文字数: 11,575

真ジャンル「シンデレ」



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=3376359

「はよーっす……って、真ちゃん?」

 我ながらあくびなんだか挨拶なんだか分からない、間延びした声と共に部室のドアを押し開ける。と、最早すっかり馴染みきった仏頂面と対面した。秀徳高校バスケ部の部室で、愛すべき我がエース緑間真太郎が朝練のために着替えをしている。挨拶への反応すら鈍い無愛想な態度も含め、その状況に何ら不審な点は無い。しかし壁にかかった時計の針の位置と合わせて視界に収めると、それは日常から少しだけ外れていた。朝練が始まるまで一時間弱はある。あらゆる験担ぎという名の規律の中で暮らしている緑間とこの時間に鉢合わせたことは一度も無かった。いつものように一番乗りだろうと踏んで部室と体育館の鍵を取りに行き、既に先を越されていることを知った時も緑間の顔は浮かばなかった。度々大坪たちレギュラーの先輩が早めにやって来て練習を始めていることがあるので、今回もその類だろうと思い込んでいたのだ。

「どったよ?今日は早ぇじゃん」
「それはお前も同じだろう」
「ま、そーだけど。オレはたまたまだし……」

 ひとまず部室に足を踏み入れ、自分のロッカーの前にエナメルバッグを放る。学ランを手早く脱いでシャツ一枚になると早朝の冷えた空気が身に染みた。冬の先触れをひしひし感じていると、ふと視線を感じる。ロッカー沿いに視線を走らせれば、緑間が無表情のままじっと高尾に視線を送っていた。こちらは既に着替えは終わっていて、タオルとスクイズボトルがその手に握られている。そう言えば今日のラッキーアイテムはリップクリームだったか。ポケットにでも入れているのだろう。おは朝を重いまぶた越しになんとかチェックした時、毎回そういうんなら助かるんだけどな、と高尾の脳内の木村がぼやいていた。

「真ちゃんマジで何かあった?今日は3位……だよな。おは朝関係ってワケでもねーんだろ?」

 星占いごときが朝食の足しになるわけでもなく、注視しているのは蟹座の順位とラッキーアイテムくらいのもので、詳細なんて覚えていない。しかし高尾の印象に残っていない程度には無難な結果だったはずである。しばし問うように視線を返していたが、緑間は口を動かす素振りすら見せない。偏屈頑固なエース様の天岩戸は、一旦閉ざされると高尾の腹踊りくらいでは開かなくなる。さっさと諦めてシャツを脱ぎ捨てた。あくびを噛み殺しつつさみいさみいと呟きながら練習着を頭から被る。

「違うだろう」
「んお?」
「たまたま、ではないだろう」

 ハーフパンツに足を突っ込んだところで緑間はやっと口を開いた。着替えも終わったので数歩分近づいてわずかに逸らされた顔を見上げる。何か思うところがあって高尾と視線を合わせていないのではなく、単に着替え中の人間への配慮だったのだろう。野暮ったい眼鏡越しに緑色の瞳が動き、高尾を正面に捉える。あまり表情が変化しないせいか、緑間の瞳は突き放すような怜悧な印象を人に与える。しかし付き合いが長くなれば、それなりにそこに灯る光を読み取れるようにはなるものだ。長い睫毛が影を落とす瞳に険は無い。

「あー……っと、誰かに聞いた?」

 緑間は簡潔に同じ一年生の部員の名前を口にした。レギュラーメンバー以外とは会話どころか名前すら覚える努力を見せなかった緑間が、クラスも違う部員と言葉を交わして名前まできちんと記憶しているとは。感動すべき事態である。だが高尾の胸には座りの悪い気持ちがよぎった。よく分からない、苦いものを口に含んだようなじわりとしたざわつきを振り払うように、バレたかとおどけて笑ってみせる。

 インターハイで雨の中で緑間を見つけた時、軽く放ってやろうと思っていたくだらない冗談や安易な慰めは全て両手から滑り落ちて床をバウンドして消えていってしまった。かつて高尾を完膚なきまでに叩きのめした、キセキの世代という超人的プレイヤーに「高尾和成」というプレイヤーを認識させ見返す。それが高校入学当初の高尾の目標だった。だがその瞬間に高尾は悟ったのだ。それまでは分かっていなかった。認識していないのはお互い様だ。高尾和成は、この「緑間真太郎」という男の相棒になろうとしているのだ。

 今まで以上の何かを身につけるために模索を始めたのもこの辺りからだ。しかし、魔法のように特別な何かがバスケの腕を一瞬で上げるなんてことは有り得ない。毎日毎日、ひたすらシュートを撃ち続ける緑間の背はそれを如実に物語っていた。だから高尾も練習を増やすことに決めた。それも緑間以上でなければだめだ。悔しいが、スタートラインが既に違う位置にあるのだから、それを埋めるためには更なる練習しか無い。そうして、夏合宿をなんとか乗り越えた頃から、体力と相談しながら朝練の前に自主練の時間を増やしていった。

「……何故黙っていたのだよ」
「だから言ってんだろ?ボク頑張ってます!なんて宣伝して回っちゃダセーって。こういうのは隠れてやんのがイケメンってモン、」
「馬鹿め」
「ぶっふ!そんな食い気味で!人の話はちゃんと最後まで聞く!って教わんなかったのかよお」

 込み上げる笑いを我慢せず吐き出せば、緑間は呆れたような長いため息で応酬する。別に隠れてやっていたわけではない。朝の早い部員たちには当然自主練を発見されており、先ほど緑間が挙げた部員もその一人だ。正直なところ緑間に知られるのは本意ではなかったが、悪さをしていたわけでもないのだ。さっさと開き直ってパス練習に付き合わせるのがより効率的な選択と言うものである。それにしても緑間は、この文句をつけるためにいつもより早く家を出たのだろうか。相変わらずよく分からない奴、とロッカーに戻ってタオルとボトルと引っ張り出す。と、そこで名を呼ばれた。耳に心地よい低い声が、いつもの盛況さとは程遠い静かなロッカーをするりと滑る。

「高尾」
「ん?なに?」
「来い」
「あ?なんだよ」

 一瞬戸惑ったが、早くしろと急かされたのでロッカーを閉めて緑間の元に歩み寄った。もっと寄れとのお言葉に恐る恐る足を踏み出す。いつかもこういうことがあった。だがリップクリームの効力なんてそう差は出ないだろうし、そもそも今日の蟹座は3位である。

「なんだよ真ちゃん。今日やっぱおかし……」

 緑間の左手が伸びてきた。テーピングの巻かれた長い指がざらりと高尾の額を撫ぜる。半端にかかる前髪を掻き分けられているらしい。家を出る前に整えてきたはずだが、何せ眠り眼だ。そんなに乱れていただろうか。うわマジかオレこれで電車乗った――などと呑気に考えていられたのもそこまでだ。一瞬弾け飛んでいた高尾の思考が全機能を修復するのには数十秒を要した。理解できたのは緑間の顔がいつもより近づいていたことと、額に感じた柔らかい感触がすぐに離れていったこと。

「ウインターカップはすぐそこなのだよ。さっさと行くぞ」
「う……ウン、ソーデスネ。タカオ、チョーガンバル」

 つい口から出たのがカタコトだとしても、一体誰が今の高尾を責められるだろうか。返事ができただけでも大したものだと思う。あまりに通常運転、遅延なしで練習に向かう緑間特急に言葉をかけるタイミングは完全に失われていた。これが試合なら宮地から警笛のごとき怒声が飛んでいるところだろう。パタン、と部室のドアが緑間を吐き出してひとりでに閉じる。緑間に遅れを取らず練習を、と頭では考えているのだが体が動かない。しばし呆然と、額に手を当てたまま立ち尽くしていた。

 クラスの教室は、場所が悪いのか高い位置にある太陽の光がほとんど届かない。窓寄りの高尾の席では、机の三分の一ほどが日光で白く照らされている。学ランの左肩だけが熱を集めて暖かく、その他は肌寒い日陰の中に沈んでいる。昼休みのざわめきの中、頬杖を突いてぼんやりとドアの辺りを眺めつつあくびを漏らした。ピンと伸びた縦長い背が視界の中心にある。その正面に立つ他クラスのバスケ部員の顔は、その大きな図体にほとんど隠されてしまってよく見えない。緑がかって深い色をした緑間の頭が時々小さく動く。先輩、もしくは中谷の伝言でも聞いているのだろうと当たりをつけた。ほんの一ヶ月も前なら、こういう連絡はほぼ高尾を通して行われていたと言うのに。手持ち無沙汰に開いていた携帯電話が、何の操作もしない持ち主に反感を示すように画面を暗くした。このところの高尾は、バスケか緑間を取り上げられると簡単に退屈の海に沈んでしまう。もしどちらもから離れる時が来るとしたら、退屈死するのではないかと割と深刻に憂慮している。

 緑間は日々変わりつつある。一度誠凛に負けてから始まったその変化は、誠凛との再戦で更に加速したように思う。加速するパスだけにってか。半ばヤケ気味にそんなこと考える。本人の口から決してそんな言葉は出てこないが、どうやらウインターカップの予選を経て以降、緑間はチームプレーにもその偏狂的な努力を発揮することに決めたようだ。無言実行。緑間、不器用ですから。だが殊に今回に関して言えば多少の予告が必要だったと思う。天変地異の前触れではないかとどよめく部員たちを前にして、世界の前にいち早く高尾の呼吸器官が滅びそうだった。笑いで。

 一番に目立つ変化は「わがまま」の使用回数がぐっと減ったことだろう。使わなければ損とばかり、きっちり一日三回分を使い切っていた緑間だが、最近は一回も使用権を振りかざしてこない日すらある。木村がそれについて指摘し、「今は必要ありませんので、木村さんに一つ譲るのだよ」などと返され目を点にしている様はなかなかに味のある絵面だった。ちなみに木村はそれを冗談交じりに緑間との2メンパスに使ったが、緑間は不満ひとつこぼさず全力で取り組んでいた。気味悪げに緑間の体調不良を疑う木村を画家が見たら喜んでキャンバスに書き殴っていたことだろう。多分タイトルは「不穏」とかである。

「高尾」

 そして、以前に比べれば部員たちとの会話量が遥かに増えた。何か話しかければ答えるし、数人がかりでやる練習にも協力的だ。そんなもの人間としての最低限だと思われるかもしれないが、緑間真太郎という生き物はそれらをまとめてゴミ箱にシュートしても秀徳のエース様である。特に入部当初の緑間ときたらひどいものだった。自分が不要だと思うものはあらゆる図太さと「わがまま」を行使して徹底的に忌避していた。くだらないと思えば平気で無視を乱発し、気に入らない練習メニューからはさっさと一抜ける。そのあまりの横柄さが与えるインパクトは絶大で、高尾が間に入ってなんとか緑間と部員たちとのコミュニケーションは成立していたのである。それがどうだ。今や、辛らつな言葉ながらアドバイスらしきものを口にしている時さえあった。その最中、「ドライブインは宮地さんを見習え」などと零しているのを真横で聞きいていた宮地の呆け顔はウルトアレアカードだった。写メフォルダという名のデッキに組み込めなかったことが死ぬほど悔やまれる。

「おい、高尾」

 この緑間にいち早く順応し歓迎したのは、我らが秀徳バスケ部の支柱、大坪だ。ただ緑間の変化に動揺する部員たちを見兼ね、緑間と話すため部活終了後にラーメン屋へ誘っていた。以前の緑間なら「そんな暇を持て余していませんので」だとか何とかすげなく断っていただろう。断らなかったとしても、不満だか皮肉だかを眼鏡を押し上げつつため息と共に連ねていたに違いない。しかし緑間は自主練を少し早めに切り上げるほど能動的に大坪の提案を受け入れていた。翌日満足げな大坪が語ったところに拠れば、この状況に一切問題はなく、ついでに緑間の体調も至って良好であるとのことだ。残さず食べろよと声をかけるとスープまで飲んだらしい。高尾が帰りがけどこかに寄ろうとしても絶対に付き合わないくせに。

 いつの間にか左頬が冷たく硬い机に接していた。そしてもう片方の頬は、正反対に柔らかで熱を持った感触と接している。ついぞ何も聞けなかった早朝のあの感触と完全にシンクロするそれに高尾はがばりと身を起こした。机に手を置いていた緑間がしかめ面で身を引く。危うく高尾の頭と激突するところだったらしい。いや、そんなこと気にしてる場合か真ちゃんよ。

「起きているならさっさと返事をしろ」

 いつもと寸分違わぬ温度の声で悪態を吐いた緑間は、ため息も忘れずにくるりと身を翻した。あんなにざわついていた教室から人影がすっかり消えている。そこでやっと五時間目に教室移動があったことを思い出した。慌てて教科書とペンケースを引っ掴んで椅子を蹴飛ばす。なるほど、見捨てて行くことなく高尾に声をかけてくれたわけである。緑間の生まれた星では随分珍しい方法でクラスメートの起床を促すようだ。って、んなわけあるかよ。本鈴に間に合わせるため縦長い背を追いかけて走りつつ、高尾はひとまず自分の思考にツッコミを入れる他なかった。

 入学当初、高尾は駅から学校までのちょっとした距離のために自転車を親にせがんだ。高尾家は歩いて数分の圏内に小中学校を収める好立地にある。そのため歩けないこともないその距離にも億劫を感じたのだった。しかし今や本来の用途では登校時にしか使用していない。部活後の自主練と駅までの道を共にする緑間が頑なに徒歩を貫いているせいだ。買った当初は爽やかな水色をしていたこの自転車も、試合の度にリヤカーに合体させられ80kg近い巨人を引きずることで煤ける羽目になろうとは夢にも思わなかったに違いない。自転車が夢を見るかどうかはともかくとして。当初はバランスを取るのにも一苦労だったためよく電柱などに激突した。エナメルバッグを斜めに突っ込んだかごは曲がり、塗装がところどころ剥げてしまっている。

 カラカラカラ……押して歩く自転車の車輪が回る。その音を今日ばかりやたらに大きく感じるのは、ひとえに高尾が口を閉ざしているせいだろう。緑間は「結果的に」寡黙な男である。言うべきこと、言いたいことを胸中に秘めていればどんな状況でも口を開くが、逆に何も無ければ気まぐれに押し黙る。高尾の雑談を一応は聞いているようで質問には大抵返事をするが、自分から雑談を振ってくることは稀だ。

 すっかり夜の色に塗り替えられている並木道は、秋なんか知らないみたいにもう寒々しい。カラカラ車輪が回り、スニーカーがコンクリートを蹴る度に落ち葉の乾いた音がついて回った。最近とみに気になっているのだが緑間は自転車に乗れるのだろうか。この傲慢不遜のエース様がサドルに跨っているところをかつて一度も目にしたことはない。運という運を注ぎ込んでこの男から勝利をもぎ取ったとしても、最終的には高尾が自転車を漕いでいる気がしてならないのだった。

「お、もう駅だな。そいじゃ明日……」
「高尾」

 交差点の向かいで、古ぼけた駅名が照明を当てられて浮かび上がっている。しかし高尾は横断歩道の手前で折れて駐輪場に向かわなければならなかった。駅で改札をくぐれば違うホームに入るためわざわざ緑間を待たせる必要性は無く、更に言うなら大人しく高尾を待ってくれるような男でもなく、大抵はいつもこの交差点で別れる。今日もいつもの通りそっけなく歩き去っていくだろうとばかり思っていたのだが、緑間は高尾をじっと見下ろして動かない。

「ん?どったよ」
「……今日は行かないのか」
「は?どこに」

 反射で答えてしまい、しまったと慌てて記憶をさらう。しかし何度思い返してみても緑間と何か約束を交わした記憶などはない。今日の緑間の3Pは高尾の理解をいつも以上に高いループで超えていってしまったので、衝撃で記憶が混濁したのかもしれない。だとしたら全て緑間が悪いので高尾に責任はない。多分。どうせ今から鳥頭だの何だの罵倒と共に説教されるのだからそれで思い出すだろう。そう思っていたのに、緑間は眉根を寄せることすらせずわずかに目を逸らすだけだ。行かないのならそれでもいいが、と半ば独り言のように呟いている。

「なんのことだよ?ワリ、マジ思い出せねえわ。今からでも付き合うぜ?」
「いやいい。逆なのだよ」
「逆?」

 散々度肝を抜かれ笑い袋を圧迫してきた緑間の発言も、今ではほとんどを問題なくパスとして受け止めることができるようになったはずだった。高尾の笑いのゴールを正確無比に打ち抜いているのは相変わらずだとしてもだ。しかし今日はどうにも調子が出ない。いや、緑間の調子が良過ぎるとでも言えばいいのだろうか。有耶無耶に流されようとしている話を蒸し返そうとした――が、言葉が出ない。

 緑間の指がまた額に触れている。熱でも測るように手のひらがぴたりとくっつけられた。目を丸くする高尾を見下ろす緑間の表情はやはりあまり変わらない。少し長めの前髪がやや左向きに流れて形の良い眉を透かす。長い睫毛の縁取る目が作り物みたいに美しいことなんて、大通りから少し外れた薄暗い道の中で目を凝らさなくたって知っている。目が閉じられる。ああそうコイツ、寝顔とかは結構幼く見えんだよなあ。普段がキツそーに見えるからかもな。

「また明日」

 鼻筋に柔らかい感触が押し当てられてすぐに離れていった。ふ、と息が抜ける音が近く鼻先がくすぐったい。高尾を揶揄するような笑みが、ほんのかすかに緑間の顔を彩っていた。

「や……」

 それまでなんとか保たれていた精神の均衡が一気に崩れる音を聞いた気がする。もしかすると体中の熱が顔と耳に集まる音のほうだったかもしれない。緑間の唇が触れていた箇所を勢い良く押さえると、ばしんと良い音がした。ヤベ、ただでさえ低い鼻が。

「いや……いやいや……いやいやいやいや!」
「なんだ。うるさいのだよ」
「や、だって、オマ……え?ナニコレ?え?夢?幻覚!?オレヤベー!!」
「だからオマエはダメだと言っているのだよ。日本語くらい正しく話せ」
「なのだよは正しい日本語なのかよ!ってそうじゃねー!オマエしただろオレに!朝から!何回も!」
「……何を」
「ちゅーをだよ!」

 ちょうど隣を横切ろうとしていたスーツ姿の男性がビクリと肩を揺らして小走りに通り過ぎて行く。慌てて自分の口を押さえてみるも今更だ。好奇の視線を送ってくる人々が去って行くのを待ってから息を吐くと、緑間のため息とシンクロしてしまった。

「往来で何を言い出すかと思えば……」
「オマエこそ往来で何した!?オマエは何したよ真ちゃん!?言ってみ?ちょっと言ってみ!?」
「……まさかオレのせいだと言いたいのか」

 先ほどの反省を生かし小声で言い募るが、返ってくるのはふてぶてしい態度だけだ。まさか一瞬前の自分の行動を忘れたとでも言い張るつもりだろうか。緑間は始終迷惑げな被害者面を崩さない。だが高尾とて「わがまま」を百個積まれてもだまされてやる気は無いのだ。その剣幕を面倒そうに見下ろしつつ、緑間はやっと重たい口を開いた。

「オマエが言ったのだよ」
「オレが?何を。いつ?」
「昨晩だ。ベンチで眠りこけている時に」

 昨晩、自主練に一旦息をつくついでに携帯を確認しに部室へ向かい、ベンチで眠りこけてしまう、ということがあった。連日の早朝自主練が祟ったのだろう。起きてみるとあらゆる自分の衣服が乱雑に体を覆っていたので、先輩の誰かが高尾のロッカー(うっかり鍵を開けっ放しにしていた)から引っ張り出して、からかい混じりに気を遣ってくれたに違いないと当たりをつけていた。有り難いが、せっかくなら起こしてくれれば良かったのになどと罰当たりなことをついでに考えた。また緑間に先を行かれてしまう。緑間が自主練を終えロッカーを開ける音で飛び起きた高尾は真っ先にそれを悔やんだ。

 しかし緑間の話に拠れば、先輩方は帰宅前にきちんと声をかけてくれていたのだ。しかも、ご親切に高尾だけでなく緑間にまで。どやしてもゆすっても起きないからちゃんと面倒見て帰れよ――先輩の言いつけに、緑間はかつてなら考えられないほど素直に従った。シュート練に一旦区切りをつけ、無人のロッカーに戻る。ベンチの端に腰掛け、ジャージや学ラン、タオルなどに埋もれた高尾の顔を億劫に思いつつも発掘し、暢気な寝顔に苛立ちを感じ――それをそのままビンタに込めた。どーりでなんかヒリヒリしてると思ったんだよ。オマエだったのか緑間この野郎。

 二往復しても健やかな寝息を立てている高尾に、緑間は面倒を早々放棄することに決めたらしい。散々平手打ちした上で肌寒い部室に友人を放置する決断に躊躇が無いとは。緑間らしいと言えば緑間らしい。ヒデーよ、と拗ねれば部室で寝るなと正論が返ってきた。確かに我ながらそこまでされて起きないのはどうかしている。ともかく、緑間は体育館へ戻ろうと腰を上げた。だが立ち上がることはできなかった。ジャージと学ランの隙間から腕が伸びてきて緑間の腕を掴んだから、らしい。無論その腕の持ち主は高尾だが、高尾には微塵も記憶が無いのだった。

『高尾?やっと起きたか』
『どこ行くんだよ』

 母親や妹にこの16年間散々文句をつけられてきたが、高尾は気を抜くとすぐ目つきが悪くなる。寝起きなどその最たるものである。高尾の目つきのあまりの険しさに、さすがの緑間もたじろいだ。そして平手打ちが気に入らなかったに違いないと考えた。一応眠っている人間に突然ビンタをかますと怒る、くらいの常識なら辛うじて持ち合わせていたらしい。そのため、反撃に備え拳を構えておくことにした。おい、なんでだ。

『寝ぼけているのか。体育館に戻るに決まっているのだよ』
『オレを置いて行くわけ』
『……嫌ならさっさと起ればいいだろう』
『大坪サンとは帰りにラーメン屋寄ったりするくせに』
『は?』

 その後も高尾の恨み言はつらつらと続いたらしい。最近付き合いがワリーぞ真ちゃんだとか、いつも振り回されてんだしオレにもわがまま一個くらい分けろっつーのだとか、オレもオマエとパス練したかったしだとか、ってかオレのプレーってオマエの眼中にちゃんと入ってんの?だとか、要約するとこのような主張を単語を変え文脈を変え表現力豊かに訴えかけてきた、と言う。反芻する緑間の表情は面倒そうに歪んでいる。多分表情まで克明に再現されている。

「後は……そうだな。『オマエの一番のダチは誰だと思ってん……」
「あー!わー!もういい!もういいから!死ぬ!マジ死ぬから!これ以上ライフで受けらんねえよ!」

 自分の脳内ですら明確な形にすることを避け続けていた子供のような駄々を、まさか緑間の口から聞くことになろうとは。自転車が無ければ両手で頭を抱えてその場にうずくまっているところだ。フーと長いため息が緑間から漏れる。心底から呆れを表した怜悧な瞳が高尾を見下ろしていた。

「寝ぼけていたのだな」
「っぽいな……」
「真面目に考えてやった手間とヒマが惜しいのだよ。馬鹿め」

 ここは素直に謝罪しておこうと口を開きかけたが、はたと気がつく。緑間のこれまでの話だけでは、本日の奇行の原因とは言い難い。一体何を手間暇かけて考えたと言うのだろうか。ラッキーアイテムの有効活用法とでも言うつもりか。だとしたら今日のラッキーアイテムはジョークが利きすぎている。高尾の問う視線を煩わしげに受けつつ、緑間は眼鏡のブリッジを押し上げてみせた。

「オレはまさかオマエがここまで嫉妬深く面倒な男だとは思わなかったのだよ」
「オレもまさかオマエにメンドーとか言われる日が来るなんて思っちゃなかったわ……」
「なんだと!」
「はいはいオレが悪かったから。そんで?」

 怒気を眉根に留めたままではあったが、緑間は渋々話を繋げた。その前にさそり座に対してあらゆる事実無根の文句を連ねていたが、それは全人類のさそり座のために高尾一人が甘んじて受けておくことにする。

「オマエがあまりにもしつこかったから、『オマエには他の奴とは絶対にしないことをする』と言ってやったのだよ」

 それを聞きくなり高尾の態度は一変し、口を閉ざして服の中に再び埋もれていったらしい。緑間はシュート練習に戻り、それを終え、帰宅してからもひたすらに何をするべきか考え抜いた。天才とナントカは紙一重。この文句を考えた人間こそ天才的発見者である。そんな皮肉でも考えていないと、高尾は自転車と緑間を捨て置き、昨晩の素直過ぎる自分を殴りに走り出してしまいそうだった。

「それで……コレ?」
「ああ。それで、コレだ」

 鼻筋に添えた高尾の指先に重ねるようにして緑間の指先が触れた。差し出されるのは、何の危険も予期しない、当たり前のような左手である。トントンと高尾の鼻筋をなぞり、口元にわずかながら愉快げな笑みを浮かべている。言葉を失って間抜けな顔を晒すのが嫌で、オマエって時々バカだよなと茶化した。しかし緑間の表情はほとんど動かない。

「オマエに馬鹿と言われる筋合いなどないのだよ。オレが人事を尽くす意味ぐらい知っておけ、馬鹿め」

 今更ながら、照れに理屈が追いついた気がした。あの緑間が、他の誰にも与えないボールを高尾に託そうとしている。そのために緑間は能動的に高尾に近づき触れたのだ。簡単に言ってしまうと緑間は高尾にキスをした。拒絶される可能性など微塵も考えず、当たり前に、笑みさえ浮かべて。

(う、うわ……!うわーマジか……!)

 一度はなんとか押さえつけたと思っていた熱が顔面にせり上がって来るのを感じる。緑間の視線から逃れるように顔を逸らした。今更ではあったが、これ以上ダサいところを見られたくはない。高尾はこれまで、己の観察眼と情報分析能力の冷静さには少なからず自負があった。だが今となってはその評価を是正せざるを得ないだろう。いや、このままやられっぱなしでたまるかよ。諦めらんなくて秀徳までかじりついて、そんでコイツに出くわしちまったってのに。

「高尾?聞いているのか。大体、最近欠伸が多いのだよ。どれもこれも休養とのバランスを考えないからこういうことになるのだよ。オマエには万全で居てもらわなければ、次の試合のためのオレの考えを実行でき……」

 緑間がまだ何かを喋っているが、構わずに自転車を路肩に寄せスタンドを立てた。怪訝げに顔をしかめる緑間の右腕を取り、ぐいと引っ張る。年中シャッターが降りているところしか見ない小さな雑貨屋の影に入って、緑間を壁に押し付ける。腕を伸ばして頭を屈ませた。できるなら、あまり背伸びはしたくない。

「高、っ」

 言葉を奪うように唇を押し当てる。

 何度も何度も、位置を正し角度を変えながら口付けた。狭間に小さく漏れる声や、ゼロ距離で受ける熱い鼻息に気が遠くなりそうになる。これで最後だと思うのに体は止まらない。意を決して強く唇を押し当てて離れるとわずかにリップ音がした。

 薄暗い道の中、見上げる緑間の瞳は潤んでいるようだ。遠い街頭の光で泡立って見える。驚きに開かれたその目を縁取る睫毛が影を落とす頬にも赤みがある。ついにやってしまった、という後悔と、ついにやってやった、という興奮がない交ぜになって爆発しそうだ。ドッドッドッ……体を揺るがすほど鼓動が大きい。

「高尾……」

 かすれた声に、痺れを伴った熱が指先にまで駆け巡ってきた。体中がくすぐられているような感覚に耐えられず笑みを浮かべる。思うよりもずっと、自分の声が熱っぽい。往来で何してんだろーな、ホント。

「オレとだけ、なんだよな?」

 体を重くしていた眠気も退屈も一気に吹き飛んでしまった気がする。確かにこの単純さでは、緑間に馬鹿と言われても仕方がないのかもしれない。緑間の人事を尽くした思考がフリーズしているのをいいことに、高尾はもう一度緑間の後頭の髪に指を差し入れた。

-+=