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昼下がりのねむり姫 (遊ジャ・パラレル)



 白々しいチャイムの音を聞きながらルーズリーフをファイルに綴じる。広々とした講義室に詰まっていた人間がこぞって出口へと雪崩ていった。昼休みに入った途端、校内にある食堂や購買は人で溢れかえるのだ。一刻も早く目当ての席や昼食を確保したい気持ちは分からないでもない。しかし、そんなに混雑する時間帯に競って同じ場所に集合すると言うのは、遊星には理解しがたい心理でもあった。遊星と同じような心境の幾人かは、講義室に残って弁当を広げ始めている。さて、どうするか。シャツの胸ポケットにペンを戻し、ファイルとテキスト片手に立ち上がったところで振動を感じた。尻ポケットの携帯電話だ。表示されている発信者はクロウ・ホーガン。

「クロウ?」
『遊星悪ぃ!今日もギリギリになりそうなんだけどよ、どーも要るもん全部忘れちまったみてぇで……』
「分かった。取りに戻る。丁度次の時間は授業が無いんだ」

 よくあることなのでみなまで言わせず、遊星は諾を返した。遊星はこの大学の昼間部の学生だが、クロウは夜間部だ。丁度入れ替わる形なので、クロウの忘れ物は同居している遊星が取りに戻り、学校で受け渡しができる。

『悪ぃな!玄関にまとめて置いてあっから!』
「慌てて忘れてしまったんだな」
『そうなんだよなー、さっき思い出してさ……あっ、ヤベ配達の途中なんだ』

 クロウはバイク便の仕事で生計を立てている。自分自身で立ち上げた配達業だが、知り合いのツテもありそこそこ繁盛しているらしい。このままで行くと、同居している3人の中でクロウが一番の出世頭になるかもしれない。

「そう言えば、『ねむり姫』はどうだった」
『だめだな、全っ然。揺すっても怒鳴っても起きやしねえ。とんだ姫さんだよ!』
「……そうか。呆れた奴だ」
『はー……この話は始めると長いぜ。後でな』
「ああ、午後も頑張ってくれ」
『おうよ!』

 通話を切り、電話をポケットに戻す。潮が引いたように人もざわめきも引いた講義室を見渡し、遊星は廊下に出た。秋口の肌寒い空気は、窓が陽光を取り入れている部分ではぬるい。いい天気だ。『ねむり姫』にとっては、最高のうたた寝日和と言ったところか。

 遊星とクロウと、ジャック。3人の出会いはキリスト教系の孤児院だった。同世代だった3人は、それぞれ性格は全く違ったが、なんとなく馬が合い、同居し助け合いながら暮らしている。一人では苦しいところも、3人居ればなんとかなることは案外に多い。文殊の知恵とはよく言ったものだ。

「ただいま」

 律儀に挨拶をして、ドアを閉めた。返事は無い。狭い玄関はすぐキッチンと居間に面している。それはそのまま遊星の居住スペースだ。2DKの構造上、どうしても一人はそうなってしまう。パソコン機器やジャンク品などが山積し、お世辞にもきれいとは言えないリビングのソファーに我が物顔で『ねむり姫』が横たわっている。あれは遊星のベッド代わりなのだが。ひとつ息を吐き、キッチンからグラスを取り出して水を注ぐ。ソファーに歩み寄った。

「ジャック」

 しゃがみ込んで名を呼ぶが、ソファーにしかめた顔を押し付けて眠るジャックから応答は無い。ただ窓から入る光がジャックの金髪をこれ見よがしに日に透かしているだけだ。はっきりとした顔立ちには影が落ち、コントラストを作る肌は白く、昔本か何かで見た彫刻を思い出す。

「ジャック、もう起きてるだろ。水だ」

 低い唸り声を上げてジャックが寝返りを打つ。冬眠前の熊みたいだ――実際に見たことがあるわけではないが。背と後頭部を見せ付けられるような形になった遊星は、足元にグラスを置いてあぐらを掻いた。ゴミ捨て場から拾ってきて布を張り直したソファーは丈が低い。座ってもジャックの頭は随分下方にある。

「午後の授業くらいは出ろ」

 大学内での教授の手伝いやいくつかの臨時アルバイトを暇な時間にこなす遊星と違い、ジャックは完全に夜型の生活だ。学部は違っても同じ昼間部の学生なのだが、ジャックは午前中の授業にことごとく出席していない。理系の遊星には信じがたいが、今のところ留年の心配は無いというのが驚きだ。肩に手をかけ揺するが、独特の匂いがわずかに漂ってきただけだった。酒臭い。他にも様々な匂いがする。

「……ジャック、臭いぞ」
「なんだと……」

 肩に置いた手が掴まれる。やはり起きていたんじゃないか。重たそうな瞼の向こうでは、充血した紫が日光を透かし、遊星を睨みつけている。

「聞き捨てならん。お前には言われたくない」
「そうか。おはよう」

 涼しい顔で水を差し出すと、ジャックは機嫌の悪そうな顔で体を起こし、グラスを奪って飲み干した。空のグラスを突き返されたので反射で受け取る。随分上方に移動した目線は、きれいな直線で遊星を見下ろした。

「なんだ、文句でもあるのか」
「いや」

 遊星が早朝に新聞配達に出る前にはまだ帰っていなかったから、ジャックが帰ってきたのは少なくともその後だ。それはクロウがいくら声をかけても起きないだろう。その生活サイクルは正直どうかと思うが、あまり干渉もしたくない。ジャックがどこで何のアルバイトをしているのかも、興味は無い。

「昼飯、まだだろ」
「……腹が減ったな」
「オレもまだだ。何か食っていこう」

 立ち上がると、ジャックは仕方ないとでも言いたげに大仰なため息を吐き出して立ち上がった。ぺたぺたと裸足でフローリングを踏み、浴室へ向かっていく。それを見送った遊星は、何とは無しに手の内のグラスを弄ぶ。ソファーにはまだ、ジャックが引き連れてきた匂いが残っているようだ。ジャックがどこで何をしているかはどうでもいいが、ジャックがこの家に存在しないアルコールやタバコ、香水の匂いを引き連れてくるのは気に入らない。

 すぐ出かけるのに、窓を開けた。秋の涼やかな風が動いて、部屋の空気を容易く入れ替えた。

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