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chill pill



 何がきっかけか分からないが、目が覚めた。というか、目が開いた。けれど、頭が全然すっきりしていない。モヤがかかってマトモに何も考えられない内に体が勝手にベッドから体を起こした。うつぶせに倒れ込むように寝ていた、らしい。部屋の中は真っ暗だったが、最近張り付いていたデスクでは機材のスリープ状態を示すランプがいくつかぼんやり光っている。曲、リリック、メロディー……いや、一旦終わったんだっけ? ぼうっと暗闇を眺めているがモヤは少しも晴れない。手のひらで目元を軽くこする。

 あーこれ、切れたな。

 たまになるやつだ。何かは分からない。けど使い切って切れていることだけは分かる。だから起きていても寝ているのと変わらない状態になっているわけだ。カチカチに凝り固まった首をぐらぐら揺らしながらベッドからのろのろ抜け出す。別にそのまま寝てればいいのに、とは自分でも思うのだが。

 ぺた、ぺた、数歩歩いてスリッパを履き忘れたことに気が付いたが、数歩戻るのさえ億劫だ。そのまま部屋を出る。

 リビングも部屋と同じく真っ暗だった。まず間違いなく夜だ。分からないのは浅いのか深いのかだけ。ぼけっと誰も居ない静寂をしばらく眺めていたが、もちろんそれで何が変わるわけでもないので、仕方なくリビングをぺたぺた横切った。

 うーん、水。

 別に喉も乾いてないし腹も減っていない。ただ、倒れられたら迷惑だから水くらいは自分で摂ってくれますかとしきりに言われているのを唐突に思い出したのでしょうがない。水ってどこにあるんだっけ……しばらく思考停止し、冷蔵庫にのったり歩き出す。ガパッと体重をかけて開けた扉から光が溢れてきて正面からモロに攻撃される。唸りながら適当にペットボトルを引き抜いた。バタリ、目を瞑ったまま乱暴にドアを閉じてキャップを捻る。一口つけたら、突然喉が渇いてきた。ごっごっ、勢いよく喉を慣らし、ついにはペットボトルを空にしてしまう。べこっとボトルがへこんだ。

「……っはー」

 なんだかそれだけでどっと疲れが両肩にのしかかった気がする、が、おかげで少しだけモヤが晴れて、空になったペットボトルがアンこだわりの水だと気づいた。ヤバイな、明日怒られる。明日の俺、ちゃんと謝るんだぞ。自供の代わりに証拠品をキッチンにしっかり残しておいた。とにかくキッチンから出たくなったのだ。水分のおかげで、今何をしないといけないかを思い出した。切れたんだから、そりゃまあ、補充に決まってる。

 ぺたぺた、リビングを出て、まっすぐその向こうにある部屋を目指した。ノックもせずにドアを遠慮なく開けたが、その先にあるのも暗闇だ。別に誰も悪くないがムッとしてしまう。ぺたぺた、冷たい床の感触を今更感じつつベッドに近づいた。

 すう、すう、穏やかな寝息は微かなので、すぐ傍まで行かないと拾えない。遠く下方にある街明かりが窓をつたって、輪郭だけをぼんやり暗闇に浮き上がらせていた。寝息と合わせて穏やかに上下する胸。

 普通に考えたらだ、よく眠っている相手を起こすのはかわいそうだ。その相手がこの男なのでかわいそうだけで済まないのも普段なら分かっている。今もまあ、頭の片隅、水分が回ったところでは理解できている。だが今は切れているのだ。それが何より優先されるはず。

 ベッドに膝を乗せると、キ、と小さくスプリングが鳴った。頬のあたりを指の背で撫でてみる。すう、すう、穏やかな寝息。またむっとする。

 今度は両膝をベッドに乗せ、無理やり縦に長い体を壁際に押しやった。シーツを引っ張って潜り込む。

「뭐、뭐가」

 何か文句を言われている気がするが、このままじゃ狭い。せまい、口にも出してぐいぐい肩を入れて体を密着させる。人間の湿った熱がシーツの中に満ちていて、それが妙に心地良い。半分ぶんどった枕に頭を預け、満足して息を吐く。

「……アレン?」

 明らかに怒りと呆れが混じった低い声に、思わずきょとんと目が開いた。そういえばそうだっけ。こいつは夏準で、俺はアレン。そんな当たり前のことがその声でようやく確認できた気がする。そんなわけないのに。おかしくて笑いが湧き上がってきた。くくく、アレンは喉を鳴らしながら間近にある夏準の肩に額を擦りつける。

「おまえによばれると、俺ってかんじがする」

 くすくす、こらえる気も起きずに夏準にひっついて体を揺らしていると、その内諦めたようなため息が降ってきた。それに満足して更に口元が緩む。結局こうやって許されることを知っている。

「今起きたんですか」
「うん」
「……おめでとうございます。新記録ですね」
「どうでもいいよ」

 実のところまだ頭がよく働いていなくて、いつもより少し低い音が心地良いことしか分からない。そう思うと無性に声の元に触れたくなって少し体を起こした。あっ、外れた。あごだ。もうちょっと上だな。今度はちゃんと唇が重なる。

「夏準」

 どんな顔をしているのか分からないけれど、夏準は何も言わない。夏準、さっさとしてほしくてもう一度噛みつくように名前を呼べば、もう一度呆れたため息。それを合図に舌先で少しだけ熱い口内に触れる。触れているのは自分なのに、妙に体中がくすぐったくなって、アレンは枕に倒れ込んでまた体を揺らした。ため息三度目。

「……明日が楽しみですね、アレン?」
「いるんだよ」

 ん、怪訝そうな息遣い。アレンの言いたいことがうまく伝わっていないらしい。だがそれすらもどうでもいい。アレンが分かっていればいいのだ。別に、夏準はそこにいてさえくれればいい。

「俺は、いま、これがいる」

 なんとなく指先で夏準の腕に触れ、服の皺をなぞって手のひらまで辿り着く。ぎゅっと握り締めて目を閉じた。夏準はまた黙り込んでしまったが、眠気がまた重たいモヤを引き連れて近づいてきたところでようやく、呆れたように「はいはい」と零した。

「さっさと寝て、ちゃんと『補充』してください」
「うん」
「ボクも」

 ふ、と意識が落ちかけた谷間、夏準の呟きが落ちてくる。なんだろうとそれを眺めていると、今度は図体に比べて小さな頭が額に擦り寄ってくる。

「ずっと、我慢していたんですから」

 そっか。

 まずそう思って、すぐに「そっか?」と自分で自分を疑ってしまった。今、何かものすごいことを聞いた気がする。なのに眠気が全部押し流そうとしている。とりあえず何かは言っておきたくて、ふやふやの口をなんとか開いた。

「そっかあ、じゃあその分、やろう、ぜんぶ……」
「聞かせたいですねえ、明日のアナタに。それ」

 ふふ、今度は夏準が笑う振動が心地良い。誘惑にとうとう勝てなくなって意識を眠りの中に沈める。額に何か柔らかいものが触れた。それだけはちゃんと分かった。

「今度は、ボクをいっぱいにしてくださいね?」

 そうして朝一何が起きるのかと言うと。
 「昨日のガス欠の俺」に無責任に渡されたバトンを、「明日の満タンの俺」たるアレンは赤面で後悔を噛みしめて起床する破目になったのだった。当然のことながら、怖い笑顔の夏準に見守られつつ。

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