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相対性理論



 夏=暑い

 つーっとあごを伝う汗を緩慢な動作で拭った。つい漏れたため息までもが熱っぽい。座る安っぽくてボロなベンチもどこか熱を持っているようだ。目に映る全てのものが暑さにやられて気だるげだった。高い太陽のせいで軒下の作る影が小さい。太陽光の下にはみ出た膝先がじりじりと暑い。

 夏=暑い=だるい

 ひどく喉が渇いた。すっかりぬるくなった手の中のペットボトルは、もうほとんどジュースが残っていない。未練がましく大口を開けたまま水滴が落ちてくるのを待ってみる。遠くから近くからやかましいセミの鳴き声が絶え間無い。熱をうまく発散できない駅の不器用なコンクリートとレールが空気に揺らぎを作っていた。

 ピルルルル――……

 間抜けな警笛が無人の駅に鳴り響いている。やっと電車が来るのか。カンカンカン……と駅の切れ目の向こうに見える小さい踏み切りが下りていく。時折揺れる視界の向こうから、不細工な顔をした車両が近づいてきた。いやいや、不細工などと思うまい。あれでもこの炎天下から遊戯を救ってくれるゾンバイアだ。

 タタン、タタン、と規則正しいリズムを刻みながらゆっくりと救世主は駅に滑り込もうとしている。もっと急いでくれよ!と暑さに任せて叫びたかったが、そんな元気も無い。

 夏=暑い=だるい=眩む

 電車が遊戯とすれ違う直前に、対岸のホームに人を見た気がした。先ほどまで風景画のようなホームだったのだ。人物なんか描かれていた覚えが無い。確かめようにも今はただ目前に電車が流れていくだけだ。ゆっくり開いていくドアにイライラしながら電車に飛び乗る。ひんやりとした過剰なほどの冷気が遊戯を抱き止めた。汗に湿った額が人口の風に撫でられて、ほっと息をつきながら反対車線のホームを窓から覗き込む。

「あ、」

 隅の方で舟を漕いでいた老婆が遊戯の声にびくりと顔を上げた。だがもっと大仰な叫びを上げなかっただけマシだと思ってほしい。向かい合うホームのベンチで電車を待っているのは、涼しい顔で微笑んでいるのは、レールの向こうをじっと見つめているのは、

「ボ、ク……!?」

 その小さな驚きの声が聞こえたわけもないだろうが、ふと窓の向こうの男がこちらを振り返った。一瞬目を丸めたが、それはすぐに柔らかな笑みに変わる。小さく上げられた男の手が左右に揺れた。

 騒音と振動と電車の残像が夏を袈裟斬りする。

 通過の特急電車が過ぎ去ると、窓の向こうはただの味気ない風景画だった。それを呆然と見つめている内に、待ち合わせの終わった夏の救世主もゆっくり動き出す。何事も無かったように駅のホームは遊戯の進行方向とは逆に流れていった。

「遊戯!遅いぞ!間に合わなくなっちまうだろー!」
「バカじゃない、城之内!まだスタジオに来いって言われた時間より2時間も前よ」
「だってよー百万だぞ百万!これがのんびり構えてられっか!待ってろよオレの百万円ちゃん!」
「とことんだなお前……」

 今日は城之内の晴れ舞台だ。というのも、ゲームをオールクリアすることで百万円がもらえる視聴者参加型のTV番組で、見事出場権をゲットしてしまったのである。当然いつものメンバーで童実野町から付き添う予定だった。

「ごめんね、じーちゃんが突然……」
「ま、いいってことよ!応援来てくれただけで頼もしいぜ!さー行くぞ!」
「だから遊戯は全然遅くねえって」
「城之内ちょっとスキップはやめなさいよ!」

 遊戯は突如、すっかり夏バテしてしまった祖父にお使いに駆り出されてしまった。急いで帰ればそこまでタイトなスケジュールでもなかったし、お使いも知人に届け物をする、というだけだから渋々引き受けたわけだが。

「どうした?遊戯。なんか元気ないぜ?」
「え!?」
「バテたか?」
「確かに顔色悪いかな?大丈夫?遊戯」

 杏子に怒られるほどまで浮かれていた城之内が、ふと足を止めてこちらを覗き込んでくる。適当にごまかそうかと思ったが、こんなに困惑している今それが通用するかどうか。

「あ……いや……そのさ、」
「何だ?どうしたよ?」
「ボク……ドッペルゲンガー見た……かも、しんない」

 一瞬、その場に山より高く海より深い沈黙が生まれた。しばらくそわそわと硬直してしまった面々の顔を確かめていると、城之内が大声を上げてひっくり返ってしまった。

「でえええええええ!?」
「ちょ、ちょっと何よ城之内……」
「だって、ドッペルゲンガーって!あれだよな!?自分にそっくりの奴で……見たら死ぬっていう……」
「他人の空似じゃねえのか?」
「分かんない……でもすごく似てた、と思う」
「大丈夫か遊戯!?死ぬなよ!?」
「あ、いやでも、不思議なんだけど怖い感じはしなかったんだよな……」

 優しい目だったが、情けない様子はあまり無かった。不気味ということもなく、妙な親近感が心に湧いている。

「なんか……ちょっと、向こうの方が格好良かったかも……」
「ブッ!なんだよそれ!」
「笑わないでくれよ城之内くん!」
「向こうの方が本当の遊戯だったりしてな」
「生き別れのお兄ちゃんとかもあるわね」
「もー!本田くんも杏子も!」

 先ほどまでの固まった空気が嘘のように和やかに歩き出す。ここ最近とんでもない出来事続きで、どうにも危険を察知する能力が成長しているのだ。危ない感じはしなかったから良しとしよう。

「なんか今思うと全然違う人だった気がしてきたぜー!」
「意外とそういうのあるよな。全然違う奴ダチと思って呼んじまったりよ」
「とりあえず今はオレの百万だぜ!気合入れて応援してくれよな!」

 これから向かうテレビ局についてや、そこで芸能人に出会っちゃう可能性などの話題で遊戯の話は流れていく。振られた手が陽光を反射して白く光っていたような気がするが、きっとこれも忙しい毎日の向こうに消える蜃気楼だ。呆れるほど雲の少ない青空の下、汗で湿った肌を拭った。

「貴様、こんな辺鄙な場所に呼び出して一体何の用だ」
「うわあ、暑くないの、君……その服」
「暑くなどないわ、軟弱者め」

 その割に言葉にいつもの覇気がない気がするのはどういうことか。突っ込んでも良かったが、暑さにかなり削られたライフをわざわざ0に近づけることも無い。
 多忙な社長さんの大幅な遅刻は今更なので目を瞑ることにして、遊戯はゆっくりとベンチから立ち上がった。ずっと暑気に当たっていたせいでわずかに目眩だ。一度頭を振って本日3本目の飲みかけコーラを海馬に手渡す。

「一口あげるよ」
「要らんわこんな安物」

 顔をしかめて突き返されたので遠慮なく残りすべてを飲み干した。自動販売機の隣のゴミ箱に缶をシュート、しようとしてやめた。海馬の手前、失敗した場合を考慮した賢明な判断だ。

「海馬くんに電車の駅って似合わないねえ……」
「だから貴様が呼びつけたのだろうが!一体何を企んでいる!」
「何って、電車に乗るんだよ。切符ちゃんと買えた?」
「馬鹿にしているのか貴様は!」

 あまりに普段の言動や行動が突飛過ぎるせいでついつい心配してしまう。苦笑いしつつ気休めに手のひらで風を作った。シャツも肌も汗でじっとり湿っているが、不思議と数年前の夏の方がもっと暑く感じていたような気がした。
 あの気だるさや眩みはどこにいったのだろう。

「海馬くん、ボクね……さっきドッペルゲンガー見ちゃったよ」
「暑さに気でも狂ったか。オカルトはあの馬鹿げたパズルだけにしておくんだな」
「……そう言うと思ったよ」

 海馬の言うとおりドッペルゲンガーではないのだろう。でも、確かにあちらの夏の方がきっと暑いに違いない。それが少しだけ羨ましかった。

「あ、来たよ電車。あーやっと涼める!もう、海馬くん待ってる間に何本電車見送ったと思ってるのさ!」
「待て貴様、どこに行くつもりか聞いておらんぞ!」
「どこって、こんな暑い日は海って決まってるぜ!」

 渋る海馬の腕を無理やり引いて、冷房の効き過ぎた車内に飛び込んだ。

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