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花葬



花葬(百合)

「……おい」

 鼻唄など漏らしつつ、庭の花々の手入れをしている壮年の庭師に声をかける。この屋敷でただ一人の庭師は、誰かから声をかけられるなど予想もしていなかったらしい。目をぱちぱちと瞬かせながらゆっくりと振り返ってくる。

「……お坊ちゃま……!?」
「そこの、」

 投げやりに動かす指を、白い花が咲き乱れる一群へと放る。百合でございますか、と庭師の遠慮がちな声が割り込んできたのでそれを睨みつけた。いい年をした男はすぐにたじろぐ。

「それを秋に植え替えると聞いたが」
「ええ、百合は三年も植えていると土がダメになっちまいますから。……この百合がお気に入りでしたか?それでしたら……」
「いや」

 長くなりそうな話を一言で制して、目下の百合を見下ろした。真っ白な花弁が広がって、それを見返してきている。湿ったような滑らかな曲線の合間から、強い芳香が漂っていた。

「……なら、この百合はもう要らないな」
「え……いえ、植え替えと言っても場所を移すだけでして……そしてここの土を変えて、」
「要らないな」
「は、はい」

 物言いたげな庭師を捨て置いて、ただじっと静かに咲き誇るその白い花を見つめる。暗い緑の最中に浮かぶように咲くその姿は、不吉なほどはっきりとした輪郭を持っていた。草葉と花で、モノトーンの世界を作っているように錯覚する。

弔いにはお誂え向きの花だ。

 避暑などと適当な理由で送り込まれた別荘では、見事に何もすることが無い。屋敷で、あれだけ寝る間もなく常に何かを頭に詰め込まれていたのが嘘のようだ。朝は誰に起こされるとも無く自分が目覚めた瞬間から始まり、夜は自分が眠りに落ちた瞬間に終わる。その事実を受け入れるまで、ただ呆然とするしかなかった。

 誰も早朝のまだ空も白まない時分に起こしに来ない。
 誰も食事のマナーについて手ひどく批判しない。
 誰も机に座り本を開くよう強要しない。
 誰も罵らない。誰もぶたない。

 海馬剛三郎という人間は、本当に『駒』の使い方を知り尽くしているのだ、と今更ながらに実感する。屋敷での日々と比べてあまりに長閑な日々は、言いようのない恐怖と激しい焦燥を生んだ。このまま静かな時間にゆるゆる絞め殺されるだけで一生を終えるのではないだろうか、という錯覚が頭をついて離れない。これは間違いなく剛三郎へ刃向かったことへの罰なのだ。いや、モクバのこともあるので表向きで刃向かったことはない。だが刃向かう心を持っていると見抜いた上での制裁なのだろう。そしてこれはいつ終わるか――そもそも終わるのかさえ分からない。

 ギ、ギギ……カタン

 古びた窓を押し上げると、軋むような音がした。だが屋敷より明らかに使用人の少ないこの別荘だ。誰も気づきもしなかっただろう。庭の草木の匂いの滲んだ夏の空気が、夜の気配と共に窓から飛び込んでくる。虫の声が気だるげに地を這っていた。童実野では見えないだろう星も、足元を照らそうかというほど明るい。窓の向こうの静寂を確かめて、窓枠に足をかけた。別荘に一階より上は無いので、難なく着地してざらついた土の上を走る。向かうは百合の群れだ。わずかな星明りにさえ白く照らされて、暗闇の中でもすぐにその姿が分かった。手近のものを一輪手折り、広い庭を進む。美しく彩られた夏の花々を煩わしく思いながら、奥へ奥へと駆けた。何かを目指していたわけではない。この平坦な時間の連続が終わるなら何でも良かった。

 ザザ……ザァ……

 次第に近くなっていくのは海の波音だろう。ここに送られる遠路が終わりを告げる頃、その姿ばかりが窓から見える風景を占めていた。
 息が上がって、そろそろ肺が苦しい。だが何かに追われるように走る。走る。走って、茂みを抜けると狭い道に出た。登り坂を少し辿ると、そこで道が終わっている。そのあまりの唐突さに言葉を失いながら道の断面を覗き込めば、ごつごつした岩肌と、それにぶつかる波飛沫が遥か下方に見えた。そしてゆっくりと左手の方に視線を伸ばすと、厳つい岩肌が砂浜に変わっていっているのが分かる。

 何だか力が抜けた。
 懸命に走ったその先が、この急な断崖と黒々と蠢く海原だけであったということに笑いしか出ない。崖の先ギリギリまで近づく。海が作る風が髪や頬を嬲る。

 手の百合を捨てた。

 白い影が、たまに風に揉まれながら頭を下に落ちていく。波の上に音も無く着水して、ゆらゆらと揺れてはこの世を惜しむようにゆっくりとその身を海中に沈めた。百合が沈んだ後も、しばらくはその場に佇んで黒い海面を眺めていた。

「わあ、今日も綺麗だね」

 一度この小さい岬で出会ってから、毎晩現れるようになったドジな少年が呟く。今日も道すがらこけたらしい。当人はハンカチを返そうと思っているようだが、毎晩どこか怪我したのでは返ってくることは無いだろう。

「一番大きなものらしい」
「……それも棄てるの?」

 怪我の痛みにかいたべそを引きずりながら情けない顔で見上げられると、どうしても弟のモクバを思い出してしまう。もし二度と屋敷に戻されなかったら、きっと一生会えない。そしてモクバは自分と同じような仕打ちを受けるかもしれない。そうでなくてもまたどこかの施設に放り込まれるかもしれない。

「棄てる」
「そっか」

 少年はそれ以上何も言わず押し黙った。すん、と鼻をすする音だけが響く。百合はやはり何度か軌道を変えながら、ふわりと海面に落ち着いた。波に揺られて、やがては沈んでいく。それを、少年と共に見送る。しばらくは波の音だけが耳に聞き取れる音だったが、隣の少年が何度も口を動かそうとしているのが気配で分かった。煩わしく思いながらも先手を打ってやる。

「お前はここの人間か」
「え!?ううん!おじいちゃんのとこに遊びに来てるんだ。あ、じーちゃんじゃなくておじいちゃんだよ!」
「そうか」

 よく分からなかったが、地元の人間ではないらしい。それにしてはこの人の手など殆ど入っていない界隈をよく知り尽くしている。それを指摘すると、暇だからと返される。暇に飽かせてあちこちと遊びまわっているらしい。夜にまで飛び出すほどだ。地理に詳しくなるのは必然だろうか。

 少年はあまり自分から喋ろうとしないが、つつくと面白いほどに話をした。その殆どがこの辺りを独りで遊び回った話だ。少年の住んでいる街の話は少しも出ない。
 海で、砂浜で、岩陰で、川で、山で、木々で、家の窓から眺めるばかりのそれを、少年は駆け回っている。その様を思い描くのは愉快なことだった。

 初めのうちは百合を放ればすぐに別荘に戻っていた。だがやがて、何をするでもなくその場に留まるようになっていた。誰も知らない、少年と自分だけの知る時間だ。そこに居る間は、自分が何者かはあまり考えなくてよかった。少年しかその世界には居ないからだ。

 強い日差しを厭ってあまり昼間は外に出ないが、ほんの少し庭に出る時はある。どの百合を持っていくか見当をつけるためだ。セミの鳴き声が陽射しの降る音と勘違いしそうなくらい、夏の暑気は凄まじい。日光を睨め付けながら百合の元へ向かう。そこで愕然とした。

「お坊ちゃま?」

 庭師の声に勢い良く振り返り、百合は!と語気を荒げる。三輪を残して、後は全て花が切り取られていた。

「え……お気づきになりませんでしたか?気に入りのようでしたので、お部屋の花瓶に生けておきましたが……」

 呆然とする。そこで庭師を詰っても良かった。部屋に戻ってその姿を認めても良かった。だが無慈悲な夏の日差しの下でただ立ち竦むことしかできない。
 ここに咲いていたことを知っていても、人によって花瓶に生けられれば、それは自分にとってどうでも良い事実にしかなり得ない。

 弔いの時間が終わったのか。

 ぼんやりとそう思った。だからその夜は残りの三輪全てを手折って、海の底に沈めた。もう百合が無くなってしまった。少年にはそう告げた。馬鹿な幻想を見る時間はもう終わったのだ。

 ザザ……と波が押しては返すのがよく分かる。岬のぎりぎりまで歩を進めると、吹き上がる風でめまいのようなものを覚える。百合の無い手を握りしめた。
 実のところ、自分にも何に対する弔いかは分かっていなかった。弱い自分を葬るための手向けだったのか、それとも自分自身を葬るためだったのか。
 だが今日は百合が無いのだ。理由といえば、それだけだった。

 浮遊感ばかりが強くて、水面に打ちつけられても不思議と痛みを感じない。口端から漏れる水泡が月を目指して上っていく。視界は地上に居るより澄んでいた。このまま沈むのが当たり前のように。

 ―――    !     !!

 確かに名を呼ばれた、と思った。樹木の花が散るようにひらひらと花弁を引き連れて、必死に伸びてくる手がある。それを見て初めて呼吸が苦しいことを自覚した。その手を取ってはいけないと思っていたはずなのに、体は勝手に手を伸ばしていた。指を絡める。ぐいぐいと引っ張り上げる力を、これほど感じたことは無いと思った。

 荒い息と共に震えながら、波打ち際で少年はもう白い花はやめにしよう、と囁く。閉じた瞼の向こうに睫毛が触れて、少年の存在を知らしめていた。荒い吐息と指から伝わる熱を苦しく思った。時折睫毛が揺れる。

 ああ、もうやめにしよう。ここに来るのも、都合の良い夢を見るのも。

「瀬人様、お迎えに上がりました」

 夢を見た。夢で溺れていた瀬人は、やはりあの小さな少年に助けられていた。それを苦々しく思いながら鷹揚に頷く。早朝に別荘に戻った瀬人は、ずぶ濡れの姿を使用人に見つかった。その連絡が行ったのかどうかは知らないが、こうなることは何となく予想していた。

「父サマは何と?」
「『もう充分だ』と」

 笑い出したい気分だ。あの屋敷に帰れば、あの男の要求するようにどの分野でも勝ち進んでやろう。今いくら反抗したって意味は無い。勝った先にあるものが正しいものなのだ。

「こちらへ」

 門の外には黒い車が止まっていた。黒服の誘導するままにその車に乗り込もうとして足を止める。門の太い柱の下に、赤い厚ぼったい花が太い茎ごと添えられてあった。手にとって門を振り返ると、見送りの庭師がすぐにそれに気づく。

「ほうせん花、でございますね」

 赤が滲んだような色は、白い花弁を染め抜いたようにも見えた。勘違いした庭師が別れの御託を並べているので、その花を押し付けて黙らせる。

「これを海に棄てろ」
「は……?」

 釈然としないような庭師を置いて車に乗り込んだ。瀬人が座席に着くとすぐに車は動き出す。あの真っ赤な花びらも、暗い海に揉まれて海底へ沈むのだろうか。瀬人は目を閉じて脳裏に浮かぶその情景を消し去った。

 どうせすぐに忘れる。

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