机上の空論という言葉を昔は馬鹿にしていた。そんなもの、血反吐を飲み込みながら机上にしがみついたことのない人間の戯言だと思っていた。定石を守り、戦術を外さなければ大抵の物事は思い通りに進む。そんなくだらなくて退屈な思い込みをたった一晩でぶち壊した男を、夏準は呆れと共に見下ろした。
「聞いても無駄だと分かっていますけど、一応聞きましょう」
夏準の言葉に反応し、唸り声を止めたアレンは顔を隠すように眺めていたメモをずらして夏準を見上げてきた。おっ、おかえり! 笑顔が部屋の電灯に照らされて一片の曇りなく明るい。というのも、ソファに乗っているのは足だけで、背中がラグに付いている妙な体勢のせいで影になる部分が無いのだ。ロシア系の血が彫る顔立ちの深さがかろうじて鼻筋や目元に影を沿わせている。
「……何をしているんですか?」
「ここ、どーしてもハマらないんだよ……」
まあ、納得のいく理由など最初から期待してはいない。どうせそんなことだろうと思っていた。うんうん唸っている内に寝不足が祟ってラグに倒れ込み、しかし目も頭も冴えているせいでリリックから離れられず、体勢を変えている内に妙なことになったに違いない。見ていなくても見える。
「よくそんなところで横になれますね」
ロボット掃除機が通過したら道を空けるよう厳命してはいるし、自分の納得のいく水準の清潔さを保ってはいる。が、正直なところ夏準はベッドでもないところで身を横たえるのには抵抗がある。はあ、これ見よがしに息を吐いてアレンの真横に立った。電灯が遮られて明るい顔に夏準の影が落ちる。
「アレン」
呆れをたっぷり練り込んだ声と共に手を差し出したのに、アレンは薄い影の中、口元を一層愉快そうに引き上げた。へへ、照れの混じった笑みをこぼして両手で掲げていたメモを片手にまとめ、足を床に下ろす。そしてゆっくりと右手を伸ばした。とても自分で起き上がる気も無さそうな弱い力で軽く手のひらが重なる。はあ、もうひとつため息。
「何がおかしいんですか?」
仕方なく手を握りぐっと力を込めて引き上げてやると、「痛いって!」とくすぐったそうな笑みをこぼしつつ幼児みたいなはしゃぎぶりだ。床に尻をつけたまま上半身だけ起こしたアレンは、にまにました笑みを隠さずに夏準の手をぐいぐいと引き返す。
「夏準」
だらしない笑み混じりのねだり声。煩わしい、というポーズを崩さないままソファにどさりと腰を下ろしてやる。目だけで「何ですか」と問えば、アレンは夏準の膝をあっという間に肘置きにしてしまった。その自分の腕の上に顎を乗せ、握ったままの夏準の手を頬に付けたまま嬉しげに夏準の顔を観察する。
「ふは」
そしてとうとう堪えられない、という風にくくく……と笑い始めてしまった。夏準の膝に顔を伏せ肩が愉快そうに揺れる。その振動をただ受け止めている。呆れた顔を維持するのに苦労しながら。
「……まったく。理解不能です」
「ええ?」
伏せられた顔がまたガバリと上がった。その勢いに思わず少し身を引いたが、握られたままの手に引き戻される。
「分からないのか?」
「分かってないといけないんですか?」
「うん」
一切の迷いのない即答。HIPHOPと、BAEと、二人の間にある何か。ここにアレンは絶対の自信があるらしく、欲しい物が手に落ちてくるまでちょっとやそっとでは動かせない。まるで駄々っ子だ。
「俺のこと、俺より知ってるのが夏準だろ?」
「初耳です」
「嘘つくなよ」
唐突な嘘つき呼ばわりにさすがにムッときて指を伸ばし鼻を抓んでやると、無邪気な笑みがしかめられて少し溜飲が下がる。おい、詰まった鼻の妙な声を笑って指を離した。
「分からないことだらけですよ、アナタは」
アレンの前ではどんな理論も理屈も通用しない。こちらが仕掛けた戦術に素直に乗ったかと思えば、思いもしないところに飛び出して戦局をめちゃくちゃにひっくり返してしまう。
「ただ、ひとつだけ知っているとしたら……」
けれどそれがアレンのせいばかりではないことも実のところ分かっている。嘘つきと非難されるとしたらそこだけだ。机上の理論の通りに接したくない。そう思ってしまったら、もう相手の次の一手なんか読めやしない。
「ボクのことを……多少は、知っている。そういう人ですね」
言葉を吟味するような間があった。ほんの一瞬だ。すぐにまた電灯に明るく照らされた顔が笑みに崩れて、膝に頬を押しつけ笑みの振動で揺れる。どちらともなく握った手の指先を絡ませあって握り直した。
「……そうそう。しかも、お前も知らないとこな」
「ええ、そうでしょうね。見せていませんから。アナタにしか」
はあ、今度息を吐いたのはアレンだ。しかしやっぱり笑みが混じっている。のっそり体を床から起こし、ソファに乗り上げ顔を近づけてくる。それを何の定石も戦術もなく、夏準はただ受け止めた。