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chill pill



 ついに勝ち取ったParadox Liveの頂点。そこに並んで立って見えた景色のあまりの眩さと広さに三人揃ってすっかり魅入られた、気がする。最初からそこが終着点などという凡人じみた考えは持っていなかったが、それでもそこに至った時には何か、満足とか達成感とかそういう椅子に腰かける瞬間があるのではと思っていた。しかしそれは甘い考えだったのだ。今、この高みに足をかけたからこそ見せられるものをヘッズに惜しみなく注がなければ。アレンの焦げ付くような熱気に夏準もアンも完全に引き込まれ、頂点の景色を曲に焼き込むことに没頭した。実のところラストステージからずっと、何かおかしな物質に脳を焼かれていたのかもしれない。アレンのことを笑えないほど曲にのめり込んだ日々だった。

「ここだ……」

 永遠に燃え盛るかと思われた熱は、アレンの感極まった囁きで瞬く間に心地良い温さに落ち着いた。ぐらりと傾く体を慌てて受け止め、アンと目を見合わせる。アレンが「ここ」と言うなら、間違いなくそこがこれまでのどの曲よりも最高の到達点なのだと知っている。知らず体に入っていた力を、苦笑と共に少しずつ抜いていった。アンと二人がかりでアレンをベッドに放り込み、「明日は思いっきり寝る!」と陽気に宣言するアンをはいはいと見送る。そうして、どうせ誰も起きてこないなら明日はボクも少しゆっくりしますか──そんな風に考えながら、自分の部屋へ向かったはずだった。少しといっても習慣のジョギングはこなしておきたいし、楽曲に打ち込んで疎かになっていた部屋の掃除もやっておきたい。自分の部屋はともかく、アレンの部屋の惨状は多少どうにかすべきだろう。そんな風に、いつものようにTo Doリストへタスクを順調に連ねながら日常に戻っていったはずだったのだ。

「夏準?」

 不思議そうなアンの声が降ってきて、重たい瞼を無理やり押し上げた。なんとなく、眠ったまま聞き過ごしたくないと思った。枕にしていた自分の右腕から重い頭をゆっくり引き剝がし、少しだけ首を浮かす。窓から入る遠い街明かりの中で、アンバーが眠そうにうっすら光っていた。いつ見てもどこに置いても輝くその瞳をぼんやり堪能する。

「なにしてんの、こんなとこで」

 こんなところ。そう言われて、夏準はようやく自分の体がソファに横たわっており、アンがその背もたれに手をついて覗き込んでいることを知覚した。思いっきり寝るんじゃなかったんですか、そう問いたいが口を開くのも億劫だ。眠気で暈けた頭がより短い言葉を探そうとしてしまう。

「……わかりません」
「ええ? 大丈夫?」

 伸びてきた指の上、ネイルも眠たげに弱く光っている。思わず目を閉じて大人しく額を撫でられる。「ちょっと?」、アンの声音に心配そうな色を感じて薄目をこじ開けた。このまま黙っていると面倒なことになりそうだ。質問は何だっただろうか──確か、ここで何をしているか。横になって眠ろうとしている。睡眠の質にこだわり抜いた自分の部屋のベッドがすぐそこにあるのに。

「ここから……離れたくありませんでした」

 ついさっきまで広いリビングに隙間なく満ちていた熱気が妙に惜しくて、その名残にブランケットのように包まって横になっていた。まぶたの裏にまで居座るローテーブルにかじりつく背中を眺めている内に、耳の奥に残って響く上機嫌なフックを聞いている内に、そのまま眠ってしまっていたのだと思う。

「なんですか?」
「……えっとね」

 アンの指が今度は頬のあたりに触れた。不審に思って目を上げれば、アンはなんとも言えない妙な笑みで唇をむずむず歪めている。

「かわいいこと言うんだもん」
「かわいい……?」
「うわ。狙ってないやつだ。ホントにレアじゃん」

 今の話のどこに「かわいい」要素が。アンのセンスを疑うのは料理以外では初めてかもしれない。いや、よくよく考えれば人に対する評価は理解できないことが多い。アンの中で妙に評価をされている数々の人間が思考にとろとろ流れてきたので眠気で無理やり押し流した。頬をくすぐるアンの指を止めるためにぎゅっと握る。くす、と我慢しきれない様子で笑みが降ってきた。

「僕もね、二人と曲作ったりステージのこと決めてる時が一番楽しいんだ。大変だけど、それもクセになっちゃうよね。ここのとこ夜更かしばっかだったし、そういう楽しいこと思い出しちゃって、目、覚めちゃってさ」

 なんだか子供みたいだな。そう思って夏準も笑えてきてしまった。くす、と笑みを返してやると、人のこと笑えないって分かってるかなあ、と拗ねたぼやきが降ってくる。握った指がゆらゆら揺らされた。

「どーせアレン、起きたらまたアレンジだーとか、新曲だーとか言い始めるからさ。……だから、また振り回されてやろうね?」

 降ってきた言葉の心地良さに浸り、しばらくアンをぼんやり眺める。そのうち言葉の意味が頭にまで浸透してきて、それが何よりも欲しい言葉だったことにようやく気が付いた。笑みで勝手に緩む唇を開いて、「はい」とひとつ機嫌良く返事を寄越してやる。

「……アン、『きもい』顔になってますよ」
「はいはい。照れない照れない」
「どこにも照れるところなんて……」
「明日になったらどうかなあ?」

 苦笑も気に入らないし、するりと引き抜かれた指も気に入らない。笑みを消してじっと見上げていると観念したようにアンが身を乗り出してきた。伸ばされた両手をぐっと握って体を起こし、ハグを受け入れる。

「おやすみ、夏準。ちゃんとベッドで寝なよ」
「そうします。おやすみなさい」

 挨拶のキスの代わりに頬を摺り寄せて離れ、眠気で重い体をのっそりと起こす。「いつもこれぐらいならいいのに~!」とかなんとか騒ぐアンを放り出して部屋に戻る。パタリと熱気の名残から完全に切り離されて、冷たい静寂の中に体を横たえた。

 目を閉じ瞼の裏を暗闇で塗り潰してようやく、アンに笑われてもしょうがない感情を子供みたいに抱えていることを自覚した。あんなにやっても、まだ足りない。多分満たされるほど箍が外れて足りなくなっている。もっと熱に焦がされていたい。ありとあらゆる方法で、自分が大切と思う時間と熱に満たされていたくてしょうがなくなっている。

 そうして、遅い朝に何が起きるのかというと。

 自分の行いを恥じる必要などこれっぽっちもない人生を送っている夏準は、ちっとも起き出してこないアレンに燻りつつも、アンと背中合わせで適当な本を流し読み、時にうたた寝をして有意義に一日を過ごしたのだった。

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