「こんな時間にどこへ行くつもりだ」
「こんな、時間?」
玄関ホールで呼び止められ、夏準はゆっくりと振り返った。正面を見つめ、そして視線を下に持っていく動きも忘れない。わざとらしいその振る舞いに東夏の整った眉がピンと跳ね上がるのが分かった。愉快だ。
「ああ、そうですね。アナタの門限からすればすっかり遅い時間ですからね。心配をかけてしまいましたか?」
自分の腕時計を眺め、少し考える素振りを見せてから微笑みを戻す。今度は眉根が明らかに寄ってしわになった。
「人の発言を切り取って曲解することばかりに心血を注ぐのはそろそろやめたらどうだ? 貴様よりも、門限の早い、この僕に! 完膚なきまでに敗北する前にな」
「예、예。いつまでも格好いいお兄ちゃんでいてあげますね? 期待通りに」
く、くう……と声にならない音が細い喉で震えている。なんと健気で可愛い弟だろうか。きっと感動で打ち震えているに違いない。良かった良かった。踵を返して再び外へ向かおうとする。
「待て! そうじゃない! それでごまかしたつもりか!?」
「おや、気づいてしまいましたか」
「馬鹿にしているのか!?」
鼻息荒く足を踏み出した東夏が腕を組んでこちらを睨み上げてくる。仕方なくまた体を戻し、少し首を傾げて先を促した。ハア! 苛立ちを固めた溜息が吐き捨てられ、人差し指が胸元に突き刺さった。
「お前、使っているな」
「なんのことでしょう?」
無言でできた視線の橋。片方は穏やかな微笑み、片方は険悪なしかめ面なので、当然強度がまったく出ずにすぐに崩壊してしまった。
「忠成!」
「ハイ、坊ちゃま」
予想よりも遥かに早く、しかもごく近い返事にさすがに少し驚いた。身をかわそうとしたが一瞬遅く、さっと差し出された葉の匂いをまともに嗅いでしまう。脳の芯が溶けるような感覚でぐらりと体が揺れる。しかし、床に倒れ込む衝撃に備える必要はまったくなかった。ずるずるとずれ落ちる服の隅間から抜け出して、床に四つ足でぴったりと着地する。
「この一族の秘密が万が一にも外に漏れることがあったら……! ことの重大さが分かっているのか!?」
なーう、とりあえず返事をしてみたが、ギッと音がしそうなくらい引き絞られた鋭い視線で睨み下ろされただけだった。やれやれ尻尾を左右に振る。バレたところで、こんな珍妙な現象をまともに信じる者などほぼ居ない。信じるような場面が流出したとて、それがなんだというのだろうか。むしろバズって財閥イメージの向上に繋がりそうなくらいだが。
「それを、わざわざ外で……!? 一体何に使っている!? くだらんことなら容赦しないぞ!」
別に猫扱いされたいわけではないが、猫に真面目くさって指を突きつけていて虚しくならないだろうか? くあ、大口を開けてあくびを漏らすと、東夏はワナワナと体を震わせた。両腕を勢いよく振りかざしてきたかと思えば、脇をがっしりと掴まれた。
「今日は絶っ対に外に出さないからな……!」
東夏の自室に放り込むつもりのようだ。アンの言う「しょうがないですねえ」顔で、体を引き延ばされた体勢で夏準はされるがまま運搬された。まあ、今日くらいは大人しくしてやってもいい。
燕一族が持つ謎の「呪い」は、マタタビを嗅いだり食べたりした時、体調が悪い時、そして──マタタビと同じくらい脳を溶かす感情を誰かに持った時に発現する。つまり、どうせ何をどう止めたって無駄なのだ。