糸が見えている、ずっと。
いつからだったかは覚えていないが、物心ついた頃にはもう見えていたように思う。クロウと知り合うよりも前だ。白い、タコ糸くらいの太さの糸で、自分の右腕の手首に巻きついている。そしてその先端は、同じマーサハウスで育った遊星の手首へ巻きついているのだ。ジャックにはそれが疎ましかった。どれだけ用心してハウスを出ても、遊星は気づけば後ろに居る。きっとこの糸を辿っているのだろうと思ったのだ。
「糸……かい?遊星に糸クズでもついていたのかね」
気づいてるんならひとつ兄さんのアンタが取ってやりなさい。困惑気味に答えられ、幼いながらも敏感にジャックは悟った。マーサにはこの糸が見えていない。マーサは決して、悪意でジャックを否定したりはしない。単純に何を言っているのか分からないという目だった。
マーサの意識が自分から逸れたのを確認して、ジャックは自分の腕から伸びている糸を弄んだ。その先は遠くで砂遊びに興じる遊星の腕まで続いている。離れれば離れるだけ伸び、近づけば近づくだけ縮む。糸はいつも少しゆるめの曲線を描いている。試しに引いてみるが遊星はぴくりとも動かず、糸が手ごたえなく伸びただけだった。仕方が無いのでジャックが遊星の傍まで歩み寄った。
「ゆうせい」
遊星は何も言わず顔を上げた。基本的に遊星はあまり口を開かない。暗いわけではない。子供らしくないわけでもない。ただ余計なことを一切捨てて生きていこうとしているように見えた。それがジャックには時々気味悪く写る。
「みえるか」
ジャックが右手の手首を突き出すと、遊星はしばらくそれを黙って観察している。鼻頭のあたりが泥で汚れているので、フードつきの上着の裾で軽く拭ってやった。遊星は嫌そうに顔をしかめて、用心深く口を開く。
「……あざか。キングのあかしだな」
「おまえにもみえてなかったのか……」
ジャックは生まれつきのこの痣をキングの証として仲間だけに見せてはそう誇っていた。心無い者がこの痣を気味悪がって馬鹿にしてきても、この痣を王の証と疑わないジャックには無意味なことだ。しかし今の関心事はそちらではない。ジャックの右腕から伸び、遊星に繋がっているこの糸だ。
「……どういうことだ」
「おまえは、なぜオレにつきまとうんだ」
質問に答えず質問で返すジャックに、遊星は不服そうに口を引き結んだ。ジャックが言わないなら自分も、とでも言いたいのか。生意気な反応にムッとする。
「なら、もういい」
ジャック、後ろから名前を呼ばれた気がしたが無視した。目的も無く、ずんずんと遊星から距離を取る。糸はそのジャックに合わせてどこまでもどこまでも伸びた。いつまでも遊星を振り切れていない気がして、益々腹が立ってしょうがなかった。
「遊星!後ろだ!」
「……っく、」
背後から鉄パイプで殴られそうになっていた遊星は、寸でのところの足蹴でそれを男ごと吹き飛ばした。丁度その先で待ち構えていた鬼柳が、満面の笑みで男のデュエルディスクに手錠をかける。
「仲間の分も、満足……させてくれるんだろうなぁ?」
男の罵声は瞬く間に悲鳴に変わった。それをジャックは遊星とクロウと肩を並べてやれやれと眺める。今日の制圧はあの男が最後の一人だ。
「相変わらずえげつねえぜ。リーダーさんは」
「あれぐらいでなければオレたちのリーダーとは言えんな」
「そうかもな」
「オイオイお前ら、人が生きるか死ぬかをカードに賭けてるってのに暢気に見物かぁ?」
口では窮状を訴えつつも、鬼柳の場は万全以上の言葉は無かった。確かにデュエルに絶対は無いかもしれない。だが、鬼柳自体の声や表情も愉快げに笑っているのだ。やはりすぐに決着がつき、見事この地区はチーム・サティスファクションのナワバリとなった。鬼柳は陽気な鼻歌と共にジャックを振り返る。
「しっかし、ジャックは遊星を見つける天才だなあ!」
「昔っからジャックは遊星見つけんの得意だよな」
「オレをそればかりのように言うな」
自分も話題の軸の一人のくせして、遊星はジャックに任せたとばかりに無言だ。ジャックはただ糸を辿っているだけだ。別に遊星を見つける特殊な能力が備わっているわけもない。そろそろその誤解から脱したいところだが、他の誰にも見えていない糸だとか、そういう話が容易に信じられず、そればかりか頭を心配され馬鹿にされることは明らかだ。賢い遊星に倣ってジャックも口をつぐむ。
「帰ってきたぜ、住めば都の我が家だ!」」
「住まなくたって都だろ。家なんて屋根がありゃ充分だ」
常に一緒につるんでいるわけではないが、大抵4人ともアジト代わりの廃ビルに居ることが多い。それぞれ思い思いで自分なりに築き上げている居住スペースに別れようとして、遊星に引き止められた。遊星は廃材を寄せ集めて器用にバランスを保っている机に座り、いつも通り4人分のデュエルディスクを整備しようとしている。
「ジャック」
「なんだ、遊星」
「お前はどうしてオレがどこに居るのかすぐに分かるんだ」
遊星が黙っていたのは、それが気になっていたからだろうか。その場で問えば良かっただろうに、相変わらず時機が読めているのかいないのかよく分からない奴だ。
「知ってどうする。不都合なことでもあるのか」
「いや。ただ……嬉しいだけだ」
遊星は口元のほんの隅で笑っている。最近遊星はよく笑う。幼い頃もジャックやクロウと同じように笑っていたはずなのに、いつの間にか遊星一人からどんどん表情が減っていったのだ。だが今の遊星は違う。ジャックやクロウと変わらぬ人間なのだと一目で分かる。
「フン、お前の単純な行動など誰だってすぐに読めるに決まっている!」
「なるほど。気をつけよう」
ありがとう、遊星は声のトーンを全く変えずに続けた。遊星は変なところで律儀で生真面目だ。肩の突然力が抜けたような心持ちがする。糸をたぐりながら、一歩一歩と遊星に近寄る。遊星はジャックの行動を特に不審とは思っていないようで、視線すらジャックに寄越さない。ついにジャックは遊星のすぐ隣にまでたどり着いた。遊星は右腕に糸を巻きつけたまま熱心にディスクを調整している。邪魔ではないのかと思うが、やはり遊星自身にもその糸は見えていないのだ。
「……遊星、動くなよ」
「ジャック?」
そこで初めてジャックの存在に気づいたかのような遊星に呆れつつも、糸を戯れに遊星の髪を束ねて結びつける。我ながら会心の蝶々結びだ。馬鹿正直にぴたりと動きを止めていた遊星がもういいのかと聞いてくる。鷹揚に肯定した。
「何をした」
「何だろうなあ!」
疎ましいだけだった糸も、今ではそれなりの愛着が生じている。鬼柳がジャックたちにもたらした「何か」がジャックにそう思わせたのかもしれない。今、遊星とジャックを結ぶこの糸にはきとんと役目と利がある。ならば疎ましく思う理由もない。ずっとこのままでも構わない。
ジャックは一人王座に座っている。従える民も兵も無く、観客さえいない孤独の王座だ。そこでじっと目を閉じている。他にすることがないからだ。目的も、光も、何もかも見失っていた。ただ力だけが有り余り、行き場を求めてジャックの中で激しく荒れ狂っている。
キイ、重たい劇場の扉が開いた。その分だけ光が道を作り、訪問者を劇場へと導いている。それは目を開けずとも分かっている光景だったが、誰何のためにジャックは目を開けた。
「遊星か」
「ジャック、相変わらずここか」
扉が自重で閉まり、劇場に薄暗さが戻る。完全な暗闇でないのは、天井に大きな破損がいくつもあるからだ。居もしない観客のために広く取られた空間は、遊星の足音を大きく響かせる。D・ホイールを一から組み上げることに全力を寄せている遊星が、こうしてねぐらの外に居るのは珍しいことだ。
「食料が手に入った。珍しく量が多かったから、お前にも、」
「……お前は、オレをからかっていたのではないか。ずっと」
本当は遊星にもこの馬鹿馬鹿しく原理の全く分からない糸が見えていて、むしろそれは遊星の仕業であり、それが遊星とジャックの分かつべき道を狂わせたのではないだろうか。そこまで考えて、さすがにジャックも自分の考えが一番馬鹿馬鹿しいと思考をやめた。
「何のことだ」
「いや、いい」
ピエロのようなふざけた男の言葉を脳内で何度も反芻している。いや、本当は答えなどとうの昔に出ているのだ。なのに、この期に及んで、相変わらず時機の読めているのかいないのか分からない遊星が目の前に立っている。
「遊星、何か切るものを貸せ」
「切るもの?」
「服の裾がほつれた」
遊星はひとつ頷いてステージに上り、ジャックのすぐ隣まで歩み寄った。刃の短いナイフはよく研がれている。ついさっきまで仲間だった人間に殺され身包みはがされることだってあるこの街で、遊星はためらいなくジャックにナイフを差し出すのだ。
「パンもあるが……」
遊星はゴソゴソとあまり量があるとは見えない紙袋を漁っている。その隙に、糸の半ばほどをナイフで断ち切った。どれだけ離れても途切れることなど無かった糸は、案外あっさり切れてしまった。最初からこうしておけば良かったのだ。ナイフの柄を遊星に突き出す。
「要らん。お前の施しなど必要ない」
「ジャック……」
それにすぐに、遊星だってジャックと共にいたことを後悔するようになる。
糸が見えている。
断ち切って、途切れたはずの糸が、また遊星の右腕に繋がっていた。遊星はどこか満足げにその糸を眺めているように見える。
「……お前、糸が……」
ジャックがそれ以上の言葉を続けられずにいても、遊星には充分伝わってしまったらしい。驚いたような顔をしている。だがそれはゆっくりと苦笑へ変わった。
「今度は、オレもジャックも、お互いどこにいたってすぐに分かってしまうな」
しかしどちらからも、その糸を断ち切ろうとは言い出さなかった。
(2011-08-22)
幼い日の幻影(幼馴染みの恋物語-05)