正直者は平日
なんだか最近、突然、嘘が下手になった気がする。嘘が特別得意というわけでもなかったが、嘘にも色々種類があって、その中のひとつを選ぶことが必要な時もある。それは多分ほとんど誰にでもありうることで、豪炎寺もその人並みのラインを嘘つきだったり正直者だったりしてきたのだ。
右のてのひらからやっと目を上げた。窓から射していた夕陽はもう随分傾いていて、窓の半分くらいは薄暗い紫色をしている。夜が近い。夏も近いが、まだ時間が遅くなるにつれて肌寒くなる季節だ。眠る夕香の布団を軽く直してやる。微動だにせず行儀良く眠り続ける妹だから、布団を直す必要なんて本当は無いのだろうが。
「寒くないか?夕香」
頭を撫でてやろうと右手を出し、少し考えてやはり左手を出した。前髪のあたりを整えるように丁寧に撫でる。今日は久々の完全な休みで、円堂とサッカーを観に行った。その足で病院に向かい、今日こそは飛び起きて遅いと怒りはしないかと確かめに来たのだ。変わらず静かに眠る夕香に最早落胆はせず、豪炎寺は穏やかに今日の出来事を語って聞かせた。
楽しかった。
そんな小さなことが夕香を前にすると悪いことのように感じる。夕香は今、自分から好きな物へ近寄ることすらできない。そしてその事故の原因は――。だが暗い顔をした兄を夕香が喜ばないだろうことも、雷門夏未が言ったとおりきっと事実だ。自分をごまかすことは夕香を騙すことになるだろう。だからできるだけ克明に、見ていない夕香でも分かるように、試合の経過や円堂の様子を語って聞かせた。
「それで帰りの電車で……」
それから先は続けられず、しばらく自分の右手を見つめるだけになってしまった。豪炎寺の左手を穏やかな寝顔で受け止める夕香がもし起きていたら、続きをねだっていただろう。それからどうしたの、もしそう聞かれたら、今の豪炎寺ならきっと口を開いてしまう。
「……よく、手、つないだよな」
一緒にどこかへ行く時は、基本的にいつも手を繋いでいた。それは夕香を守るためでもあったし、すぐに夕香の存在が伝わる最適の方法でもあった。じゃああの時の円堂は?どういうつもりで豪炎寺の手を欲しがったんだ。
て、つないでいいか。
円堂の表情は真剣だった。なのに、そこから円堂の気持ちを察することは難題だ。まっすぐ豪炎寺を見つめる目は半分夕陽の色で、右側に向かって影がおりていた。結局人の波に押されてすぐに離れてしまったけど、ああして何も聞かないでいて良かったのだろうか。だが何か聞いていたとしたら、自分は何を口走ってしまっていただろう。
円堂を前にすると、隠しておきたいことも、忘れてしまいことも、勝手に喉元まで上がってきて舌の上を飛び出していってしまう。どこもかしこも余さず照らす太陽のようなあの性格のせいもあるだろうが、何より豪炎寺自身が円堂に薄っぺらいごまかしを使うことを嫌っている。それはきちんと円堂という人間の正面に居たいからなんだと思う。
「修也、居るのか」
ハッとして顔を上げた。ドアが開く音に中腰になる。そんな豪炎寺の様子を気に留めた風も無く、白衣の父親はまっすぐに部屋に入った。夕香を一目だけ確認し、紺色の窓にカーテンをかけた。白い蛍光灯の光が、この部屋の白い何もかもに反射して夕香の夜は始まる。
「もう面会時間はとっくに終わっているぞ」
「すみません」
「後は任せて帰れ」
その言葉は今日も帰りが遅いことを示していた。もしかすると明日になるのかもしれない。しかしそれが分かったところで豪炎寺には何もできることがなかった。最後に夕香をもう一撫でして、短く別れの挨拶をする。その隣を過ぎて行った父親が軽く肩を叩いていった。それが多分この父親の優しさであって、しっかりしろという戒めでもあるんだろう。夕香がこんな状況で、豪炎寺が何か問題を引き起こすことは絶対にできない。
帰ったところで誰も居ない家への道をゆっくりと辿る。しんと静かで、ついさっきまで円堂とスタジアムで盛り上がっていたなんて嘘みたいだ。歩みを止めないまま、ポケットから右手だけを引っ張り出した。握ったり、開いたり、裏返したりしてみる。何の変哲も無い自分のてのひらだ。でも確かに円堂の手の感触が残っていた。少し湿った、熱いてのひら。
「……円堂のやることだからな」
夜道にぼそりと呟く。なんだかやっぱり少し笑えた。円堂はとにかくサッカー一直線で、裏表なんて無い。その円堂の全部が豪炎寺に電撃みたいに力を注ぎ込むのだ。だから考えたって仕方ないし、変なごまかしなんて意味が無い。
「あれー!?豪炎寺ー!」
はっと顔を上げると、暗い道の向こうから大きく手が振られている。まさに今、思い描いていた顔だ。いつものジャージ姿でサッカーボールを片手に抱えている。それを見ただけで円堂が何をしていたか、誰でも分かってしまうんだから面白い。
「鉄塔広場か?」
「ああ!すっげー試合見ちゃったから、ちょっとでも体動かしたかったんだ!豪炎寺は?」
「病院の帰りだ」
「そっか!」
やっぱり円堂はどこまでもサッカー馬鹿だ。同じようなサッカー馬鹿の豪炎寺からすると、サッカーに対するそういう正直な態度が好ましくてならない。だから円堂の側にいるだけで楽しいんだろうと思う。
「今日、楽しかったぞ。ありがとう」
「うん!」
満面の笑みを見ていると、今まで色々と考えていたことが馬鹿らしく思えてくる。ただ、何故だか右手の温もりが消えてしまう気がして、ポケットにそっとそれをしまい込んだ。さりげない動作のつもりだったが、ふと円堂と目が合う。
「あー!」
突然の大声にびくりと身を震わせる。円堂はその豪炎寺を見て初めて、自分が声を出したことに気づいたとでも言うようだ。驚いた豪炎寺を映している目玉が同じような表情で丸められている。わけが分からない。
「……円堂?」
「あー、えー、そのさ、違う違う、驚かしてごめん、急に思いついたから。せっかくだし……うち寄ってけよ!って、うん!メシまだだろ?もちろん、良ければなんだけど」
「いや……」
「遠慮すんなよ!」
怒濤の円堂の勢いに押されて、つい頷いてしまう。突然決まったことで迷惑をかけやしないかと不安だったが、それを見越したらしく「母ちゃん慣れてるから」なんて念を押された。確かに以前、部員全員で押し掛けたこともある。それでも迷惑をかけることに変わりはなかったが、歩き出した円堂にかける断りの言葉は最早浮かばなかった。
「豪炎寺?行くだろ?」
「ああ、悪いな」
「気にすんなって!」
急かす円堂の後を追う。さっきまでとまるで変わらない、頼りない街灯しか明かりの無い夜道だというのに、円堂が前を歩いているだけで全く違う道みたいだ。
円堂は大げさに左腕を振って歩いている。右腕にはボールだ。ポケットの中の手をもう一度ぎゅっと握りしめ、外に出して開いた。円堂に追いついてその左手をタイミングよくキャッチする。途端に勢い良く豪炎寺を振り向く円堂の顔に、少し笑ってしまった。
「お前もさっきこうしただろ」
それは、いや、と意味のない言葉を何度か繰り返していた円堂だが、やがては黙ってしまった。もしかしたら何か辛いことでもあったかと少し心配していたが、やはり何も考えていなかったらしい。
珍しく黙り通しの円堂とそのままで夜道を歩いた。円堂のてのひらは、少し湿っていて温かい。夕香のてのひらもこんな風に温かかった。だが、こわごわ握り返されたてのひらは大きい。
円堂の家はいつも明るく、にぎやかだ。円堂の性格をそのまま家族にしたみたいな家である。いやそれは逆で、こういう家だから円堂が居るのだろう。円堂の母親は突然の来客にも嫌な顔ひとつしなかった。ちゃんと手を洗ってね、なんて円堂と同じように背を押されると、くすぐったいような恥ずかしいような変な感じがする。円堂がいつも何とは無しに話すその母親の料理は本当に美味しかった。今日は休みのフクの腕といい勝負だ。
「じゃあ、もう帰るよ。ごちそうさまです」
「あっ……おう……」
デザートまで出してもらって、しばらくリビングでだらだらと話し込んでいた。けれどもう遅い時間だ。あまりの長居はさすがに気が引けた。流しで皿を洗っている円堂の母親に軽く頭を下げると笑顔が返ってきた。
「美味しかった。ありがとう、円堂」
「いや、作ったの母ちゃんだし……」
「そうだけどな」
円堂の素直な返事が面白くて笑う。玄関へ出て、一度その明るさを見渡した。それから靴を履こうとする。が、そこで服の裾を引っ張られた。わずかに後ろに傾く。
「もう遅くないか?」
「そうだな、遅くまで悪かった」
「それは、いいんだよ。そうじゃなくて……もう遅いし、泊まってかないか?家の人怒るか?」
円堂の声はいつもより小さい。何かの言い訳をしているみたいだ。珍しいのでよくその顔を見たいと思ったが今の豪炎寺にはできなかった。心の中を読まれてしまったみたいな気がしたのだ。この家と、円堂と離れがたいということを。いや、読まれてしまって気を遣わせたのかもしれない。毎日毎日、どんどん嘘が下手になっていく豪炎寺だ。
「いいのか?」
「豪炎寺は?」
「オレは……」
本当はもっと早くここを出て、家に帰っていなければならないはずだった。でも今更変なごまかしや嘘をついたって意味なんてない。
最初はベッドを使っていいと言われたが、さすがにそこまで厚かましいことはできない。円堂のベッドの隣に布団を敷いてもらった。しかし暗い部屋の中、慣れない敷布団でベッドの壁を眺めているのは、なんだか落ち着かなかった。
「円堂」
「んっ?」
「つめてくれ」
「ああ……えっ!?」
少し悪いとは思ったが、最初の提案のように持ち主をベッドを追い出すことにはならないから少しはマシだろう。布団を捲り上げてベッドに腰掛ける。しかし円堂は大げさなほどに驚いて布団を奪い返していってしまった。反射的な行動だったのか、ごめんなどと謝っている。ひょっとして何かおかしいことを言ったのだろうか。しかしそこまでされると渋々布団に戻る気もなくなってしまった。
「……端で寝るから」
「えっ?あ……おいって、ちょっ……」
二人で寝るには少し狭いベッドの、その三分の一くらいになるように気をつけて丸まってみる。横になって円堂と目線を合わせると、薄暗い中にまん丸の目が浮いていた。何か言いたげな表情が忙しなく動いていると思ったら、円堂ががばりと身を起こす。
「豪炎寺!」
呼ばれて、目だけで返事をする。だがそれでは足りなかったらしく、円堂は豪炎寺の肩を掴んで身を起こさせた。大人しくそれに従って半身を起こす。
「豪炎寺、ちょっと座ってくれ!ごめん!」
円堂がベッドの上に正座をした。その勢いになんとなく押され、豪炎寺も姿勢を正して正座する。ベッドの上で正座で向かい合う二人というのは、端から見れば少しおかしい光景だろう。
「ごめん、あのな、オレ、す……」
豪炎寺の肩を掴んだままの円堂の手の力が強くなる。「す」という音を繰り返しているが、そこから先になかなか進まないので、モヤモヤしたものが腹の底に溜まっていく。顔をしかめた。
「円堂」
「す……っ!!」
「す、何だ」
何故だか円堂は追い詰められた顔だ。急かした豪炎寺が悪いような気分になってくる。顔を見合わせて困っていると、円堂が思いっきり息を吸い込んだ。
「す、―――っげえ寝相悪いから!だからごめん!なっ、お前こっちで寝ていいからさ!」
「いや、さっきも言ったが、オレは別にベッドで寝たかったわけじゃない」
お前の近くに居たかっただけだから。
布団を引きずって円堂のベッドに近づける。その程度のこと豪炎寺は全く気にしないが、円堂にとっては言いにくいことだったのだろう。観念して、ひとまず距離が近づいたことに満足することにする。右手を抱えるようにして横になった。ベッドの上で未だ正座している円堂を見上げる。
「おやすみ」
「……っおやすみ……!」
(2010-12-11)