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春想廬



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

 ただただ、冬を浪費しているようだな。

 我ながらひどく自嘲的な考えだった。春草の名を持つ盧の小さな縁側に腰かけ、独りじっと動かずにいると度々そういう考えに至る。もう随分長くこうしているからそういう思考には厭になるほど慣れきっていて、今更呆れたりもしない。閉じていた目をゆっくりと開いた。白い粉雪が拳を置く膝の先に触れ、消える。足元にはうっすらと雪が積もっていた。ふと気配を感じて顔を上げ、あ、と息を漏らし目を剥く。氷混じりの雪化粧が重ねられつつある黒い木枝の向こう、粉雪の先に人影がある。

 柔らかい亜麻色の髪に、象徴的な真っ赤な眼鏡。その向こうにある丸い瞳がたちまち笑みに細くなった。細い腕を大きく振って跳ねるように枕木を駆け近づいてくる。むき出しの脚がなんだか寒そうで、いつの間にやら身に染みた人間らしい思考が懐かしく心をくすぐる。

「いち兄!」
「博多」

 紅葉のような小さな手のひらが膝に触れ、弾んだ笑みが覗き込んできた。笑みを返せばワアと心底嬉しげな歓声が上がる。

「いち兄やん!ほんとのほんとにいち兄やん!ここでなんしとうと?」
「博多こそ」
「俺は散歩。歩くのはタダやけん」

 この弟らしい変わった答えに、昔はよく戸惑い呆れたものだった。だが今となってはただ愛おしいと思う。癖毛に指を差し込んで柔らかく撫でてやると、ヘヘと博多の笑みに照れが混じった。

「いち兄は?」

 屈託ない笑みと問いにすぐに答えてやろうと思った。いつでも威風堂々、公明正大。それが粟田口唯一の太刀、多くの刀剣たちを弟として率いる長子の姿だと思ってきた。だが咄嗟に言葉が出ない。口を開ければきっと、冬を浪費していたとか、そんなつまらない戯言を口走っただろう。

 言葉に詰まった情けない兄の姿をどう思っただろうか。一期が何も言わないでいると、博多はくるりと身を翻した。そして一期の隣にすとんと腰を下ろす。人の身を持った時の記憶が、キシリと古い板を鳴らし博多の小さな鼻先に白い息を滲ませる。

「なしてここはこげん寒かとかいな。まだ秋になったばっかばい」

 博多の目を追って空を見上げれば、曇天から絶え間なく粉雪が舞い落ちていた。空の一切を覆う灰色の雲に、黒々とした裸木の隙間を縫う冷たい風に、秋の気配はひとつもない。博多は一体何を言っているのだろうか。ここは冬だ。もうずっと長く。

「待っているんだよ、ずっと」

 冬空から目を落とすと、博多も一期を見上げていた。水晶のような丸い瞳がくるくると不思議そうに光る。

「誰を?」

 血脈にも似た繋がりの中に欺瞞も虚飾も無い。しかし脳裏で幾千繰り返してきたその姿、その背を呼ぶ名を今ここで声にしたくなかった。虚しくなってしまう。あの方は今私の前に居ない。あの不可思議に光る美しい瞳は私を見てはいないのに。一度俯いて、それから木々の向こうに見える白い壁を眺め遣った。それが答えだ。

「そか」

 博多の答えは短い。一期の意図をどこまで察したのかは分からない。だが見目こそ幼く見えても、我が弟ながら聡い男だ。それ以上は一期の領分だと判じて、決して易々踏み込んでは来ない。

「会いには行かんと?」
「うん、約束を交わしたわけでもないんだ。ただ、私が待っているだけで」
「らしくなか」

 珍しく硬い声に目を遣れば、博多は怪訝そうに一期を見上げていた。きっと「取り決め」から外れた物言いだと思ったのだろう。銘に吉光を刻む以上はその矜持を絶えず掲げ、敵に決して屈さず、欲するものを断じて譲らない。一期がその象徴であり規範であることは弟たちとの暗黙の取り決めのようなものだ。その取り決めによって吉光の名はより高められ、より堅く守られる。もちろんここに座る一期もそれを「知っている」。けれど。

「私はね、もしかすると博多の知っている『いち兄』ではないかもしれない」

 困惑の色が深くなる博多の表情に苦笑し、額がつく程に近づいてその青い瞳を覗き込んだ。ぱちり、暈けた視界でひとつ瞬きをした博多は兄の意図を正しく汲んで一期の瞳の更に奥を見通し、ぽかんと大口を開ける。体を離し、一期の頭のてっぺんから足のつま先までをじろじろと眺める。その素直な反応がまた懐かしい。

「珍しかもんば見た」
「儲けだろう?」
「そやね!」

 間髪を入れずに返された元気な返事にとうとう声を上げて笑うと、博多も驚きの表情を笑みに崩す。

「ばってん、いち兄はいち兄たい」
「そうだろうね」
「やけん、らしくなかってぇ」

 打ち込みをあしらうように話を躱す一期に博多は頬を膨らませて不服を表す。まるで幼い人の子だ。そうだった。この弟は鋭く戦の利害を見る目を持ちながら、屈託のない愛嬌も持ち合わせている。よく共に大坂城への任へ就いた。一期には記憶がある。ある一人の審神者の編んだ場で己を鍛え、敵を討ち、仲間と日々を重ね、あの刀の隣を許された記憶が。

「ここでずっと、考えているんだ」

 初めは明確な望みを持ってここに辿り着いたに違いない。しかしいくつも冬の日を数える内に分からなくなっていく──この庭園の、茶室の向こう、白壁に囲まれた立派な建物の中にはあの方が居るとして、私はそれに会いたいんだろうか。「私の何より望むあの方」が確かにそこに居て、私を懐かしい目で見るかどうかも分からん。物にとっては出会いも別れも風雨と同じだ。それは時流に乗ってやってくるんであって、自ずから引き寄せたり突き放したりすることはない。ただ人の子の望みに寄り添い、その暮らしに身を置く。その本質から離れた先に、人を深く愛し重ねた歴史を慈しんできたあの方が居るはずがないんじゃないか。

「……再びお会いしたなら、まず何を言おうかとね」

 不安げにこちらを見上げる目に一期は笑みを返した。博多はそれでもしばらく物言いたげな顔をしていたが、やがては兄の強がりを許容して眉を下げてほほ笑んだ。立ててもらっている。人の身を持った暮らしの中で何度そう思ったか知れない。

「待っとったとよー!って思いっきり責めちゃりい」
「ははは、それもいいな」

 久々に声を上げて笑った気がする。博多はそんな一期を嬉しげに目を細めて見つめ、両手をすっと差し出した。粉雪がひとつ渦巻いたかと思えば、その両手には稲穂を藁で結んだ束が載せられていた。

「はい、これ」

 戸惑ってその手を眺めるだけの一期に早くも焦れたせっかちな博多は、身を乗り出して稲束を押し付けてきた。ついつい受け取ってしまえばたちまち満面の笑みが浮かぶ。

「いち兄に、実りのありますよーに!」

 納屋の横を水路がとろとろと流れ、風が吹くと稲穂が身を寄せ合ってさわさわさざめく。秋空は高く青いが、雲が多いので太陽が度々出たり隠れたりした。その幽かな陰りを感じて三日月は稲束を結ぶ手を止め、揺れる黄金色の美しさを楽しんだ。深く息を吸うと、体に馴染んだ審神者の霊力を感じることができる。その愛しさにふっと息を漏らして笑った。

「どうされましたか」

 刈り取った稲をどさりと筵の上に置き、稲穂と同じ黄金色をした瞳が穏やかに光る。太陽の光をよく集め実を結ぶものは皆このような優しい黄金色になるのかもしれない。なるほど、この色が愛しいわけだと納得して三日月は笑みを深めた。

「なに、気持ちがいいと思ってな」

 田畑の作物は審神者の霊力の結実であるから、鍛えられたばかりの刀や深い傷を負った刀のための備えとする──本丸もすっかり大所帯になり、小さな田畑だけで自給自足ともいかなくなって自然と決まったことだ。審神者の作る場に積もる土、流れる水、それらを吸い上げ渦巻く風や実る草花に触れる機会が減ったことを恋しく思う者は多い。かつては畑当番に文句を言う者もいたが、今ではすっかり人気の仕事だ。

「そうでしたか」

 三日月の心に寄り添う柔らかい声。そのあまりの心地の良さが却ってくすぐったく感じるのが人の身に宿る心の不思議だ。三日月の笑みを一期もまた愛おしげに微笑みで見つめ、すぐ隣に腰かけた。三日月の作った稲束に一期の長い指が伸び、撫ぜるように触れる。一期が稲穂を山と刈り取る間、三日月が作ったのはほんの十束程だった。

「すまんな。畑というものはまだまだ難しいものだ」
「ご謙遜を」

 三日月に任された仕事まで手伝おうとしているのだとすぐに分かり眉を下げたが、一期はまるで意外の言葉を聞いた、という顔を上げる。恭しい手つきで稲束を一つ手に取り、その結び目に指で触れる。

「貴方の仕事は丁寧だと。弟たちも、他の方もみな。私ももちろん、そのように」
「やあ、それは嬉しいなあ」

 三日月は審神者の作るこの場で同じ霊力を受けて人の身を取った者たちを、中でも殊更にこの優しい笑みの男のことを愛しく思うので、その者たちから同じように愛されることは心地がいい。それはきっと、物として愛用される愉快さとも、重宝される喜びとも違う。通い合うことの妙だ。

「……一期?」

 一期の笑みが秋の風の中にすっと解けて消えてしまった。三日月もきょとんと笑みを消してそれを見つめ返す。丁寧に青空で染められた細く柔らかい髪の下で、太陽の光を集めて結ばれた瞳が戸惑う三日月の顔をすっぽり納めていた。

「私に雅を解す心はあまりないようですが」
「うん?」

 思わず首を傾げ遡ってみるに、愉快な記憶に行き着いた。一期は名器名品を愛好する者として歌仙と交流があるが、書画の評などで全く考えが分かれることがある。そこにあるものが美しければ、手の中に入れるというだけのことです、といつもの優しい微笑みで言い切って歌仙をすっかり呆れさせたのだ。隣に居た三日月は思わず声を上げて笑ってしまった。何を思い出しているのか一期にも分かるのだろうか、弱った笑みを浮かべ一期は稲束を筵に戻す。

「古き人が歌を詠む心が、少し分かる気がしました」

 さわさわと背で擦れ合い囁き合う稲穂にも聞かせまいとするような、小さく、低く、掠れた、しかし熱で湿った声。一期の案外大きな手が三日月の手と重なった。

「貴方を見ていると私は、高天原に迷い込んだかと思います」

 重なる手の間に生まれるのは、人の身でなければ生まれない熱だ。そのあたたかさを感じながら一期の言葉を再び胸の内で繰り返してみる。これが果たして雅を解す心かどうか。結局この男の、美しいと思うものに躊躇わず触れる本質を見ただけのような気がして、三日月は笑った。はっはっは、雲の隙間に太陽が顔を覗かせ明るくなった納屋の下、一期は珍しく照れたふうに笑う。それでもその目は愛おしげで、三日月から決して逸らされることは無かった。

 ただただ、冬を浪費している。

 相変わらず一期は春草の名を持つ盧の小さな縁側に腰かけ、独りじっと動かずにいた。閉じていた目をゆっくりと開けば、白い粉雪が拳を置く膝の先に触れ、消える。足元にはうっすらと雪が積もっていた。ふと気配を感じて顔を上げ、気まずさに目を伏せる。氷混じりの雪化粧が重ねられつつある黒い木枝の向こう、粉雪の先に人影がある。

 鮮やかで芯のある臙脂色の髪、美しい刀身をそのまま宝玉にしたかのように鋭い光を湛える瞳。背筋をぴんと伸ばし胸を張り、一期を相手と定めたら決して目を逸らすことはない。力強い足取りでゆっくりとこちらへ迫って来る。その真っ直ぐな気性と誇り高さとが指先ひとつの動きにすら滲んで見えた。

「まだ、そこに居るのか」

 正面にまで来て見下ろされれば、一期もその視線を受け止めるほかない。はい、弱く笑みを浮かべて返事をすると、大包平は大きく息を吸った。しかしすぐにそれを吐き出さないのがこの男の心根の明るいところだ。胸を膨らませたまま不服げな顔で口を引き結ぶ。

「大包平殿には、随分長くご心配をおかけしてしまっていますな」
「当然だ!まったく」
「すみません」

 大包平の心の明るさと正しさは夏の太陽のように烈しいが、その光を浴びる者に深い影を落とすことは無い。素直な真心をさらけ出すことを躊躇わないからだろうか。ただただ強い光の中に連れ出され、一期も笑みを零さざるを得ない。しかし大包平は一期の言葉に満足していないようだ。眉根を寄せたまま腕を強い力で掴まれた。引きずられるように立ち上がり、一歩二歩と踏み出す。

「来い」

 大包平もあの方も全く違うが、似たところもあって、その根源にあるのは己を欲し愛した人の子への尽きぬ慈しみだ。その収まりのつかない想いを発散させようと出歩くことがあるようで、その度に大包平はこうして一期を案じて声をかけてくれるのだった。しかし腕を強引に引かれたのは初めてで当惑する。さすがに抵抗しようと思ったが、足の向かう先が白い壁とは反対方向だったのでひとまずは引きずられることにした。物の本質から離れた一期と近く寄り添う大包平とでは力に差がどうしてもある。

 大包平が長い脚を大きく開いて力強く歩むので、粉雪はその体に触れる前に舞い上がり飛び去った。廬の縁側から玄関口へと回り、低い柵の立つ小路を抜ける。薄紅色が目について傍らに目をやれば、薄紅色の椿がいくつか蕾を開いていた。粉雪の舞う薄曇りの中でも花の色は鮮やかで葉も艶やかに光る。しかしじっと鑑賞している間もなく引きずられ、木々の陰の中を潜って飛石をとすとすと踏み、六窓庵の腰掛待合の小さな口に身を屈めて入る。そのあたりになると一期も大包平がただ話す場所を変えたいのだと悟っていて、大きな体を律義に折り曲げる背に可愛らしさなどを感じて隠れて笑みを浮かべていた。

 ようやくそれなりの満足を得たらしい。足を止めた大包平はふんと鼻息を吐き、腰掛に敷かれている畳の上にどすりと座った。ここまで来て阿呆のように突っ立っていることも無かろうと一期も後に続き静かに腰を下ろす。顔を上げれば、垣の向こうには六窓庵の茅葺と扁額が見えた。「朗照」の二字が大包平に似て眩しい。目を逸らしたかったが、そうすれば池の向こうに白い建物が横たわっているのが嫌でも目に入るだろう。観念して一期は大包平のほうへ首を向けた。開いた膝の上に拳を置き鋼色の瞳がこちらをじっと見つめている。穿たれるかと思うほど強い光が底に輝く。

「大包平殿は相変わらずお強い」

 実直さ、これも大包平があの方に似ているところだった。一期はこれに弱い。実直には必ず誠実を以て向き合わなければならんと思うからだ。一期が見せられる誠実はいつも弱い心と共にある。つい浮かぶ弱い笑みに呆れたのだろうか、大包平は眉根に深い皺を刻んだ。

「聞け!」

 物に宿る化生に声は無いが、空気が震える振動を鮮明に錯覚した。人の身だったら鼓膜が破れていたかもしれない。目を見開いて口を噤み、沈黙の中見つめ合う。風が吹き、粉雪が舞い、木々が揺れる音。蹲に水が細く流れ落ちる音。チヨチヨと鳴くのは雀だろうか。

「鳥の声がするぞ!」
「……ええ、はい」
「鶯だぞ!春だろうが!」

 不思議なもので、大包平が「鶯」と口にした途端にホーホケキョ、と鳴き声が響いた。この雪の中に一体どこから。思わず首を巡らすが、薄暗い木陰の中ではよく分からない。一期一振、咎めるように名を呼ばれて目を大包平へと戻した。

「お前は吉光の唯一の太刀だろう。池田家に見出され重宝された俺とも引けを取らん」
「恐れ入ります」
「うん!」

 力強く深い頷きには実直を通り過ぎ幼く無垢な響きさえ感じる。なんだか弟のうちの一口と向き合っているような気さえして穏やかな気分になったが、大包平のほうは却って怪訝げに顔を顰めている。分かっているのか、と声は低い。

「つまりだ、お前のようなものが、こんなところで一振、いつまでもただ座っているのは──俺は、好ましく思わん!」

 最も自分の心根に沿った素直な言葉を探り探り、最後には一番いいものを見つけたようだ。にっと上がる口角にとうとう笑いが零れた。

「なんだか」

 大包平の表情は奇妙な物を見る目に変わってしまったが、顎元に拳を添え肩が揺れるのを堪えることができない。

「大包平殿と話していると元気が出るようです」
「そうか!」

 満足そうにまた二つ力強く深い頷きが返る。そこでふと、いつの間にか粉雪が止んでいたことに気付く。大包平にはまさか季節を変える力まであるのだろうか。そう言えば春を、夏を、秋をもう随分長く見ていない。

「私は、もう行くべきなのでしょうか」

 鶯の声に誘われるように池のほうに目を向けてしまった。やはり奇妙で、池よりこちらは寒々しく木々が陰を作っているのに、池の向こうには穏やかな春が見て取れた。

「あの方は、来ない。そう思えてきてしまって」

 桜の木々が池を覗き込むように枝垂れている。風が吹くとあたたかな陽光を弾きながらふらふらと薄紅が揺れて落ちる。その美しさに、ああこれは夢幻なのだと悟った。

「私だけが愛したあの方ではない」

 木々の向こうに見える彼岸の桜、束の間の夢。まるで記憶にある日々を観客になって垣間見ているようだ。桜の花びらに取り巻かれるあの方の美しい立ち姿が見える気がする。その手を引き、桜の陰で抱き寄せる自分の腕さえ。そんなわけもないのに。あの刀はあの白い壁の向こうで今日も訪れる人々に慈しみを向けて微笑んでいるだろう。

「……それも、それで」

 不機嫌そうな低い声にハッと意識を取り戻して振り返る。大包平は砂を噛むような苦い顔だ。

「お前らしくない」
「そうでしょうか」

 博多にもいつかに言われたことだった。物の本質からも「取り決め」からも離れ、記憶を手にただ待つ己を、一期自身も扱いかねている。思えば人の身を持ってあの方の隣に立った時からそうだった。もうずっと無い。私らしさなど。あの方に恋したあの日から。そうしていつの間にかただ冬を浪費する無形の何かに成ってしまった。皮肉にもそうして望んでもいない永遠を手に入れたように思えてならない。

「ほら」

 唐突に手のひらが差し出されて虚を突かれた。しかしよくよく見ればその手は空ではなく、一本の枝が握られている。華やかに連なって咲くのは桜だ。

「貶めるな。お前自身と、その心を」

 同じく己を名刀と自負するものへの呆れでもあり、翻って激励でもある。大包平の表情は真摯で、一期にまた誠実を迫る明るさと正しさに満ちている。躊躇いはしたが、退けることはなかった。いかにもがき苦しもうとも、自分の大本は吉光唯一の太刀。一期一振の誇りと矜持まで捨て去ることは無い。桜の枝を胸元に引き寄せる。

「……はい」

 待とう。いくらでも待とうあの方を。そうしたいのだから、私が。この一期一振が貴方をただ待つことが何よりの私の心の証左だ。貴方は私がどんな者か知って、よく愉快そうに笑ったから知っているでしょう。

 春が好きなのは、出陣を終え本丸に戻れば誰よりもまず桜の花がにぎやかに出迎えてくれるからだ。身軽な者たちが戦での高揚を抱えたまま花弁の中くるくる駆けていくのは愛らしい。ある者は生真面目に戦績を検め、ある者はのんびりと軽口を開き、桜で染めたような頬の紅潮を隠せずに審神者の元へと向かう。その背を殿から見るのが三日月は好きでたまらない。愛しいと思う者たちがこんなに生き生きと美しく一枚の絵の中に納まることはきっと、後にも先にも無いに違いない。ふふふ、ひとりでに笑みが込み上げて飾り紐がゆらゆら揺れる。一歩、またゆっくりと踏み出そうとして誰かに腕を強く引かれた。すっかり気を抜いていたので、そのまま後方へとよろける。

「おや、」

 体勢を立て直そうとするよりも早く、木陰に引きずり込まれて背後からぎゅうと体を抱き締められた。驚きはしたものの、すぐに馴染んだ気配が体温とともに背中に滲んだので体重全てを預けてしまうことにした。ふふふ、また笑えば、ぎゅうと腕の力が一層強くなる。こそばゆくてまた笑う。

「一期」
「はい」

 試しに名前を呼んでみると、腕の力とはうらはらに素直な返事があった。しかし振り返って確かめようとした表情は肩に額を擦り付けられたので阻まれてしまう。ほんの刹那の交わりとはいえ、それなりの付き合いが生真面目な男に渦巻く懊悩を簡単に想像させ、その可愛らしさに三日月は首を傾げた。肩に乗る頭に頬を寄せる。

「やれ、嬉しいなあ。俺もお前の顔が見たかったところだ」

 腕を上げ、宥めるように春空と同じ色をした細い前髪を梳いた。しかし男はやはり頑なで、ピクリとも動かないでいる。痛い程強い力で胴に回る腕に手を重ねた。

「いや、見たいのはいつもだなあ。不思議なものだ。毎日見ているんだが」
「すみません」

 顔を伏せたままの一期がくぐもった声を上げた。何も悪いことはないのに、この男はどうしても謝らないと先へ進めない時がある。ひとつずつ、丁寧に、服を脱がすように許しを求めたがる。三日月にはこれも戯れの一つだと思えるのだ。

「戦から戻ると、貴方は」
「うん」
「いつもよそへ行って誰かと笑いあってしまう」

 いつもこの男こそ数多い弟たちから言われているような言葉だ。一体何を言っているのかと思うが、そんな稚気に満ちた言葉ですら嬉しいのだから三日月は笑みを深めるほか無い。

「離したくない、だが、私だけが愛す貴方ではない」

 いつもは爽やかで甘い声が今は苦しげに掠れている。そのかさついた声が三日月の胸のうらにひっかかってはまたくすぐり、この男の名を心の中で殊更特別にしていく。

「そうは言うがな、一期。こうして俺を捉まえるのはお前だけだ」

 幾百を渡り、また幾百これから迎えるとも。きっと三日月を桜の陰に引きずり込んで抱き締めるのはこの男だけだ。優しく柔らかい面の下に隠れる苛烈で繊細な心を誰よりも深く三日月に刻むのもこの男だけなのだ。

「お前だけだぞ、一期」

 桜が風に煽られてひらひらと花弁を落として視界を雪のように横切っていく。まるで三日月の心に納まり切れない想いが桜になって舞ったかのようだ。遠くでいつの間にか消えた三日月を呼ぶ声がする。見つかる前に出て行ってやらねば。けれどもう少しだけ、この腕の中に収まってもいたい。

「ほら、ほうら」

 心地よい微睡の中を浮いたり沈んだりして楽しんでいたのだが、その姿をとうとう見咎められたらしい。優しい声で引き上げられ、仕方がないので素直に従う。ゆっくりと睫毛を引き上げて目を上げた。

「起きろ」

 丸い二つの黎明の空には、それぞれ三日月がちらちらと輝いている。宵闇で染められた髪、金の飾り紐。打たれた頃を懐かしく思い返す装束。見るもの触れるもの全てが愛しくて仕方がない柔らかい笑み。

「……俺か」
「うん、俺だ」

 どうやら「三日月」は、三日月の膝元で幼子のように眠っていたらしい。眠りの心地よさから抜け切れていない頭でぼんやりとその白い顎を見つめる。

「起こしてしまって悪いな」
「いいや、だが……いい夢だった。もう少し見ていたかった」
「はっはっは、すまん、すまん」

 三日月はいかにも愉快げに体を揺らし豪快に笑った。それを見ている「三日月」にも揺れが伝わって一緒になって笑みの吐息を零してしまった。三日月は愛おしげに目を細めてこちら見下ろす。

「だがな、三日月宗近。今に春が去るぞ」

 三日月は身を屈め、内緒ごとを打ち明けるように口元に手を当てて囁いた。春が来る、ぼんやりした頭のまま「三日月」が答えれば嬉しそうな微笑みで頷かれる。

「俺がお前を許そう」

 すぐには臓腑に落ちず、「三日月」はのんびりと男の言葉を心の中で広げてみせた。丁寧にそれを検分して、しかし結局何も分からず首を傾げ三日月の膝に頭を擦り付けた。

「俺は、許されたいのか?」
「ううん、いや、正直なところ俺にもよく分からん。だが、俺が許したい」

 三日月の手のひらが伸びてきて、「三日月」の頭を柔らかく撫でる。その心地よさに思わず目を閉じた。うっかりすると眠りに戻ってしまいそうなほど気持ちがいい。そんな「三日月」の様子にふっと笑みを零し、三日月はまた囁いた。

「構わんさ。たったひとつに愛されても」

 目がひとりでに開き、三日月の顔をじっと凝視する。三日月の表情は変わらず慈しみに満ちた優しいものだ。「三日月」はこれまで数えた幾百年、一度も覚えたことのない妙な不安に心を揺らされ、頭を撫でる手を弱く握った。

「……それでも、俺は美しいか?」

 手を握られた三日月は意表を突かれて目をきょとんと丸める。しかしすぐにまた柔らかい笑みに戻り、おかしくてたまらないという風にくすくす喉を鳴らして幼子のように笑う。

「それも分からん。だが、恋うる者にとり、おもいびとはみな、美しいものだろう?」
「詳しいなあ」
「じじいだからなあ」

 ふふ、三日月が体を揺らし、はは、「三日月」が吐息を零して笑う。しばらくそうしてじゃれるように笑い合い、とうとう「三日月」は三日月の手を解放した。膝に頬を寄せて目を閉じる。

「髪を梳いてくれ。それから、行く」

 少し間を置いて分かったと返事があった。心地よい手が「三日月」の髪を優しく梳いていく。

「少し、寂しいな」
「そうか、そうだな」

 今日もまた冬が一日過ぎ去っていくのだと思っていた。異変を感じたのは鼻先だった。これまで何も感じてこなかったそこに暖かく強い風がびゅうと吹きつけ、驚いて目を開いたのだ。一体何事かと思って見上げた先に影がある。

 枕木の向こう、周囲の空気を凛と染めてしまう立ち姿。重たげな睫毛の下に細く光る黎明の三日月。その美しい刀を、拵えを、重ねてきた時と尽きぬ慈しみとを、全て意匠に変えて立つ美しい男が居て、一期に微笑みを向けている。

「一期」

 名をひとつ呼ばれた。それだけで粉雪があっと思う間に桜の花弁に変わる。三日月の立つところから黒い木々に蕾が宿り、薄紅の花が開き、薄く積もった雪が全て花弁の絨毯に変わっていく。鶯がひとつ鳴き、あたたかい日差しが桜の木の隙間から差し込む。ゆっくり、ゆっくり、三日月は春の中を歩み、そうして一期の正面に立った。動けずにただそれを見上げる情けない姿を呆れた様子もなくただ嬉し気に見つめる。

「待たせたか」

 琴線をゆっくり弾いていくように耳に心地よく馴染む声。一期はやっとの思いで立ち上がり、無礼と知りつつもその手に触れた。奔流のように流れ込みぴったりと一期のものと重なって落ち着く記憶に胸が詰まり、益々言葉が出なくなった。

「いえ」

 喘ぐように口を開きやっとの思いで出た言葉は、ほんの短いものだ。うまく口が回らないことがじれったくて仕方がない。三日月はそんな一期さえ受け入れ続く言葉を穏やかに待っている。一期の弱いところをよく知っている男が、確かに一期と手を重ねてそこに居る。

「ただ、ただ貴方を」

 やっと春が来た。一期の時は三日月が居てこそ廻るらしい。待ったかと問われれば待った。それはもう待った。長く終わりの見えない冬の中、この一期一振が惨めに待った。貴方を待ちたいがために。

「ただ、愛しています」

 いつかのように繋いだ手を強く引いて抱き締める。驚いたのだろう、身を硬くした三日月は、しかしすぐに緊張を解いた。腕が胴に回り優しく背を撫で、懐かしい笑い声が春の中に花弁のように吸い込まれていく。やはり言葉など何も出ない。この方が今、この腕の中に居るということの他にふさわしい言葉などありはしない。いつかに失った人の身のあたたかさ、鼓動が鮮明に蘇って体中に染み入った。

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