内を吐き出した。しかしこの先輩の返答はつれない。十代の遅刻は最早常習なので、そうでないことは分かりきっている上での皮肉だろう。すみません寝坊です、十代は素直に謝った。
「それは知ってるさ。で、一体何に悩んでるんだ」
「ある奴が……気になって気になって仕方ないんです……」
「え……っ!?それって……!それって!?」
大通り沿いのガラス窓を丁寧に拭き取っていたこの店のオーナー(こちらも、名前は遊戯だ)は、店内に戻ってくるなり十代ににじり寄った。その勢いに思わず半歩下がってしまう。しかしオーナーの遊戯はまるで気にすることなく、感動したようにため息を吐いた。
「そうか……十代くんもついにね……」
「相棒はよく分かるだろうな。杏子が居るもんな」
「もう一人のボク!」
オーナーの遊戯は顔を赤くしてもう一人の遊戯の名を鋭く呼びつけている。十代はこの二人に何かと世話をしてもらってきたので、口を挟む余地があまり無い身だ。しかしなんだか居心地の悪い勘違いをされている気分になって、ええっと、と割って入る。
「オレ、そいつの前髪がどーしても!切りたいんですよ!」
「ま……前髪?」
「長いのか。そんなに」
「そんなにって言うか……いや、長いんですが、目にかかるくらいで……邪魔だろうなって思うともう耐えられないんですよー!」
「ああ……なんだかボクも覚えがあるよ、そんな人……」
目元に影作ってるくらいだったから切ろうかって提案したら怒鳴られた、恐ろしい逸話をオーナーは披露している。遊星も何か信条があって伸ばしているのだろうか。もしそうなら、いやそうでなくとも、十代が抱えているこのなんとも言えないモヤは余計な世話でしかない。
「うーん……そうだねえ、十代くんも結構カットの研修を重ねてるし、そもそも腕は確かだしね。ボクの時みたいな人じゃなかったらその人にカットモデル頼んでみたら?」
「……カットモデルを?」
「うん」
カットモデルは、見習い美容師の研修として、営業時間外に客のカットを安価や無料で行うものだ。悪く言えば実験台だが、見習いと言えども何年もカットの訓練は重ねている。その施術が安く、またはタダで受けられるなら、乗り気になる人間も多いだろう。
「無料って事でさ。声かけるだけかけてみなよ」
「……はい!」
これで遊星に声をかける口実と、久々にカットができるチャンスが手に入ったのだ。浮かれる十代に、もう一人の遊戯の声は入らなかった。
「ただ前髪が気になるだけなら、道歩いただけで気でも狂いそうだけどな」
「カットモデル、ですか……」
休日の朝、都合のいいことに、十代は遊星をアパートの階段で見つけた。また子供たちとデュエルをしている。先日の遊星とのデュエルを覚えているらしい双子から、十代さんだ十代さんと騒がれて悪い気はしない。
「ああ!タダだし、オレだって訓練は重ねてるから、もしキミさえ良ければ……だけどさ!」
「だが、オレは別にまだ髪は切らなくても……」
「ええー!?遊星、せっかくだよ!」
「そうよ。それに遊星……なんだか前髪長いみたい」
「そう……だろうか」
双子は同時にうん、と頷いた。十代も一緒に深く頷きたいところだったが、なんとか堪える。そんなにオレって下手そうかな、そう冗談交じりに呟きながら時計を確かめると、ギリギリどころではなく完全に遅刻の時間帯だった。遊星に声をかけた時もしっかりデュエルをしたものだから、その後二人の遊戯にこってり絞られたものだ。
「あーヤベ、オレもう行かなきゃ。店閉まるの9時だから、そのあたりに良かったらきてくれ!じゃあな!」
二本指を挨拶代わりに立ち去る。返事をしっかり聞けていない状態だったので正直なところ期待はしていなかった。しかし今、遊星は十代の前で椅子に座って背を見せている。
「カットの後の確認はボクたちがやるから。もし気になることがあったら遠慮なく言ってね」
「十代の腕は確かだ。安心していいぜ」
髪質やカットのイメージを検討している傍ら、遊星は大先輩たちの言葉に頷いた。遊星の要望としては「全体的に少し短く」だ。あまりスタイルを変えたくないのだろう。とにかく十代は前髪さえ切れればそれでよかった。早速ハサミを構える。シャキシャキ、軽い音が響き始めた。十代の接客態度などを片付けつつ見守っている遊戯たちの視線を感じる。
「慣れてますね」
「言ったろ。訓練重ねてるって。それに……」
実のところ、散髪の技術は海外を放浪している際身につけたものだった。それで食い扶持を繋ぐこともあったくらいだ。今は日本に戻り、世話になっている遊戯たちの元で働くために四苦八苦している最中なのだが。
「……そうですか」
「日本で美容師になるって結構大変なんだよな」
「納得しました。見習いだとは思っていなかったので。ジャックがいつもあなたを褒めている」
「へへ、サンキューって言っといてくれ」
バランスを見ながら髪の量を少しずつ減らしていく。くせっ毛のせいで目立たないだけで、前髪以外もかなり髪の量が多くなっているようだ。うん、ひとつ頷く。納得のいったところで遊星の正面に回った。
「前、切るぞ」
「はい」
遊星が目を閉じる。そうしていると、鋭い印象は鳴りを潜め、どこか幼く見えた。一直線にならないよう気を遣いながらざりざりと前髪を切る。ぱらぱら、黒い髪がハサミの後を追って落ちていった。仕上げにブラシで顔に付いた毛を拭ってやる。
「終わったぜ」
遊星が目を開くと、そこには案外大きな瞳があった。青とも言えない、落ち着いた藍色が十代をしっかりと見返している。つられるように顔を近づけ、その色を確かめた。
「十、代さん……?」
「あ、悪い」
前髪が気になるんじゃなくて、前髪が「十代にとって」邪魔なのが気になっていたのか。なんだか合点がいった。しっかり見えるようになった目に満足し、十代は機嫌よく遊星をシャンプー台へと導いた。