夏準のことをきらきら輝く瞳で見つめてきていた女性たちの顔が一段と明るくなった。それで夏準は背後に何が近づいてきているかを簡単に悟ることができたが、敢えて気づかないフリをして振り向かないでいる。女性たちが伝えてくれたあらゆる賛辞を丁寧に打ち返し続けているが、残念なことに彼女たちの感心は最早そちらに無いようだ。それならばその新たな期待に応えてやらねばならないだろう。
「夏準」
鋼のような芯のある硬質な声。けれどステージの上とはまるで違い、そこにはこちらの出方を覗うような情けなさが滲んでいる。誰にも──アレンとアン以外には気づかせない完璧な手際で、素早く顔の仮面を付け替える。誰に向けるよりも甘い笑み。十分以上彼女たちの期待に応えたのだろう、小さく歓声が上がった。
「遅いですよ、アレン」
「ごめん、起きれなくて」
自室のデスクに潰れているのをダイニングテーブルまでなんとか引っ張り出したまでは良かった。しかし朝食を取りながら赤子のように眠ってしまったので、アンと二人、さっさと諦めることにしたのだ。朝から無駄な労力を使わされたことに当然思うところは山ほどあったが、まったく表情には出さずに最上級に甘い表情を維持する。
「しょうがないひとですね」
講義室の椅子から立ち上がって指を伸ばす。慌てて家を出たのだと分かる適当なセットを手櫛で軽く整えてやった。同じ高さにあるアレンの顔は引きつっていたが、夏準を取り囲んでいた女性たちへ更なるファンサービスの矢が見事命中したことに満足する。ここはもう一押し。髪から離した手で胸元をそっと撫で、首を傾げ、その複雑そうな表情を覗き込む。きっと周囲は照れている顔だと信じ込んでいるだろう。
「無理をさせたのはアナタなのに」
きゃあ、一際大きな悲鳴。アレンの胸に手を添えて振り返って微笑みを作った唇に自分の指を添える。途端に口を噤んだ首が勢いよく縦に振られる。美しいもの、かわいいもの、格好良いもの、それから恋の話が好きでたまらない彼女たちの素直をクスリと笑う。はあ、困り切った末に吐かれたのだろう重い溜息を首筋に感じて視線を戻した。
「次、行くだろ」
「ええ」
人の厚意を無駄にして呑気に寝坊を繰り返している自業自得も、夏準に合わせて無計画に一限目の講義を取ったせいで単位を落としそうになっている焦りも一切感じさせない態度に感心する。念のため注記しておくが無論皮肉である。ただし、人目を集めまくっている状況なので今は甘い笑みの仮面を外さないでおく。今は。
「行きましょう」
アレンの胸元に添えていた手を自然に腕に絡ませ、バッグを肩にかけたもう片方の手で女性たちに手を振る。輝きを超えて恍惚の滲む表情が愉快だ。
「고마워。来週、また」
はしゃぐ声を背後に受けながら、早足で歩き出すアレンに歩調を合わせて講義室を出た。擦れ違う人びとの好奇の眼差しをシャワーのように浴びつつ廊下を進む。アレンはそこは全く気にならないらしい。ステージを下りた後に注がれる視線は夏準かアンかが引き受けているものだと信じて疑っていない。だからこそ「適任」でもある。
「……何だったんだ?」
「ボクの隣に座りたがる人たちがいて、『守って』くれたそうですよ? アナタの代わりに」
最後の言葉を強調して腕を軽くなぞったが、アレンは渋い顔のままその指先を眺めているだけだ。
「かわいらしいですよね?」
何がやってきてもうまく躱す方法なんていくらでもあるが、その先手を打ってファンの女性たちが周囲を取り囲んでくれたのはさすがに予想外だった。少しくらいはサービスを振りまいてやるのも当然のことだろう。
シンプルでユニセックスなスタイルを選ぶことが多いせいか、はたまた実家の噂が垣根を高くするのか、夏準はアンと比べれば露骨なアピールを受けることは少ない。モデル仕事の影響でむしろ女性ファンのほうが多いくらいだ。しかし、だからこそ声をかけてくるのは少数精鋭なのだった。中には強引で厄介な相手もいる。そこで、夏準は四六時中一緒にいるアレンを利用──もとい、協力してもらうことに決めたのだった。
「……俺、要るか?」
名言はしないものの明らかに近い距離、親しい表情、多くの接触。別にそれぐらいなら……と気安く引き受けていたはずのアレンの表情が最近なんともすっきりしない。おや、と思いつつわざとらしい笑みであごを指でなぞると、んんと嫌そうに唸り声を上げて顔が逸れていった。半眼で睨まれて笑ってしまう。
「今日はつれないですね? 昨日はあんなに熱烈だったのに」
「……練習の話だろ」
「ええ、そうですよ? それがどうかしました?」
もっとこうしたほうが、いやああしたほうが、で深夜まで夏準とアンを引き留めていたのはアレンで、そこには嘘も虚飾も無い。少しばかりあいまいな言い方はしているが、それをどう受け取るかは聞き手の問題である。アレンは不服そうな顔で何か言い返そうとしばらく粘っていたが、やがて諦めてくたびれたため息を吐き出した。
「からかって遊んでるだけだろ……『これ』、俺が役に立ったことってないぞ。むしろなんか、変に注目されてるっていうか……」
ああ、ようやく気づいたんですね。
今更過ぎてうっかり口から滑り出そうになった言葉を笑顔で飲み込む。華やかな輝きを惜しみなく振りまいて好意と共に厄介事も存分に引き寄せるアンのほうがよっぽど危なっかしいことくらい、ちょっと考えてみれば分かることだろうに。更に言うと、夏準もアンもタダでやられるほどヤワではない。
「アナタ……学校でなんて噂されてるか知らないんですか?」
「う、噂?」
「ええ、すっかり有名人ですからね。『両手に花』、だそうですよ?」
「は……はあ?」
滅多にお目にかかれないレベルの美貌を一人どころか二人見事に射止めたとか、その上いつも両脇に侍らせて世話を焼かせているとか、嫉妬と羨望を遥かに超え、BAEの活躍を知る者が増えたせいもあり憧れすら集め始めているとか──最初に聞いた時はアンと二人でしばらく笑い転げてしまった。
「嬉しくなさそうですね?」
「決まってるだろ!?」
「ボクたちを両手に置いて、ぜいたくな人ですねえ」
アレンの左腕に両手を絡ませ体をくっつけ、肩に頬をすり寄せる。態度で「からかって遊んでいるだけ」が見事な正解だと教えてやれば、アレンはとうとう大きく腕を振って夏準の両手を振り払った。道行く学生たちの視線がバカップルの痴話げんかを見守る生温さだ。うー、せっかく直してやった前髪をぐしゃぐしゃやりながら大股で踏み出したアレンの横に笑みで口元を歪ませつつ並ぶ。
「なんか……曲じゃないとこで見られてる気がして、嫌なんだよ」
ふう、ひとつ息を吐いて真摯な目が夏準へ向けられる。正面から受け止めたせいで、夏準の歩みはアレンからワンテンポ遅れさせられた。それに気づいたアレンが振り返るタイミングで指を伸ばし、耳を軽く引っ張ってやる。
「おい、」
「どんな名曲もまずは耳に入れないと。存在すら知らない曲をどうやって聞くんですか。そうでしょう?」
どんな野次馬根性だって構わない。負の感情を増幅するだけの捏造でさえなければきっかけはなんでもいい。いや、そんなくだらないガセですらいい踏み台になるだろう。BAEの曲をひとたび聞かせれば、自分たちのリリックが、アレンのトラックが、三人で紡ぐ楽曲世界が必ず噂を凌駕するのだから。足りない足りないとぼやくくせに妙なところで潔癖なアレンに冷ややかな視線を送る。夏準の言いたいことをすぐに察したくせに、まだ不服そうな目と数瞬睨み合った。が、分かっている。この張り合いだけは夏準では勝てない。勝とうという気持ちすら湧いてこないのだから。
「でも……嫌いじゃないですよ。アナタのそういうところ」
とうとう笑みが漏れてしまった。耳から指を離してやったが、アレンはまた晴れとも雨ともはっきりしない複雑そうな表情に戻っただけだ。何か異論でもあるのかと腕を組んで待っていてやったが、逃げるように足を踏み出された。奥の教室の前でアンが早く早くと手招いているのが見える。すぐに行く、という返事の代わりに手を振った。
「……『フリ』なのも嫌だ」
「嘘が下手ですからね、アレンは」
「そういうことじゃないんだけどな……」