「御伽くん、おはよう!」
明るい声に驚いて思わず背筋を伸ばす。声のした方へ振り返れば、淡く光る朝の青空によく似合う笑顔がそこにあった。瞳を少し見開いてしばらく考え、それから御伽は笑顔を作る。多少ぎこちなくなってしまったかもしれない。
「あ、ああ……。おはよう」
まだ戸惑いが残っていた。完膚なきまでに叩きのめさねばならないと教え込まれて来た人間と、朝の通学路でこんなにも呑気に挨拶を交わしているのだ。炎に包まれた自分たちの店を目の当たりにして、身の内に巣食っていたわだかまりは随分消化できたと思っている。だが、それをこの復讐の対象――武藤遊戯にも求めるようなことはさすがにできない。本当に酷い仕打ちをした。
だが最近は、その戸惑いがくだらないことであると分かってきてもいる。
「……? どうしたの? 調子悪かったりする?」
「いいや。そんなことはないよ」
「ならいいんだけどさ」
遊戯が何の邪気も無い様子で見上げてきた。遊戯も、そんな彼の友人も皆そうだ。一度懐へ入れた者を疑うなんてことは彼らの頭の中には殆ど『無い』。あらゆる冷たい言葉や態度を予期していたが、何一つとして的中しなかった。これでいいのだろうかとよく独り頭を抱えているが、多分彼らに言わせれば『いいに決っている』と返ることなのだろう。御伽自身もそう思えるか、思ってもいいかについては、これから考えていっても構わないことのようだ。
「……今日は早いね、遊戯くん」
思考にはひとまず区切りをつけて差し障りの無い話題を口にする。いや口にしたつもりだった。だがあからさまに足を止められ、驚いた顔で見上げられ内心焦る。
「ど、どうしたんだい?」
「え……本当だ……。本当だね……! すごいや、今日ボクものすごい早起きしちゃったよ!」
「……ってことに、今気づいたわけかい?」
「うん、すごい楽しみで!」
「『楽しみ』?」
毎朝早めに学校へ登校する御伽と違い、どちらかと言うと遊戯は遅刻スレスレで教室に飛び込んでくるタイプだった。そのおかげで今までこうして登校中に顔を合わせることも無かったのだ。
「そう! 海馬くんが学校に来るって言うんだもん!」
「『海馬くん』……? もしかして海馬瀬人、のこと?」
二年で同じクラスになった、常に空っぽの席の主の名前だった。著名人だからゲーム関連のイベントで見かけることはあったし、学内でも遠目に見つけたことは幾度かある。だが目の笑っていない作ったような笑顔が苦手だ、程度の印象しか持てなかった。半年ほどは表舞台にも学校にも現れなかったのだ。それ以上の印象を持てというのが酷な話である。
「そうだよ! やっぱり知ってる!?」
「ゲーム業界じゃ知らない人間はまず居ないからね。初めてこの学校に居るって聞いた時は驚いたよ。最近あんまり見てないけど……」
「海馬くん忙しいからさ。ずっと学校に来れるほどの暇も無かったんだ! でも、来るって! すごいでしょ! 楽しみだぜー!」
「確かに……楽しみ、かもね」
あのM&Wの生みの親、ペガサスに高く評価されたというソリッドビ・ジョンシステムを始めとした海馬瀬人のゲーム開発は常に関係者の注目を集めていた。ゲーム開発者の一員としては興味のあるところだ。だが遊戯がまた足を止めて御伽を凝視してきた。特におかしなことは口走っていなかったはずだが。
「な、何?」
「……ううん。何でもないよ?」
「じゃあ何で止まったのさ」
「え? あ、本当だ」
少しぎこちない動きで遊戯が歩き始める。一瞬疑問に思ったが、本人に自覚が無いようなのだ。問い詰めても明確な答えは返って来ないだろう。寝起きでまだぼーっとしているのかな、などと自分を納得させる。
「彼、結構ファンも居るみたいだよね。遊戯くんも海馬くんのこと好きなの?」
後で考えれば、おかしな反応だったのだ。ゲーム産業会社の社長、もしくはゲーマーとして尊敬しているという範疇に収まりきる表情ではない。またも立ち止まって、今にも溶けそうな照れた笑顔を浮かべるなんて。
「うん、好きだよ。大好きなんだ」
「まあ、結論から言うと……アレはああだから、もう放っといてやれ」
「指示語ばっかりじゃないかっ!」
本田の呆れたような視線の先には、学校の机の上で堂々とノートパソコンのキーボードを叩いている海馬と、それを正面からただじっと見つめている遊戯が居た。そこから一歩も動こうとしていない。
「本当遊戯って、お人好しっつうか……。よくあんなイヤミヤローに構ってられるぜ」
「そういう問題じゃないだろ城之内! だってあの、海馬くんが来た時の反応、見たろ!?」
「あん?」
ただ海馬に不快感を表すだけでてんで鈍い城之内にため息をつく。遊戯が海馬を席に案内しようとし、その手を取るか取るまいか数秒悩み、結局先導するだけに留まった様は異様だった。椅子を引いてもらって、そこに当然とばかりに腰掛ける海馬も海馬だ。大体、以前はあんな無愛想な人間では無かったと思ったが。素はああだったのか。
「……貴様は何がしたい」
海馬がふと手を止めて遊戯を見上げた。そうだよ! そこだよ! でもやっと今聞くの!? と声に出して叫びたいところをぐっと抑えておく。
「えっと、見てたいんだけど……だめかな」
「相変わらずわけの分からん奴だ。そこでノートパソコンの表面を見ていて何が楽しい」
「見てるのは、海馬くんだよ」
「同じことだ」
「同じじゃないよ!」
居た堪れない。これは本当に居た堪れない。助けを求めるように本田に視線を戻すと、既に興味なさげに城之内と談笑している。
「……君たち親友なんだよね? 遊戯くんと」
「まあな」
「おう! ったりめえだろ!」
「……あれ、放っといていいの?」
「逆にどうすりゃいいのか教えてくれよ」
「何がだよ」
「…………」
午前終業のチャイムが鳴り響いた途端、わっと教室中が沸き返った。誰もが束の間の休息である昼休みに心を躍らせているのである。最近は遊戯たちと昼を過ごすことが多い御伽だが、今日ばかりは考えあぐねていた。適当な理由を付けてどこか別の場所で過ごそうか、いやでも……その逡巡が命取りというやつである。
「遊戯ー、メシ食おうぜメシ」
「うん! あ……」
遊戯の隣に立っていた海馬が明らかに顔をしかめた。それにつられて城之内もむっと顔を歪ませる。両者睨み合いで膠着状態になりかけたところに遊戯が割り込んだ。
「海馬くん、城之内君たちも一緒に、だけど……いいよね?」
「貴様の取り巻きなどやかましいだけだろう」
「そんなことないよ! 皆面白いし優しいよ」
遊戯の身振り手振りを含めた必死の説得は涙ぐましいものがある。だがふと立ち返ればやっぱりおかしくないだろうか。何故海馬にお伺いを立てるのか。普通はいつも昼を共にする面々にまず許可を得るものだと思うが。
「海馬くん……!」
「……フン、そこらに群生する雑草などオレの目にも入らんわ。生えたければ勝手に生えろ!」
「ありがとう、海馬くん!」
そこはありがとうと流してしまっていいのだろうか。かなりの暴言を吐かれた気がするのだが。同じことを考えたのか、城之内が拗ねたような顔で遊戯を見つめたが、行こ! の一言に渋々歩き出す。
「御伽くんも行くよね?」
「え、いやボクは……」
「行くってさ」
「ちょっと!」
「お昼食べないの?だったらもらっていい?」
「食べるよ! 何で食べない話になってるんだ!」
本田と獏良に畳み掛けられて、結局はいつもの一行プラスアルファに加わることになる。獏良はどうだか知らないが、本田は異様な空気に耐えるため人員を増やしたいだけに違いない。くそっ。
向かったのは屋上だ。正午の空は朝見た薄いパステル色に何度も青を重ねて塗ったような色をしている。陽射しが少し強い。しばらくすれば、もうこうして悠長に日光浴などできないほど獰猛な光に変わるのだろうが、初夏の日差しはまだ爽やかだ。
「海馬くん、お弁当持ってきた?」
「こんな薄汚いところで口にできるものなど無いわ」
「かーっ! 何様だっての! 王サマかお貴族サマか!」
「城之内くん!」
そんな爽やかな風の下、相変わらず遊戯は海馬にべったりだった。不機嫌に城之内を睨みつつも、海馬は何も言わず自分より低い位置にある遊戯の肩に身を預けた―――預けた? ちょっと待って、いきなり何してるんだ、この人。
「かっ、海馬くん!?」
「休みが終わったら起こせ」
「ああ――うん、分かったよ。おやすみ」
慌てたように身じろいでいた遊戯は、海馬の言葉ですぐに優しい笑顔を浮かべた。その目から慈しみの溢れた視線が惜しみなく海馬へ注がれている。それをじっと見ているのは悪いことのような気がして、御伽は思わず視線を空へ彷徨わせた。そしてすぐさま何故こんな気を回さなくてはならないんだ、と思い直す。
「遊戯くん」
「しーっ!」
「……遊戯くん、って……その、いつから『そう』なの?」
「『そう』?」
海馬のためにボソボソと声を潜めて会話しているのが気に入らないのか、城之内が不服そうに鼻を鳴らした。だが特別騒ぐ気も無いらしい。やはりこの男もただのお人好しだ。
「えーっと……好きなんだよね、海馬くんのこと」
「うん! 好きだよ!」
「抵抗とかは無いの? ……やっぱ、男同士って色々気になると思うんだけど……」
「へ……」
遊戯は本当に何を言っているのか分からない、という表情をしてみせた。それからすぐに顔中真っ赤になって、更にその顔色を真っ青にするという芸当を披露してのける。
「なっ! 何言ってるのさ!!」
今度は御伽がきょとんとする番だ。興味本位に突っ込んだ話をして気に障ったのだろうか。それにしては随分大っぴらにいちゃついていたが。
「決闘者として、尊敬してるし好きなんだよ! そういう意味じゃなくて! そんな、海馬くんに失礼だよ……っ!」
「……下衆の考えそうなことだ」
「かっ、海馬くん起きてたの!?」
海馬に失礼じゃなければいいのか。そもそも何故赤面した。
立派に下衆認定されてしまった御伽は思わず空を仰いだ。本田がだから言ったのにという態で、アレはああだから、と呟いてくる。確かにそうだね、アレはああだからもう放っとこう。
「ごちそうさまー! 今日も美味しかった!」
獏良の元気な挨拶が高い青空に響き渡って、御伽は悟った。あまりのその呑気でゆるやかな時間に呆れながら。
(だから勝てないんだろうな……。)