んん、と鼻にかかった自分の声に意識の端が摘まみ上げられた。ブラインドの隙間から洩れる光はわずかなのに、やたらと煩わしい。眉根が思わず寄った。目をぎゅっと閉じ、はあ、誰にともなく恨みがましいため息を吐く。シャワーで洗い流せない熱や感覚が落ち着かず、大体「翌朝」は横向きにうずくまっている。半身に重力が傾いている気がする。はー……今度は深く息を吐いて仰向けになった。ブラインドの隙間から引かれた朝日が天井に光の線を描く。いつもより随分遅い目覚めだ。頭もぼんやりしている。昨日見上げた熱のこもった目の光を思い返すのもそのせいだ。体が本調子でないから、どうにかしていてもしょうがない。二度寝の誘惑に後ろ髪を引かれつつものっそり体を起こした。未だ下半身に残る違和感を努めて気にしないようにしながらスリッパで床を踏み、ドアノブに触れた。指を少し折る、たったそれだけの動作が湿った熱の生々しい感触を鮮やかに蘇らせる。
こちらの反応を注意深く覗うような情けない顔。探るようにこわごわ手のひらをなぞるくせ、離そうと動けば逃げを許されない。指を滑り込ませてぎゅっと押さえつけられる。
ざわ、と脚から胸に這い上がる良くない感覚に顔をしかめた。もう一度ため息を吐いて首を振る。こんな些細なことでいちいち足を止めている場合ではないのだ。燕夏準も、BAEも。
──それなら、なぜ「些細なこと」に時間を費やすんですか? 一度でなく、何度も。わざと煽るようなことまでして?
意味のない自問自答にはさっさと見切りをつけ、ドアを開けた。リビングには燦々と朝日が降り注いでいる。この時間でも一番乗りらしい。苦笑しつつキッチンへと足を踏み入れた。習慣で体が勝手に動きケトルを火をかけたものの、その先がどうにも億劫だ。どうしても何かを腹に入れたい気持ちにならない。原因は明らかなのに分からないフリを貫きながら白湯だけをカップに入れた。どうせ休日は二人とも昼近くまで起き出してこない。昨晩で言えば、毎度特に異論も無く夏準にシャワーを譲るアレンが眠るのは夏準より遅い時間だっただろう。いつもに比べればむしろ早い就寝時間なのかもしれないが。
日光に温められたソファーにまたもやのっそりと身を沈めた。両手で包むカップからほかほか湧き上がる湯気で視界が暈けている。その温もりを前髪のあたりに感じつつ、馬鹿みたいに呆けていた。
「夏準?」
アンの顔が真正面に差し込まれて初めてカラーグラスを忘れていたことに気づく。朝日を背にして影にぼかされるアンの顔はまだ眠たげだ。ふあ、と間髪入れずに大あくびが零された。くっきりと長い睫毛の先、あくびで滲んだ涙に灯る光のアイブロウをぼうっと見上げる。
「あーあ……」
あくびの余韻をわざとらしく引きずったアンはぼすりと隣に腰を下ろした。緩慢にその姿を追う夏準の目をつまらなそうな半眼で見返してくる。
「なんですか。わざとらしい」
「だってさあ、こんなことまで分かっちゃうのはさすがに気まずいでしょ」
夏準だって多少は気まずい気持ちもあったが、「翌朝」出くわす度に体調不良を疑われることに飽き飽きしてしまったのだからしょうがない。それにやったことと言えばヒントを二、三落としてやっただけだ。知らないフリも忘れ、それを大喜びで拾い、正解にまっすぐ飛び込んできたのはアン自身なのだから自己責任というものである。
「良かったじゃないですか。アナタが心配するような不調ではないですし」
「自分で言う? もっとうまくごまかしてよお」
3分の2だよ!? 3分の2!! 右手で二本、左手で一本指を立てたアンの力説は最早恒例のものだ。大きく振られる右手の二本指の先、ストーンが付いたネイルの光を眩しく眺める。
「……ごまかせてませんか?」
「僕にはね! だからズルイって言ってんの!」
見ていなかった左指が鼻先に迫ってきて少し顔を引いた。その反応の何が気に入ったのか、不満げだったアンの顔はたちまちニヤついた笑みになる。あからさまなからかう表情に、怪訝に眉をしかめることしかできない。
「見せてやればいいのに。その顔」
このしかめ面をだろうか? 意味が分からないが、それを口に出すのも癪で、ただ黙って次の言葉を待つ。しかし戦略を誤ったらしくアンはますます上機嫌の笑みだ。
「気づいてないの? インケン腹黒ドS王子様と同じ人と思えないくらいフワフワしてるのに」
ブレイク一拍。
ふわふわ……? あまりにも自分に向けられるには馴染みのない擬態語だったのでまともにオウム返ししてしまった。あは、アンが気の抜けた笑みを漏らす。
「ちょっとカワイイのがまたズルイんだよねえ」
「はあ……そうですね」
「そうですねじゃないよ! 言われ慣れてるのは可愛くなーい!」
「逆に聞きますけどボクに可愛いとか可愛くないとか言われて嬉しいんですか? アンは」
「えー? うーん……ファッションによる……」
「そういう話ではないんですが……」
「分かってんじゃん」
一人盛り上がっているアンに追いついていけない、追いつく気もない夏準を、アンは愛嬌たっぷりの笑みで覗き込んでくる。顔の造形も性格も全く違うのに、こちらの気を引いてHIPHOPに引き込もうと躍起になるアレンとそっくりだ。
「よく知らないけどさ、そーいう意外……って言うのかな、気の抜けたとこ、見たいモンなんじゃないの? そういうの好きそうな奴じゃん。アレンって」
ほんの一瞬、感情が不穏に波立つのを抑えられなかった。聡いアンが目を丸めたので咄嗟に目を伏せる。アンに悪気が無いことは分かっている。八つ当たりのようなみっともない真似はしたくない。
暗い部屋の中、アレンが何を思って何を好きでいるかなんて、考え始めたらキリがない。単純に原始的な欲を刺激されているだけで、好きなものなど何一つ無い可能性だってある。明るい部屋、アレンが情熱を傾けるものたちのことならよく知っている。HIPHOP。自分を取り巻く音と言葉の具現化。そこに重なる夏準やアンの音。そして夏準やアンの想い。そこに不純なものは何ひとつとして無い。朝日に溢れるリビングよりも光に満ちた未来。
そこに近ければ近いほど、深ければ深いほど心の奥に虚しく開いた隙間を埋められる気がする。そんな弱さを、肩を並べて立っているはずのアレンに見せるのが心底嫌なのに、夏準にとってアレンの他は無い。どんな代わりも利かない。逃げ場もなく触れた指先をしっかり握り締める手のひらの湿った熱に心臓が磨り潰されている気分だ。夏準、掠れた声で懇願するように名前を呼ばれると、もうやめろと突き飛ばしてしまいたくなる──のに、どうしようもなく満たされている。
ハッとしたのは、アンが伏せた目の先を懲りずに覗き込んできたからだ。こんなに健やかな晴天の下、一体何を考えているやら。真剣に心配しているらしいアンもかわいそうなことだ。思わず苦笑が漏れる。
「アレンは……ボクに付き合っているだけですよ」
話を切り上げるつもりの言葉だったが、アンの整えられた眉がぎゅっと寄ったので戸惑ってしまった。視線から逃れるように立ち上がると、アンもめげずに追い縋ってくる。
「それって、僕が心配する不調には入らないわけ」
「事実ですから、入りません」
体の奥に残る昨晩の名残を振り切るようにキッチンへと戻ろうとする。後に続くアンが息を吸う気配がしたので振り返った。口元に左手の人差し指を立てる。
「何がいいですか?」
「む、ぇ?」
「口止め料に好きな朝食にして差し上げますよ」
うっかり首を突っ込んだせいで引っ込みがつかない様子なので、手っ取り早くアンの罪悪感を買うことにする。お人好しに引き際を提供してやったつもりだったが、あからさまな安い篭絡に納得がいかないのか、不機嫌な猫のような唸り声が上がった。
「じゃあ要らない!」
「ああ、そうですか。残念ですねえ……気に入っているメーカーのフルーツジャムセットが届いたところでしたが……」
「うっ……」
「フルーツサンド……スコーン……ああ! パンケーキも悪くないですね。ブランチですから。少しくらい手の込んだものでもいいんですが……」
「やっぱりインケン腹黒ドS……!」
単純で可愛いアンと、いつもの日常に戻れそうで安堵しているどうしようもない自分とを鼻で笑う。何を食べさせてもどうせアンは余計なお節介を焼くのだろうが、どうせ大したことはない。夏準も、アレンも、アンと共に明るい部屋に留まっていることが第一で、その他すべては取るに足らないことだ。
そのはずだった。
二人で出かけたはずが、一人でリビングにドスドスと乗り込んできたアレンは、夏準を見つけるなりぐっと顔をしかめた。あまりの剣幕に思わず迎え打つ夏準の眉も寄る。今朝の話がアンを介して妙な形で伝わったのかもしれない。ひとまずどんな思い込みをしているのか聞き出そうとしたが、夏準の口が開くよりも先にアレンは大きく足を踏み出した。ぐっと手が握り込まれて不覚にも言葉を失ってしまった。昨晩と変わらない熱が昨晩の感触に重なっている。ぞ、と背筋に走る痺れを持て余している隙に強い力で手を引かれた。引っ張られた先はアレンの部屋だ。一際強い力で引き入れられてドアがパタリと閉じる。レコードやメモ、雑誌などで雑然とした薄暗い部屋。遮光カーテンが開いたままなので、レースの向こうから淡い街明かりだけが漏れている。
抱えた怪訝をどこにも下ろせず、ただじっとアレンの淡い輪郭を眺めるしかない。しかめた顔は少し硬い無表情に変わっている。アレンは何も言わない。指を絡めて手を握ったまま、同じように夏準の顔をじっと見上げている。静かな部屋では呼吸すら居心地が悪い。
「……アレン?」
他にできることもなく夏準がアレンの名を呼ぶと、すうとアレンは大きく息を吸った。空気に針でも含まれているのかと疑うくらい渋い表情だ。ぐっと腕が引かれる。わざわざ抗って揉める気もせず、大人しく引っ張られてベッドに足をぶつけた。そのまま空いている手を付いてベッドに腰かける。作業の後かトラップ反応の後か、沈む用途でばかり使われているベッドにこれまで夏準は横になったことはない。準備も、後始末も、全てアレンには関係のないことだと考えていたからだ。
座って下がった視線を、アレンの深く切れ込んだ目が覗き込んでくる。繋いでいない方の手が夏準の膝の上に乗った。ジーンズの上でも火傷しそうな熱を感じている気がする。
「俺に付き合わされてるって言われたほうが、何百倍もマシだった」
ようやく絞り出された言葉は、何かを堪えるように低く掠れていた。微かな音のはずなのに、空気にまで湿った熱を伝播する迫力がある。
「何言っても何やっても足りる気がしないし、終わりが無いから」
膝に乗った手が今度は肩に乗った。強い力ではない。けれどぐ、とかかる力に抗わずにベッドに背を付けた。昨晩と同じように、瞳の底で淡く揺らぐ火を見ている。
「伝わってないってことだよな」
肩を押さえられ、手を取られ、ベッドに背をつけて見上げている。けれど、アレンの表情には少しの余裕も見えない。まるで自分が追い込まれ、ひどく焦り、傷ついているようにさえ見える。いや、見えるのではなく、アレンは傷ついている。アン越しに伝わった、何の重みも角もないはずの夏準の言葉に。
握っている手をぎゅっと握り込み、もう片方の手でアレンの頬に触れた。不思議と、幾度となく体中を触れ合わせてきたはずなのに、初めてアレンに触れたような気がしている。
「アレンのせいじゃないですよ」
満たされている心とその代償に何かを踏みにじっているような痛みとでいつもぐちゃぐちゃになる感情が、今は驚くほど落ち着いていた。握った手を引き寄せ、今度は自分の頬に手の甲を寄せてみる。
「何を言っても何をやっても……足りなかったんです。ボクが」
どうにかこうにかどうしても欲しいものを引きずり込もうとして、アレンやアンよりも稚拙な手段を取ってしまった。たった一言こうして得られたらそれで良かったのに。そんな簡単なことが何故分からなかったのだろう。ふ、と思わず笑うとその息がかかったのかアレンの手の甲がピクリと跳ねた。先ほどまでの思い詰めた表情はどこへやら、見上げるアレンの顔にはどこか情けない困惑が滲んでいる。
「えーと……それは、さ」
「……はい」
「伝わってない、んじゃなくて……」
「ええ」
らしくなく迂回路を行こうとするアレンに思わず眉根を寄せると、観念したように口が閉ざされた。見上げていると唾を呑んで上下する喉がよく見える。肩に添えていた手をベッドに付いて、アレンはまた夏準の顔を覗き込んだ。
「もっと、ってことなのか?」
その真面目腐った顔を笑わなかった自分を夏準は自分で褒め称えた。なんとか取り繕った無表情に、アレンは自分が恥ずかしい勘違いをしたのだと思い込んでいるようだ。気まずそうに体が離れていくので、ベッドから少しだけ身を起こして離れようとする手を引き留めた。
「いえ、ボクとしてはもう満足しました」
「え!?」
「というか、解決したと言えばいいですかねえ……」
「あ、え……? 何が……」
自分が話していることと夏準が話していることとが重なっているのかを探ろうと狼狽える姿にとうとう堪えきれなくなった。喉を鳴らして笑うと、アレンはようやく自分がからかわれていると気づいたようだった。うー、熊のように唸りながら髪を搔いているが、握った手を振り払うことは考えもつかないらしい。ゆるく絡んでいた指の隙間を詰めてぎゅっと握ってみる。
「アレンは……足りないんですか?」
離れた距離を詰めて覗き込めば、案外すぐに折れてむっとした顔で「そうだよ」と返ってくる。そのどうしようもない返事におかしくなって唇の端に口を付けてやると、すぐに押し付けるようなキスが返ってきた。