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途中下車・始発駅にて (炭義禰)



始発駅にて

 もう何度この駅で降りたか分からないな、と思う。蒸気がシイイイと音を立てる駅に静かに降り立つ。他にいくらか降りてくる人影はあるけれど、皆顔を伏せていてよく見えない。探し人の背格好に当てはまる影が無いことだけ確かめて小さく息を吐いた。ポオ、ポオオ、勢いよく汽笛が二度鳴り、車輪がゆっくり回り始める。蒸気を撒き散らして汽車が走り去って行った。石炭の燃えるどこか懐かしい匂いが鼻に残る。汽車の黒い影が白一色に覆われた山の陰に消えるまで見送っていると、北風がびゅうと吹き付けて髪を好き勝手に弄んでいく。吐く息が白い。冷たさから逃れるように振り返れば、連れ立って旅をしている人はもう壁沿いの長椅子に腰かけていた。

 羽織の中で組んだ腕を腰に差す刀の柄に預けている。その前をそっと通り過ぎて「秋」側の端に腰かけた。人が二人座れるくらいの間が空いて、その人は「冬」側の端に居る。閉じられた瞼の下には睫毛が幾重にも重なって影を落とす。そうして瞳が見えないと、白と黒で描けてしまうような人だなと思う。羽織が無ければ余計にそう思ったに違いない。

 瞼がゆっくりと押し上がったので、そんな取り留めもない考えがうっかり伝わったのだろうかと驚いてしまった。白い面がゆっくりとこちらを向く。人形が動いているみたいだ。目に嵌め込まれた瞳もびいどろみたいな蒼色をしている。綺麗だが慣れないと少し怖い。

「寒いんじゃないか」
「えっ」

 そんな静かな瞳のまま放たれる思いもしない言葉に、思わずおかしな声を上げてしまった。だってそれはこちらの言いたいことだ。互いに困惑した顔でじっと見つめ合って、どういう答えに行き着いたのだろうか。不意に冬側に居る人は羽織の袷に手をかけて脱ぎ始めた。

「あの」

 そうして、止める間もなくそれをこちらへ差し出してくる。羽織と、その腕と、白い面と蒼い目。それを順繰りに見て、また戻って、もう一度順繰りに見て、意を決して手を伸ばした。羽織ではなくその腕を掴む。少し遠いので前屈みになって長い髪が胸のあたりにさらりと流れた。

「もう少し、こっちへ来ませんか」

 長椅子の木目に手をついて目を上げると、びいどろの目が真ん丸になっていることに気が付く。驚かせてしまったらしい。なんだか人に懐かない猫の子を見ている気分になって思わず笑ってしまった。少しだけ腕を引いてみると、思うよりずっと素直に、しかし音もなく胴体が近づいてきた。やっぱり猫みたい、と思ってしまう。そうしてやっと、この人は「秋」がこちら側にあることを知ったらしかった。腕からそっと手を離す。

「不思議だな」
「はい」

 蒼い目の先を追う。小さな駅舎の向こうに、ずっと果てが見えないくらい稲穂が続き、陽の光を受けてきらきら光っている。心地よい涼しい風が頬を撫で、さやさやと田に波紋を作る。

 見惚れていると肩に何かが軽く触れたので振り返る。羽織がかけられていた。顔を上げたがつんと立った鼻の先は黄金の畝に向いていて目が合わない。こんなに近くに居るのに動かずにいると気配を感じさせない人だ。いくら眺めても気にされないのだろうと思って、じっとその白い顎を眺める。

「居ませんでしたね、さっきの列車にも」

 無視されるだろうかと思ったが、見つめていた顎の先が傾いて分厚い睫毛の先がこちらに下ろされた。蒼い目がひたりとこちらを見つめる。風のない水面が鏡になっているみたいな目だと思った。責められているような気持になる。

「……ごめんなさい」

 目を逸らして俯いた。目印になるんじゃないかと思って結っていない髪が壁になって冬の空気を遮る。本当はここに一人で来るべきだと知っていた。一人で探してあげないといけない。だってこの世界でたった一人だから。

「謝らないでくれ」

 おずおずと顔を上げると、蒼い目はもうこちらを見ていなかった。ただじっと線路のあたりを眺めていて睫毛が下を向いている。横顔の向こうには雪景色がずっと続いていて、遠くで雪が木枯らしに巻き上げられて踊っていた。

「お前には、そうされたくない」

 言ったきり瞼に目が隠されて押し黙ってしまう。この人たちのように特別な呼吸など何も使えないから、ただ息を吸い、吐いて、また吸う。そしてその腕にもう一度触れる。目が開いてまた丸くなっていた。

「じゃあ、どうされたいですか」

 こちらを見ないまま丸くなった目が、瞼にぱちぱちと何度か隠され、眉根がわずかに寄って、最後にやっとこちらを向く。何とも言い難い居心地の悪そうな顔だった。

「そのままでいい」

 放り投げるように言って、顔がまた正面に戻っていく。だがぶっきらぼうなその言葉の響きのわりに突き放すつもりがないことが不思議と分かった。覗き込む目が伏せられていて、言葉を探すように動いているのが見えるからだ。

「俺はこれまでもう何も持てないと思ってきた。それが俺に似合いだとも思っていた」

 言葉を選んでゆっくりと話す、その様に既視感がある。弟妹たちのそんな姿を何度も見てきた。でもそんなことを口にしたらきっと失礼だろう。聞きたい、もっと。それが伝わるように触れた腕を握った。

「だが、今はあいつの気持ちが少し分かる」

 よく鍛えているのが分かる硬い腕。凛と正しい背筋。表情も静かなまま動かない。ただ水滴がぽたぽた落ちていくように言葉が続く。

「正気でいられる。お前のおかげで」

 ありがとう、禰豆子。言葉がまたぽたりと落ちる。波紋が心の中にゆっくりと広がる。お礼を言われてこんなに苦しい、泣きたくなる気持ちになることもあるんだ、と初めて知った。こちらこそ、ありがとうございます。名前を続けようとしたが何と呼びかければいいか分からない。そんなことすら始まっていないのに、今こうして同じ人を探すために共に旅をしている。それを良かった、と思ってしまうのはどうしてだろうか。一緒に来てくれたのが、冨岡さんで、義勇さんで良かった。

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