夜は海に似ている。なんとなくのイメージだけれど。深くなればなるほど、体がどんどん静寂に沈み込みメロディーやアイディアが泡のように漂う。その中を自由に泳ぐアレンは夜のいきものだ。ひれでも生えてきているかもしれない。ボールペンがカリカリと踊り、キーボードが波のように音を弾き、エフェクトが輪になって伝う。
「うわっ」
しかし突然、集中をひやりと冷たく刺す針の感触に飛び上がってしまった。静寂から引き上げられて目を腿に落とせば、ペディキュアの薄く塗られた爪を持つ足の先がぺったりくっついていた。オーバーサイズのルームウェアに隠れた足首の先を見上げれば、すぐ背後のソファに腰を下ろしている夏準が自分の膝に肘をつき、こちらをつまらなそうな目で覗き込んでいる。
「よくそんな格好でいられますね」
『そんな』は無論、春先の深夜にハーフパンツで床にあぐらをかくアレンの腿に向けられている。夏準の冷たい足先を手のひらで覆ってやりながら苦笑した。
「なんて言うか……ノイズになること、なるべく減らしたいから」
カラーグラスの向こうで形よく整えられた眉が片方だけ跳ねる。その「何を言っているんだか」という表情にまた弱く笑ってしまう。アレンも、この自分の考えがちょっとばかりトんでいることはさすがに気づいている。
「そのうち裸で作曲を始めるんじゃないでしょうね」
「さすがに……そこまでは」
「そうなったら叩き出しますからね」
「はは……」
集中が完全に海の底に至った時、音やリリックが一面に広がるような感覚はクセになるような快感だ。だからこそ、不要なものはなるべく取り去ってしまいたい。ついつい好きなもので溢れた自室から抜け出て、自分の音以外の刺激を遠ざけようとしてしまう。
「アレン」
足の指が動いて手のひらをなぞるので、くすぐったくて思わず腕が浮いた。その隙を逃さずに足先が腿の下に捩じ込まれる。やっぱりひやりと冷たい。ちらりと夏準に目を戻したがそれ以上言葉は続かなかった。つまらなそうな色の目がただじっとアレンを見ているだけ。
「……一旦休憩にする」
思わず笑ってしまいつつ立ち上がって見下ろしたが、夏準は顔色ひとつ変えない。余っている袖から出た指先でアレンのシャツの先をちょっと摘まんで立ち上がる。そしてそのまま歩き出した。大人しく引っ張られて夏準の部屋まで釣り上げられる。
リビングを出て、夏準の部屋に入り、夏準に続いてベッドに潜り込む。親とすら一緒に眠った記憶も薄いのに、と当初はあった照れも今ではすっかり消えてしまった。一枚のシーツの中に二人で閉じこもると、集中とは別の夜に沈んでいく感覚がある。最初はどこかぎこちない空間を残していた夏準も今やなんの遠慮もない。アレンの腰に腕を回し、鼻先に頬を寄せる。サラサラの細い髪からシャンプーの甘い匂いが香った。アレンも寝やすいように夏準の首回りに腕を通す。
「アレン」
ついさっきまで作業していたせいでまだ眠気が遠い。手持ち無沙汰に撫でていた背から夏準の声が伝う。ん? 小さく返事をした。
「あんなに不摂生なくせに……温かいですよね」
何も悪いことじゃないのに、責めるような口調に笑ってしまいそうだ。
普段から食事と運動に気を遣っている夏準はアレンの百倍──いや千倍は健康的だが、時折凍るように手足が冷たい。そしてアレンはそれがどんな時に起こるかを身を以て知っている。
「今は、火があるから」
「ひ」
「うん」
あの日、何もかもから逃げ出して、でもどこに行けばいいかも分からなくて、ただ途方に暮れ雨に打たれていた夜。静寂も集中も音もリリックもそこには無かった。ただ悲しみと絶望が雨音で掻き乱されて頭も手足も重く冷えていた。
そんな長靴よりボロなアレンを気まぐれに釣り上げ、客間なんて無いからと同じベッドに招き入れたのは夏準だ。冷え切った体のすぐ隣、アレンを冷たく否定することのない熱の塊が穏やかな寝息を繰り返してアレンを静かな夜に沈めた。
「消えたら多分冷たくなると思う。動けなくなるくらい」
あの日のことを思い返し、もう少し夏準の熱をまた感じたくなった。肩に回した腕の力をぎゅっと強くする。柔らかい胸元が触れあって血が巡り、熱がゆるやかに生まれる。体の内に火が灯るように。
「ありがとう、夏準」
囁きが静寂の中をゆったりと泳いで溶ける。本来なら夏準はもう眠っているような時間だ。聞いていないのかと思ったが、ふふ、と首元で吐息が揺れた。くすぐったい。
「……なるほど? これが、日本語で言う『チョロい』ですか」
「はあ?」
「人に付き合って礼を言うなんて。変なひとですね」
いきなり投げ込まれたあんまりな形容詞に思わずムッとしたが、思い返してみればアレンにも言葉が全然足りていない。夏準からすればいきなり礼を言われてわけが分からなかったのだろう。きちんと説明しないとと思いつつ、今更そんなことをいちいち口にするのはなんだか違うような気もして。そもそも気恥ずかしい。
「アナタに付け込んだら……どんな雑用でも喜んでやってくれそうですね?」
「……なんでそうなるんだよ」
からかうような口調のクセにわざと自分にも針先が向くような言葉を使っている。でも、それをわざわざ指摘すればきっと、海に戻せないくらい傷を深くするのだろう。だからアレンは、夏準に灯された火が夏準に帰るようにただぎゅっと体を寄せる。
「まあ、結局……そうなのかもな」
アンが居る夜には絶対見せないこの夏準の釣り針が、アレンは夜の底と同じくらい好きで、いつもついつい釣り上げられてしまうのだから。
夏準は何も答えない。本当に眠ったのか、眠っているフリなのか、ともかく穏やかな寝息が夜を深く沈め始めた。