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瑶台下



 

 鳥のさえずる声が心地よく耳をくすぐり、空気すら粒となって凍りそうな厳しい冬空を柔らかな朝陽が宥めすかしている。ついつい庭先ののどかな光に目を奪われそうになるのを振り切り振り切り、平野は縁側を足早に進んでいた。目当ての部屋の前まで迷わずに辿り着き、すとんと膝をつき中腰になる。

「おはようございます」

 返事はない。仕方がないので、そのままその場に座して挨拶を繰り返した。

「うん……」

 声を張って四度目、無礼を承知で障子を引き開けてしまうかと悩んでいるところ、やっと応えを得る。それにしても普段とは随分遠いどこかぼんやりした声だ。失礼します、と障子を滑らせれば、陽の光が走って布団を光らせる。横たわる人が眩し気にわずかに身じろいでいるのが分かった。さらら、布が擦れる音がする。

「三日月さん」

 少し迷ったが、そのままにしておくこともできない。枕元へと膝を進めた。鼻先が枕に付き、閉じた目蓋の先に睫毛が長くかかっている。宵闇の色をした髪が枕に布団に頬にと好き勝手に流れていた。何故か緊張が走って手をぐっと握り込んでからもう一度名を呼べば、瞳が閉ざされたまま布団からすらりと左腕が抜かれた。長い指が平野のすぐ眼前に迫って止まる。

「起こしてくれ、一期」

 瞬き、ひとつふたつ。その他は何も考えないようにする。幸いだったのはその声がいつもの数倍のんびりした色をしているだけで、その他に甘さ辛さを感じないことだろうか。

「三日月さん、平野藤四郎です」

 平野の言葉がやっと届いたのだろう、長い睫毛の下にわずかに黎明の空の色が見えた。未だ月の沈んだ曇天の瞳が宵闇の髪の隙間に開く。ぱたり、と伸ばされた指先が布団に沈んだ。

「やあ、これは。すまんな」

 夢とも現とも覚束ない声がふらふらと平野の耳元まで昇り、薄い唇からふふ、と笑みが漏れる。再び腕が太刀を引き抜く所作のようにするりと伸びた。

「起こしてくれ、平野」

 思わず指先から枕元へ目を戻せば、そこにはもう二つの三日月がちらちらと朝陽を照り返していた。出所の分からない気まずさを腹の奥に押し込め、片手で三日月の腕を取り、もう片方の手で背を支えるようにして体を起こす手助けをした。

「間もなく朝餉です。いつもは早い三日月さんが見えませんので参りました」
「そうか……礼を言うぞ」
「いえ、僕が気になっただけですから」

 身を起こした三日月は、立てた膝に肘を預けて平野をどこかぼうっと見つめている。支度を始める素振りが無く戸惑ってしまう。

「どこかお加減が優れないんでしょうか?」
「いや、なに。むしろ良いほうだ」

 畳に手を付いて覗き込んでみれば、なるほど朝陽に照らされた白い頬には血気があり、唇は渇いた冬の気など知らぬほど艶めいている。やっと円く開いた瞳には月だけでなく星まで浮かぼうかというほどの輝きがまどろみの隙間に見えた。

「少し夜更かししてしまってな。ああ、陽が高い。はっはっは……すっかり寝過ごした」

 いつもの調子の笑い声に少し安心して平野も笑みを浮かべ身を引いた。しかしその挙動を微笑みで逐一見つめられるのはやはり落ち着かないものだ。

「お体が悪いわけではないならいいのですが」
「心配をかけたか。すまんな」
「いいえ、たまにはそんな日もあるでしょう」

 沈黙、時々それに鳥の囀りが小さく混じる。身支度が始まる様子はなく、そこで平野自身がそれを阻んでいるのかもしれないと思い至った。つま先と膝に力を込め立ち上がろうとした時、緩やかな大河の流れのような声が平野、と名を呼んだ。

「はい」
「羽織を取ってくれるか」

 平野の応えを待たずに、陽に光る爪先がゆるりと几帳を指さした。断る理由もない。誰かの役に立つならむしろ喜ばしいことだ。立ち上がり、几帳から紺青の羽織を掬い上げ、三日月の肩へと柔らかにかけた。

「今朝も冷えるな」

 肩にかかった羽織を指で撫ぜながら、三日月は小さく囁く。立ち上がったまま見下ろすと、長い睫毛が瞳を隠してその中に在る月を隠してしまっていた。なんだかそれが妙に気にかかってしまう。何度かためらって、しかしそこに寂しさがあるような気がしてならず、ついに平野は口を開いた。

「起きてすぐ、いち兄と擦れ違いました」

 ゆるり、三日月の顔が上がる。それに合わせて髪が流れ、朝日に月が光る。

「朝の鍛錬へ向かうところでしたが、どこか嬉しげで呼び止めました。ですがわけは教えてくれませんでした。取ったら溢れんばかりの話だからと」

 あまりにじっと見上げられると少し気まずい上に、敬う気持ちが失われているような心地がする。すとんと腰を下ろし窺うように目を上げた。

「余計なことを言いましたか?」
「いや」

 円く開かれていた瞳が笑みに細くなると、三日月は朝ぼらけの空を夜に沈ませるのだ。それにほっと胸を撫でおろす。

「いいや、平野」

 その声には眠たさやのんびりした色だけではない何かがあったように聞こえたが、笑みだけを返してまた立ち上がる。よく知る気配が近づいて来ることを察知したためだ。朝支度を手伝えればと思っていたが、平野にその必要はなさそうだ。

(2018-01-27)
二代目いちみかワンライ「朝支度」

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