文字数: 5,311

ビジー・デイズ



 チチチ、とどこかのんびりとした鳥の声と、それに似たクスクスという優しい笑い声が耳に入った。そうっと閉じていた目を押し上げると、爽やかな朝の光が飛び込んできて思わず目を細める。むくりと起き上がって目をこすりながら、ぼうっとすること数十秒。はっと気づいてモクバは時計を確認した。

「今何時っ、てわー! もうこんな時間じゃねーか!」

 目覚し機能など無論付いていないアンティークの時計を乱暴にサイドボードに戻して、モクバは立ち上がった。それに合わせたかのように、メイドたちがスーツを手に部屋に入ってきた。

『おはようございます、モクバ様』
「うん、おはよう! もー! 何で起こしてくんなかったんだよ!」
「申し訳ありません。お声をかけさせて頂きましたが、全くお目覚めにならないものですから」

 一番古株のメイドが完璧な笑顔でのたまうと、それに続く新人たちがクスクスと笑いをこぼす。夢のふちで聞いた笑い声はこれに違いなかった。

「う……もっと本気で起こしてくれば絶対起きてたぜぃ!」
「だってあんな可愛らしい寝顔を見たら……」
「こらー! 大人の男に可愛いとか言うんじゃねー!」

 モクバがぶすくれてみせても、メイドたちの楽しそうな笑いは収まりそうにない。兄のように威厳あるふるまいを心がけているつもりなのに、どうも屋敷中の人間に軽んじられている気がしてならないモクバだった。だが考え込んでも時間がいたずらに経過するだけだ。気持ちを切り替えて着替えることにする。

(こんなんだからバカにされんのかなー……)

 兄の居る時の屋敷は、モクバだけの時が嘘のように静かで皆ピシリと居住まいを正している。本当ならそっちの方がいいのだろうが、今のこの雰囲気も嫌いになれない。

「しかし今からでも充分余裕があるお時間でしょう。何かお急ぎのお仕事でしょうか」
「いや、早く行って色々片付けときたかっただけだから」

 一番長く付き合っている古株のメイドが少し心配そうに尋ねてきたので、スーツを受け取りながら笑顔で返す。本当に重要な用事がある時は、独力で起きる自信がある。甘えてるんだよ、とメイドたちが万一にも気に病まないようにフォローを入れておいた。

「あの、モクバ様……ネクタイを……」

 先日入ったばかりのメイドが差し出したのは、青に白のラインが入ったネクタイだ。彼女が選んだのだろうか。だとしたらいいセンスをしている。モクバの大好きな兄サマの色である。小さく笑って受け取った。

「ありがとう」
「あ、はい……!」
「じゃあ、着替えてくるぜぃ! 朝食頼んだからな!」
『かしこまりました』

 一斉に頭を下げたメイドに頷いて、部屋に備え付けられているバスルームに入る。今日も忙しい一日の始まりだ。

「社長、おはようございます!」
「社長、例の件ですが……」
「社長!」

 かけられる言葉にいちいち反応を返しつつ社長室まで行こうとすると、それだけで結構な労力がかかるものだ。社長室までは相手にしなければいいのだろうが、ワンマン経営体質から抜け切っていないせいか、どうにもその場で処理してしまった方が早い場合が多いのだ。

「だから早めに来たかったんだけどよー……」

 社長室の前の秘書ブースから次々と挨拶が聞こえてくるので片手を上げて答える。ここまでくれば一段落だ。秘書たちは皆気心の知れた人間ばかりだから気を遣う必要は無い。大きく息を吐いて社長室のデスクに座る。ここから午前は、メールや報告書の確認といった地味な作業で潰れる。

「ああもしもし? あーうん、あー……そこは、一旦手を引けばいいぜぃ。手を入れずにそのまま買占めだ。うん、うん。任せた」

 その最中にも、部下からの報告や指示を仰ぐ声は絶えない。社長まで上がってくるものは基本的に最終報告ばかりだが、それも各部署が集えば相当数だ。物事の数歩先を見据え、迷わずに決断する。気を揉む事柄は緊急事態が起こりうる数十歩前の懸念でなければならない。

(こーいうの、チェスに似てるんだよなあ……。)

 手ずから兄に教わっていたことを思い出す。結局今日の今日まで一勝もできないままだ。

「社長」
「ん?」
「もう正午を30分ほど過ぎておりますが……」
「ゲ、ヤベッ、なんか軽くつまめるもん頼む! あいつら、約束破るとすぐスネんだもんなー!」
「かしこまりました」

 慌てて軽食をかき込んで、向かったのは本社ビルの地下にある技術開発部だ。他社のサポートも多いが、やはり自社開発のゲームには最も力を入れたい。

「進捗は?」
「順調ですよ」
「そうか! いやM&Wも好きなんだけどよ、カプモンみたいな、モンスター軍での戦争! みたいなのも捨てがたいんだよなー」
「ソリッドビジョンの組み込みも滞り無いです」
「最終目標の、モンスターと触れ合えたりするとこまでは漕ぎつけてーんだ! 頼むぜぃ!」
「はい! 試作のテストは……」
「もちろんやってくに決ってんだろー!」

 そして昼下がりまでは研究チームに混ざってあれやこれやと論議を交わし、新商品の開発を視察するのが常だ。そして程良いところで切り上げ、会議室に直行する。長年見慣れた渋面を突き合わせて各部署の方針を確かめていく。

「じゃあ次は――」
「失礼します、社長」

 慌てた様子の秘書が区切りを見て耳に口を寄せてきた。囁かれた内容に思わず笑みを漏らしてしまい、不思議そうにしている面々に苦笑を返す。

「すぐ終わらす、って言っといて」

 ネクタイを強引に緩めながら社長室に戻った。いつまで経ってもこの首元をきっちり締め付ける感覚には慣れがきそうにない。

「わりー、思ったより時間かかっちまった!」
「いいよいいよ、押しかけたのはボクなんだし……。突然ごめんね」
「お前が突然じゃない時なんてないじゃんかよー。今更だぜぃ」

 それもそうだね、という情けない笑みに思わずモクバも笑う。生きながら伝説として謳われているこの決闘者は、世界のあちこちに出没したり消えたりする風来坊となっていた。海馬コーポレーションの情報網を以ってしても捕まらない時さえある。

「また大きくなったねーモクバくん」
「成長期はもう終わってると思うんだけどよー。ま、伸びるもんは伸びただけ嬉しいぜぃ!」
「本当羨ましいよね……ボクなんて結局抜けなかったのに……」
「そんなの無理に決まってら! オレよりも低くなってんじゃないか?」
「『低くなる』って言い方やめてよ! モクバくんが高くなったんでしょ!」
「……はいはい」

 結局身長を抜けなかったと言うその相手に対して連勝記録を伸ばし続けているというのに、今更何を気にしているのだろうか。モクバは呆れて頬杖をついた。

「で、今度はどこ行ってたんだよ?」
「んー……どうだったかな。色々行き過ぎて忘れちゃったぜ」
「お前いっつもそれじゃんか……。せっかく来たんだから土産話しようって気にならねーのかよ……」
「ごめんごめん。あ! お土産はあるからさ」

 小さなバックパックとは別の手提げを差し出されて一瞬戸惑う。あまりにもぎゅうぎゅうに物が詰め込まれていたからだ。今までも「お土産」と称された不思議なものは何度となくもらってきたが、こんなに量があるのは初めてだ。

「何入ってんだこれ……。これ全部オレに?」
「うん。他の皆のはこっちに入れてるから。それにボクからだけじゃないしね」

 へらっとついでのように付け足された言葉に目を剥いて遊戯を凝視した。驚いたのかソファーの上で後退したところに詰め寄る。

「兄サマか! 兄サマに会ったのか!?」
「へへ……うん、まあね。モナコに居る時にちょっと。日本に帰ろうかなって言ったら『ろうかなではない、帰れ』って言ってこんなにお土産押し付けられちゃったからさ。これはモクバくんに渡せってことかって思っ、」
「オレでさえ全然会ってねーのにズリーぜぃ遊戯!」
「いやズルイって言われてももも……! ちょ、ちょっと落ち着いて!」
「落ち着けるかー!」

 腹が立ったので、詰りつつガクガクと遊戯を揺さぶっておいた。風来坊のくせして、どうしてか遊戯は世界各国を忙しく飛び回っている兄に運良く遭遇してみせるのだ。これが奇跡の一回ならまだ腹も立たないというのに。

「また偶々とか言うつもりかよ! どっちも世界中飛び回ってんのに偶々なんてありえねーぜ!?」
「だって、本当に偶然なんだから仕方ないじゃないか……」
「納得できねえ!」
「運命、ってやつかもね」
「……っバカヤロー!」

 さらりと言われた一言にアホらしくなって遊戯を解放してやる。はあ、と思わず漏れ出たため息は特大だ。

「……兄サマ元気だったか」
「うん。いつも通り」
「いつも通りじゃ分かんねえよ……」
「決闘しようか、って誘ったら『貴様ごときに割いてやる時間は無い!』ってね」
「兄サマがお前との決闘嫌がる、のか?」
「ポーズだよ。ボクが『腕が鈍って負けるのが怖いの?』って聞くのを待ってるんだと思う」
「…………お前、性格変わったよな」
「そうかな?」

 兄に向かってそのようなセリフを吐くとは、何とも命知らずだ。だが確かに、怒ったフリをしつつ生き生きとデッキを取り出している様が目に浮かぶようでもある。

「で」
「勝ったよ、何とかね。本当にいい決闘だった」

 自他共に認める兄の熱狂的なファンであるモクバは、半眼で遊戯を睨みつけた。遊戯は居心地悪そうな表情だ。勝敗にももちろん異議はあるが、憧れの兄とその最大のライバルとの決闘を目の当たりに出来なかった悔しさの方が大きい。

「兄サマ、格好良かっただろ」
「うん。相変わらず。ゾクゾクしたよ」
「……次はオレが居る時にしろよな」

 大抵は甘やかしてくれる遊戯は苦笑して、今回ばかりは首を振った。薄々そう返ってくるだろうとは思っていたのでもう腹立ちもしないが。

「ボクはいつも、海馬くんの標的でありたいんだよ。油断したらすぐ違う方向へ突進しちゃうじゃないか、海馬くんて」

 だから、いつでもボクは海馬くんに勝つよ。

 自信に満ち溢れた言葉に、モクバは仕方なく笑ってやった。

「はい?」
『モクバか。終業時間だぞ』

 受話器の向こうの言葉と同時に、目の前の時計がその時刻を指し示した。時差をきっちり考慮した兄らしい正確さだ。

「いっつもありがとう、兄サマ。でももう帰るところだから心配しないでいいよ」
『信用できんな。お前は放っておくといつまでも仕事をしているだろう』

 年中無休で無理通しだった兄サマに言われたくないなあ、とはもちろん口にしないがこっそり胸中で愚痴る。兄がやってきた仕事は全てそっくり受け継ぎたいと思っているが、この心配が嬉しいので帰る準備を始めることにする。

「兄サマ、今はどこに居るの?」
『スイスだ。金銭関係で気になることがあったからな』

 社長としてモクバがKCジャパンを任されている今、兄は会長として懸念無く世界中を飛び回っている。ついて回っていた昔が恋しい時などしょっちゅうだが、全ての根幹の本社を任されるほど信用してくれているのは嬉しいし、やりがいもある。

「今日、遊戯の奴が来たよ」
『……そうか』
「お土産、ありがとね」
『オレはあの男に要らんものを押し付けてやっただけだ。その後どうなろうと知ったことではない』
「うん。でも嬉しかったよ」

 他ならぬ遊戯の手を渡ってきたことが。癪だから遊戯本人には言わないでおいたが。決闘の戦績の話を振ると、不服そうに鼻を鳴らすのが分かった。

『また勝ち逃げだ。腹立たしい』
「格好良かったって言ってたぜぃ」
『当然だ』

 今電話口の向こうでニッと口角を引き上げて笑ったに違いない。臨戦体勢に臨む時に兄が浮かべる、モクバの好きな笑みだ。

『あの男が誰と闘い、どのような戦果を残そうがオレの知ったことではない。最後にはこのオレと決闘することになるのだからな! ワハハハハ……!』

 つまり自分より強い者は居ないということだ。やはりこの兄の言葉も自信に満ち溢れている。モクバは思わず小さく笑った。

『モクバ?』
「あ、ごめん。兄サマの声聞いたら、思い出し笑いしちまったぜぃ」
『……?』

 結局この二人は、いつまで経っても『運命』によって『偶然』出会って、ずっとこうして互いの存在を惹きつけようと闘い続けるのだろう。それはやっぱり外野からすると、呆れたような寂しい気持ちになるわけで。

「次は絶対、オレが居る時にアイツと決闘してよ! 兄サマ!」

 答えは分かっているけれど、それが聞きたくてわざとせがんでみせた。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。