文字数: 6,744

シンプル・シンキング (円+豪)



 目を開けた。カーテンの向こうがぼんやり明るいのを目だけで確認して、朝の気配を感じる。どうしようか少し迷って、ゆっくりと身を起こした。あまり厚くない合宿棟の壁の向こうも、今はしんと静かだ。昨晩はしゃぎ疲れたのもあるだろうが、ただ単に時間が早いようだ。ベッドに腰掛けてぼうっと天井を眺める。

 浅い眠りが多少体調に影響していて、頭の奥が鈍く痛む。もう少し横になっていてもいいはずだが、多分眠れないだろう。足下にはボールが転がっている。足先でそれをころころと弄んだ。

 ひょっとしたらこれは夢かもしれない。ふと不安が脳裏をよぎった。こんなに静かなのはこれが夢だからで、本当は皆とっくにグラウンドへ出て練習しているのかもしれない。カーテンを引いたりドアを開けたりしてそれを確かめようとしないのは、やっぱり怖いからなのだろう。もし夢だとしたら、皆もう練習を始めているのだとしたら、自分は一体何をしているところなんだろう。

 ボールの感触だけが確実に足下にある。少し勢いをつけて足の甲でボールを跳ねさせた。昔は痛いと思っていたはずなのに、今はボールの重みしか感じない。やっぱりこれも夢なのかと思うくらい。

 ふと、リフティングをやめて耳を澄ます。足音が耳の端に引っかかったからだ。皆が寝静まっている時間だからだろう、極力気を使っているようではあったが、それでもとたとたと駆け足が近づいてくる。そのまま通り過ぎて洗面所にでも行くのか、ドアを開けてみようかと考えていると、足音がピタリと止まった。この部屋のドアの目の前だ。

 なんとなく息を止めてしまう。ドアの向こうの気配が動かないので、豪炎寺もベッドの上から動かないでいた。少しの緊張の後、カチャリ、ゆっくりとノブが回る。それからそっと部屋に突っ込まれた顔を見て、呼吸を取り戻した。

「あ……」
「……円堂」
「わっ、悪い!ごめん!寝てると思って、起こしちゃったらダメだと思って、起きてるって思わなくってさ、」
「声、大きいぞ」

 慌てて左右を見渡した円堂は、ひとつ息を吐いて、また吸って、お邪魔しますと部屋に滑り込んできた。不思議と驚きは無い。ドアの向こうの人間が誰か、心の奥では予想できていたんだろう。いやむしろ、そこに居ればいいと思ったその人間がそこに居たことに安心したのかもしれない。

「あー……えっと……」
「座るか?」
「……ん!」

 気まずげに頬を掻く円堂のために少し座る位置をずらす。飛び込むようにベッドに腰掛けた円堂から振動が生まれて、固いベッドが少しだけ上下した。

「……起きてたんだな」
「寝てた方が良かったか?」
「いいや、そんなんじゃないけど……」

 たちまち困った様子の円堂を小さく笑う。なんだよ、と円堂は不本意そうに唸った。豪炎寺の足下からボールを奪って膝の上に乗せている。

「眠いんだけど、目が覚めてさ、もう寝れそうになかったんだ」
「うん」
「なんて言ったらいいのかな……確かめたか、った。そうだ、確かめたかったんだ」

 ボールを膝の上でポンポンと鞠のように跳ねさせながら円堂が言う。ボールに触れながら物を考えるのは、ここに居る人間の大半が持っている習性だ。

「だからちょっと覗いてみようって思って……いきなりごめんな」
「いや。オレも、夢じゃないって分かって良かった」
「夢なわけないだろ!」

 円堂が瞳を明らかに揺らす。それに動揺する間もなくその視線と正面からかち合った。大きな黒い目をじっと覗き込む。体の中で、血の流れる音がした。

「……そうじゃないと、困る」

 円堂がボールを跳ねさせるのをやめて、ぐっと力を込めてそれを抱えている。適当な相槌を打って視線をよそへ持って行こうと思うのに、円堂がこちらを見ているせいで豪炎寺も見返すことしかできない。言わなければと思うことが脳の回路を空回って動きを鈍くしているみたいだ。――ああ、オレも困る。だって、

「……練習」
「え?」
「練習しようぜ、お前も寝れないならさ。次は世界なんだから、いくら練習したってし過ぎってことないだろっ?」

 堰を切ったように口を動かし始めた円堂は、すっくと立ち上がり、豪炎寺にボールを託して閉まったままのカーテンを開け放った。随分強くなっている朝の光が部屋を一瞬で洗う。思わず目を細める豪炎寺を庇うように、円堂が目の前に立った。にっと口角が笑みを作る。

「行こうぜ」
「……ああ」

 助かった、そう思っている自分が分からない。何がどう何を助けたって言うんだろう。そのひとつも分からないうちにほっと息をついているなんておかしい。小さく首を振る。この数週間で、色々なことがありすぎた。まだ頭が混乱しているのだと思う。もっと簡単に考えた方がいい。もっと単純に。今はただ円堂に続いてグラウンドに出る。

「うん!やっぱ朝は気持ちいーな!」

 薄靄がかかったような朝の柔らかい空気に、円堂が拳を真上に突き出して伸びをした。雲の無い水色の空の端から、朝焼けが一日を追い立てている。それぞれで軽く柔軟をこなし始める。

「明後日、出発だぞ」
「今日は調整で、午後からと明日は準備に充てるって話だったな」
「みんなで一緒に……一緒に、世界だ!」
「うん」

 体が温まってくると、寝起きの不安など馬鹿みたいだ。現実を信じないでいて未来があるとも思えない。何にも邪魔されず思いっきりサッカーができる。それだけのことだ。円堂が逸る足音を連れてゴールの前に立った。

「いきなりか」
「ああ、いきなりだ!」

 円堂の目は輝いている。勝つんだ、そのための一発目なんだと、それが手に取るように分かって緩む頬を、ぐっと引き締めてボールを蹴り上げた。強烈な力が加わってゴールに突き抜けようとするボールを、円堂が受け止める。いつもなら、円堂が止めるか豪炎寺が競り勝つか、それはほぼ五分と言っていい勝負だ。

「円堂!?」

 しかし今日は円堂の様子がおかしい。技の発動もできぬままボールを腹で受け止めて、わずかに痙攣してゴール前に倒れこんでしまった。今更驚く気もしない頑丈さで緩慢に起き上がる円堂に慌てて駆け寄る。コロコロと足元をボールが横切った。円堂を助け起こそうと手を伸ばして――

「――ッ!」
「っててえ!」

 ビリリ、だとかバチバチ、だとか擬音にするとそんな音が確かに空気を走り抜けた、気がした。円堂の肩に指先が触れた瞬間だ。驚いて手を引っ込める。静電気のような、だが生半可なものではない痺れがじんじんと指先に残っている。驚きと戸惑いでそのまま棒立ちになった。もう一度円堂に触れようとする気にもならない。

「……円堂?」
「オレもよく分かんないけど……さっき、お前の蹴ったボール触った瞬間ビリビリって……」

 呆然と沈黙。ただ互いに見詰め合うぐらいしかできない。原因も理由も分からないし、そもそも意味が分からない。――感電?グラウンドの真ん中で?朝からの行動を振り返ってみるが、思えば円堂と接触はしていなかった。昨日までは確かにそんなことは無かったはずだ。韓国戦の勝利に沸いて、大騒ぎしたのだから。

「円堂さーん、豪炎寺さーん、二人とも早いですね!一番だと思ったのに……」

 ともかくと身を起こして屈伸をしている円堂と、目だけで困惑を交換しているところに、爽やかな声が割り込んだ。ジャージ姿の円堂と豪炎寺とは違い、既にユニフォームを着込んでいる立向居だ。鈍い反応しか返せない二人を不思議そうな顔で覗いつつも、それより先に足元のボールに気を取られたようだった。

「オレも一緒に練習していいですか?円堂さん、はい!」
「あっ、ちょ!立向居!」

 軽いパスのつもりだったのだろう、蹴り上げられたループシュートが円堂をめがけて飛んでいく。反射で弾いた円堂は、そのままの体勢で固まった。首ごと豪炎寺に視線を移す。

「きたか?」
「いや!全然!」
「?なんの話です?」
「立向居!」
「はい!」

 弾かれて転がってきたボールを豪炎寺がパスするが、立向居は難なく受け止めている。ここまで来ると、先ほどの馬鹿みたいな衝撃が幻のように思えてきた。どちらともなく打ち合わせようとして手を差し出す。
 ――が、触れ合った瞬間に互いに無言の悶絶を抱えるハメになる。

「ど、どうしたんですか?」

 言葉が出なかったので、円堂も豪炎寺も黙って首を振った。

「いいか」

 ガシャン、机の上に押さえつけられたトレイの上で食器が踊っている。汁物が零れたのではないかとつい不安になってトレイを覗き込んだところ、隣に座った鬼道に顰蹙の目で射竦められていた。

「……珍しく行儀が悪いぞ」
「豪炎寺」

 何か言えということだろうと思って口を開いたのだが、どうやら不正解の道を選んだらしい。ゴーグルの下の目が限りなく鋭い。ドスの効いた重低音が机の上を這っている。正面に座ろうとしていた土方が何かを察知して別のテーブルに移ってしまった。ここは感謝するべきか薄情と罵るべきか。

「次は世界だぞ」
「ああ」
「オレたちは、世界に比べればまだまだ課題ばかり残ったチームだ。そうだろう。常に万全以上の体制で臨んでいなければ、勝負にすらならない」
「そうだな」

 反論の余地が微塵も無いので、心からの同意だったが、それは鬼道の満足に至る返事ではなかったらしい。大抵は理性的に物事を運んでいる鬼道のダイレクトな怒りに戸惑う。

「鬼道?」
「分からないか。オレは怒っているんだ」
「そうだな」
「豪炎寺……!」

 箸が粉砕するぞ、と忠告しようとしたがさすがに黙っていた。何を切り出せばいいやら、路頭に迷った豪炎寺の表情を見て、不本意そうに鬼道は唸った。あれを見ろ、その手のひらの先には円堂が居る。栗松が必死に話しかけても、どこか上の空の相槌しか返していない様子が遠目にも分かった。

「そして次は自分を見ろ、豪炎寺。ここ数日様子がおかしいと思ってはいたが、試合で本調子に戻って安心していたんだ。なのに次の日にはまたこんな調子だろう。何があった?」
「……いや、」
「また、何も言わない気か」

 少し鬼道の怒りの要因が見えた気がして、豪炎寺はますます困ってしまった。

 今回のことは結局誰にも話していない。知っているのは円堂と豪炎寺自身だけだ。だが試合後には大体の事情を悟ったチームメイトも居ただろうと思う。鬼道もその一人のようだ。試合の趨勢に深く関わった問題なのだから、本当は全て洗いざらい話してしまうべきだとは分かっている。

 しかし円堂にも誰にも、本当は言うつもりはなかったのだ。
 どうにもならない別れの相談なんて、夢でも口にしたくない。

「責めてるわけじゃない」
「……そうなのか?」
「言っただろう、怒ってるんだ」

 それだけ言うと、鬼道は子供のように口をへの字にして腕を組んだ。手付かずの昼食を親の敵のように睨んでいる。そう言い切られてしまうと、豪炎寺も謝る他に無い。責任などはまず捨て置いて、鬼道を怒らせたくないならそうするしかないからだ。鬼道にすれば不本意だろうが、少し気分が和らいだ気がする。

「オレはここのところ、難しく考えすぎてるのかもしれない。考えることがたくさんあるからって、それを自分から難しくしている気がする」
「……あいまいだな。そのせいでお前と円堂がああなってるって言うのか」
「簡単に、簡単に考えれば……」

 言葉と一緒に箸も止まる。それを尻目にやっと食事を始めた鬼道がちらりとこちらの横顔を覗ったのが分かった。

「オレから見れば、そうやって考えてること自体がもう簡単じゃない。確かに、いつものお前たちらしくは無いだろうな」
「どういうことだ?」
「自分で簡単に考えてみろ。オレは怒ってるって言っただろう」
「それじゃ困るよ鬼道!ほんとに困ってるんだって!」

 鬼道と二人、確実に数センチは椅子から浮いた。いつの間にやら空のトレイを持つ円堂がすぐ真後ろに立っていたのだ。取り繕うように咳き込んだ鬼道を気にすることなく、円堂はまだ食い下がっている。

「なあ鬼道!」
「……分かったから一体何があったか具体的に聞かせろ」

「確かに、オレたちらしくはなかったな」

 嬉々とした表情で円堂が再びゴール前に立った。グローブをしっかりと引っ張って、グーパーと心地を確かめている。そして豪炎寺が立つのは、その正面だ。

「しかし、まさかそんなことが起こるなんてな……。病気、でもないだろうし……一体どういうことなんだ?」
「鬼道くんは、何か分かってるみたいだよね」
「知らないな。オレは怒ってるだけだ」

 遠巻きにチームメイトの声が流れてくるが、ひとつ深呼吸をすれば、豪炎寺の世界はサッカーだけになる。確かに、いくら簡単にしようと『考えた』って無駄だ。考える前に、動く。無鉄砲には違いないが、無い答えをいくら見つけ出そうとしたって仕方ない。

「いいのか!円堂!」
「いつでも来い!どんなボールもオレが止めるさ!」

 円堂と視線が交叉した。また、体中で血の流れる音を聞いている。握った手のひらにはじんわり汗が滲んでいた。それをぐっと握り締める。

「行くぞ、円堂!」
「来い豪炎寺!」

 広いグラウンドをほぼ二人だけで使っていた。準備があるからと、練習に付き合っていた面々も次第に数が減っている。陽はいつも通りに傾くが、その下で走り転げる練習はいつもと違っていた。ビリビリと体中に痺れが染みている。だがそれも疲労と飽和して、やがては形も分からなくなった。気づいたのが今日だと言うだけで、もうずっとこの稲妻のような痺れは体にあったのかもしれない。酸素もうまく回らなくなった頭でぼんやり思った。

「豪炎、寺ー!」
「な、んだ」
「休憩!」

 駆け寄ってきた円堂が、その場でピッチに倒れ込んだ。それを見ていると気が抜けきって、豪炎寺も地面に伏せた。もう既にユニフォームは泥だらけで、今更何も気にならない。

「なあ、もう、もう、いいんじゃないか?」
「そうだな」

 久遠監督は普段、選手の過剰な特訓に目を光らせている。この場で故障を起こすことは、試合に絶対の影響を及ぼすからだ。だが派手にグラウンドを駆け回っている二人に気づかぬはずも無いだろうに、今日ばかりはお目こぼしをもらっているらしい。

「オレ、なんでこんなことしてたか、忘れそうだよ!やっぱりいいな、サッカー!」
「ああ」

 何がおかしいのかも分からないのに笑いがこみ上げて、勝手に喉が震える。間近にある円堂の目がそれを嬉しそうに見ていた。これがあるから、豪炎寺はここでサッカーをしている。円堂が砂まみれのグローブ越しに手を差し出してきたので、そこに手を重ねた。ビリビリと何かが走る。だが今になればそれは、ただ心地良いだけの振動だった。

「好きだ」
「うん、好きだー!」

 腕相撲のように肘を支点に少しだけ上体を起こして向かい合う。ふと影がかかったのでそのままの体勢で目を上げると、呆れた様子の鬼道が見下ろしていた。

「気は済んだのか?」
「済んだ!」
「そうか良かったな。もう残ってるのはお前たちだけだぞ」
「えっ!?みんなは?」
「もうとっくに呆れて帰った」
「……何に呆れたんだ」
「準備もあるのに、遅くまでやり過ぎたかな」

 それは違う、鬼道の言葉には若干の疲れさえ見える。円堂と豪炎寺が見ていないうちに一人特訓に励んでいたのかもしれない。

「仕方ないな、帰るか!」
「ああ、帰ろう」
「あっ、そうだ!豪炎寺さ、もうお前スパイクボロボロだろ!」
「それはお前もだろ。見て帰るか」
「ああ!鬼道も行くだろ?」

 まるで意外という風に目を瞬いているのが、ゴーグル越しでもよく分かる。当然の提案に鬼道がどうしてそんな反応をするか分からず、円堂も豪炎寺も同じような表情を返してしまった。それがおかしかったのだろうか。鬼道がふっと表情を緩める。

「いつもなら遠慮するところだが、今日は怒ってるからな。……行こう」

 なんだそれ、円堂が愉快そうに笑うので、豪炎寺も思わず笑った。

-+=