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隠逸花



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150

 三日月宗近は秋を歩いていた。

 頬に当たる風がぴりりと冷たいのは、東の空に浮かぶ日がまどろむように朝霧でかすんでいるせいだろう。庭木の紅葉もけぶるような色で庭池に映り込んでいる。内番をこなしている内に気にならなくなるだろう肌寒さだが、内番着だけでは辛い季節も近そうだ。さて昨年の羽織はどこへやったか、出すのも仕舞うのも他に任せきりなので誰かに尋ねなければなるまい。

 この本丸の主たる審神者は、四季折々の移り変わりを何よりの娯しみとしている。暦で初めて季節を知るような生活を悪んで、この本丸を覆う空や流れる風は審神者の郷里をそっくりうつしているらしい。時の政府に優秀な技術者として仕官する審神者の友人が訪れた際、粋士と言わしめたのは、なるほど腑に落ちる揶揄であった。

 かし、かし、と乾いた音を立てながら色とりどりの落葉を踏む。随分のんびりとした足並みじゃあないか、と審神者がやきもきと待っていた秋は、もう既に晩秋の顔を見せつつある。つれない想い人になぞらえて秋を詠む粋士のすぐ傍で、柿や栗を惜しむ刀剣たちが焼き芋に興じていたのは笑える絵だった。思い返すだに、くっくと喉が鳴る。朝餉を終え、午前の出陣隊が出払った庭は静かなもので、遠くから手合せのかけ声が時々耳に入るのみだ。澄んだ秋気の中では、笑みが揺する空気すら目に映るようだった。

「うーん」

 そんな静かな庭に、唐突に悩ましげな唸り声が落ちる。三日月は足を止め、きょとりと目を丸めた。ぽつぽつと続く飛び石をその目で辿っていく。声の元は、どうやら紅葉に沈むようにして佇む茶室の中にあるようだ。

 これは、審神者が己の就任一周年を祝うために作らせたものである。それがかつて見てきた主のふるまいに似て、三日月はこの茶室を気に入っている。戦場を本領とする性のためか一歩たりとも近づかない刀も多いが、かつての主や今の主の影響で入り浸っている刀も案外に多い。かく思い馳せる三日月も、茶菓子を目当てに足繁く訪れる者の一口だ。

 とん、とん、と軽快に飛び石を踏み、蹲踞を横切る。沓脱石にしゃがみ込み、躊躇わずに手掛かりを引いた。躙り口に頭を突っ込むと、床の間の前に座る歌仙兼定と目が合う。突き上げ窓から下りてくる陽光の中でぱちぱちと長い睫毛が上下し、影の中にあれば孔雀石を思わせる花緑青の瞳が今は丸く、翡翠のように淡い色で透けていた。

「君を招いた覚えはないんだけれど」
「はっはっは……雅ではなかったか」

 怪訝げに寄せられた歌仙の眉がわずかに開き、口元が柔らかく綻んだ。呆れたような笑みに許しを得た気分になり、頭を亀のように伸ばして茶室に肩を入れる。足だけは沓脱石に残して躙り口の縁に腰かけた。言うまでもなく行儀の悪いふるまいだったが、そもそも正式な茶事ではないからか、歌仙は何も言わない。尚、呆れたような笑みを浮かべるだけだ。

 茶室の中には、歌仙が集めたのだろう茶道具や菓子器、扇子などが整然と広げられていた。粋士の一番の理解者を自認する歌仙は、給金のほとんどを心置きなく趣味の道に捧げている。この茶室などは最早歌仙が主と言っても過言ではない。芸道においては、審神者も歌仙に一方ならぬ信を置いているため文句も出ない。この本丸に呼ばれて良かった、と感慨深げにこぼしているのを度々耳にする。

「なるほど。炉を開くのか」
「口切りだからね。ひとつちゃんとした席を設けようと思っていて……江雪が手を貸してくれると言うから、ひとまず今日の菓子茶に呼んでいるんだ」

 君も良かったら加わってくれ、歌仙は三日月の返事を待たずにくるりと床の間に向き直った。見知らぬ者との交わりを不得手としている歌仙は、時折、このように親しくなった者にさえ生娘のような逃げを打つ。戦場での勇猛さを思い返せば、そのちぐはぐさに愛嬌を感じるのだった。ふっと鼻先で笑みが踊る。

 今は茶花を入れている最中だったらしい。歌仙の膝元に広げられた楮紙には秋の草花が寝かせてある。いくら風雅を解すといえども、花に触れる白い腕は武人らしく筋張っていた。位置を整え、思案するように身を離し、また逞しい手が伸びて……その繰り返しだ。

 古銅の花入には秋明菊が入っているようだった。鮮やかな花芯を白く大きい花弁が包み、その背を紅万作と水引が秋らしく彩っている。ただ、低い位置に入れられた竜胆がどうにも馴染まない。歌仙もそれが気になるのか、紫苑や芒を足しては引き、引いては足し、首を傾げて唸っている。どうやら先ほど耳にした唸り声はこれだったらしい。

「その竜胆は、要らんな」
「やっぱりそう思うかい?これは江雪が好きな花だから、できれば残しておきたかったのだけれど……」

 ためらうように指が泳いでいたが、花に触れた後にはもう躊躇いがない。優美な仕草ですっと竜胆が抜かれると、秋明菊が途端に引き立つ。ふと目を上げれば、掛物には『風露新香隠逸花』とある。この豪快な手蹟は恐らく歌仙自身のものだろう。ますます相俟って足すものも引くものも無くなった。うん、歌仙が大きく頷く。恐らくそこにはとろけるような笑みがあるに違いない。

「やっぱりこうだね」
「どれ、一筆書いてはどうだ?その花と共に俺が届けよう」

 歌仙が弾かれたように三日月を振り返った。淡い青紫にむらなく染まった手元の竜胆と、躙り口から身を乗り出して手を伸ばす三日月の不精とを、歌仙の瞳がきょろきょろと往来する。

「なるほど、流石だ」

 思案にそう長い時間はかからなかった。歌仙は立ち上がると、どこか照れの交じった笑みで竜胆を差し出してくる。三日月がそれを受け取れば、歌仙は水屋の向こうに一度引っ込み、文具を載せた文机ごと躙り口の傍まで戻ってきた。少し待っていてくれ、と早速墨を磨り始める。独特の香がふわりと秋気に乗った。

「けれど……ちょっと奇をてらい過ぎているかな」
「技に走れば心を忘れる。技を捨てれば心は拙くなる。だが、中を取ればつまらんからな。難しいものだ」

 手持無沙汰を紛らわすために、手元の竜胆をくるりくるりと回して手慰めにした。しばしそうやって花を愛でていたのだが、歌仙から何の応えも無いことに気がつく。不思議に思って歌仙を見れば、ひたと花緑青の瞳をふたつ並べ、熱心に三日月の顔を眺めていた。

「なんだ?」
「君からそういった本質の話が聞けるとは」
「気に入らなかったか」
「まさか。光栄だと言っているんだよ」

 ふ、と歌仙は口元を緩める。それから、何かいい句でも浮かんだか、懐紙を取り出して迷いなく書きつけ始めた。筆がするすると紙の上で滑る音が耳に心地よい。

「時折君たち平安生まれが羨ましくなる。僕が想像の中でしか娯しむことのできないことを、君は見聞きしてきたわけだろう」
「なに、想像のほうがずっと美しいこともあるぞ」
「君に言われるとただの嫌味だよ。習うより、知らずに身に重ねたものこそ風流なのさ」

 かたり、筆が硯の上に戻された。歌仙は膝の上に両手拳を置き、じっと己の手蹟を検めている。特に直す必要もなく納得のいくものだったのか、ちらりと三日月に目を遣った。それがどこか、叱られることを恐れるような幼子のように不安げに見えて、三日月は笑みを止めることができない。

「昔取った杵柄。それだけのこと」

 ふっふっ、と喉を鳴らしていた小さな笑いが堪えられず哄笑になった。歌仙の顔色がさっと安堵に染まる。それからすぐにそれを澄ました笑みで取り繕って、懐紙を畳んだ。その変化もまた可笑しい。

 笑い声を聞きつけたか、遠くから三日月を探す誰かの声が近づいて来る。怒鳴るわけでもないのに不思議とよく通る、凛とした響きを持つ誰かの声だ。それは鹿の声よりも静かな秋によく馴染む。うっとりと目を閉じて、誘われるように立ち上がった。

 歌仙はまた呆れたような笑みで三日月を見上げている。懐紙を受け取るちょうどその時、紅葉がふわりと舞い降りて文の上に重なった。

「……やっぱり嫌味だ」
「そうか?」

 えも言われぬ愉快な気分がして、三日月は心のままに笑った。遠くでまた誰かが、三日月の名を心地良い声で呼んでいる。

 三日月宗近は秋を進んでいる。

 がざり、がざり、馬の脚が落葉を蹴る音は荒い。ざざ、と時折引き摺るような音が交じり、常ならぬ耳障りな拍子だ。そこに闘志を鼓舞する軽快さは無い。馬が一頭、脚に敵の弓を受けていた。本丸に戻れば審神者の霊力によって馬の傷も疲れもたちまち消え失せるが、それまでは曳いて歩くしかない。

 本丸の庭で静かにけぶる秋とは違い、この時代の秋は生臭い血の匂いで満ちていた。白く濁った土埃を紅や黄色が無理やりに彩っている。遠くから轟きの応酬が聞こえ、腹の底に響いた。日の本を二分にした合戦の跡は、盛夏の終わりを強く思わせた。

 昼餉を摂った後、進軍を命じられた先もまた秋だった。無論、それが進軍の由ではない。審神者は飽くまで粋士であって、酔に狂った暗君ではないのだ。

 既にとっくの昔に敵本陣を制圧している慣れた戦場だった。顕現が早く高い錬度を持つ太刀が二口、修行から戻ったばかりで腕試しをしたいと申し出た短刀二口。そして顕現こそ早いものの、荒事を厭うあまり錬度に伸び悩む短刀が一口。実のところこの部隊は、この短刀に戦慣れさせるために組まれている。

 迷いのあるまま任に就かせ折りたくはない、適材適所、できることからさせようと腰を据えて見守っていた審神者に否やを唱えたのは一口の太刀だ。顕現は遅かったが、見る間に錬度を伸ばし、今や部隊編成でも中堅の扱いだ。この太刀は審神者に訴えた――戦場に刀の他に適材が無いように、刀にも戦場の外に適所などありましょうか。どうかあれを私にお任せください。私の責任として、あれを鍛えなければならんのです。

「あの、」

 気づけば目の中いっぱいに燃え盛るような紅葉を収めて足を止めていた。桐の大木から声のする方へ目をやれば、自然と頭が下へと傾く。怪我をした馬に寄り添うように手綱を曳く五虎退が今にも泣き出しそうな顔で三日月を見上げていた。その後ろには五虎退に付き合って己の馬を曳く同田貫正国の怪訝げなしかめ面が見える。

「すまんな。美しいので見惚れた」
「相変わらず呑気なもんだ。怪我人も居るってのに……」

 怪我人、その言葉に五虎退の体が小さく震えたが、呆れた面をさっと前へと戻した同田貫はそれに気づかなかったようだ。怪我人と言ってもほんの軽傷で、大事を取って馬で先を走らせている。短刀二口はその守りだ。隊長を任じられた同田貫の指示に異を唱える者は無かった。

 馬が矢を受けたのも、太刀が短刀を庇う形で傷ついたのも、結局は運と時機によるものだ。戦の芯にあるものは結局そのふたつであって、その他は盛っているとも萎れているともしれない花弁のようなものだ。たった今守り抜いた人の子の合戦の様相からも、それは明白だった。つまりは考えても栓の無いことである。

「ただの鋼であれば、秋の空のようにうつろうこともないだろうになあ」

 しかしその空の下で吹く風の冷たさも、それを逃れるように触れる肌の温さも、鋼が知ることはない。独り言か、語らいか。呟きを落とす三日月自身にもどちらともつかなかった。

 空を覆うほどの紅葉を日が透かす。戦場が遠のけば遠のくほど、この世には紅か黄かしか無いようにさえ思えてくる。がざり、ざざ、馬の脚。かし、かし、人の足。それぞれが紅葉を踏む音の中、横に並ぶ五虎退の目は三日月を見上げたと思えば前へと向かい、弾かれたように明後日を見たかと思えばしおしおと馬の傷を眺め、と忙しない。

「人の身というものは不思議だな」

 三日月の声がどこへ向かっているものか定められず、困り果てているらしい。ゆるりと首を回して見下ろす五虎退の丸い瞳は不安げに揺れている。柔らかく波打つ白金の毛並みを、紅葉がほのかに朱で染めて美しい。

「旨いものは精をつける。耳聞こえの良い音色に危険はない。肌触りの良いものは身を守る。それを誰が教えずとも体が知っている。」

 そしてそれは時に裏切られ、太刀を突き立てられるかの如く、深くこの身に刻まれる。しかしそこまで口にすることは野暮だ。粋士の刀がすることではあるまい。手を伸べた。体を硬くする五虎退の帽子に乗せ、ぽんぽんと上下する。隠れていた虎が驚いたように顔を出したため笑ってしまった。それをぽかんと見上げていた五虎退の表情も緩む。

「人の子は何度も生まれ、死ぬ中で、正しいものを快いと感じるようになったのかもなあ」

 常に潤みがちな黄銅の瞳がじいっと三日月の言葉を待っている。そこから不安が消えたのは、きっと三日月の言葉の先に己の求めるものがあると感じ取ったからだろう。欲するものの前で臆さず、ひたむきであることにおいて、吉光の刀たちは確かに「兄弟」と称するに相応しい。つい口元に笑みがのぼった。

「五虎退」
「はい」
「血煙の中、白い刃を光らせるお前は、それは美しいぞ」

 ぱっと、五虎退が白い頬を秋の色で染めた。口元を引き結び、見開いた目を咄嗟に伏せてしまう。これを見るに、なるほど確かにこの刀も戦刀である。しきりに感心しながら五虎退のつむじを眺めて歩を進める。

「俺の体は、お前を正しいと思っているようだ」

 囁きながらその場にしゃがみ込む。突然立ち止まった主に合わせ、賢い馬は何度かたたらを踏んでその場に留まった。虎たちを片手で撫でてやりながら、もう片方の手を伸ばし、木漏れ日の中で光る花を三つ四つ手折る。

「俺のために美しくあってくれるか、五虎退」

 紅葉のような顔を覗き込むようにして二輪の花を差し出した。鮮やかな黄色の花芯を白く細い花弁がびっしりと囲む。小さいながら日輪のような堂々たる美しさ。竜脳菊だ。五虎退が震える手でそれを受け取り、胸に閉じ込めるのを確かめて、三日月は立ち上がった。五虎退の馬の手綱を取る。

「心配だろう?俺の代わりに先に行ってくれ」

 しばらく迷うように目を泳がせていたが、本丸へと繋がる仮本陣はすぐそこだ。五虎退は素直に三日月の馬を曳き、前へと歩き始めた。照れを隠したい気持ちもあるだろう。傷ついた馬を労わるように撫でてやりながら、三日月はふふと笑気を零す。はあ、と人に聞かせるため息を吐くのは五虎退を前に行かせた同田貫だ。三日月が横に並ぶのを待っている。走れぬ馬を曳く者を殿にしたくないのだろう。

「ほれ、お前にもひとつ」

 手の内に残った二輪を、叢雲に陰る満月のような瞳の前に差し出す。この瞳が晴れ渡って輝くのは戦場だけだ。この刀もまたそれでこそ美しい。

 呆れたような半眼でじっとりと菊を眺め、摘み上げ、手の内でくるりと回し、躊躇いなく己の馬に差し出している。馬はすぐに顔を逸らしてしまった。口角を釣り上げて同田貫の顔が三日月へと戻る。

「腹の足しにもならんとよ」
「はっはっは、そうかそうか」

 突き返された菊を受け取った。がざり、ざざ、馬の脚。かし、かし、人の足。静かに仮本陣へと近づく。

「敵を斬るのに正しいも正しくないもあるかよ。あるのは汚ねえ血脂と臓物だけだ」
「それが好いだろう?」

 きょとん、と目を丸めて返せば、ひどいしかめ面が待ち構えていてまた笑ってしまった。はあ、もう一度大きなため息が秋気に溶けていく。

「敵をぶった斬れりゃそれでいい俺みたいなモンからすりゃあ、アンタの言葉はいかさま師のそれだぜ」

 ふふ、三日月は竜脳菊で鼻先をくすぐる。どこか墨に似た香がほのかにする。千年在っても、ただの鋼であれば知らぬ香だった。

「なに、昔取った杵柄さ」

 三日月宗近は秋に座している。

 常よりも帰還に時間をかけたため、本丸の空は既に紅葉から染み出したかのようだ。炉で熔ける鋼のように黄色い日輪が羊雲を乱雑に茜と黒で塗りたくっている。一方、縁側に腰かけた三日月の目の高さほどもある芒のあたりでは、既に冬の色をした夜が身を潜めていた。頬を舐める風も冷たい。少し目を離せばあっという間に夜の帳が降りるだろう。秋はかくの如き季節だ。

 さわさわと芒の揺れる音が心地良く、目を閉ざした。虫の音の隙間で乾いた葉が風に弄ばれる音がからから響く。過日、秋の夕暮れと詠めば、みな寂寥の喩えだ。

 ふと気配を感じて目を開いた。すぐに隙の無い動きを想起させる軽い足音が耳に入ってくる。小柄な者だろうと当たりをつけて見つめていると、角から顔を出したのは果たして骨喰藤四郎だ。思わず笑みが浮かぶ。

「骨喰か」

 言葉なく頷き、骨喰は三日月のすぐ傍まで近づいた。そうして、片手に携えていた花一輪を顔色ひとつ変えずに三日月へ差し出す。三日月はすぐには受け取らず、その大輪の花をまず目で楽しむことにした。燃え盛るように赤く細い花びらが、何かを隠すように整然と身を縮め、鞠のような玉を作っている。色も形も見事な輪菊だった。人の手が入らなければこうも美しい形にはなるまい。そこで、粟田口の刀たちは審神者から庭の草花について一任されていることを思い出した。

「良い香がするな」
「礼だ」

 礼、鸚鵡返しで骨喰の言葉をなぞる。見上げた菫色の瞳が首肯の代わりにゆっくりと瞬いた。

「兄弟に花をやっただろう」
「うん、確かにやった。いや、だが、わらしべ長者にでもなった気分だなあ」

 律儀に差し出されたままの花を三日月がやっと受け取ると、骨喰は安堵したように小さく息を吐く。すぐに立ち去るかと思えば、座る、と一言断って三日月の隣へと腰かけた。思わぬ長居に心が弾む。にこにこと目下のつむじを見つめていた。白刃のような鈍色にも秋の色が映り込み、ほのかな茜で染まっている。

「そうだ、お前もわらしべ長者にしてやるぞ。受け取れ」

 湯呑を載せた手元の盆を引き寄せ、栗餅をひとつ差し出した。歌仙の道楽と同じように、三日月の給金は茶菓子に費やされている。これもそのひとつで、城下へ散歩へ出た折に買ったものだ。先ほどの三日月と同じように骨喰はじっと包みを眺めていたが、ついにはそれを手に収め、ぼそりと礼をこぼした。しかしすぐに食べ始めるでもなく、栗餅を収めた両手を膝上に置き、じっと眺めている。

「鯰尾か」

 ばっ、と音がするほど俊敏な動きで顔が上がった。大きな瞳に夕日が入りきらりと光る。

「当たったか?」

 応えは無い。しかし、伏せられた瞳は何よりも雄弁だ。夕風がまた吹いて、芒の揺れる音に合わせ骨喰の髪をふわりとさらう。髪の先がしなりと横顔に沿うと、骨喰は一言、何故とこぼした。

「いつもそうだったからなあ。お前は何も話さんが、鯰尾と何かあればふらりとやってきて、ただ隣に腰掛ける」

 秋の夕暮れの中に座しているのに、目を閉じた先は盛夏だ。芒が寂しく身じろぐ音は、青々とした木々が肩で風を切る音に取って代わる。暑さを感じることもない付喪神にとって、夏はただひたすらに陽の気を感じるものだった。人の子に見えぬ三日月と骨喰は、言葉もなく、蝉の声を聞き、縁側で静かに互いの待ち人を待った。

「人の子で言う『友』とは、こんなものかと思ったもの、」
「俺の知らない記憶だ」

 硬い声に目を開けば秋の夕暮れに舞い戻される。骨喰は益々面を伏せて髪に横顔を隠してしまった。声色は小さく、秋風にさえ簡単にかき消されてしまいそうなほどだ。

「だから、それは俺とは言えない……かも、しれない」

 旧知であることを覚えていなくとも再び友誼を結んでからは、骨喰は三日月の昔話にも厭うことなく付き合っていた。ふむ、ひとつ相槌を打つ。鯰尾藤四郎との間に起こった何かは、ここに起因しているものかもしれない。それが分かったと言って、何かをしてやる気もないが。

「そうか。だったら得だな」
「得」
「友が増える」

 しばし、秋の音だけが世を占めた。空にはもう随分と紫紺が滲み入っている。中天のあたりが丁度、骨喰と鯰尾の瞳と同じ菫色だ。夕餉を待つために多くの刀たちが広間に集っているのだろう。陽気な気配も音も全て遠い。だからこそふっと、ほのかに漏れた呼気を聞きつけることができた。顔は見えずとも、三日月はそれを笑みだと思った。

「骨喰!」

 ばっ、とまたも音がするほどの勢いで骨喰が顔を上げた。角から駆け込んできた足音に迷いはなく、骨喰がここに居ることを疑わない足取りだった。それは遠いいつかとも寸分違わない。拗ねた色を無理に張り付けた顔が、三日月と目が合えばばつの悪い笑みに変わってしまうところまで同じだ。

「行く」
「うん。また来い。ああ、これもやろう」

 盆からもうひとつ栗餅を差し出してやる。先ほど骨喰に分けたものとまるで同じものだ。ぱちぱちと幾度か目蓋を下ろし、それから口元と目元がほんの少し緩む。三日月、囁くような声で骨喰は名を呼んだ。

「俺は、もう焼かれない。だから、友はもう増えない」

 今度は三日月が意表を突かれて目を丸めた。それを可笑しそうに見つめながら立ち上がり、それからと骨喰は続けた。三日月の手の中にある輪菊を見下ろす。

「その花は、俺からじゃない。兄弟からだ」
「五虎退からではなかったか」
「名は言えない。告げるなと言われた」

 赤い輪菊を指先でつつけば、くすぐったそうに花が震える。そうか、一度呟き、もう一度そうか、と重ねた。骨喰は礼のつもりで、自分の言えるところまでを告げたつもりなのだろう。自然に口角を押し上げる想いを隠さず、三日月は面を上げる。

「もう知っているから、構わんさ。そう伝えてくれ」

 鯰尾が骨喰の名を再び、不審げに呼ぶ。しかし骨喰は三日月の言葉が腑に落ちないらしい。何度か振り返り、三日月が笑みしか返さぬことをやっと諦めたようだった。もう夕餉ですからね、鯰尾の大声にだけ応えをする。二人の姿が角の向こうへ消えた。

「昔取った杵柄か」

 夕闇の中、輪菊にそっと口を寄せた。

 三日月宗近は秋に身を横たえている。

 晩秋の夜、身に染み入るような冷気が床から這い上ってくる。羽織だけでなく火鉢もそろそろ必要だろうか。やはり三日月はそれがどこから出て、どこへ仕舞われるのか全く知らない。

 りい、りい、虫の声が夕暮れよりも大きく響く。さわさわと木々が揺れ、からからと枯れ葉が鳴るのは変わらないが、決して静かな夜というわけでもない。古来からの文人がそうであるように、この本丸の粋士も酒を酌み交わすことを好んだ。刀剣の中には酒を嗜む者も多く、頻繁に宴が設けられる。三日月も賑やかな宴の気配を好ましく思う。酒も嫌いではない。しかし、今日は一献も傾けることはなかった。

「匂うかぎりは、かざしておこう」

 目を閉じたまま冷たい布団から腕を出し、暖を取るように枕元に置いた輪菊を引き寄せる。耳元に飾るように置き、細い花弁に指を絡めながら花を押し開く。湿った花弁の感触を愛でていると、それはいつの間にか人の手指に変わった。熱い手が三日月の手のひらをなぞり、愛撫するように指を絡める。ふふ、くすぐったさに三日月は思わず笑った。だがまだ目はひらかない。

 各刀剣の部屋には簡易の結界が張られている。審神者の霊力が最も満ちた頑強な城とはいえ、有事を憂わない将はいない。この結界を通るためには部屋の主の「許し」が必要で、多くの刀剣はそれを声で済ませている。だが何も声だけが「許し」ではない。

 片手の指を絡めあったまま、夜半の客はもう片方の手で三日月の髪を柔らかい手つきで梳いている。前髪が丁寧により分けられて、開いた額に柔らかい熱が落ちた。唇だ。眠っている三日月の額に口づけるためには、きっと体を丸めて頭を深く垂れなければならない。その様を目蓋の裏に描いてまた笑みが零れた。どうやら機嫌を取られている。それから、意地の悪いふりはやめてほしいと乞われている。笑みで震える睫毛を唇の先で食まれた。この男はとっくに許していることを知っているくせに、わざと許しを乞うようなことをするのだ。

 この指の持ち主こそが菊を「許し」の依り代にしたはずだったが、こうしていれば三日月のほうが菊の花になり、愛でられているようだ。好い気分だった。愛でられるのは好きだ。
 
 今まさに蕾を押し開く菊花のように、陽のものとして愛でられるのも悪くない。他の刀剣がそうであるように、三日月もその時こそ己が一際美しく、衆目を楽しませることを知っていた。だが、開ききって陰のものとしてくすんだ紫に沈んでいく花を、その良さの分かる者だけに愛でられるのも悪くない。むしろそれこそが、珍しく惜しむべきことのように思えた。

「一期一振」

 目を開くと、眼前には今にも熱で溶けだしてしまいそうな銅鏡がふたつ、漏れ入る光も無いのに輝いていた。枕元に膝をつき、逆さから三日月を覗き込んでいる。柔らかい笑みだった。しかしそこにいつもの和やかさは少しも見えない。その目の色すら腹の奥をくすぐられているようだ。ふふ、また笑う。一期もくすくすと喉を鳴らす。

「許して頂けますか」
「さて。これは、取ったことのない杵柄だなあ」

 では、取ってみましょう。慇懃無礼とはこのことで、やはりこの男は何もかも知っている。逆さのまま重なった唇が付いては離れを繰り返す内、次第に正しく深く向きを変えていく。唾を呑み込む度、口内の熱が体中に伝わるように熱い。

 菊の花を濡らす露のようだ。久しかるべく、と思った。今度こそこの男と共に、久しくあることができればいい。

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