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冨岡義勇は忙しい (冨岡義勇)



 夜の中にもう鬼は居ない。それに怯え傷つけられ悲しむ人はもう居ない。では、人は夜に一体何をするか。

 くしゅん。

 鼻がむず痒くてくしゃみが出た。顔をしかめながら口元あたりを拭い、のっそりと起き上がる。すると、はらはらと何かが枕の上に落ちた。鋏で切り込みを入れたような薄紅の花弁。眠気を引きずる頭でそれをぼんやり眺め、障子へと目を向けた。細く開いた隙間から光の線が畳を照らしている。どうやらそこから滑り込んできた花弁が義勇の鼻先をくすぐったらしい。

 枕の向こうには開きっぱなしの棋書と持ち運びもできる薄っぺらい将棋盤。うっかり途中で眠らないように夜風を入れていたことを思い出した。決意虚しく結局途中で眠りに落ちたことも。寝ぼけていたのか手がめちゃくちゃだ。

 枕の上の花弁を拾い、布団からずるりと抜け出す。畳をみしみし鳴らして障子に手をかけ腕を伸ばした。雲一つない青空の下、ほろほろと身を捩りながら花弁が宙を舞う。天気の変わりやすい春先にしては、ここのところ晴れ続きだ。眠る前は肌寒かったが、突き出した腕に触れる空気はすっかり温い。

「……寝過ぎた」

 軒先の太陽から辰の刻あたりと見当をつける。夜更かしが悪かったか。そんな風に考えて笑いそうになってしまった。ほんの一年前までは「夜更かし」などという言葉浮かびもしなかったというのに。いつからか夜は眠るものになっている。

 口元を緩めながら縁側に出て屋敷の裏手へと回る。竹垣に着替えと手ぬぐいを引っかけ、立てかけた木刀を手に取った。目を閉じ腹に力を入れ、呼吸を研ぎ澄ませる。残っていた眠気が晴れ、体中が空気の入れ物になっていく。踏み込み、突き、払い、一通りの型。左腕一本にもそれなりに慣れてきた。元々技の精度を向上させるため右と左で差が出ないように鍛えてはいたのだ。

 まるまる一刻日課に費やしたところで、風呂桶に樋を下ろした。土間にも同じように川から樋を引いてなるべく水を運ぶ手間を少なくしている。水を溜める傍ら、桶の下の竈に火を入れて風呂を沸かす。ぼうっと水面を眺めていると、ヨタヨタ鴉が近づいてきた。

「おはよう」

 声をかけると、鴉はカアとひとつ答える。ここのところほとんど人の言葉を語らなくなった。だが思ったほど困っていない。それなりの付き合いのおかげだ。風呂桶に柄杓を突っ込んで湯をかき混ぜ、まだそれほど温もっていないことを確かめて腕を上げた。柄杓を傾け水をちろちろ鴉にかけてやると、バサバサ機嫌良さそうに羽を動かす。

 汗を流しゆっくり風呂に浸かり体を解す。未だに最終決戦の影響があり、長時間の無理が利かなくなった。痣のせいもあるだろう。ただ、何もしないで休んでいると体が重く感じて逆に調子が悪くなる。何事も程々ですよ、かつての主人の面影を見せる蝶屋敷の少女たちの厳しい顔を思い出してまた頬が緩んだ。湯から上がり体を拭き、着物を身に着け縁側に腰を落ち着ける。足元をヨタヨタ鴉が歩く。春のうららかな陽が心地良い。時折疾る風が、光る桜が心地良い。今までにない良い春だと思った。昨年もそう思ったが、今年は尚良い。来年はきっと、もっと良いだろう。

 しばし小さな庭の一本桜を眺めていた。時間にして四半刻ほどだろうか。洗濯をするか、掃除をするか。散歩へ行くか、飯を炊くか。本を読んでもいいし、昨晩の詰将棋をやり直してもいい。近所の道場に顔を出すのも有りだし、ちょっと遠出をして買い物に行くのも有りだ。

「……糠漬けだな」

 独り言ちて縁側を戻り土間に下りた。竹皮を取り出し、糠床の蓋を上げる。美味くなっている、はずだ。何せ昨日、実弥がそれもはもう力強くかき混ぜたのだから。呼び出す文を書いたら「字が汚くて読めねェ」と顔を出してきたので、糠をかき混ぜてくれと頼むと「くだらねえ用で呼び出すなァ」と言いつつ喜んでやってくれた。これはもう親友の域ではなかろうか。一年前までのことを思い返せば凄まじい進歩である。

 ムフフ、自分の成長に感心しつつ竹皮にカブや人参を取り出し、やや苦戦しながらなんとか紐で括り、風呂敷に包む。寛三郎、鴉を呼んで懐に入れ屋敷を出た。のんびりと歩き出す。ひとつ山を越え茶屋で一杯茶を飲み、また山へと入った。

 すっかり見慣れた山道に入る前、スウと深く息を吸う。体をまた空にして、血を速く強く巡らせた。音もなく地を蹴り、青々と茂る木を足場にする。跳躍と跳躍の間に時々椿や梅、桃や桜を見かける。綺麗に頸から落ちた椿を見つけて一輪拾った。喜びそうな者が居るからついでに届けてやろう。それに懸想する男からは睨まれるかもしれないが。

 上へ上へと上りながら次第に気配を消していく。最後に足をかけた桜の枝は義勇の体を受け止めても揺れもしなかった。太く分かれた木の幹に静かに腰を下ろす。見下ろすのは茅葺の小さな家。目を閉じると賑やかな声がわずかに聞こえる。これも春風のように心地が良い。腕を組む格好をして木の幹に体を預けた。

「ほらなあ!」
「確かに……」

 遠かった声が次第に聞き取れるほど近くなってくる。だがまだ目は開けない。桜の匂いと同じようにひっそり息を潜める。

「よおし!今日は相撲だな!今日こそ俺の勝ちだぜ!」
「お前ホント飽きないね……」
「すごいねえ、お兄ちゃんたちはやっぱり」

 えっ、そ、そお……浮かれてどもる声が愉快でとうとう小さく笑ってしまった。するとたちまち、とてとてと足音が近づいてくる。目を開けて見下ろすと、満面の笑みが下から待ち構えていた。

「……やっぱり」

 春の陽をそのまま目にいっぱい溜め込んだ穏やかな笑みだ。心から嬉しげで、親しげで、心を許した者に見せる笑みだ。きっと義勇も今同じような笑みを浮かべて返している。

「お前たちを驚かせてやるのは難しいな」
「だって義勇さん、」

 くっと喉を引き絞るように肩をすぼませた炭治郎を不思議に思って桜の花びらと共に地に降り立った。ああ居た居た、禰豆子や善逸、伊之助たちも歩み寄ってくる。

「美味しそうな匂いなんですもん。糠漬けの」

 ふふふ、あはは、零れた笑いに義勇もまた同じように笑う。飯炊きは義勇の知る中で一番炭治郎が上手いし、炭治郎たちと共にする飯が義勇の知る中で一番美味い。糠漬けを提供して昼飯に加えてもらう魂胆だ。

 昼の中にももう鬼は居ない。それに傷つけられ、悲しむ人はもう居ない。そんな人々をもう二度と出さないために駆ける鬼狩りも居なくなった。では鬼狩りでなくなった人は、昼に夜に一体何をするか。冨岡義勇は毎日忙しい。

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