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3AM



 夜が途切れてしまった。画面を走っていたカーソルが止まった途端に。

 誰もいないリビングはしんと静まり返っている。なんとなく首元でヘッドフォンをいじってみるが、ググ、とアームが軋むだけで大した音にはならない。ついさっきまで、あの音をここにハメようとか、いい感じに削ってジングルにしちゃおうとか、楽しく考えていたはずだ。もう一度カーソルを動かせばまた、簡単に繋がる。それが分かり切っているのに。急に何もできなくなってしまった。

 自分の存在を音楽で証明すると決めた。それから、命も魂も一滴残らず全部音楽に注ぎ込んでいる。それはつまり、体に何が起きても死なないということだとさえ思っている。「朱雀野アレン」が死ぬのは、作り上げた曲たちが傷つけられたり消し去られた時だけだ。だから組み上げる曲は、いつも新しく、心を揺さぶり、夏準やアンの溢れる表現を受け止め切る力がなくちゃいけない。この音が、このリリックが、この曲がそうなのか? 本当に、これが俺なのか?

 揺れる炎の色とビニールが燃える不快な匂いがノイズのように頭をよぎる。手を、動かさないと。ここで止まるのは呼吸をやめるのと同じ。死んでしまうかもしれない。そんな馬鹿げた考えに追い立てられているのに、手が動かない。ぐっと自分の右腕を握り込み、深い呼吸を繰り返す。パチパチ爆ぜる火花。

 大きく息を吸い、その場に立ち上がっていた。呼吸が浅い。まずい、頭のどこか冷静な部分がそう囁くが、体は落ち着きなくリビングをウロウロさまよっている。トラップ反応でもないのに胸を圧迫する暗い感情から、どうにか逃れようと本能が藻掻いているようだ。体をいくら動かしたって心に付きまとうものを振り落とせるわけもないのに。

 足が勝手にリビングのドアに向かった。ドアに額を擦り付け、はあと深いため息が落ちる。何度もやめようと躊躇って、けれど結局ドアノブを握り込む。こうなったらもうダメなのだ。他の方法なんていくら考えても思いつかない。そもそもそんなもの無いかもしれない。

 暗いリビングに滑り込むと、パッと廊下が暖色で染まる。それだけで少しだけ肩の力が抜ける自分が情けない。スリッパの音の大きさがやけに気になって廊下に脱ぎ捨て、裸足でヒタヒタと奥のドアに近づく。

 拳をそろそろと上げたが、そのまま何もできずに立ち尽くす。ノックをして何も返事が無かったら。それを考えるのが嫌だった。ドアノブに手をかけ、何度か呼吸をして、けれど結局落ち着けないままそっと押し開ける。

 音も光も遮断された暗い部屋に、廊下からの光がすっと走る。その線に導かれるように体を傾け部屋の中へ滑り込んだ。ドアを細く開けたまま、光の線を辿ってベッドまで近づく。

 すう、すう、穏やかな呼吸の音。ゆるやかに上下する胸。背後から滲む淡い光に照らされる白い頬を見下ろした。長い睫毛が影を作る、どこか幼さのある寝顔。涼しく切れ込んだ目が閉ざされているせいでそう見えるのか、厚めの前髪が散って額が見えているせいか。

 人差し指をそっと、頬に沿わせてみる。呼吸の気配が手元に近くなった。それだけのことに、何故だかひどく泣きたい気持ちになって顔をしかめ、指をひっこめた。ゆるゆる脱力するようにしゃがみ込み、ベッドに頭を伏せて丸くなる。自分でもよく分からない何かを堪えるように震える息を吸って、吐き、それを繰り返す。

 すると、額の少し上のあたりに何かが触れた。咄嗟に顔を上げると、瞼を重そうに引き上げている夏準が指先を伸ばしている。目が合うと、やはり眠そうに口元をゆるく引き上げて笑った。少し口が開いて、ふっと吐息を零し、あごが少し動いた。それでも動けないでいるこちらを見かねて指先が億劫そうに少し揺れる。

 まずその手を取った。いつもより少し体温が高い手をベッドに押さえつけ、体を少し起こして唇を重ねる。唇をついばむみたいなキスをいくつも重ねていたが、その内また目元が熱くなってきて体を起こした。見下ろす夏準はやっぱり眠そうな目で笑っている。

「바보야」

 寝起きの掠れた声。聞いたことのある甘い音の響き。眠気でうつむく睫毛をぽかんと間抜けに眺めつつ記憶の中に手を突っ込んで漁り──ようやく少し笑えた。

「……バカって?」
「よくできました」

 長い腕がのったりと上がり、こちらの腕に手が沿った。そのくすぐったさに眉を寄せると、ふふと機嫌良さそうに空気が揺れる。首に回った腕のせいで体がベッドに引き戻され、ベッドに足を乗り上げて横に倒れる。ギシ、ベッドが小さく軋んだ。

「おい、」
「バカはバカらしく生きたほうが賢明ですよ」
「バカバカ言うな、よ」

 一応は反論してみるが、頭を抱えるように抱きしめられて喉がきゅっと閉じ、変なところで休符が生じてしまった。そもそも、寝ているところを叩き起こしたのだから文句なんて言えるはずもない。我慢できずに背に腕を回しぎゅっと力を籠めると、ポン、ポン、と眠たげなリズムで背中を叩かれる。

「そちらのほうがボクの好みです」

 この男にしては優しい、なだめるような声の色だと思った。耳に流し込まれる掠れ声の甘さに、何も返せない。

「よかったですよ……アレンがばかで……」

 二人分の熱で眠気がぶり返してきたのか、どこか浮ついた声が夜の中に溶けて、解けた魔法を丁寧にかけ直している。どうしてこいつはいつもこうなんだろうと思う。何も知らなくても、ほしいところに居て、ほしい言葉をなんでもなさそうに放ってくる。どうしてこいつは。

「バカを好きなやつはバカだろ……?」

 子供みたいな返事に答えはない。すう、すう、穏やかな寝息が夜を繋いでいる。

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