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絲どり



 言わぬが花、という言葉がある。
 人の身には口があるから、人の子にしか分からん言葉だなと常々考えていた。いま、それを身を以て知り、やはりそうかと深く感心している。

 うん、そうだなあ、俺がそれをどうして知ったかを話そうか。それを話すためにはまず、この、西瓜を両手に抱えてすっかり放心している男の話からしなければならんだろうな。これは銘吉光の太刀、人の子に『一期一振』と認められた名刀だ。名は体を表すとよく言う。俺が三日月の打除けを持つから三日月と呼ばれるように、この男にもこの名はよく見合ったものだ。

 この刀は、俺から一年ほど遅れてこの陣中に加わることになった。その頃には主もすっかり戦慣れして、新しい刀の扱いにも慣れたものだった。いつものように広間に刀を全て集め、この一期一振をずいと押し出して紹介したのをよく覚えている。吉光唯一の太刀、名を一期一振。大層な口上だろう。しかしその口ぶりは決して誇らしげなものではなかったな。それを当たり前と、羽織のように着ているふうだった。広間に多くいる眷属の刀たちを優しく見つめる瞳は銅鑼のように丸い黄金色で、どこもかしこも宝物のような男だと思った。その後呼ばれたのは粟田口の短刀たち数口。うずうずと小さな体を震わせるそれらに、主は兄の世話を命じてその場を解いた。やっとのことで兄と見えた弟たちの笑顔の眩しさに、皆笑みを浮かべたものだ。良かった良かったと口々に言った。だが俺は、思えば少し不思議だったなあ。良かったと喜ぶ気持ちの隅に、小さな寂しさがあった。いや、なに、いいさ。人の身を得れば皆、はじめましてから始まるものだ。

 その後しばらく男と交わることはなかった。弟たちにあれこれと世話をされながら、照れたように笑う姿を遠目に眺めていた。はにかむと、男は眉尻を少し下げて目を伏せる。随分若々しく見えるなと思った。ほんの一瞬早くに人の身を持っただけだったんだが。まあ、俺はじじいのようなものだからなあ。

 この本丸にはもう多くの刀たちがひしめいているから、もうしばらくはこのままだろうと思っていたんだが。あれはいつか──ああ、そうだ、共に演練部隊に入ってからか。男は部屋までやってきて膝詰めで頭を下げた。弟子になりたいという。いや、あれは随分真面目な顔だった。だが俺は驚いてしまったぞ。刀が刀の弟子になるなど聞いたことはない。こんなにも面白いことを思いつくのは、前の主の影響か。

 男はいつも真面目で、精いっぱいで、しかし涼しい姿かたちをしながら、それでいて俺の後を雛のように付いて回った。今生全てを一時一瞬、その一振にかけて毎日在るような、あれはそんな男だ。得難い、俺は時々そう思う。一期一振はそうそう得難い男だ。それが隣にあって俺に笑っている。いや、驚いたなあ。千年時を渡っても、心がこんなに躍ることがあるらしい。

 そうして俺が毎日を楽しみにしていると、ある時ふっと朱色が目に付くようになった。血よりは鈍い、柔らかい色で、怪しい様子はない。しかし時折ひらりと目端を通り過ぎては消えていく。そんな調子だからな。最初は何なのかよく分からなかった。まあ危ないものではないならいいかと、あまり気にしてはいなかった。

 だが、段々とそれは目で捉えられるようになってきた。細く、ゆるく、たなびくのはどうやら「糸」だ。突然ふわふわと俺の周りを漂ったかと思えば、すっと消えたり現れたりする。他の者には見えていないらしいので、わざわざ言うこともないかと俺はそれを一人で楽しむことにした。しばらくそうしていて、気づいたことがある。これは多分、あの男のものだ。何しろこの糸はあの小指から伸びている。

 あの男と共にあると、糸は必ず現れる。俺があれに話したり触れたりすると、糸は奇妙に跳ねたり踊ったり俺にくるくる寄り添ったりする。何度かおかしくなって笑ったこともあるぞ。一期は自分のもののくせに糸が見えていないから不思議そうな顔をしていたなあ。

 男は言った。俺に師事してよかったと。尊敬している、貴方は素晴らしい師だと。俺はあの男に何かを教えた覚えは無いから思わず首を傾げてしまった。俺はな、一期。ひとつもお前に何かを教えたことは無いと思うんだが。それにな一期、お前もそう思ってはいないと思うぞ。俺はおずおずと膝をつつく朱の糸を捕まえて、男が少し眉尻を下げて目を伏せた隙にひとまず指に結いつけた。教わったことのほうが多いくらいだなあ。お前の糸はいつも、俺に、新しいお前を教えてくれたぞ。

 そうして結いつけた糸は大変便利で、少し引くだけで男が隣にやって来る。今日なんかは乱と西瓜が付いた。主の大好きな言葉で言えば「お買い得」だなあ。ううんいや、一銭も払っていないから、「もらい得」か。

 いま、一期は放心している。やっぱりこの糸のことは見えていなかったか。ぼうっと夏の庭を眺める横顔は涼しい。たまに風が吹いて前髪がさらさら揺れるのを見るのが俺は好きだ。だからこの糸がお前から伸びてきたことは黙っているのがいいな。なるほど、言わぬが花とはこのことだなあ。

(2018-08-04)
三代目いちみかワンライ「言わぬが花」

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