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今日は帰ろう、ここに (炭義禰パラレル)



 右を見下ろすと頭一つ分くらい低いところで赤い毛先がぴょんぴょん跳ねている。義勇の視線を感じたのか、丸い瞳が更に皿のようにまんまるになり、義勇のほんの少しの挙動も見逃さないと言わんばかりに凝視される。むん、と引き結ばれた口元、まるで闇夜の中にぼうっと燈った炎のごとき瞳から思わず目を逸らし、今度は左を見下ろす。こちらは頭二つ分くらい低いところで艶やかな黒髪が墨のように滑らかに流れている。義勇の視線には質感でもあるのか、ピクリと丸い頭が揺れ、桜の花の色を混ぜ込んだビー玉のような瞳がきょとりとこちらを見上げ、やっぱり口元を頑固に引き結ぶ。目を逸らし、ひとまず安全地帯である正面をぼんやり見つめる。大きなガラス窓にびっしりと張り出されているのは間取り図。1Rから3LDKまで様々で、敷金礼金ゼロやら、駅まで五分やら、売り文句が赤字で強調されている。はー、思わずため息を吐いてしまった。見てはいないが、右からも左からも鋭い視線をちくちくと感じ心なしか冷気を感じる。いや冷気は単純に初冬の空風だろうが。がっちり固められた両脇だけがぽかぽか温かい。まだ眠気を捨て切れておらず少し眠い。そんなことを言ってる場合じゃないが。どうしてこうなった。

 ぼんやり突っ立って眠気と戦う義勇と、そんな義勇を逃がすまいと温める炭治郎と禰豆子。膠着状態は永遠に続くように思われたが、終わりは唐突だった。不動産屋のドアが開いたのだ。人の良さそうな初老の男性が、良かったら中へどうぞと笑顔を覗かせた。

「いえ! すみません! 義勇さんは部屋を借りませんので!」
「見てるだけです! お店の前でごめんなさい!」

 戸惑う男性に対し兄妹は猛然と礼儀正しい。よく似た丸い頭が深々下がっていて、ぽやっとした義勇一人だけ間抜けに飛び出している感じがする。互いを全く知らぬ者同士、全く同じ色をした目を交わし合い、男性はくすりと小さく笑った。今はお客さんが居ないから冷やかしでも歓迎するよ。竈門さんとこのだろう。ココアを入れてあげようね。炭治郎と禰豆子はたちまちおとなしくなった。普段は六人兄妹の長兄長姉として弟妹たちの面倒を見る立場の二人は、年相応に子供扱いをされると何故だか恥ずかしさを感じるらしかった。二人揃って耳が真っ赤になるので、正面の男性の微笑ましそうな笑みはますます深くなった。

 きっかけと言えば、年が明ければ義勇の二十回目の誕生日がやってくることだろうか。そろそろ就職活動も本格的に始まってくるわけで、将来のことを考え始めた。いつまでも下宿暮らしというわけにもいかないだろう。なまじ快適過ぎる下宿先に出会ってしまったため、就職と同時の独り暮らしには不安が残る。成人という節目をいい機会に今度こそ独り暮らしを検討するべきではないか。決してなかなか起き出さない義勇を一気に覚醒まで引きずり上げる方法を知ってしまった兄妹に堪り兼ねたからではない。ものすごくくすぐったいがそれは全然関係ない。今までの人生でくすぐりをかけられて音を上げたことは一度も無いので心底衝撃を受けているが、それとこれとは全く別の話なのだ。想定外だったのは、一体何をどこで察知したのか、手が空いた時にと頼まれている厨房の手伝いを終えフラっと商店街へ抜け出した義勇を炭治郎と禰豆子が追いかけてきたことである。これは昨晩、たった一言二言葵枝さんに相談したのが聞かれていたな。

「何かこれは必ず、といった条件はありますか?」
「必ず」

 どこか暈けた声が出ている自覚は義勇自身にもあった。外に渦巻く冷気から一転して、店内は暖気に満ちている。頭上で滞留するエアコンの暖気はもちろんのこと、勧められた椅子もクッションが心地よく、出された湯飲みに触れた指先には緑茶の熱がじわじわと滲む。両脇に置かれた可愛らしいドット柄のカップからもココアの甘い香りが湯気と共に匂い立った。唯一違った温度を感じるのは両頬を突き刺してくる視線だけである。

「駅が近くで」
「うちは駅まで五分です」

 透かさず割り込んできた声についうっかり視線を寄越してしまった。まるで戦に向かう侍のような覚悟の決まった凛々しい表情だ。まともにやり合うのは悪手、居るのかも知れない義勇の中の侍の声に従って視線を正面の穏やかな笑みに戻す。

「陽当たりが良くて」
「うちは南向きで近くに高い建物も無いですよ」

 今度は左から矢が。義勇が動かないので身を乗り出して真剣な表情がこちらを覗き上げてくる。将棋の駒で例えるなら飛車か。味方が開いたほんの少しの隙を逃さずに敵将を討つ。定跡として義勇は脳内で舟囲いを組んだ。防戦である。

「そこそこの家賃でスーパーが近ければ部屋は何でも」
「そんなに高い家賃じゃない、ですよね?」
「うちに居ればご飯は心配ないですし」

 目前に広げられた男性お勧めの1Kの資料を両脇から覗き込みながら兄妹は猛攻の手を休めることはない。拗ねた様子で頬を膨らませた炭治郎が目を上げる。

「うちじゃないですか」

 それはそうだ。駅の正面に位置する商店街の入り口横、ベッドからなんとか這い出してギリギリ授業に間に合う駅チカ。気休め程度に過ぎないにしても覚醒を助ける陽光。姉を喜ばせる破格の家賃と健康な食生活。その全てが揃い踏みだったのでこうしてめでたく義勇は炭治郎と禰豆子に両脇から挟まれることとなったわけである。

「義勇さん」

 禰豆子が神妙な声で義勇を呼んだ。左肘のあたりの服をぎゅっと掴む力は強い。そうして初めて、泣きそうな目をしていることに気がついた。

「世界にはたくさんいい家がありますけど」

 ちらりと初老の男性に申し訳なさそうな目を向けて、禰豆子はまた義勇を覗き込む。

「お母さんが居て、お兄ちゃんが居て、竹雄が居て、花子が居て、茂が居て、六太が居て、」

 禰豆子の言葉が重なる度に、何かよく分からない懐かしい気持ちが胸をよぎって暖気の中に柔らかく溶け消えていった。急に降って湧いたよく分からない感情に戸惑っていると、禰豆子はようやく目元を緩めて春の花が開くように笑う。

「それで、義勇さんが帰って来たら、うちは一番いい家なんです」

 義勇の前を腕がにゅっと横切って禰豆子の頭を優しく撫でた。その腕の元を辿ると、炭治郎もいつもの笑みに戻っている。

「義勇さん、禰豆子の言う通りですよ。そうだ、それにどこにも行かないって言ってくれたじゃないですか!」
「言ってない」
「ええ!? 言いました!ずっとここに居るって確かに言ってました」
「言ってない」

 それを言ったのは炭治郎であって義勇ではない。言ってないものを言ったことにはできない。押し問答を延々と繰り返していると、とうとう我慢できなくなったという風に男性が噴き出した。すっかり蚊帳の外に押し出してしまっていたことを三人同時に思い出す。

「二人は本当にこのお兄さんが好きなんだねえ」

 義勇の両脇で、炭治郎は禰豆子を見て、禰豆子は炭治郎を見返した。そしてそれはたちまち満面の笑みになり、元気な返事の唱和になっていった。冷やかしで長居するわけにもいかない。義勇が湯飲みに口を付けると炭治郎と禰豆子も慌てて後に続いた。もうぬるくなっている。

 きっと炭治郎も禰豆子も、筋の通ったわけを話せば義勇が出ていくことを無理に引き止めたりしないだろう。自分のために人の行く道を阻むようなことができる二人ではない。人が曲がった道を行かないように自分の道を譲るような性根の二人だ。

 はあ、茶を飲み干して息を吐いた。仕方がない。今日のところは大人しくまっすぐ帰ろう。この二人のところへ。

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