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遠雷 (円+豪)



 雨、すごいな。

 豪炎寺から返事が無いのは、雷鳴にかき消されてしまったからだろうか。ひょっとすると、口にするのを忘れてしまっただけかもしれない。どうしてこうなってしまったのか、夕立に孤立した部室に豪炎寺と二人きりだ。いつもは最後の最後まで何人もだらだら部室に残って先生に怒られまでするというのに。雨粒が大量に窓の格子の向こうを横切っている。

「もう少し、早く出てればな」
「ああ……。でも、途中で降られちゃってたかもしれないしな!」
「それもそうか」

 そのうち止むさ。

 誰かが忘れていったサッカー雑誌を退屈そうにめくっている豪炎寺が静かに言った。窓の向こうの雲は厚く空は暗い。そのうちと言っても、数分で止むものでもないだろう。練習中はむしろ快晴で、青空が目に痛いほどだったから当然傘なんて持っていない。だからこその夕立、にわか雨だろうが、部室で何もせずただぼうっとしているなんて円堂には耐えられないことだ。

 おまけに。

 机を挟んで正面に座る豪炎寺の、伏せられた目をじっと見た。雑誌の字を追って、目玉が小さく動いているのが分かる。こうしていると、豪炎寺は本当に静かだ。ピッチに立って、誰もが目を瞠るようなシュートを繰り出す人間には見えない。しかも同じチームのユニフォームを着込んで、10番をこちらに向けて立っているなんて。豪炎寺がぺらりと薄い紙をめくる。たったそれだけの動きで心臓が変な音を立てている自分が円堂は不安になる。

「……円堂?」

 豪炎寺がうつむいたまま目だけでちらりとこちらを見上げてきた。いよいよ驚いて返事もしどろもどろだ。豪炎寺はその不思議そうな顔を今度こそ上げた。雑誌を閉じて差し出してくる。

「読みたいのか?」
「えっ?」
「こっち見てたろ」

 手汗がじわりと滲んでいるのに気づいて、何も悪くないのに焦ってどこか砂っぽいズボンに擦り付けた。激しい夕立がざあざあ外の世界を薄靄にしてしまっている。光った、と思ったら大きい音。また雷だ。

「近いな」
「あ……うん」

 理科の授業で光は音より早くて、だから光ってからの秒数で雷がどのぐらい遠くに落ちたか分かる――とかなんとか、習った気がする。豪炎寺の言葉に何かちゃんとした答えを返そうと思っているのに、頭に浮かぶのはそんなどうでもいいことばかりだ。またぴかっと光った、豪炎寺と目が合う。豪炎寺の目は黒目がちで切れ長だ。今まじまじとそれを見る。鼻はそんなに高くなくて、どおん、今度は遠くで鈍く雷鳴が響いた。唇は薄い。

 はあ、呆れたように豪炎寺が息を吐き出した。

 差し出したままだった雑誌を円堂の目の前に放って、豪炎寺が椅子ごと円堂の隣に移ってきた。ぽかんとしている円堂の横でパラパラと雑誌をめくり、円堂の好きな選手の特集を開く。

「好きなんだろ、この選手。ここだけ見てろ」
「え……」
「怖いならそう言えばいいだろ。二人しか居ないんだ。オレは誰にも言わない」

 豪炎寺は少し怒った風でもあった。ぶっきらぼうに言って雑誌の前で頬杖をついている。違うんだよ、そういうんじゃないんだよ、そう言って笑えたらよかった。豪炎寺の言っていることは円堂の思っていることとまるっきり違っていて、おかしいくらいだ。でも円堂にも自分が何を考えているのかまるで分からないから、ちっとも笑えないし声すら出なかった。

「円ど」

 円堂の様子がおかしいと思ったのだろう、豪炎寺が身を起こした。雷が光る。今だ、と思った。何が今なのか、豪炎寺から離れてしまえば全く分からなくなってしまったけれど。ざあざあ雨は止まない。目の前にある豪炎寺の顔は、驚いたというより何が起こったのか分からないというような、あいまいな表情だ。見ていられなくてうつむいた。ぐっと拳を作る。

 どおん、やっと音が追いついてくる。一体どれくらい離れた雷なんだろう。

 試合に勝って、よく晴れた次の日の朝、好きだと思った。
 それがどういう意味かはどうでも良かった。一緒にサッカーができれば、あのボールを追えていれば良かった。豪炎寺が点を決め、信頼できる大好きな仲間たちもそれに続き、また守り、ゴールは円堂が死守する。そんなチームが日々理想でなくなっていくのが楽しくってたまらなかった。そのはずなのに。

 苦しいのは嫌だよ、豪炎寺。
 お前とのサッカー、楽しいのに、変な気持ちが邪魔するんだよ。

「……なんで泣くんだ」
「っ泣いてない、」

 俯いたまま、背筋だけはピンと伸ばして歯を食いしばる。しばらくそのままの体勢で居た。豪炎寺もそれ以上何も聞かなかった。部室の中があまりに静かなので、雷がどんどん遠のいていき、それと一緒に雨足がどんどんゆっくりになっていくのがよく分かった。一体どれくらいの時間が経ったのか、ぽたぽた、部室の軒から零れ落ちる雫の音が聞こえるようになってくると、随分気持ちも落ち着いていた。思いっきり息を吸い込んで、吐く。

「ごめん」
「何が」
「とにかく」
「そうか」
「うん」

 吐き出した息と一緒に、なるべく素早く口を動かした。無かったことにしたくない自分も、無かったことにできない自分も、全部が情けなくて顔を上げられない。こういう時に、どういう言葉を出せば豪炎寺に余計な負担をかけないで済むのかまるで分からない。途方に暮れてやっぱりうつむいたままで居ると、ぽんと頭に手が乗った。もちろん豪炎寺の手のひらだ。つい目を上げる。

「帰ろう。円堂。雨が止んだ」

 好きだと思った。

 それはいつ思い始めたのか、考えるのもバカバカしいくらい当たり前に体に染みていた。始めはその粘り強さ根気強さ、そしてそれがよく滲み出たサッカーが好きだと思った。それがいつの間にか枠を超え、形を変えて新しい何かになってしまったのだ。だが豪炎寺はそこで考えるのをやめていた。その「新しい何か」に気づかないフリをするのが苦しくても、円堂が辛くないのなら、それは苦しくないのと一緒だ。雷門サッカー部はそういうチームだろう。

 だから、円堂が苦しそうにしているのは嫌いだ。

「豪炎寺?」

 円堂の声のトーンは、気まずげに低い。夕立でびちゃびちゃになったグラウンドを避けて、なるべくコンクリートで舗装された道を行く。辺りに人はまるで居なかった。下校時間はとうに過ぎている。空では灰色の雲がちぎれて、その隙間から夕焼けが溢れ出ていた。すぐに夜が息切れしながらやってくるのだろうが、柔らかい茜色がきれいだ。

「下駄箱に寄る」
「忘れ物か?」

 豪炎寺が足早すぎて競歩では横に並べないのだろう、後ろからついてくる足音を耳で確かめる。それだけで豪炎寺がどんな気持ちになるか、円堂は知りもしないんだろう。知らなくていいと思っていた。自分以外は誰も知らないままがいいと、ついさっきまで。

 どうしてあんなことをしたんだ。

 頭の中だけで雷鳴がする。どおん、つい口元に手の甲を当てた。小走りになる。

「豪炎寺!待っ、その……」

 円堂が何か――恐らく謝罪か懺悔かを切り出す前に下駄箱へ飛び込み、傘立ての前に立つ。アルミフレームに取り残された数本の中から、見覚えのある紺色を引き抜いて、追いついてきた円堂に向き直った。

「えっ、それ傘……!?」
「お前が居たから」

 こんなに我慢してたんだ。なのに。
 オレだって苦しいのは嫌だよ、円堂。

「だから雨が止むまで居たんだ」

 言ってしまってから、カッと体中の熱が顔に集まったのが分かって、逃げるように外に戻ろうとする。だがその前に円堂に腕を掴まれてしまった。仕方なくその黒くて丸い目の正面に立つ。それが急に近づいたせいでつい思いっきり目を閉じてしまい、慌てたところで額に何か当たった。円堂の額だ。至近距離に円堂の困ったような笑みがある。

「豪炎寺」
「……うん」
「オレ、お前が居たら嬉しいんだ。いつも」
「うん」
「これ、なんて言ったらいいのかな、でもすごく苦しくて、」

 廊下から足音が聞こえてきた。この時間なら確実に先生だ。見つかれば部活ごと怒られる羽目になるかもしれないし、そもそもこんな状態を人に見られるやっぱり恥ずかしい。ほぼ同時にハッとして走り出す。

「なあ!」
「うん?」
「分かったら!また……その、またしてもいいか?」

 さっきとは逆に前を走る円堂は気づいているんだろうか。その耳がすっかり真っ赤になってしまっていることを。

「じゃあ、オレも分かったら……言い訳はやめにする」

 照れた笑みをちらりとこちらへ向けた円堂が手を伸ばして、豪炎寺の手をぐいぐい引っ張っていく。なんだかそれがおかしくて、胸のあたりが何かでつかえたようになって、つい笑ってしまった。

 空はほのかに明るい。でも頭の中ではまた光が閃いて、ずっと近くで轟音を立てた。

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