※ VIBES直後
アン、高い声が名前を呼んでいる。ママ? 一瞬そう思ったけれど明らかに違う声だ。もっと柔らかくてハチミツを溶かしこんだみたいな甘い声。誰かの声にちょっと似ている気がするけれど思い出せない。んん、唸って寝返りを打ったら瞼の裏が白く光った。もう、勝手に入らないでっていつも言ってるのに。勝手にカーテン開けたな、夏準──夏準?
「えっ?」
パチリと目を開けた。カラーグラス越しの呆れた表情とエプロン、そこまではいい。そこまではいつもの朝なのに、それ以外の全てを脳が処理しきれない。細くて柔らかそうなシルクみたいな髪が胸元まであって、爽やかな朝日で光っている。覗き込む顔がいつもより近いところにあるし、首も肩幅も細くて狭い。エプロンが押さえつける体のラインは明らかに女性のものだ。
「はじ……え? だ、ええ??」
「まだ寝ぼけているんですか? まったく。どうせアレンと一緒になって遅くまで起きていたんでしょう」
言っている内容はどう考えても夏準なのに、声はどう聞いてもたまごとユニゾンできそうなくらい高くて可愛らしい。顔の作りはそっくりそのままだが、丸みを帯びているせいか呆れにいつもの迫力が無い。アンは思わず自分の目を擦った。しかしやはりそこに居るのは夏準にそっくりな美女。
「夏準……?」
「アン? 体調でも悪いんですか?」
一向に体を起こさず頭上の顔を凝視しているだけのアンに異変を感じたのか、可愛らしい顔に影が落ちる。アンの呼ぶ名前は否定されることもなく自然に受け止められてしまった。
「あの、さ」
「はい」
「夏準……女の子になってるよ?」
「はあ?」
眉根がぐっと寄せられた怪訝な表情と突き放すような冷たい一音はどこまでも夏準だ。やっぱりこの女性は夏準で間違いない。そっくりさんのprank videoじゃこの冷たい光線は出せない。じゃあこの状況は一体。もしかしてまだ夢の中に居るのだろうか。だとしたらもうちょっと寝たままでいて色々着せて遊びたい。布団を思いっきり跳ね上げて体を起こす。
「よし、夏準買い物行こう!」
「……何ですか突然。別にいいですけど」
「Yes! じゃあ起きるよ! あ、いや、起きないけどベッドは出るね!」
「本当に大丈夫ですか? 昨日飲み過ぎたんじゃないですか?」
「そうかも! こんなに面白い夢見るんだもん!」
意気揚々とベッドから足を下ろしスリッパに着地して立ち上がり、ハッと息を飲んだ。怪訝そうな夏準の目がこちらを見上げている。そう、「見上げている」!
「えっ! 僕の夢すごい! 夏準がちっちゃい! さすが夏準、どっちでも最っ高のスタイルとカオ!」
「……アン?」
「ん?」
ごつい指輪が巻きついた細い指が伸びてきて額にぺたりとくっつく。触れた金属のリアルな感触に驚いてしまった。「熱は無いようですが……」神妙な呟きと共に指が今度は頬に滑り落ちてきて優しく一撫でされた──かと思えば思いっきり抓られた。
「いひゃ! ちょっとぉ、なにひてんだよ!」
「目が覚めました?」
いいや、覚めていないはず。何故なら夏準は変わらず女性の姿だ。文鳥みたいに声もかわいい。でも間違いなく頬を抓られると痛い。自分で引っ張ってみても痛い。夏準をしばらく「見下ろし」ても、目をいくら瞬いても状況は変わらない。あれ、これひょっとして夢じゃない? ってことは僕の頭おかしくなっちゃったのかな? それとも眠ってる内にパラレルワールドに……
アンは悟った。大変なことになってしまった。柳眉を麗しくひそめる美女を部屋に残し、兎のように勢いよくリビングに跳ね出た。そしてソファに頭を抱える男を見つけて心底安心する。目元のキリっとした美女が座っていたらどうしようかと思った。
「アレン!」
「アン……!」
ソファに駆け寄り思わず手を取り合って互いの安否(?)を確認してしまった。雨の日に信じていた飼い主に捨てられた子犬みたいな表情をしているところを見るに、どうやらこの緊急事態はアンの頭だけに発生したバグ、というわけでもないらしい。怪訝そうな表情でアンの部屋から出てきた小柄なシルエットを、アレンと手を取り合ったまま戦々恐々見つめた。
「朝から一体何なんですか、二人揃って」
「だって……!」
「だって?」
思わず、といった様子で口を開いたアレンが言葉を止めたのは、ソファに近づいて来た夏準がその顔をいつよもり低い位置から覗き込んできたからだ。と、横から見ているアンにも分かった。長い睫毛が丸い瞳に影を落としている。小さな顔からズレ落ちそうなカラーグラスがあざとい。ここは自分が、アンは己を奮い立たせてアレンの言葉を引き継いだ。
「だって! 夏準が女の子なんだもん!!」
「はあ……? 何を言ってるんですか? さっきから。どこからどう見ても男でしょう」
そんなこと言われても。三人の気持ちは完全にシンクロしているのに、構図は二対一で綺麗に分かれている。多数決なら勝っているはずなのだが、豊かな胸に手を置いて張る夏準の可愛らしい声には1ミリの揺れも迷いも無い。絶対に自分が譲れない部分以外の大半の生活基盤をなんでもできる完璧王子に委ねているアンとアレンは、こういう時の夏準にめっぽう弱いのだ。なんだか自分が間違っているような気分になってくる。よくよく考えたら夏準ってこんな感じのカワイイ男の娘だったような──ってそんなわけない! 倒れ込むように座っていたソファから立ち上がり、アレンと共に夏準を洗面台へと押し込む。
「ちょっと! 押さないでください」
「ほらぁ!」
「はあ……ほら、と言われても……」
「どこからどう見ても……って、アレ?」
「いつもの夏準だ!」
いつもの夏準が鏡の向こうからこちらを冷たく見返してくる。わけが分からず目の前の美女と鏡の向こうの美男をアレンと二人してキョロキョロ見比べた。どちらも表情は迷惑げな呆れ切った半眼なのに、それ以外が何もかも違う。
「ボクの知らない内に二人同時に頭を打ったようですね……」
「僕たちにも何がなんだかさっぱり……!」
「どうなってるんだよ……」
パニック状態のアンとアレンの様子から、流石に寝ぼけたりふざけたりしているのではないと夏準も分かってくれたのだろう。ツヤツヤときらめく唇に細い指を当てて目を伏せる。夏準の睫毛の先が下を向く様を立ったまま見守るのはなんだか変な感じだ。
「まさか、ファントメタルの影響……」
ハッと目を見開いた夏準の顔色がたちまち曇る。つい先日のステージ、メタルの急性浸食で倒れてしまった夏準を救うため、アンとアレンは夏準の精神世界に入った。その何らかの後遺症と言われれば、確かに夏準に対して二人だけが妙なものを見ている説明は付いてしまう。夏準の険しい表情に裏にある不安を真っ先に見つけてしまった。身長差のせいでカラーグラスの向こうにある瞳を簡単に見下ろせてしまうせい──なんかではなく、以前よりぐっと近くなった心の距離のせいだ。アレンと視線で通じ合って頷き合う。
「だ、大丈夫だよ……な、アン」
「うん! 体はピンピンしてるし!」
「頭はどうかしているでしょう」
言い方……アンのぼやきも聞こえていない様子で夏準はエプロンをするりと脱ぎ去りアレンに押し付けた。ポケットからスマホを取り出す。目の前の夏準は落ちてくる髪を煩わしそうに耳に引っかけているようにしか見えないが、鏡の向こうでは苛立たしげに前髪を指で掻き分けている。
「翠石組へ連絡してみましょう。アチラもメタルに関する情報をかなり熱心に集めている様子でしたし……今回のことも彼らの助言があったそうですし」
思わず小さく顔をしかめてしまったのは、最後の言葉に針のように細い棘をチクリと感じたからだ。咄嗟の反応はアレンのほうが早かった。アレンの腕が伸びる。
「俺たちが頼んだんだ」
スマホを操作する、折れそうな程細い手首がぎゅっと握られた。怪訝そうな夏準の顔が上がる。
「教えてくれって。お前を助けるためならなんでもできるからって。分かってるよな?」
アレンはそれ以上何も言わない。夏準の返事があるまで離さないつもりなのだろう。ひとつ瞬きをする間、普段通りの夏準がこちらを見ていた。珍しく眉の下がった小さな笑み。驚いて息を呑みもうひとつ瞬くと、目の前にある姿は怪訝な表情の美女に戻ってしまった。
「分かってますよ」
渋々、という返事にアレンも渋々、という表情で手首から手を離す。その手を桜色の丸い爪が追いかけた。今度は夏準がアレンの腕を引き寄せている。
「アナタがたが向こう見ずの無茶をするということは。だからその分、ボクが心配しないといけないんです」
前に屈む姿勢になったアレンは、至近距離から夏準に睨まれて言葉に詰まってしまった。その反応にひとまず溜飲が下がったのか、夏準はふうと一つ息を吐いて洗面所を出ていく。依織に連絡を取るのだろう。パタリとドアが閉まってから、不満そうなアレンの横顔をチラリと横目で確認する。
「……その言葉そのまま返したいよね?」
「うん」
「何か?」
間髪を入れずに再び開いたドアに全力で目を逸らし知らないフリをする。撤回したり謝ったりする気は少しも起きなかったので。
ツテで信用できる「センセイ」(医者とは一度も呼ばれなかった)が居るからとのことで三人で押しかけることになったが、依織も善も嫌な顔ひとつせず歓迎してくれた。依織はどこか楽しそうですらあった。二人にも「センセイ」にも夏準は普段通り男性に見えているようだ。
急性浸食からメタルを使って回復──なんて話はほぼ前例が無いので「センセイ」にも詳しいことは分からないが、メタルが意図しないタイミングで幻影を見せることはあるらしい。精神に負荷がかかるような重大な事件や事故がきっかけで、本人は意識していない現実と見間違えるような幻影を見せる事例があるとか、ないとか。ひとまず怪しい症状はないので経過観察と告げられたが、あやふやな情報ばかりで夏準は納得していないようだ。憮然とした表情も柔らかそうな頬のせいで迫力が無い。ただ、普段通りに見えている「センセイ」はちょっとたじろいでいた。
他人の精神世界に入り込むというイレギュラーな事態が二人の精神を一時的に不安定にしているのでは、というのが「センセイ」の見立てだ。幻影を共有しやすくなっている状況で、何かきっかけがあったのでは──
「依織さん、すっごく笑ってたね……」
さすがのアンも咳き込むほどゴキゲンに笑われると、夏準への申し訳なさもあってぐったりしてしまう。翠石組の広い屋敷の門に向かって歩きつつ、細い腕を組む夏準の視線は氷点下より冷たい。
「まったく。人の居ないところで何の話をしているんですか?」
「ごめんってば。なんか盛り上がっちゃったんだよ」
「まさかこんなことになるとはな……」
昨晩、寝る前にいつものようにアレンの部屋にちょっかいをかけにいったアンだったが、その内何故だか「夏準が王子じゃなくて姫だったら」という話になったのだ。今と大して変わらないよね、と最初は大して盛り上がらなかったが、今よりあざとさが増したりするのかな、それ怖いなファンも今よりヤバくなるんじゃ、あーでもそれに合わせたコーデも面白そうだね、などと途中で曲に行ったり戻ったりしつつ解散までだらだら続いてしまった。ただの雑談でしかなかったはずのそれが、そんな自覚は無くとも「不安定」な二人の精神に影響したらしい。
「でもちょっと残念だなー。見えてるの僕たちだけなんてさ。色んな姫コーデ着せ替えて遊びたかった……あ」
失言に気づいて足を止めたが、最悪のタイミングで夏準らしいシンプルでラフながら品のあるいつもの服装が随分甘めなものに早変わりし、頭から爪先までまじまじ眺めてしまった。恐らく見えずともアンに何が見えているのか簡単に察せただろう。シフォンの袖の先の指がアンの口元に添えられ、完璧な笑みがにっこりとアンに向けられる。
「ご希望の通り、誘惑してあげましょうか? ボクにそんなに興味があるんですね? アン……どうです? どちらのボクも魅力的でしょう?」
「ちょっと、やめてよぉ!」
さりげなくもう片方の手を腕に添えて距離を詰めてくる姿が想像を超えていたことに耐えられなくなり、思いっきり噴き出してしまった。「笑うのではなくて懲りてほしいんですが」、一瞬不機嫌な顔に戻った夏準はすぐに笑みを取り戻して標的をアレンに定めた。既に一歩後退していたアレンがもう一歩後退するが、夏準が大きく一歩を踏み出してすぐに追い詰める。アンにやったのと同じように腕に軽く手を添え、笑みを傾げて引きつった顔を覗き込む。
「アレンも……今朝からずっと、ボクから離れていますよね? 気になるんですか? ボクのことが」
「お、おい」
「目覚めるなり顔を真っ赤にして。よっぽどボクのこの姿が気に入ったんですね? ……まあボクにはまったく見えてないんですけど」
「あっは、ちょっと……! 夏準、もう、ごめんってえ……!」
「それは!」
アレンが夏準の手を振り払って大きな声を上げた。その必死な声色に夏準もさすがにきょとんと可愛らしく目を丸めて追求の手を止めている。アンも同じく不意を突かれて笑いを止めることができたが、ここが人の家の玄関先だということを思い出してすぐにぶり返してきた。これ、他の人の目にはどういう図に見えているのだろうか。
「だって……!」
「……だって?」
つい先ほども見たやり取りだったが、今のアンでは助け船を出せそうにない。夏準だと分かっているのに「女の子」に照れているアレンが意外で面白いから、という気持ちがあったことは否定しない。
「朝のは……いつもより顔とか声、近いとこにあった感じがしたから」
しかし、アレンの答えはアンの予想とは全く異なっていた。多分夏準も同じだろう。たっぷり沈黙が費やされ、アンは名前を知らない日本庭園でお馴染みのアレ──添水の音がカコン、とその間を小気味よい音で埋める。「は?」その音に押し出されるように夏準は一音だけを漏らした。
「俺、先帰るな!」
照れているのか気まずいのか自分でもうまく言葉にならないのか。多分全部だろう、あらゆる表情をぐしゃぐしゃに塗りたくった顔を思いっきり逸らしたアレンは風のように駆け去って行ってしまった。多分、車に乗る夏準のほうが早く家に着くと思うのだが。夏準に車に乗せてくれる情けが残っていれば多分アンも。
「……変なひとですね」
「まあ、それはそうだけど。今はかわいそうが勝ったかな」
アンはアレンの言いたい──けれど言葉にまだならない何かをなんとなく察したが、夏準には全く掠りもしていないらしい。怪訝そうな丸い目に苦笑だけを返しておく。ここでアンが解説を披露するのも違うだろう。
「『不安定』なら、無茶なことは避けるべきなんですけどね」
「大丈夫、心配しないで。すぐ戻るから。正直、ちょっと面白くはなってきちゃってるんだけど……ゴメンゴメン、うそ」
情けどころか、最初からアンとアレンの首根っこを掴んで家に連れ帰るつもりだったらしい夏準の鋭い視線に愛想笑いを返す。もちろんそんなことでごまかされてくれる仲ではないが、心配がたっぷり乗った視線を嬉しいと思ってしまうのは不謹慎だろうか。
「だって僕たち、結局いつもの夏準が大好きなんだからさ」
アレンが言いたいのも結局そういうことだよね、と心の中でここに居ないアレンにウインクを送っておく。アンの言葉に表情をリセットした夏準は、ひとつ呆れため息を吐いた。帰りますよ、そのお言葉に跳ねるように続く。明日にはすっかり何もかも元通りになっているに違いない。アンはそう確信していた。
その後一週間、なんでもない雑談からポロっと零れたせいで子供の姿やらイケオジ姿やら猫の姿やらを見ることになり夏準の機嫌を思いっきり損ねることなど知らずに。