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オーバー・アンド・ドーン



「すみません、せっかく訪ねてきてくださったのに」
「いや、平気さ。こちらこそ突然すまなかった。特別な用事があったわけでもないのに」

 小さなテーブルの上で書類の束と格闘していた彼は、キースの言葉を聞いてふと手を止めた。不思議そうな目をキースに向ける。そういう表情をしていると少し幼く見えて、キースはいつもつい笑ってしまう。

「突然、君に会いたくなったから」

 君も付き合わせて悪かった、とジョンの首のあたりを撫でる。珍しく大人しいジョンはキース手のひらに擦り寄ってくるだけだ。君のマンションはペットも住めるからいいね、呟きに返事はない。答えを必要とするような言葉でないのは確かだが、不思議に思って目を上げた。

 彼はまだ不思議そうな表情を維持している。名を呼ぶと、行儀悪く床に腰を下ろしているキースの顔を覗き込むように彼は身を屈めた。

「僕に?」
「ああ、君に」
「……誰が?」
「からかっているのかい?私がバーナビー君にだよ」

 あまりに真剣な表情からうまく意図が汲み取れず、キースは自分の表情の行方を決めかねていた。今見えている、好きだと思っている顔が本当に彼の浮かべている表情なのか不安になる。反射で伸びた手は彼に届く前に掴まれ、阻止されてしまった。

「……すぐ終わらせますから、静かにしていてくださいよ」
「ああ!じゃあいい子で待っていよう、ジョン!」

 彼の表情が変わったことに、それに気付けたことにほっと息を吐く。これは呆れの混じった諦めの顔だ。こう表現するとあまり良い表情には思えないかもしれないが、彼がこういう表情をする時は、大抵キースにとって嬉しい状況や言葉が舞い込む。そわそわと彼の挙動を見守った。時々しかめられた表情がこちらに向けられるのがおかしい。

「随分たくさんあるようだが……」
「虎徹さんですよ。あの人が紙じゃないと落ち着かないなんて言うから」
「なるほど……そしてなるほど。それは私にも分かる気がするよ」
「けどあの人、こうしてボリュームが増えると読む気がしないだなんて言い出すんですよ?だから僕がどうしても分かっていてほしいところに印をつけるんです。まあ……あの人は、こういうものを読まなくても直感でこなしてしまうことが多々……」

 彼の表情が最も変化に富むのは彼のパートナーについて話している時だ。だが彼はキースがそれを見ていることに気づくと、すぐに言葉を止めてしまう。いつも彼に気づかれないうまい方法を考えるが、結局はその表情を見ていたいのだから永遠に思いつかないかもしれない。彼はひとつ、咳払いをした。

「彼は僕の相棒ですよ?彼が理解していないと僕の完璧な仕事にキズがついてしまいますからね」
「そうかもしれないね」

 今度はしかめ面で眼鏡を押し上げている。まるでデビューしたての頃に戻ったかのようなその態度も愉快だ。笑みを隠さないキースに彼は不服そうに書類を扱っている。

「あ……」

 少しだけ乱雑に扱われた書類が反抗するかのように、彼の手のひらの中で翻った。室内のほのかな明かりの中で赤い線が一本、指の先に走る。

「どうかしました?」

 注意深く観察しているはずなのに彼の表情は少しも変わらない。わずかに眉の角度が変わって、不思議そうな顔でキースを見ているだけだ。咄嗟に立ち上がった。彼の手を掴む。

「今、紙で切ったようだ。痛いだろう?」

 彼は何も答えない。なんとも言いがたい表情でキースを見つめているだけだ。痛いだろう、言い聞かせるようにもう一度呟いて、赤い線の走った指先に口をつけた。それが応急手当てにもならない処置だとは当然分かっている。それでも、多分キースは戸惑うように彼の眉根が寄ることを確かめたいのだ。

「ほんとに大丈夫かぁ?」
「虎徹さんって案外心配性ですよね。平気だって言ってるじゃないですか」

 トレーニングセンターに入って来たのはタイガー&バーナビーのコンビだ。センターに入る前からひとつの話題を続けているようで、ベンチに座っていたロックバイソンが二人の間に割り入っている。恐らくその話題の内容にある程度の見当がついているからだろう。ファイヤーエンブレムもロープジャンピングを中断して後に続いている。スカイハイはランニングマシンの上からそれを見守っていた。

「どうしたんだ?」
「いや、コイツさあ……さっきの事件でバーンって落っこちたろ?」
「アンタが言うと大したことないみたいに聞こえるわねえ……」
「っだ!分かるだろ見てただろ!」

 今日の事件の犯人はNEXTで、並外れた跳躍力を持っていた。犯人は少女の人質を取って逃走、比較的機動性の高いスカイハイ、そしてバーナビーが犯人に迫っていた。しかしビルの屋上で追い詰められた犯人は少女を空中に放り出してしまった。スカイハイはそれを救助したため、その後バーナビーが犯人との揉み合いの末、犯人の身を守りながら落下したと後から知った。

「でも確かにあの高さじゃなあ。見てる俺まで肝が冷えたぜ」
「私が怪我してないか確かめてあげましょうか?ス・ミ・ズ・ミまで!」
「いえ。結構です」

 少女を地上に下ろした背中に突き刺さったのは、人々が緊張に飲み込んだ吐息の音だ。間髪を入れずに上がったいくつかの悲鳴に慌てて空中に舞い上がると、コンクリートの地面に描かれた蜘蛛の巣状の亀裂と、土ぼこりの中心に赤いライトがちらついた。

 顔が見たいと思った。彼の表情を。他の誰とも違う彼の顔を。

「……だが、一応念のために調べておいた方がいい。こういう発見は早い方がいいからね」

 ランニングマシンから降りて、ベンチに置いたタオルを手に取る。汗を拭き取りつつ、仲間たちに歩み寄る。気になっていたのだろう、折紙サイクロンも武器のトレーニングを中断して隣に立っていた。

 心配している仲間は彼に必要だ。多ければ多い方がいい。そうすれば彼は逃れられないからね。

「それに、さっき君、随分痛そうにしていただろう。ガマンはよくない!実によくないぞ!」
「僕はそんなこと……」

 バーナビーの表情が変わる。不服そうに眉根を寄せ、余計なことを言うなと目が露骨に語っている。『スカイハイ』は、それを理解して苦笑すら浮かべている。

「ほーら、だから大丈夫かって聞いたんだってぇ、よしよし俺とお医者さんとこ行こうな、バニーちゃん」
「何ふざけてるんですか、別に僕は……」
「お注射怖いのかぁ?大丈夫、チクッとするだけだから」
「……もうやめてください。貴方が子供みたいですよ」

 チャンスとばかりにワイルドタイガーがバーナビーを丸め込んでその背中を押している。バーナビーもポーズでは抵抗しているものの、もう諦めてしまっているようだった。さすがは相棒と言ったところだ。

「スカイハイ」

 ドアを出る寸前に、ワイルドタイガーはスカイハイを振り返って片手を挙げた。その表情を、目の位置を予測しながら笑みを返す。空気が擦れるような音を立てて二人の背中はドアに掻き消された。小さく息を吐く。

「バーナビーさん……大丈夫でしょうか……」
「アポロンメディアのメカニックは優秀だと有名だからね。バーナビー君の動きに不自然なところは無かったようだし、きっと大丈夫さ」

 スカイハイはトレーニングに戻るべく踵を返したが、折紙サイクロンはまだ心配げな声でドアを見つめてる。安心させるように微笑み、頷く。それは紛れもない真実だ。それは。

「スカイハイさんはよく見てますね。僕……バーナビーさんが痛そうにしているの、全然気がつきませんでした……」

 少し心が痛んだ。折紙サイクロンが気づけないのは当然だ。バーナビーはその片鱗もワイルドタイガーにすら見せなかったに違いないのだから。笑みが弱くなると心配させるだろうか。顔を正面に戻した。

「折紙君」
「はい?」
「私は……性格が悪いのかもしれない」

 しばらく間があった。戸惑っているのだろう。それはそうだ、スカイハイの中にしかない真実をスカイハイ以外の人間が知る術は無い。突然変なことを言ったかな、苦笑すると、折紙サイクロンは慌てたように声を上げた。

「スカイハイさんの性格が悪いとしたら、きっと世界中のひとが極悪人になっちゃいますよ」
「いや、私の性格が悪くても世の中には素晴らしい人々が溢れているよ、折紙君!」
「あの……そうじゃなくて……」
「私もそんな人々に近づけるよう、悪いところは改善してより励まなければならない!うん、その通りだ!折紙君!」
「その……そうでもないんですが……」

 首を傾けて折紙サイクロンの真意が聞けるのを待っていたのだが、顔のあたりを見つめていると、そうだったかもしれないです、という返事で話が終わった。考えている内に納得が定着するということはスカイハイにもよくある。ではトレーニングに励もう!と折紙サイクロンの肩を軽く叩いた。

 スカイハイの世界はいつも等しい、そして美しい。
 その均衡が失われる可能性なんて、考えたこともなかった。

「バーナビー……君?」

 キースが彼の『それ』に気づけたのは、ほんの偶然だった。廃ビル崩落の救助活動に当たった際、瓦礫の下から無事怪我人を保護できて気が緩んでいた。鋭い注意喚起の声にも反応できず、飛び出してきた彼は怪我人を庇うスカイハイの代わりに瓦礫の衝撃を引き受けていた。

「大丈夫です?」

 スカイハイが呆然と名を呼んだ意味を、彼は理解していないようだった。いつもと少しも代わらぬ調子で安否を問う。

「気を失っているだけのようだが……」
「僕は貴方も含めてお聞きしてるんですよ」

 彼の声には呆れた笑みさえ混じっている気がする。それがキースには恐ろしくさえ感じられた。今思えば少し動揺もしていたのだと思う。バーナビーのフェイスマスクのパーツは著しく損傷し、額の辺りから流血しているようだ。かなり大きな瓦礫だった。本来なら、衝撃と痛みで気を失っていてもおかしくはない。

「君、怪我は……」
「怪我?」

 心底不思議そうな声には痛みや苦しみの色を見つけることはできない。どんな顔をしているのだろうと思った。その時に初めて、キースはもどかしいと思ったのだ。

「これが君の目……それから眉、鼻、口……」

 キースは今まで自分が異常であると思ったことはない。不幸だとも考えたことは無いし、今もあまりそうは思わない。『スカイハイにとってはごく当然のことだ』。けれど今伸ばす手の先には目があり、眉があり、鼻があり口があり、それらが端正という文字に沿って配置されている。こんなことは考えたことが無かったのでよく分からないけれど、きっとこれは良い状態ではないのだとは思う。

 以前に一度だけ、抱えている疑念を彼の相棒に零したことがある。彼の相棒も彼の『それ』に気が付いていて、あまり良く思っていないようだった。そうしなきゃ立ってらんなかったって思うと何も言えないよな、彼はただそう言った。

「どうしたんですか?今日は。何かあったんですか」

 彼が絆創膏の巻かれたざらりとした指先をキースの手に重ねた。子供の駄々に付き合わされる大人のような顔で微笑む。それが鮮明に目に映る。何故だか急に胸が苦しくなってキースも笑った。

「いいや……本当に、君の顔が見たかっただけなんだ」

(2012-11-15)

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