※ パララブ学園アレ夏猫ラブコメファンタジー(過積載)
「うわっ」
思わず声が出た。寮の机の上に置いた腕と椅子に座る膝との隙間にするりと何かが滑り込んできたからだ。反射でペンを放り出して両腕が浮き、丸めていた背筋がピンと伸びる。慌てて見下ろした腿の上はクリーム色の滑らかな毛並みが覆っていて、ふにふに小さい足に踏まれている感触がある。やがて安定するところを見つけたのか、乱入者は前脚を折り込んで丸まった。尻尾をするするアレンの足に添わせ、満足そうなアーモンドアイでこちらを見上げてくる。
「お前、また来てたのか」
「全然気づかないからシビレ切らしちゃったんだよ! ねー?」
アレンの膝の上を占領する乱入者──毛並みの美しい猫の首元に指を添わせているのは同室のアンだ。猫は少しも嫌がる素振りも見せず、気持ちよさそうに目を細め首を伸ばして自分から撫でられにいっている。んーいいこいいこ、ご満悦のアンの笑みも声も、これまで一度も聞いたことないくらいデレデレだ。
この猫は数週間前から唐突に現れては部屋の扉をカリカリ引っかくようになった。毎晩HIPHOP漬けのアレンはまったく気づいていなかったのだが、アンは一体なんの怪奇現象だよと気味悪がっていたらしい。いつどんな時も思い切りが良すぎるアンは、アレンに相談することもなく意を決してドアを開け放ち──そしてするりと体を滑り込ませてきたこの猫が今ではすっかり三匹目のルームメイトとして部屋に落ち着いている。もし本当に怪奇現象だったとしたら、アレンはHIPHOPを聞いたまま何も知らずに取り憑かれていただろう。猫で良かった。でも話が分かる霊だったらHIPHOPの良さを分かち合えた可能性もあるか。
「せっかくアレンに会いに来てくれてんだし、もっと構ってあげなよお」
「俺よりアンだろ?」
「いやいや絶対アレンでしょ! 見なよ! めちゃくちゃくつろいでるし!」
ドアを開けて招き入れたのはアンだし、顔が広くてあちこち出歩くことも多く猫に懐かれる機会が多そうなのもアンだ。いまひとつ納得できないまま視線を下方に落とせば、丸い瞳が待ち構えていた。ひげがピンピン立ってこちらを向いている。自分でも何が面白いのか分からないがつい笑みが漏れ、そのひげの先をぴこぴこ指先で触ってみる。
「こんなもんじゃないのか? 猫、よく知らないけどさ……」
国内外のコンサートに飛び回る両親に、ペットを飼うなんて考えすら無さそうに見えた。アレン自身もペットが欲しいという考えになったことは無い気がする。そんな考えを持つ隙間すら無かったと言えばいいだろうか。だから、猫に限らず動物と触れ合うのはこれがほぼ初めてに等しい。そういうわけで、アレンは猫という生き物がどれほど気まぐれで、自由奔放かつマイペースでありながら、その暴力的魅力で人間をたやすく奴隷にしてしまう存在だということを知らずに生きてきたのだ。恐れおののくこともなく、じっとこちらを見上げて動かないひげ先を指先でこわごわ跳ねて呑気に遊んでいる。
「何も無いぞ、あげられるものとか」
苦笑を零すと、なーう、と猫はのんびり鳴き声を返した。あまり鳴かない猫なので少し驚く。じっと見下ろして様子を窺っていると、なーう、もうひとつ鳴き声が上がって首が少し伸びる。
「そこはLOVEでしょ、LOVE! 撫でてって言ってるよこれ!」
「おっ、じゃあそこにPEACEとUNITYを足して……!」
「結局HIPHOPじゃん!」
「お前も聞くか?」
何がそんなに気に入ったのか。毎度こうして懐かれているのだが、未だにどう触るのが正解かよく分からない。HIPHOPを薦めつつ、手の甲でそっと艶やかな毛並みに触れてみると、もぞもぞと背中がうねって体を擦り付けてくる。ふ、と思わずまた笑みが漏れた。
「それにしても、どこの子なんだろ? こんなにキレーなんだもん、野良じゃないよね」
「そうだな……首輪とかも無いし」
「そりゃあ飼い猫じゃなくて飼われてあげてる猫だからでしょ? あっ、やっぱりい?」
なーう、アンの言葉にタイミングの良い鳴き声。もしかしたら今日は機嫌が良いのかもしれない。しかし、寮で聞いてみても誰も知らないどころか見たことすらないと言うのは不思議だ。一度猫好きの北斎に見せようとしたことがあるのだが、そういう時に限って姿を消していくら待っても出てこない。大きな体をしょんぼり丸めて帰る後ろ姿に覚える罪悪感は凄まじかった。
「多分ほら……これこれ! 授業中ずーっと検索しててさ! このアビシニアンってやつ! 絶対これだよ!」
「授業中に何してんだよ……」
「アレンにだけは言われたくないでーす!」
もはや定番の会話を脳を介さずに交わしつつ、差し出されたスマホのスクリーンを覗き込む。確かに、すらりとしした体つきや滑らかな毛並みには似ているところがある気もする。手の甲にすり寄る姿と、小さな画像たちをちらちら往復して見比べた。
「うーん、でもちょっと毛の感じが違うような気がするけどな。もっと明るめで柔らかい感じだし」
「確かに……何かとのミックスかな?」
「あたっ」
ぺしり、急に尻尾が伸びてきて膝を強く叩いた。実際は痛くもなんともないが、完全に油断していたので声が出てしまった。「放っとかれて怒っちゃった?」、アンが興味津々にゆらゆら揺れる尻尾を眺めている。猫に出会ってから色々と調べているアンによれば、尻尾は猫の急所らしい。触られるのを嫌がる猫が多いと知っていて手を出せないが、猫よりも旺盛な好奇心が抑えられないのか手がワキワキ動いている。そんな我慢を理解しているのか、それとも単純に手の動きが面白いのか、尻尾がその手にペチペチ当てられた。うわあ、顔一面を笑みに崩してアンは大喜びだ。やっぱりアンのほうに懐いてそうだけどなあ。
「あっ、そーだ! 首輪も無いならあだ名つけちゃおうよ!」
「勝手にか?」
「あだ名ならセーフでしょ! 何か無いと呼ぶ時不便じゃん!」
「そうでもないだろ。これまでも全然困ってないぞ」
こうなったアンはアレンが何を言っても聞く耳なんて一切持たない。そもそも猫にとっては呼び名に本名もあだ名も無いと思うのだが。こっちが勝手に名前を付けても自分のことだとは分からないかもしれない。まあ、だからこそ好き勝手付けてもいいのか? アレンは呆れつつも敢えて止めず、猫の背をこわごわ撫で続けた。猫も興味なさそうに頭を前脚に乗せている。くあ、と口が開いた。多分あくびだ。
「全然ダメ! BuiscuitとかMilkとか普通の名前でこのnobleな感じは出せないよねえ」
「食べ物ばっかだな……アビシニアン、だっけ? じゃあアビーとかでいいんじゃないか?」
「んー、悪くはないけど……」
考え込みながら、アンはその場にしゃがみ込んだ。アレンのキャスターつきの椅子を無造作に引っ張り出して、猫の顔を覗き込めるベストポジションに移動させている。もはやアレンは猫置きの扱いである。
「はじゅんだ!」
突然の大声に猫の尻尾が浮き、毛がぼわっと広がった。「おわっ」、再び声が出てしまう。思わず宥めるように背を手のひらで撫でていると、アンもゴメンゴメンと首を傾げて猫の顔を覗き込んだ。しかしその笑みにはちっとも申し訳なさそうな色はない。ヘーゼルの瞳には宝石のような輝きがキラキラ満ちている。
「見てよこの顔! この『しょうがないですねえ』って顔! 会長にソックリじゃない!?」
ずーっと何かに似てるって思ってたんだよねえ。スッキリしたあ。うんうん、アンは一人で納得して深い頷きを繰り返している。なあう、唸り混じりの小さな鳴き声とともに尻尾がパタリと倒れてアレンの膝にまた添った。さすがアン。猫も諦めている。
「言われたら、そう、か……?」
「ええ!? なんでピンときてないんだよお! 絶対そうじゃん!」
「似てたとして、そのまま猫の名前にするのはちょっとだろ……」
「もうそうとしか見えないんだもん! 会長も貴族感あるし」
体を屈めて「しょうがないですねえ」顔を覗き込んでみる。が、人間と猫の顔なんて比べようもない。ただ、「貴族感」という感覚はなんとなく理解できそうだ。猫も会長──あらゆる意味で有名人である高等部生徒会長の燕夏準も、自然体で余裕を見せつけてくるFlexがよく似ている。
「洋裁部でなんかの許可もらいにいく時とかイヤミ攻撃される時は嫌いだけど、見回りに来た時は結構褒めてくれるんだよね。頼んだらモデルもやってくれるし! そういう時は好き!」
「確かに容赦無いけど、話はちゃんと聞いてくれるよな。部昇格のために何が要るかとかちゃんと教えてくれたし。HIPHOPとか、興味ないかなあ……」
「興味あったら、すっごく刺さるリリック書けそうだよねえ。弟会長くんとのバトルもすごいしさ。でもクラシックとかしか興味ないかもねえ。ただの勝手なイメージ」
学科が違うので、アレンが夏準に接する機会はHIPHOP同好会の会長として用事がある時だけだ。洋裁部の部長のアンも同じだろう。確かに色々厳しいことを言われたこともあるが、それはアレンの書類などに不備があったからで、筋の通らないことは言われたことがない。元々悪い印象は持っていなかったが、つい最近、その印象が更に少し良い方向に変わるきっかけがあった。
「この前、林間学校で結構喋って、面白いヤツだなって思ったから。もっと、話せることがあるといいんだけどな」
学科や学年を超えた林間学校のフィールドワークのひとつで、たまたま一緒になったのだ。会話を交わしていく内に真面目なだけでない面白い考えをいくつも落としていくので、貝がらを拾う子どもみたいにアレンは無邪気にそれを楽しんでいた。
「その時、HIPHOPのことも話してみればよかったじゃん。いつもみたいにさ」
「そう、だよな……」
夕暮れの中、海辺でのフィールドワークの終わり際、波とよく分からない生き物の謎の汁びたしになったアレンを、一瞬きょとんと見下ろして呆れたように笑い出す顔。その顔をぽかんと見上げたアレンの顔は、さぞ笑われるに値する間抜けなものだっただろう。その後、林間学校が終わるまで、その顔を何度も思い返していた。そうすると夏準に話そうと思っていたことが頭から全て消えて、目の前にある無難な言葉しか唱えられなくなった。
「ま、会長、逃げるの上手そうだしね。アレンに捕まると長くなるってバレてたかあ」
「捕まるってなんだよ。俺はただ、HIPHOPの良さをみんなに伝えたくて! 今年は特に、最近動きが無かったベテラン勢が国外でも国内でも新作とかツアーとかで復活してて! 今絶対に聞いとかないと」
「はじゅーん、僕、オヤツ探してきてあげるからねえ」
「おいアン!」
猫置きとしてロクに動けないアレンをいいことに、アンは身軽に立ち上がって猫──改め「はじゅん」にひらひら手を振った。サービス旺盛な猫の尻尾がひょいと上がり、パタリと倒れた。まるでアンの言葉に返事しているみたいだ。さすが特進科~! などと合いの手を入れつつ、立ち止まることもなくドアがパタリと閉まる。
ふう、突然静かになった部屋に溜息の音が大きく響く。ちら、と賢い「はじゅん」がこちらを見上げた。ふと、先ほど見せられた猫の画像に覚えた違和感の原因をもうひとつ見つける。画像の猫たちはこんな瞳の色ではなかった。
「確かに、似てるな。ちょっと。目の色とか」
夕陽の中で溶けるようなピンク色。見上げたあの色にとてもよく似ている。ゆっくりと瞬きを繰り返すその色をしばらく眺めていた。