全速力に急ブレーキをかけ、駄菓子屋に飛び込もうとしたところ、出てきた人にぶつかりそうになった。慌てて数歩下がってごめんを声にしようとする。が、「ご」の声のままで固まってしまった。別に都合の悪いことは何も無いのだが、ここで会うとは思わなかった。驚きに少しだけ小さくなっている黒い目をしっかり確かめてから、「ご」の口を「に」に変える。
「豪炎寺!」
「円堂」
「あっ、『ご』に戻っちゃった」
「……何のことだ?」
いやなんでも、とごまかすように笑った。言うほどのことでもないし、言ったところでくだらなさに笑われてしまいそうだ。しばらくきょとんとしていた豪炎寺も、ごまかされることにしてくれたのか笑みを浮かべている。
「今日も鉄塔広場に居たのか?」
「おう!」
円堂は雷門ジャージを着込んでいるが、目の前の豪炎寺は私服だ。部活はとっくに終わっている。円堂はいつものようにその足で鉄塔広場に向かい、タイヤ相手に練習していたが、ふと駄菓子屋に寄りたくなってここに居るというわけだ。
汗を拭うついでに、ふと、夕焼けが音もなく燃えているのを見た。すると、どうしてか足の裏あたりからむずむずしたものが駆け上がってきて、荷物を手に走り出していた。今までそんなこと無かったのに、自分でも不思議だ。
「もう帰るのか。珍しいな」
「お前こそ!よく来てたのか?」
駄菓子屋を豪炎寺や鬼道に教えたのは円堂だ。二人とも稲妻町にこういう店があるということより、駄菓子屋の存在自体に驚いている様子だった。あの時は色々あったが、知らないうちに常連になっていたんだろうか。あれからも何度かチームのメンバーと一緒に豪炎寺とこの駄菓子屋に寄る機会はあったが、全然知らなかった。豪炎寺の意外な一面が面白いはずなのに、何故かもやもやしたものが胸の中を過ぎていく。最近の自分はどこかおかしいのかもしれない、円堂は時々少しだけ不安になる。
「円堂?」
「んっ?」
「いや、変な顔してたからな」
「えっ?」
思わず両頬をバチンと挟み込む円堂を笑いながら、少し寄りたくなったから久々に来てみたと豪炎寺が続ける。それなら円堂と同じだ。オレもオレもと豪炎寺の隣に並んで店を覗き込む。
「おばちゃん!こんちわ!」
「いらっしゃい。サッカー少年二人目だねえ」
駄菓子屋の店主ににっこり微笑まれた豪炎寺はどこか気まずげだ。それがおかしい。じっとその表情を見ていたら、怒ったように睨まれる。いたずらに成功したみたいな気分だ。もやもやなんてたちまち忘れる。
「えーっと……何にしようかな……豪炎寺は何にした?」
「オレは……」
「あっ円堂ちゃんとすごいお兄ちゃん!」
ぱたぱた……小さな足音が聞こえてきて豪炎寺の声を遮った。声のする方を振り返る。まこだ。クラブの帰りらしく、赤いユニフォームを着ている。
「すごいお兄ちゃんだってさ、豪炎寺」
「……笑うな」
「だってすごいお兄ちゃんだもん。すっごいキックでバーンって!」
そう言えばまこは一度、豪炎寺に危ないところを救われているのだ。確かにあのキックはすごかった。毎日練習でそのシュートを受け止めているのに、思い出すだけで鳥肌が出そうだ。もし豪炎寺が雷門に転入して来なければ、円堂も「すごい奴」だなんて呼んでいたのだろうか。
それはやだな。
「円堂ちゃん、大会の練習大変だと思うけど、またいっしょに練習してね!」
「おう!もちろん!まこは今帰るとこなのか?」
「うん。帰る途中でお母さんがお買い物したいって言うから」
道の向こうから女の人がまこを呼ぶ声が聞こえる。まこはまだ話し足りないようで、もうちょっと、なんて返している。最近練習に顔を出さない円堂にチームのことが報告したいんだろう。円堂が何か言う前に、豪炎寺がまこの頭にぽんと手を置いた。
「呼んでるだろ。円堂ならいつでもどこでもサッカーしてるから」
なあ、豪炎寺がこちらを向いたので慌てて頷く。またな、豪炎寺の目も声も全然厳しくない。むしろ優しい。恩人の優しい声にはごねる気も起きないんだろう、まこは素直に頷いて夕方に飛び出して行った。振られる手を振り返す。
「あ」
「……どした?」
「さっきの子にやれば良かったな」
何を、と目だけで問う円堂に、豪炎寺は白い小さなビニール袋を持ち上げて見せた。中から出てきたのは駄菓子屋の中では高級品の部類だ。
「シャボン玉?」
段々空が暗くなっていこうとしている。毎日変わらない時間の流れも、夏に向けて少しずつ動いていくようだ。鉄塔広場から見れば西で昼が終わって東から夜が始まるのがよく分かる。夜の風が吹いた。まだまだ涼しい。
誰かにやろうって思うくらいならここで使ってしまおう、そう提案したのは円堂だ。豪炎寺は珍しく迷ったように何も返さなかったが、鉄塔広場に戻る急ぎ足の円堂には一応付いて来てくれた。
「間に合ったー!」
「……何に」
「夕方にだよ!やっぱりシャボン玉って明るい方がきれいだろ?」
ほぼランニングでわざわざここまで戻ってきた理由を、豪炎寺はここで初めて知ったらしい。呆れるように笑うので拗ねかけると、袋ごとシャボン玉を円堂に押し付けてくる。
「やる」
「違う、一緒にやるんだよ!」
袋と包装を風で飛ばないよう足で押さえて、ボトルと緑色のストローのひとつを豪炎寺に返す。残りのひとつは自分で開けて、夕方と夜の間に思いっきり吹きかけた。夕焼けを写した小さなシャボン玉がいくつもつやつや光っている。ぱちん、ぱちん、いくつもすぐに弾けるが、その後を追うように隣からも新しいシャボン玉が流れてきた。
「……懐かしいな」
「そうだな!」
「きれいだ」
「うん、きれいだ」
シャボン玉が風に乗っていくつも流れる。ゆらゆら空を目指しては弾けている。小さい玉を量産する円堂と違って、豪炎寺は器用に大きな玉をゆっくりと空に浮かべた。真似しようとしてそれを眺めているうち、円堂は豪炎寺の横顔ばかり見つめている自分に気が付いた。豪炎寺と目が合う。
「おかしいだろ」
「え?」
「急にこんなの買うなんて」
「いや……おかしい、とかは思わないけど……」
珍しいなとは思った。豪炎寺が駄菓子屋に居たことも、そこでシャボン玉を買ったことも、まこにはあんなに優しげな目や声だってことも、全部円堂の知らなかったことだ。円堂が言葉に詰まっても、豪炎寺は気にした風も無い。またひとつ、大きなシャボン玉がふわりと風に乗った。
「……夕香が好きなんだ」
「えっ!?じゃあオレ、ここで使っちゃダメだったんじゃないか!?病院、今からでも……」
「いや。病室を汚すわけにはいかないし、何より……見えないよな。今は」
汚さないように窓から吹くんじゃ余計にな、豪炎寺は困ったように呟く。だったらどうして買ったんだなんて、円堂にはとても聞けなかった。やっぱりあの子にやればよかった。豪炎寺の目はやっぱり少し優しい。そしてシャボン玉が弾ける時の気持ちを思い出すような声だ。
「……そっか」
「うん」
また少し、夜が近くなった。シャボン玉の中にも夜がゆらゆら浮かぶ。口の中に液の苦味が広がって、無駄だとは分かっていたが口元を拭った。
「でもオレ、昔、シャボン玉嫌いだったなあ」
「そうなのか」
「うん。父さんに大きいの作ってもらってさ、追いかけるんだけど、蹴る前に弾けるんだもん」
「……円堂らしいな」
豪炎寺が肩を揺らして笑う。目が合ったので、円堂にもそれがうつった。大勢で盛り上がる時とは違うけれど、喉のあたりで転がる気持ちをくすくす笑いにする。
「蹴れるシャボン玉って無いのかなあ」
「それはもうボールだろ」
「そーだけど!」
笑いを引きずりながら、豪炎寺がまた丁寧に野球ボールくらいのシャボン玉を作った。それは二人の目線のあたりを漂い、やがて風に乗って空に溶ける。
「お前、あいつに似てるな」
「……そりゃあ、オレは蹴れないけど」
「顔はまんまるだ」
「……怒っていいか?」
「けど、そこじゃない」
愉快そうに笑ってはいるけれど、まるきりからかっているわけじゃないんだと思う。豪炎寺は普段あまり自分の気持ちを口に出す方じゃないが、円堂にはむしろそちらの方が分かりやすいと思える時がある。言葉にしてくれたのに、どうして難しくなるんだろう。それが悔しい。
「どこが?」
「どこかな」
悔し紛れに思いっきりストローを吹いた。早くしないといよいよ夜になってしまう。それを追いかけて豪炎寺も勢い良く小さなシャボン玉を星のように空に浮かべた。気が済むまでそれを繰り返す。小さな円形の夕方が星になって夜に浮かぶ。一人で練習していて見た夕空とは全く違う空みたいだ。多分、この中のひとつになって弾けて空に消えていったんだろう。
「……やっぱりきれいだな」
「ああ、きれいだ」
どっちかって言うと、円堂は豪炎寺の方が似ていると思う。
でも口に出せばそれこそ弾けて消えそうなので黙っている。
「……蹴れるシャボン玉、あったらいいのにな」
「やっぱりそう思うだろ!」
薄暗い空では電灯が最も強い光になる。使い切ったボトルやゴミを袋にまとめて夜に歩き出す。空にはもうひとつのシャボン玉も残っていないが、今、円堂の隣には豪炎寺が歩いている。