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炭治郎が持ち前の鼻か何かで「それ」を嗅ぎつけ、縁側の隅っこに座り、草履を引っかけてソワソワし始めたら、まず善逸がそれに気づく。そして耳を澄まし、山を越えて誰かが近づいてくる気配を感じ取るのだ。炭治郎の異変には気づかない我が道を行く伊之助も、そのあたりで自分のナワバリに侵入者が居ることに気が付く。そして猪頭の上からでも分かる満面の笑みで意気揚々と家を飛び出していく。その派手な音で最後に禰豆子も兆しに気が付いて、にっこり笑って厨に入るのだ。やってくる客のもてなしのために。
時刻は八つ時近く、それぞれの仕事の手を止めて休んでいるところだった。夕餉にはまだ早い。禰豆子は茶を淹れるくらいだろうから、手伝うこともなく善逸は手持無沙汰だ。ちらりと見遣った炭治郎の背は小さく左右に揺れている。親友の気もそぞろな音を間近で聴いているのは正直、気まずい。とりあえず居間を出ることにした。せっかくなので玄関先の掃き掃除でもしておこうか。炭治郎ほど熱望しているわけではないが、善逸もそれなりに歓迎する客人だ。のしのしと畳と板とを踏み、玄関で草履に足を乗せたところだった。ガタッと木戸が遠慮なく開かれる。
「失礼する」
さすがは元柱。善逸の耳でも気配を一切拾っていなかった。涼しい顔をした男を阿呆面で見つめるしかない。待て元半々羽織、と伊之助の叫びがこだまして追い縋っていた。駆け比べを持ち掛けられて一切容赦しなかったことは誰の目にも明らかだ。
「こんにちは」
「……こんにちは」
失礼しないでくれますかね!?あるでしょうが!返事を待つとか!間髪が全く無いんですけど!?飛び出るかと思ったよねぇ!?心臓がさぁ!!
などという叫びを呑み込んで善逸は礼儀正しく頭を下げた。善逸は禰豆子の夫となる男なのだ。小さいことには動じない。
「じゃあ、入るぞ」
「……はい」
動じないったら動じないのである。義勇が玄関に足を踏み入れると、近くで義勇さんいらっしゃい、と華やかな声が上がる。厨の禰豆子だ。ああ、邪魔するぞ。義勇が応えて上がり框に足をかければ、遠くで炭治郎の音が跳ねる。
「順調か?」
「え?」
「禰豆子とは」
囁き声に気を引かれて身を傾けた善逸は、また阿呆面を晒す羽目になった。そうしてすぐにそうだったと悔しい気持ちになる。善逸はかつて義勇のことを炭治郎から伝え聞くくらいでしか知らなかった。そして、あの戦いで初めて厳しくも頼もしい音を聞いた。療養中も静かに過ごしていたから、炭治郎に似たド真面目な男なんだろうと信じ込んでいたのだ。だが、義勇がこの家を度々訪ねてくるようになってそうでもないことを知りつつある。
「頑張れ」
言われずともね!思わず半眼になった善逸を見ても義勇は愉快そうに口元を緩ませるだけだ。一緒に暮らして一緒に仕事して一緒にご飯食べて、もうこれ完全に夫でしょうが。余計なお世話です。
「土産だ」
「……どうも」
義勇が背を向けたので、善逸はその背の荷を手で支える。しゅるりと青い市松模様の包みが解かれた。断っても手土産を欠かさない義勇に禰豆子が贈ったものだ。ちょっと妬ましい。だがいつもとんでもなく美味い土産しか持ってこないので、善逸は恭しく荷を受け止めることにしている。覗き込むと何やら小洒落た箱がいくつか。やった、洋菓子だ!
「炭治郎」
居間に入った義勇が声をかけるが、炭治郎は何も答えない。振り返りもしない。善逸の耳にだけビョンビョン跳ねる音が聞こえる。そわそわと体を揺らし、背を向けたまま縁側から立ち上がり、そのまま山へと歩き出してしまう。目上相手に炭治郎らしくない無礼な態度だが、いつものことなので最早驚きも無い。それがこの二人の「取り決め」だということだけは、善逸も、禰豆子も伊之助も知っている。
川に出たところで炭治郎の足が止まった。川べりに沿って萌黄の明るい草が花留めのように生い茂り、その隙間に紫の杜若が顔を覗かせている。湿った初夏の風が吹く度、さわさわ叢が揺れる。一月前、炭治郎が足を止めたのは八重桜の下だ。義勇は自他共に認める朴念仁だが、さすがにそれが偶然でないことだけは分かっている。
「最近はよく街に行ってみる」
炭治郎が足を止めるのが開始の合図だ。声に出して示し合わせたわけではないが、いつからかそうなった。
「人が多いところはあっという間に景色が変わるな」
炭治郎はまた少し背が伸び、肩幅が広くなったように見える。あれだけの成長を遂げておきながら、まだ伸びしろがあるとは大したものだと感心する。
「賑やかで、華があって、一人でも独りだと感じない。何か新しいものを探さなければいけないような気分になる」
どの街も人の熱と活気に溢れていた。夏が近い。ここよりも更に湿った風が吹き、人々の騒めきが揺れ、服の裾や幟がはためく。日に日に強くなる陽光が、店先に並べられた品や新しい建物をきらきらと輝かせる。銀座も浅草も上野も、これまで何度も足を運んできた街だ。しかし昼間、何の用向きも持たずに散策する時に見えるものはまるで違うのだと知った。
「炭治郎」
名を呼べば肩が小さく揺れる。しかしそれがどんなに小さなものでも、人との約束を破れない男なので振り返りはしない。そんな気がなくともいじめているような気になってしまうが、呼びかけるのを止められない。本当のところはまだまだ呼び足りていない。
「だが、それで、面白いものを見つけた時にまた、俺は独りになる」
例えば、見たことも無い洋食や洋菓子を目にした時。奇抜な柄の布や様式の服を勧められた時。人気の寄席や活動写真の噂を耳にした時。
「お前や、禰豆子、先生や善逸、伊之助の顔が浮かぶ。見せてやりたくなる」
人が、誰かの姿を探して手招きし、親しくその名を呼んで、笑顔を寄せるのはこういうことかと思うのだ。それを知らないわけでは勿論無いが、長いことすっかり忘れていたのだと実感した。
「土産、何だと思う。好きなものだといいが」
幼い子供が川辺から気に入った小石を拾って集めてくるように、そうしたことが積もり積もって、会いに行こうと強く思う。何を置いても顔を見て、その名を呼びたくなる。
炭治郎。
義勇の心の声を鼻で嗅ぎ取ったのだろうか。炭治郎がとうとう勢いよく義勇を振り返った。どこか恨めしそうにも見える力んだ顔だ。
「まだだめだ」
思い切り息を吸い込む音が川のせせらぎの隙間にしたので、義勇は先手を打って左の手のひらを前に差し出し炭治郎の言葉を止めた。炭治郎の顔がますます難しくなる。
「『仕返し』は終わってない」
仕返し、この言葉に炭治郎は弱い。たちまち眉を情けなく下げ、唇をぱくぱくと鯉のように開閉している。今度はまるでこの世の終わりのような表情だ。
「謝ればいいと思ってるな?そういう匂いがするぞ」
ブンブン、強く首が降られて耳飾りがバタバタ翻る。義勇に対する不誠実を疑われることだけは我慢ならないのだろう。必死の形相だ。炭治郎がいつも真心で義勇の前に立つから、鼻が利かなくても分かってしまう。
「無駄だ。お前は何も悪くないから」
ついに義勇も我慢が効かなくなった。無理やり作っていた真面目な顔を笑みに崩す。一月ぶりの赫い瞳に心が満たされる。
「俺はお前が、笑いながら、楽しそうに、俺にたくさん話してくれるのが好きだ」
あの日も川べりに居た。炭治郎に背を押されるように橋を渡って、それからはずっと炭治郎の声を心地よく聞いていたように思う。だから、「仕返し」などというのはただの口実だ。
「それでも、今は、俺が話したい」
話すことは嫌いだった。剣などよりもよっぽど早く手軽に己の無力を義勇に突き付けるからだ。義勇の言葉にはいつも力が無かった。惨めに地に落ちて誰にも気づかれないまま朽ちていくのが自分の言葉だと思っていた。だが今は正面に炭治郎が居る。あの日、義勇の言葉を丁寧に拾い上げて優しく戻してくれた炭治郎が居る。
「あの戦いで俺はまったく空になった。持つもの、すべて尽きたと思っていた」
己という容れ物をひっくり返し、ヒビが入るのも構わずに底を叩いて叩いて闘った。全てが終わった時にたったひとつ残った安堵があまりに大きく、しばらくはそれ以外何も感じられなくなるのではないかと思ったくらいだった。
「だが、止まらない。言葉も、想いも」
一日、二日、十日、二十日と体が癒えていくにつれ、胸の奥から心が湧き水のように溢れ、空の容れ物いっぱいに満ちた。ヒビが入ったせいでどこかしこから漏れ出ているらしく全く止まらない。
「炭治郎」
名を呼びたい。身の回りに漂うごくありふれたことを全て言葉にして、何もかも伝えたい。そうして楽しげに笑わせたり、驚きでその目を丸くさせたい。左手を伸ばした。すると炭治郎が待ち構えていたように左肩を動かす。全く力の入っていない、皺だらけの老人のような指先に触れる。それが終了の合図だ。
「義勇さん」
涙の膜の張った瞳が笑みに細められる。感極まって震える声がまた義勇の容れ物に優しく注がれた。名を呼ぶのと同じくらい、名を呼ばれたくてたまらなかったんだな、とまたひとつ気が付く。
「うん?」
自分自身で思う以上に穏やかな声が出た。覗き込む義勇に、炭治郎はふふふと息を漏らして笑った。
仕返し、なんだって。
照れたような、困っているような、喜んでいるような、緊張しているような、メチャクチャな音をさせて炭治郎は善逸たちにこっそり教えてくれた。それ以来、義勇が来た瞬間にだけ無礼になる炭治郎を誰も不審に思わないし、義勇がその後を追うために玄関に戻っても何も言わない。やっと玄関先に辿り着いた伊之助が後で手合わせしろよとプリプリ怒るくらいだ。
「ああ。後で。楽しみだ」
伊之助に微笑んで、義勇は草履に足を通して戸をくぐった。今日こそ勝つ、と機嫌良く盛り上がる伊之助と共にその背を見送る。あれっ、と厨から禰豆子が顔を出した。
「もう逢引きに行っちゃったの?」
逢引き、言い得て妙である。一体何が「仕返し」なんだか。あいびき?と首を傾げている伊之助の横で、善逸は呆れた溜息と共に深く頷いた。