※ フルコンタクト = 接触過多の意
※ アレアンがくっついていると思い込んでいる燕夏準
手首を上げてスマートウォッチで走った距離が目標を無事超えたことを確認する。朝焼けに染まった空気を深く吸い、ゆっくりと吐き出しながらペースを徐々に緩めクールダウンを始めた。どくどくと血液が体中を正しく循環し、体中にじんわり熱を灯している。タイムも平均ペースも何もかも「いつも通り」だった。それが不思議でたまらない。歩きながら右手を朝陽にかざしてみる。何の変哲もない滑らかな肌を光が切り取って輪郭を描いている。
最初に感じたのは手の違和感。引きつるような感覚で物を取り落としたり取り損ねることが増えた。そしてそれは次第に明確な痛みに変わっていく。融解した金属がゆっくりと冷え固まるように指先から重く、硬くなり、無理に動かそうとすると鈍く軋んだ。その感覚が腕へ、肩へと広がり、やがて肺や胸元にも広がると、ランニングで上がる呼吸や心拍に耐えられるはずもない。二人に少しでも何かを感じ取らせないために重い右腕を抱えてただ歩いている、虚しい時間をただすり潰していた。つい数日前まではそれが日常だったはずなのに。
「おーはーよっ!」
「앗?」
自分の手ばかり眺めて油断している背中に軽い衝撃を受け、思わず声が出た。振り返ると、ヘーゼルの瞳を笑みで押しつぶした朝陽よりも明るい笑みが待ち構えている。思わず上がっていた肩を下げて苦笑を返した。その隙を狙うように胴に腕を回されて背中にへばりつかれる。
「ちょっと、汗をかいてますよ」
「どーでもいいの、それは!」
アンは笑みを無理やり捻じ曲げるように口元を引き結んで口角を下げた。不満げな絵文字にそっくりだ。わざとらしく不機嫌を表明しているらしい。トラックジャケットにハーフパンツのお気に入りのセットアップは、今日はファッションだけではなく本来の用途も兼ねているのだろう。子供みたいなしかめ面がおかしくて、思わず笑みが漏れた。
「ボクは起こしましたよ?」
「もっと授業の時みたいに起こしてよ!」
「『付いてくる』と言うのであれば、メインはボクですよね。ボクのルーティンに合わせてもらわないと」
「You are so mean! ……一緒に行くって言ったの、本気にしてなかったでしょー?」
鋭い指摘だ。しかも、二人に対して大きな借りができてしまったタイミングでの。笑みを浮かべたまま何も言わない夏準に、アンの絵文字は次第に目をぎょろつかせた顔に変わりつつある。んー、とひとつ唸り声を上げ、胴に回った腕の一本が上がった。指先がひょいひょいと内側に動く。人を呼ぶときの動作だ。何がしたいのか分からず笑みのまま眉を上げると、屈んで! と鋭く返される。素直に体を傾けた頬に素早くアンの唇が付いた。ちゅ、と軽い音を立てて離れていく。
「おはようのキスでカンベンしてあげるよ!」
「……はあ」
夏準の反応が薄いせいなのか何なのか、一瞬笑みに戻ったアンの顔にまた不満が戻ってくる。だが夏準には少し気になることがあるのだ。ちらりと目だけで周囲の様子を確認する。高層ビルとマンションの立ち並ぶエリア、人影は少ない。まばらに行き交う人々も敢えてこちらを見ないようにしているのを感じる。君子危うきに近寄らずということわざが脳裏をよぎった。
「ちょっと! ヨソ見しない!」
胴のあたりにあった腕が首元に回されていよいよ逃げ場を無くされた。もうこうなったらしょうがない。きっと今が一番の「浮かれ時」なのだろう。そう思って苦笑した。アンの頬にまず軽く唇を付ける。するとニッと笑みになる目元、眉間、鼻筋にも続けて口を付けてやる。うひゃー、と妙な高い声とともにくしゃりと笑みが深くなる。
「おはようございます、アン」
「Morning! Your kiss was the perfect start to my day!」
「それは光栄ですね」
ようやく首元を解放されたので体を起こせば、アンの右腕が今度はするりと夏準の左腕に巻き付いた。次は最高の朝ゴハンだー! と意気揚々と太陽を指差している。どうやら一人でランニングに行く気はさらさら無いらしい。本人が昨日から言い続けている通り、ただ「夏準と一緒に行きたい」、それだけということだ。
「……早く起きて走れたら、もう一品。たんぱく質を補えそうなデザートを付けてもいいんですけど」
「ホント~!? 目覚まし時計増やそうかなあ」
アレンほどの重症ではないが、それなりに夜型のアンには有効性の無さそうな安直なアイディアを思わず笑う。何笑ってんだよ、嘘じゃないよね? とかじりつく口ぶりでアンも笑顔だ。朝陽を反射して輝いている錯覚まで見え始めた自分に内心で呆れる。ほんの数日前、ほんの数時間。たった二人の人間が夏準の世界の色味を完璧に塗り替えてしまっている。
──ねえねえ、見てよ!
鋭い囁き声が耳に引っかかり、つい目を向けたが、それは夏準に向けられたものではなかった。昼休みで混み合うカフェテリアのカウンター、夏準の二人前で順番を待つ女子学生たちが楽しげに話している声のようだった。肩を寄せ合う彼女たちの視線は窓際のテーブル席に向けられている。
まず目に付くのは、艶やかな髪が流れないように首元で押さえ身を乗り出しているアンだろう。真剣な顔で何かを話しているかと思えば、いたずらっぽく笑みを浮かべたり呆れたように半眼になったり、大きな瞳を輝かせて華やかに表情が変わる。周囲に座る学生たちの目を男女問わず吸い寄せているのが遠目にも分かった。そうして集められた視線は、アンの正面、片肘をテーブルに付いて背筋を丸めているアレンにも流れていっているはずだ。掘りの深さと目つきの鋭さで一見近寄りがたい雰囲気を醸し出していても、アンの言葉に緩む表情を自然と目で追ってしまう。瞳にかかる長い睫毛がアンバランスな繊細さを成立させている。アンが人差し指をくいくいと動かした。夏準にもやっていた、「寄ってこい」という仕草だ。素直に身を乗り出したアレンに二人組の学生たちは息を吞んだ。が、アンは何事かを囁いてすぐに離れていっただけだった。アレンが呆れたように表情を笑みに崩す。その変化が更に周囲の視線を集めていることに、きっと本人は死ぬまで気づかないだろう。
──びっくりしたあ、キスするかと思ったあ!
悲鳴のような囁き声に、ついつい笑いが誘発されてしまった。ふふふ、空気を揺らしながらひとつ前の学生に目だけで会釈をし、その先の学生の一人の肩を指で軽く叩く。振り返った女性が目を見開いたのはどういう驚きだろうか。夏準を知っているからか、BAEのことまで知っているからか。どれにしてもあまり興味は無い。Shh、指を口元に当てて囁く。
「ボクの友人なんです。騒ぎすぎないであげてくださいね」
「は」と「ひゃ」の間のよく分からない音が壊れた楽器のように鳴った。及第点のよい子の返事に笑みだけを返して視線をアレンとアンに戻す。
どんな理由であれ、耳目を集めればそれだけBAEの知名度に繋がる。けれど今、もう少しの間だけ、無責任で無神経な好奇心から二人を遠ざけておきたかった。
何か明確に宣言されたわけでもないが、悪漢奴等とのバトルを終えてから二人の距離感は明らかに変わった。夏準の見ていないところで何やらこそこそ密談している姿もよく見かける。その変化の原因を推測するのはそう難しくなかった。そんなこと夏準は望んでいなかったと言ったところで、心根の正しい二人が夏準を放っておくはずもなく、手を取り合って命さえ失いかねない危険へとダイブしたのだ。それまで自覚していなかった感情に目覚めるのには最適の吊り橋シチュエーションと言える。
そして、その推測に至った夏準が何を思うかと言えば──心からの「してやったり」であった。大きすぎる借りにはまだまだ見合わないにしても、それなりの貸しが同時に発生して想定外の帳尻合わせになったのは喜ばしい。音楽だけでなく恋のキューピッドまで対応可能な自分に自分で感心さえした。何より、世界中の何よりも価値がある二つの存在が手の届くところで横に並び、誰よりも間近でそれを見ていられることが、そんな日常が続けられることが愉快で──幸せでもあった。
だから、そんな二人の妙に浮ついた言動も、わざわざ無粋なことを言って止めるのは早々に諦めた。春の盛りのような喜びに沸いているだろうカップルに冷水をかけることはない。二人が伸ばしてくれた手を思えばどんなバカみたいなワガママも意味の分からない要求もかわいいものだ。二人の気が済むまでなんでも受け入れてやろうという、そんな気が人生史上最大の大きさになっていた。
「あ、夏準」
「はい」
夏準のアイディアも取り入れながらビートを作り込んでいたアレンが、パッと顔を上げて手首を掴んできた。そろそろ熱中モードに入りかけていることを悟り、寝支度のついでにコーヒーを淹れ直してやるかと中腰になったところだった。タイミング良く思いついたことでもあるのかとそのまま続く言葉を待ったが、アレンのワインレッドの瞳は夏準の顔にピタリと照準を合わせたまま動かない。怪訝に思いつつも椅子に腰を戻した。
「寝るのか?」
「ええ。ボクの今考えているイメージは大体伝えられましたし」
敢えて陳腐な表現をするとすれば「羽が生えたかのよう」だ。アレンのことを笑えないほどアイディアが湧き出てくる。この曲が、このステージが、この1ヴァースが最後かもしれない──そんな「覚悟」から解き放たれた今のほうが、伝えたいことが縦横無尽に体から溢れてくるから不思議だ。振り返ってみればあれは、「覚悟」なんて大層なものではなかったのだろう。二人と永遠に同じステージに立てないことの意味を理解せずに、向き合うことを止めていた愚かさや弱さだった。そんなどうしようもない感情で呆然と立ち尽くす子どもを見捨てず、追い縋り、正面に立ってくれた二人にこそ、伝えたい、見せたいものがきっと多すぎるのだ。手首を掴んだままの温かい手をなんとなく軽く撫でてみる。
「何かあるんですか?」
「うん……いや。寝るなら、と思って」
手の甲を柔らかく撫でられているアレンは、少し居心地悪そうに眼を泳がせている。それでも口の端に照れた笑みを滲ませて動かないでいるのが面白い。なんですか、それ。答えになっていないあいまいな言葉を小さく笑う。しばらくアレンは往生際悪く、幼児みたいにむにゃむにゃ言葉にならない音を持て余していたが、「夏準はさ」、と身を屈ませた姿勢からちらりと上目が上がってきた。
「俺たちのこと……愛してる、んだよな」
素直な表現はどこまでもアレンらしいのに、それを夏準に向かって言葉にするのはどこまでもアレンらしくない。面食らってしまったが、情けなく下がる眉を見ている内に段々おかしくなってきた。同じように身を屈め覗き込むように首を傾げる。
「それが、どうしたんですか?」
生死をさまよう体験が夏準自身にも大きな影響を与えたのだろうか。これまでは避けていた感情に何故だか少しも痛みも恐れも照れさえも感じない。手首を掴んだままのアレンの手の力が強くなり、すぐ間近にある眉根がぎゅっと寄る。
「俺も愛してる」
まず驚きが最初に来た。
そして次に、アレンの言葉がこれまで考えたこともなかったことだと気づく。
簡単に投げ捨てられた人生をただ吸って吐き、消費する日々に突如現れた鮮やかな光と色。それをどれだけ手元で眺めていられるか。それが夏準にとっては重要だった。見返りには意味が無い。期待したリターンの見込めない投資はただのギャンブルだ。そんな愚かな真似を繰り返さないように生きていたはずだった。しかし今胸の奥にじわじわとにじみ出る感情は、「喜び」以外に当てはまる言葉がない気がしている。す、と息を吐いて体を起こす。目を伏せてアレンの視線を外した。
「アレンは、いつも直線すぎます。妙な誤解をされないようにだけ注意したほうがいいですよ」
ごまかすような早口になった気がして気に入らない。アンとそんな会話をしている内に、らしくない語彙でも増えたのだろうか。ここだけ切り取られて浮気でも誤解されたら目も当てられない。それはそれで面白い気がするが、二人をからかって遊ぶのはもう少し後でもいい。は、苦笑を吐き出してアレンに目を戻すと、どこか不本意そうな表情を浮かべている。独特な顔立ちには険しさと柔らかさが同居していて、アンほど絵文字に似てこないのがまたおかしい。
「伝わらないよりマシだろ?」
「随分良く解釈しましたねえ」
「とにかくさ、そういうことだから。寝るなら、おやすみのキスしよう」
あまりにも当然のように言い放たれたので、一瞬聞き逃しそうになった。「は……はあ」、薄い反応しか返せない夏準に、アレンの不満も益々深まっていくのが分かる。しかしこの他にどんなことが言えるというのか。「おやすみのキス」? 正気ですか? アンならともかく、永遠に反抗期を引きずっているような男の口から恥も臆面もなく出てくるには響きが甘すぎる言葉だ。
「……アナタまでこうなるのはちょっと想定外でした」
「何がだ?」
「自覚が無いのは末期ですね。まあ、いいですけど」
付き合いで人が変わるというのは、まさに夏準自身も体感したところだが。それにしたってこの数日でHIPHOPバカの習慣まで変えるとは。恋とは恐ろしいものだ。このままでは視線も手首も解放されずに夜を明かしそうなので、夏準は観念してまた身を乗り出した。自分で言い出したくせに、距離が近づくと衝撃にでも備えるように目が閉じそうになるアレンに呆れる。やはり「らしい」照れが残っていそうで安心した。下りかけた瞼をちょうどよく捕まえてキスを落とす。
「おやすみなさい。愛してますよ、アレン」
つい本音が囁きに混じった。人のことを言えない自分の浮かれぶりを自嘲しつつゆっくり体を起こす。見下ろすアレンの瞳は丸い。真顔としかめ面の中間、なんとも言えない表情だ。少し泣きそうな表情にも見えるのは気のせいだろうか。アレン、思わず名前を呼ぼうとして手首がぐっと引っ張られた。オーバーサイズのスウェットの肩に口元が埋まる。腕で縛るように体がぎゅっと押さえつけられている。
「……おやすみ」
囁くように言って、放り出すように体が離れた。呆然としている唇に唇が重ねられたが、やっぱり泣きそうに歪んだ笑みに何も言えなくなってしまった。仕方がない。夏準には二人に返しきれない借りがある。その間は、この二人のちょっと浮かれた親愛を好き勝手に全身で浴びさせてもらうことにしよう。夏準はさっさと部屋を出ていくことを忘れて、アレンの肩に腕を回し抱きしめ返した。