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星粒ふたつ (炭義禰)



 寝台の上、泣き疲れて眠ってしまった赤子のような禰豆子を胴に巻き付けて温かいなあと思っていると、部屋の奥にふと人の気配を感じた。顔を上げると、もうその人は隣に居てしゃがみ込んで炭治郎の顔を覗き込んでいた。さすがに、炭治郎が察するよりも数段動きが速い。思わず目を丸くしてしまった。

 窓の外にある夜空には月が無く、星明りだけがぼんやりその顔を照らしている。改めて見ると少し幼い顔立ちをしていると新たな発見をした。目元も鼻筋も涼しく凛と研がれているけれど、黒目がちな瞳は案外大きくて丸く、夜がそこにもうふたつあって、見つめているとそのまま飲み込まれそうだ。

「……帰ってきましたね、俺は」

 随分長くその顔を見ていない気がした。間違いなく眠りこけていた数日は見ていなかったわけだが、何年も何十年も見ていなかった気がする。やっとその目の中に自分がいるという感慨があって呟いてしまった。言って気付いたがなんだか間抜けな響きがする。義勇もそう思っただろうか、何も返事をしなかった。じっと何を考えているか分からない顔で炭治郎を見下ろしている。匂いも少しも動かない。ただ懐かしい匂いがする。雪の中で嗅いだ始まりの匂い。

「今回ばかりはもうだめだと思っていました」

 炭治郎は何も特別な力を持たない人間だ。鍛錬もまだまだ足りない未熟者だ。ただ人一倍強く大きな望みがあって、その引き換えに何が失われても厭わないと決めていた。ひたすら頑張ること、炭治郎にはそれしかできない。その頑張りが炭治郎より何十倍も優れた人々を一足飛びに凌駕するとしたら、その結果はひとつしかないように思えた。生半可な頑張りで叶うような望みなら、誰も彼も死なずにすんだはずだから。

「でも、禰豆子が泣いている声を聞いた気がして」

 未練はあっても、悔いはなかった。自分にできるだけのことはやったという誇りがあった。後は人間という生き物の美しさの中に自分も重ねられていくのだと思っていた。だがその声を聞いてしまったからには振り返らずにはいられない。名前を呼んで駆け戻らずにはいられなかった。

「禰豆子はずっと、ずうっと我慢ばかりだったんです本当に。泣くことなんて滅多になくて、いつもにこにこして。俺、禰豆子に泣かれるのだけは堪らない」

 物心つく頃には何をするにも一緒だった。一緒に笑って一緒に泣いて、助け合って大きくなった。その内にいつからか禰豆子の痛みや苦しみ、喜びや幸福は炭治郎にも同じように感じられるようになっていた。

「いつも一番に幸せで、心から喜んでいてほしいんです」

 そこに炭治郎が必要というなら、何が何でも戻ってやらなければいけない。それが炭治郎にとっての幸せでもあった。そうして伸ばした手の先を取ってくれる手が、起こそうとする背を押してくれる手がいくつもあって、炭治郎はここに戻ってきた。今まで出会った人が──今目の前に立つこの人が炭治郎を引っ張り上げてくれた。

 不意にあの時と同じ腕がまた伸びてきた。義勇が自分の右袖を引っ張って、布巾のように炭治郎の頬を拭う。いつの間にか炭治郎は泣いていたらしかった。すみません、と思わず謝ると、義勇はなんとも言えない表情で眉根を寄せる。少し不服そうな匂いがしていた。

「謝るのは、謝るような真似をしてからにしろ」

 清流がさやさや流れるような耳に心地よい声。その声と匂いに満たされた許しにますます涙が止まらなくなりそうだ。慌てて上を向いたがそれでも一筋頬を涙が滑って行った。

「義勇さんは、義勇さんはどうしてそんなに……俺たちに良くしてくれるんですか」

 鼻声に詰まる言葉に返事は無かった。星空を睨んで涙を堪えているので表情を確かめることもできない。大きく深呼吸を繰り返してやっと顔を戻そうとしたところに拳が差し出された。中空で何かを掴むようにぐっと握り込まれる。その拳が星のように流れていくのを目で追って、義勇と見つめ合った。

「ほら」

 拳が裏返り、長い指がゆっくり解けて、義勇が空から取ってきた星が二つ現れる。

 その二粒に色々な想いが、色々な人の顔が、色々な日々がよぎっていった。そしてそれは父と母が待つにぎやかな家に落ち着く。幸せなある日の記憶が鮮やかに心に蘇って、炭治郎はまた泣いている。今、初めて生きて戻ったことを実感している気がした。炭治郎が何よりそうしたくてここにいることを思い知っている。

「お前たちがふたりでよかった」

 手のひらが差し出されても炭治郎の腕は禰豆子に封じられたままだ。涙に歪んだ視界の中でいつになく義勇は柔らかい表情で微笑んでいて、それをもっと確かに見ていたいのに。呆れたような、慈しむような、胸のうらを優しく撫ぜるような匂い。

「お前たちがふたつでよかった」

 そう思うだけだよ。
 とにかく何か返したくて開いた口に金平糖が放り込まれてしまった。ほのかな甘さが口の中に染みた。

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