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群青



 思えば確かに、どこか様子はおかしかったかもしれなかった。

 世界への夢に向けてまずアメリカへ旅立ったにもかかわらず、何故この学校に籍を残していたのか。そう問われれば、『気まぐれ』と答えるしかない。その程度のことでしか無かった。卒業要件のことで話し合いがしたい、と学校側が出した一ヶ月前の提案がやっと海馬の元までやって来た時、やっとこのちっぽけな学校のことを思い出したくらいなのだ。
 ならば何故そんな提案に律儀に応じてやっているのか、と問われれば、やはり『気まぐれ』と答えるしかない。久々に吸う日本の空気は湿って重たい。目に入る景色はアメリカより色数が少なく、味気なく感じる。

 もう何ヶ月と本邸のクローゼットに放っておかれていた制服は、自分のものでは無いように他人行儀だ。拭えぬ違和感を不快に思いつつ騒がしい廊下を突き進む。路肩の誰もが一度は海馬を振り返るのを煩わしく感じた。

「かっ、」

 教師に教えられた教室のドアをスライドさせると、まず最初に間抜けな叫び声が不自然に途切れるのが耳に入る。それを目で追うと、数ヶ月前までよく見慣れていたはずの顔がそこにあった。おかしなことに、何年か経てやっと見えたような気がしてならなかった。

「また貴様か」
「海馬くん!?」

 これで実質上海馬と遊戯は3年間同じクラスだったことになる。海馬の登校回数から言うとあまり意味の無い数字ではあったが。慌てて立ち上がって駆け寄ってくるその小さな影を無遠慮に見下ろした。当たり前だが数ヶ月前と何一つ変わっていない。しかし、どこか妙な違和を感じる。

「貴様、遊戯……か」
「へ?あ、うん。……遊戯だよ。ボクは」

 一見すると荒唐無稽な問いだったが、遊戯はすぐに合点がいったようだった。自信の満ちた目で言い切る。しばらくその目の色を訝しく見返していたが、やがて馬鹿らしくなって視線を逸らした。

「オレの席はどこだ」
「えっと、こっち」

 慌てて先導しようとするその背中に続く。案内されたのは一番後方の隅の席で、二年の時と大して変わっていなかった。こんなもの、一言の説明で済んだだろう。相変わらずの手際の悪さに顔をしかめ、不機嫌に椅子を引く。

「……何だ」
「あ、いや……久しぶりだなあ、って思ってさ。今日はどうかしたの?」
「学校側にくだらん話で呼びつけられたのだ。このオレをどう思ってのことか、後で散々に問い質してくれるわ!」
「……お手柔らかにしてあげてね」

 話は終わったはずなのに、遊戯は海馬の隣から動かなかった。先ほどからそわそわと浮ついた態度が煩わしい。用があるならさっさと吐け、と目で促したが、それでも遊戯は煮え切れなかった。

「何かあるならさっさと言え!そうで無ければさっさと散れ!」
「……分かってたけどさ」
「何がだ!」
「やっぱりこんな日は、期待しちゃうんだよね」

 照れたような、困ったような笑みを浮かべた遊戯は、それっきり己の席に戻っていく。それを追う視線の先にあるのは窓の向こうの青く深く高い空だ。

 その日最後の授業が終わると同時に海馬は教室を出た。その後にだらだらと続く雑事にまで構ってやる気など更々無い。早々に話を付けてしまおうと思っていたのだが、これが忌々しいことに予想より長引いてしまった。今の気分を曲線化すれば断崖かと疑うほどの右肩下がりだろう。人のめっきり少なくなった廊下を大股で突き進む。苛つきに任せて思いっきり教室のドアを開け放つと、中に居た人影が大きく震えた。

「うわっ!!」
「……何をしている」

 開け放たれている窓からたった今開いたドアへ、湿って重たい空気が流れていく。教室の中はひどく静かで、誰も残っていなかった。中ほどの席で目を見開いている遊戯を除いては。

「び、びっくりしたー……」
「質問に答えろ」
「いやあ、何ってわけじゃないんだけど……海馬くんのカバンが残ってたから。待ってようかなあって」
「……何故だ」

 テンポの悪い会話を歯がゆく思って、思いっきり遊戯を睨みつける。その険悪さに耐えかねたのか、遊戯は情けない顔で両手を挙げた。その右手には、見慣れた柄のプリントされたカードがある。

「デッキ、持ってるよね?」
「……フン。そうならそうとさっさと言え」

 海馬の答えに、遊戯は満面の笑みを浮かべて立ち上がった。机を一組、向かい合わせるように動かす。いつものジュラルミンケースからデッキを取り出した海馬は、遊戯の真正面に座った。

「何か変な感じだねー……」
「こんな場所だ。しみったれた演出には目をつぶってやるわ」
「さすがに学校に決闘盤は持って来れないもんなあ」

 お互いのデッキをカット、シャッフルして、目配せだけで決闘を始める。窓の向こうにある分厚い雲の影が動く以外は、この教室には何もない。小さな緊張感がぴりぴりと張り詰めているだけだ。パシ、と机の上にカードが置かれるその音に呼応するように、時折風が頬を撫でる。

「ケンタウロスとブラッドヴォルスを生贄に――」
「あ……」
「青眼を召還」

 カードのテキストを読み上げる以外は、特に会話もない。時折遊戯が物言いたげな目でこちらを窺ってくることはあったが、結局は何も言わずに手札に視線が戻っていく。

「雑魚一匹ごとき蹴散らしてくれる!青眼の攻撃、!」

 チリリリ、と安物のカーテンレールがやかましく音を立てた。窓際にぴたりとついていたカーテンが大きく曲線を描いて膨らむ。その瞬間に海馬はデッキと墓地、そしてフィールドの青眼を手で押さえ込んだ。

「あ……!」

 一拍動きの遅れた遊戯のデッキが風に舞って、ぱたぱたと軽い音を立てて床に着地していく。わあわあとみっともなく騒ぎながらも、遊戯はひとまずフィールドの維持だけには成功したようだった。

 緩慢な動きでカーテンが収縮する。窓いっぱいに、うんざりするほど遠くまで油絵を厚塗りしたような群青が広がっていた。

「……ふ、」

 奇妙な音がすると思えば、それは遊戯が吐息を押し出した音で、海馬が訝しむ視線を送った途端遊戯は大爆笑を始めてしまった。意味が分からず、気味も悪い。

「何を笑っているのだ、貴様は」
「あは、は、ごめっ、ちょっと、待っ、止まらな……、ははは……っ!」
「……訳が分からん。とりあえず窓を閉めろ」
「う、うん、っははは……っ!」
「…………」

 未だ笑いを引きずりながら、遊戯は開いている窓を閉めて回る。それでも笑いは収まらず、何度か深呼吸を繰り返してやっと落ち着いてきたようだった。不快感を隠さない海馬に、照れたように苦笑している。

「ごめん、何か急にツボに来ちゃってさ」
「説明になっておらんわ!」
「ボクだってよく分かんないよ。ただおかしかっただけだぜ」
「……気でも狂ったのか」
「ひっどい言いようだなあ……。海馬くんはそんな時無いの?」
「あるか!断じて無いわ!」

 よっこいしょ、と老人のような掛け声を上げて、遊戯は散らばったカードを拾い集め始めた。机の上のデッキは先程より半分以上減っていて、かなりの数のカードが吹き飛んでしまったようだ。

「今更だけど、本当久しぶりだよね」
「それがどうした」
「どうしたって……どうもしないけどさー。海馬くん、バトルシティから全然学校来てなかったじゃないか」
「フン、こんな無意味な場所に時間を割いてやるほどオレは暇では無いのだ!」
「でも、今日は来たんでしょ。だから……」

 集め終えたのか、立ち上がった遊戯はデッキと合わせてカードの数を確認している。一枚も取り逃しが無いことを確認できたようで、満足したように机の上にそれを置いた。

「ボクのために帰ってきてくれたんじゃないか、ってちょっと期待しちゃったんだよ」

 朝の会話を思い出す。意味の分からない言葉の真意は分かったが、分かったからと言って合点がいくわけでもなかった。海馬は思わず立ち上がる。

「そんなわけがあるか!」
「……怒らないでよ、分かってるんだからさ」
「貴様、シャッフルをしろ!まだ決闘は終わっていない!」

 海馬が声を荒げても遊戯は動こうとしなかった。座っていた椅子の隣に立って、静かに自分のフィールドを見下ろしている。

「あのさ、『おめでとう』って言ってくれないかな」
「何だと?」
「『おめでとう』。それだけでいいからさ」
「何故だ!このオレが貴様を祝ってやる理由など何一つとして無い!」
「そこまで言い切らなくたってさ……ま、そうかもしれないけど」

 遊戯は自分の席にかけたカバンを持ち上げた。もう一度決闘は終わっていない、と怒鳴りつけると、遊戯は腹立たしいしたり顔で伏せカードを裏返してみせた。

「『ディメンション・ウォール』……!」
「海馬くんのライフは2500だったよね。……ボクの勝ちでしょ?」
「くっ……貴様……!」
「ありがとう」

 カバンに丁寧にデッキをしまい込んで、遊戯は海馬を見上げた。その目の色は、やはり以前見下ろしていたものと何かが違っている。

「いい決闘だった。『今日』、『君』と、決闘できて、本当に嬉しかったよ」
「……何とでも言え」
「……拗ねなくてもいいじゃないか」
「誰が拗ねているか!」

 楽しそうに笑っている遊戯には、何を言っても効果が無いように思えた。苛立ちと疲れにため息をつき、誰の席とも分からぬ椅子にもう一度座り直す。

「じゃあ、ボク帰るよ」
「さっさと消えろ」

 自ら帰ると宣言した癖に、遊戯はいつまでもぐずぐずとしていた。ドアに手をかけたままその場に留まっているその姿を煩わしく思って睨む。

「まだ何かあるのか」
「……ううん。今日……天気良いなーって思って」
「今日は朝からこの天気だが」
「確かに今更だけどさ。もうとっくに梅雨に入ったってのにこんなに綺麗に晴れるなんて――」

 窓が開いていなくても風があろうことが分かるのは、厚ぼったい雲が気だるげに動いているからだ。夏が近づいているのを確かに感じさせる、濃い青が空を塗り潰している。

「本当、変な日だよね」

 遊戯の視線を追って見ていた窓から教室へ目を戻せば、遊戯と目が合った。先程まで外を見ていたはずなのに、いつからか海馬を見ていたらしい。

「……貴様が言うのか」
「何だよそれ、ボクが変ってこと?……まあ、ボクにお似合いの日かもね」

 ひとつ、何の屈託もなく笑って、遊戯は教室を飛び出した。廊下の向こうから『じゃあね』という大声が響いてくる。馬鹿らしい。思えば朝から全てが、馬鹿らしいことの連続だった。フィールドのカードを全てデッキに戻して、手持ち無沙汰にカットする。何度目かのところで、耳が下品な足音を拾った。やたら間隔の短い足音の連続は、大きくドアがスライドして止まった。

「遊戯ィィィィ!!って海馬ァァァァァ!?」
「……やかましい」
「んだとテメ、じゃねえや!今はそれどころじゃねえんだった!遊戯は!?」
「とっくに帰ったが」
「何だと!?あーッチクショ、こっち帰りのHRが長引かなきゃよお!テメー何で引き留めとかなかったんだよ!」
「……オレが知るか!何故このオレが遊戯を引き止めてやらねばならんのだ!」
「あーもーうっせえ、はいはい。ったく、アイツオレたちが本気で祝わねえとでも思ってんのかよ。あっさり帰りやがって!」

 理不尽な暴言に当然抗議をするが、城之内は最早海馬の言葉を聞いていないようだった。その態度が頭に来るが、それよりもその独り言の内容に気が取られた。

「遊戯が何だ。何故奴を祝わなければならん」

 海馬の苛立ち紛れの言葉に、城之内は面食らったような顔をした。知らなかったのかよ、などと咎める口調で詰られて不快感が増す。やはりこの城之内という男とは相容れない。

「ああもう、そんなガン付けるんじゃねえ!誕生日だよ誕生日」
「誕生日?」
「それに、『祝わなければならん』じゃなくて、『祝いたい』んだよ。そこんとこ間違えんなよな!」
「どうでもいいわ!」
「よくねーよ!……っじゃあな!テメーと話してる暇なんざねえ!オレは遊戯を追いかける!」
「待て、俗物」
「ああ!?誰がゾクブツだって!?」
「意味が分かってから啖呵を切れ、貴様は」

 手元のデッキをもう一度切って、一番上のカードを城之内に差し出す。怪訝げな顔をしながらも、城之内はそれに歩み寄ってきた。

「……何だよ」
「これを遊戯に渡せ」
「おいおい、もしかしてプレゼントとか言わね――っ!」
「勘違いするな、貸すだけだ」

 デッキをポケットに収めて立ち上がる。ジュラルミンケースを片手に城之内を追い越した。もう遊戯は確実に学校を出てしまっているだろうが、元気だけはありあまるこの男だ。どうせどうにか追いつくのだろう。

「お前、これ……」
「フン、こんな機会でも無ければ貴様のような輩には絶対に触らせんカードだ。有難く思うことだな」
「おい……」
「必ず渡せ。そして必ず伝えろ、返しに来いとな」

 後方で何やら城之内が喚いている気がしたが、気にせず歩みを進める。これを最後にしばらくまた日本の地を踏むことは無いだろう。夢に向かって積み上げる雑事に追われて、決闘もしばらくは脇において考えねばならない。実際、この数ヶ月がその調子で、今日久々にデッキを使ったのだ。

『じーちゃん、じーちゃん、ホラコレ!』
『おお、これは……!ついにあの少年が改心してくれたのか……!』
『あ、違うよ!くれるんじゃなくて、貸すだけだって。絶対返しに来いってさ』

 しかし海馬の心が沸き立つのはいつも、最強の相手と、最高のデッキで戦う時だけだ。だからこれは、餌に過ぎない。とてつもなく高価値な餌ではあったが。

『なんじゃ、やっぱりケチじゃのう……』
『本当、ケチだよねー』

 だから、返ってくるまでは、今日という日に生まれた男があのカードをどう扱おうかなど、知ったことではないのだ。

『でもこんなんでもプレゼントになっちゃうんだから、』

 海馬の手中にあればこそ、最強の相手がいればこそ、あのカードには意味がある。

『本当もう、どうしようもないね』

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