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明ける/染める



 いつも、雪の中にある。

 義勇のことを思い返すと、まず雪の匂いが頭を過る。幸せな日々の終わりに敷き詰められた重たい雪雲。清々と冷えた冬の匂い。鼻にしんと染みる雪の匂い。それから禰豆子の血の匂い。雪化粧に白く沈んだ木々の間で、義勇はいつもじっと炭治郎を見下ろす。吐いた息に白んだ空気の向こう、静かな瞳。蒼く冴えた刃。その時の義勇は炭治郎のことを何も知らなかった。きっと幼く無知な炭治郎を、鬼殺を阻む者として見つめていただけだっただろう。しかし炭治郎は折に触れ義勇のこの姿を思い返す。そして、覚悟を問われていると思う。己の成すべきことを決して逃さずに掴めているか。義勇はいつも炭治郎の胸で、雪の中言葉なく問う。炭治郎の中で義勇は厳しく、凛として、正しく白い。

 幾度か義勇の人となりを知る機会があっても、この印象は決して覆らなかった。一瞬一瞬に覚悟のある人で、炭治郎はいつも自然と姿勢が正される思いがした。偶然、その根にある悲しい記憶をほんの少し垣間見ることを許されて、その理由を知った気がする。義勇は誰よりも自分に、自分がどう在るべきかを厳しく問い続けている。その答えにまだまだ届かないから、自分を少しも許さぬように生きている。強い人だ。正しい道を行く人だ。決して、その形を変えずに。そう思っていた。

「外し、ますね」

 無断でこの人に何かを押し付けるような真似は炭治郎には絶対できない。膝をつき覆い被さるような姿勢のまま、震える指で詰襟に触れた。羽織を背に、畳の上に黒髪を広げる義勇は、じっと炭治郎を見上げている。否定はない。それはこの人にとっての肯定だと知っている。ひとつ、ひとつ金色の釦を外し、隊服を開いた。そして、その下にある立て襟のシャツにも手をかけて小さな釦を丁寧に外していく。肌が見えた。

「白い」

 思わず呟きが漏れる。そしてそんな自分を少し恥じる。だが弱い曙光にぼんやりと照らされた厚い胸板を、単純に綺麗だと思って感嘆してしまった。古傷の跡が大小いくつもあるが、新しい傷はひとつも見えない。白い肌はこの人が毎夜のように強い鬼と戦い、危なげなく頸を斬ってきたことの証明だった。それは何者にも踏み躙られるべきでないもののように思われて、炭治郎はただシャツの袷を手にしたまま、筋張った胸や腹を素晴らしい陶磁でも眺めるように見つめていた。

「そう、か」

 少しぎこちなく聞こえる声に目を上げた。義勇は目を伏せていて、分厚い睫毛が目元に艶のある陰を落としている。何かを憂うような、少し寂しい匂い。こんなに近くにいるのに何故こんな匂いを嗅ぐのか分からないことがもどかしい。

「嫌でしたか」

 近づいたこと、触れたこと、思わず呟いたこと。何かが義勇の正しさから逸れただろうか。思わず眉尻が下がる。もうずっと炭治郎の頭は熱に浮かされたように曇っていて、きちんとできているのか判断が付かない。指も、心も、震えが止まらない。この人が触れてくれと言ってから。

「……白く見えるのかと思っただけだ。俺も」

 匂いには少し落胆した気配があるのだが、言葉を補いきれない。やっぱり俺が何か間違ったのか。思わず指がシャツから離れたが、それを留めるように手が伸びてぎゅっと握った。炭治郎と同じく鍛錬で節くれだった硬い手。思ったよりも湿った熱がそこにあって驚いてしまう。静かな蒼い瞳が炭治郎に戻ってくる。

「染めてくれ。お前で」

 カッと体の奥に火が点るような心地がした。それが瞬く間に頭の天辺や足の爪の先まで燃え広がって消し炭になってしまうかと思った。そうだ、この人は言ったのだ。他ならぬ炭治郎に触れろと言った。余すところなく全てとまで。手を引かれ、導かれるままに胸元に手が触れた。肌の下に血が巡る感触がある。生きている。この人形のように整った人も。シャツの隙間をなぞるように撫でると、体が小さく身じろいだ。ん、とくすぐったそうにむずがる声が漏れる。何か甘い痺れが腰のあたりに走って苦しい。

 帯革から隊服とシャツを引き抜いて広げる。それを抑え込むように両脇の横に手を付くと、義勇の両腕が首に伸びてきた。言葉の通り、炭治郎の全てを受け入れようとする義勇に堪らなくなり、ぎゅっと両脇を抱え込んで背を抱き締める。シャツの下に潜り込むように入れた手で撫でる背があたたかい。胸が締め付けられる。首筋に鼻先と唇を当てた。すうと匂いを嗅ぐ。雪の匂いはしない。微かだが、早朝の沢で嗅ぐような爽やかな香がする。義勇の匂いだった。はあ、と思わず息を吐けば義勇がまた小さく震えて首を竦ませている。その子供のような仕草が普段とまるで違って好きだと思う。炭治郎の手で生まれる変化に、再び涙が滲んでしまいそうだった。

「どうすれば染まってくれますか、俺に。余さず全て」

 残したい。何かを、この人の中に一生消えぬ何かを刻みたい。いつも正しく白いこの人を全く塗り替えて、自分のものだと分かる色にしてしまいたい。

 一歩間違えばひどく暴力的な考えが閃いて炭治郎は己自身に怯んだ。しかし一度思いついてしまうと止められなかった。顔を少し引いて、先ほどあれほど丁寧に触れていたことさえ忘れその唇に触れた。柔らかいその感触を何度か重ね合わせている内に湿った熱い舌がちろりと上唇を舐めてきて、頭がくらりと揺れた。ただもう体の動きに流されて舌を触れ合わせる。

 いつも頭の中で義勇に覚悟を問われてきた。それはいつも、一番の願いのために何をするべきか炭治郎に迷いを捨てさせてくれた。多分、炭治郎は禰豆子が人間に戻り幸せに暮らせるのなら己の命をも惜しまない。もう二度と奪われないために、それが手段になるのなら迷わない。

 だがあの日、あの雪の日の前まではそんなことは考えなかった。自分もまた父や祖父、その前の祖先たちのように耳飾りと神楽を誰かに残して、いつか良い日に穏やかに死ぬのだと思っていた。でももう、そうなる道に炭治郎はいない。だとしたら、せめて。鮮やかに、美しく、この人に自分を焼き込んでしまいたい。自分が仮に居なくなっても、この人にいつまでも想われていたい。この人からかつて去ってしまった人たちよりも強く。

「本当に、お前は」

 唇を離して畳に義勇を解放すると、その表情がふっと緩み、唾に濡れた唇が呆れたように開かれた。炭治郎がまたぼろぼろとみっともなく涙を零していたからだ。自分の独善的な考えが悲しくもあったし、覚悟のまだ弱い自分が情けなくもあった。だが何より、それを許す義勇の顔があまりに優しく、愛しい。

「お前が触れる間、お前のことだけをずっと想うようにする」

 表情と同じ優しい手つきで涙を拭われる。この人はいつからこんなに優しい顔を向けてくれるようになっただろうか。いつからこんなに優しい声で、手つきで触れてくれるようになっただろう。これこそが炭治郎が義勇に重ねていた色なのだろうか。だとしたらこんなに嬉しいことはない。

「だから匂いで、知ってくれ。それを」

 この人から立ち昇る甘い匂いはきっと炭治郎しか嗅いだことがない。これまでも、これからも。

 雪の中から手を引いて、雲取山の春の小川に沿って歩いて、咲き乱れる梅や桜に目を細めている義勇の姿が、見たこともないのに鮮やかに脳内に描かれた。心の中に深く刻んだ義勇の記憶に炭治郎の絵筆が丁寧に幸せな色を塗り重ねているようだった。そんな考えを全身で許してくれるこの人を、心から愛しいと思う。

(2019-12-01)

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