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青い鳥のいる部屋 (歴代主人公中心クロスオーバー)



「っ、!」

 吐いた息が全て泡になって上っていく。反射で吸い込んだものは息ではなく、冷たい水だ。鼻と口から大量に流入した水が肺を満たそうとしている。痛みと苦しさで咳き込み、また水を吸い込む、という悪循環にもがいた。突然のことで状況が何も把握できない。ここはどこなのか。どうすれば助かるのか。だが迫ってくるのは水ばかり、答えなどどこにもない。いよいよダメかと諦めかけた時、腕を誰かに強く掴まれた。そしてそれを合図にして温かい温度が遊星の周囲を取り巻く。

「大丈夫かっ?」

 じゃばり、やっと水のない世界に頭を突き出した。ほっとする間もなく体が勝手に酸素を求めるせいで、気管に入った水との鬩ぎあいになる。しばらくは咳き込む以外のことができなかった。背中をさすられる手がありがたい。なんとか呼吸を持ち直して、鼻の痛みが気になり出して初めて、遊星はこの異様な光景に気がついた。

「お前……」

 声を発したのは小柄な若い男で、服は着ていない。だが何もおかしいことはない。ここは手狭な浴槽の中なのだから。見知らぬ風呂場の浴槽に服を着たまま突如として出現してしまった、らしい遊星の方がよっぽどおかしい。しかし遊星だって何も望んで男の入浴現場に飛び込んでしまったわけではないのだ。弁解や謝罪以前に、何と切り出していいものかも分からない。そんな動揺を知ってか知らずか、茶味がかった髪を湿らせた男の方が一足先に重々しい口を開いた。

「……お前、風呂入る時服は脱いだ方がいいぜ?」

 それは限りなく最もな指摘ではあったが、同時に限りなく的を外している。なおさら返事に窮していると、曇り硝子の張られたドアの前にふっと新たな気配が現れた。さすがに一瞬驚く。それは相手も同じだっただろうが、遊星の方が驚きは大きかっただろう。そこに立っているのは、実物が現存しているのかも分からないレアカードのモンスターだ。……いや、居るはずのない人間が突然現れて服を着たまま湯に浸かっているというのも相当な驚きだとは思うが。

『……誰だ?何があった十代』
「いや突然人が……あ、その前に!忘れてたぜ!」
『何をだい』
「いやーんユベルのエッチー!」
『……もう知らないよ』

 男が胸元を隠すような仕草でふざけると、現れた時と同じようにすっとモンスターの姿が風呂場から消える。遊星としては最早唖然とするほかない。水を吸い込んだ気管の痛みも突然の状況による混乱も温かい湯に溶けきってしまったようだ。からからと笑っている男――十代と呼ばれていただろうか――は嬉しげな笑顔を何の隔たりも感じさせずに遊星に向けた。

「アイツ面白いだろ?」
「はあ……」
「どーせだし風呂入ってっちゃえよ。服は、洗濯機は出たとこにあるから……あっ、色落ちするやつは別にしないと怒られるぞ!」
「は、はあ……」

 他にすべきことがありそうなものだが、十代は飽くまで湯船から出る気は無さそうだった。乱入者である遊星も、十代にそう言われれば他にできることもない。大人しく湯船から上がって、ひとまず重たくなった服の水分を絞る。風呂のへりに寄りかかった十代はそれをじっと見上げてきていた。

「……ところで君、誰なんだ?」

 本来真っ先に来るはずの問いが段末になったのは、特に遊星の責任ではないと思う。

「はー、いい湯だったぜ!遊戯さん!」
「はいはい、よかったね。冷蔵庫にアイスがあるよ」
「マジっすか!ラッキィー!」

 風呂場を一歩出ると、火照った肌にひやりとした空気が迫ってくる。これは冬の冷気だ。ぶるりと体が震えた。というのも、他に無いからと貸してもらった服のどれもが幅足らず丈足らずで、ところどころ肌が見えてしまっている。我ながら洗面所の鏡を正視する勇気はなかった。

「……あれ?君は?」

 十代に遊戯と呼ばれた、十代と同じくらい小柄な男は、独特の古風で背の低いテーブルについてテレビを見ていたが、ふと振り返った先に見知らぬ男が居たので、当然の疑問を真っ先に口にした。これが自然な流れである。

「遊星って言うらしいです。風呂で溺れてたから助けたんですよ」
「そうなんだ。それは大変だったね」

 労わるような目で十代の簡単すぎる説明を受け止めて、遊戯は丸い目を細くして微笑んだ。またも自然の流れから外れていこうとしている気がする。しかし遊星がそれでいいのかと問うのも変だ。とにかく会釈だけはしておく。この遊戯という物腰の柔らかな男には、なんだかどこかで見覚えがあるような気がした。

「にしても……その、変わった服だね」
「あー、服、全部濡れちゃったから。オレの貸したんですけど……」
「そっかあ……十代くん以上のサイズはうちには無いからね……。寒いよね、ちょっと待って」

 うー寒い、呟きながら遊戯が立ち上がった。部屋の奥にある押入れの襖を引いて、何やらごそごそと漁っているようだ。冷蔵庫の中からアイスのカップを取り出し、スプーンをくわえている十代が、棒立ちしている遊星の背を押した。

「コタツ、入っとけよ。風邪引くぞ」

 コタツ。そう、この独特のテーブルはコタツだ。昔古いドラマだかデータだかで見た覚えがある。狭い畳の一間と、玄関と隣り合わせた台所。最早データの中にしかないはずの古ぼけたものだけでこの部屋は構成されている。昔の生活に憧れ、それを模倣しようとしたがる人間も居るには居るが、そんなことができるのはシティやトップスに住む裕福層くらいだ。ここはシティなのだろうか。

(シティ……?オレはサテライトのB.A.D.に居たはずだ)

 そして鬼柳と戦い――ざっと冷や汗が噴き出すような心地がした。信じられないくらい巨大なモンスターの手が、記憶の中の遊星に迫る。咄嗟に脇腹を押さえたが、そこには傷口も痛みもない。今更確かめるなんて間抜けな話だ。先程まで遊星は十代に言われるまま湯船に沈んでいたのだから。

「おいおい、遊星?」

 動かない遊星に焦れたのか、十代は先にコタツに入ってその布団をパタパタと上下させている。釈然としないながらもおずおずと足を突っ込んだ。じわり、風呂の湯とは違う温もりが足先から下半身に染みてくる。

「あったかい……」

 暖房器具も兼ねたテーブルであることは知っていたが、まさかこんなに暖かいなんて。思わず布を捲って中身を確かめた。オレンジ色の光が煌々と遊星と十代の足を暖めている。

「こら、寒いじゃんかよ」
「すみません」
「遊星、ひょっとしてコタツ入るの初めてなのか?」
「……はい」
「オレもここに来るまでほとんど入ったこと無くってさ。なんでこんなにあったかいんだろうなあ」

 姿勢を悪くして極限まで体をコタツに突っ込んで座る十代は、そんなことを言いながらも冷たいバニラアイスを銀の匙ですくっては頬張っている。何か口を挟みたい気もするのだが、先程からろくに言葉が出てこない。出てくる言葉も自分でも驚くほど畏まっている。見た限り、遊戯や十代とそう歳の差があるとは思えず、むしろ自分が年上くらいだと思うのだが。

「あった、あったよ遊星くん!はいこれ」

 それまでひたすらゴソゴソと押入れに体を突っ込んでいた遊戯が、嬉しげに歩み寄ってきた。手にしているのは、これまた古風な、綿でモコモコした上着だ。遊星が何か口にする前に、さっさと肩にそれがかけられる。

「おっ、いいなあ。あったかそうだぜ」
「半纏だよ。どっかにあったと思ったんだよねー。見つかってよかった」

 確かに暖かい。足からコタツ、肩から半纏と、高い守備力を誇っている。そそくさとコタツに入ってどこか嬉しげな目で見つめてくる遊戯に、礼を言う。遊戯は十代と目を見合わせて笑った。

「狭いところだけど、ゆっくりしていくといいよ」
「ああ。ほんとにここ、心地いいからさ」
『十代はゆっくりしすぎじゃないのか』
「そんなこと……ありますよっ」

 へへ、十代が笑いかける先は遊戯ではない。遊戯によく似た、しかし遊戯とは全く違った気配の「もの」に向けてだ。人物と断定できないのはその姿が透けていて、明らかに実体を持っていないからだ。唖然と見つめている遊星に気づいたのか、不意に現れたその四人目の気配はゆるやかに口の端を持ち上げて見せた。

『驚かせたか?』
「ユベルも見えてたみたいだし、大丈夫ですよ遊戯さん」
「でもびっくりしてるみたいだよ。ええっと……なんて説明したらいいのかな……」

 古の王の魂、それを宿した最強の決闘者――脳内で散らばっていたカードが光の筋を作っていく。しかし遊星はその光の道をとても信じる気にはなれなかった。もしこの結論が正しいとすれば、遊星はシティなど目ではないほどサテライトを離れてしまったことになる。

「武藤、遊戯……?」

 数十年前から遊星たちの時代まで語り継がれてきた伝説の決闘王。王の魂を宿していたという話が残っている。当然、遊星たちの時代には存在していないはずの歴史上の人物、そのはずだ。

「んっ?ボクがどうかした?」
「遊星、さんを付けた方がいいぜ!」
「いいっていいって、きっと大して歳変わらないよね」

 ひょっとしてボクの方が敬語使った方がいいのかな……伝説の決闘者は、コタツ布団を口元に寄せつつ真剣に悩んでいるようだった。改めて痛感する。何なんだここは。夢を見ているのか。

「ここは……」

 そうでなければ、これは最悪かつ有力な可能性だが――死んでしまったのか。ただ温もりだけが遊星の元に確実にある。口を開いた遊星に他の三人の目が注がれている。

「天国か何かですか」

 音に出すと、脳内にある以上に滑稽だ。遊星は死後、自分が天国やそういうものに行けると思ったことは一度も無い。だが伝説の決闘者がここに居るのだ。ここは地獄というわけでもないだろう。さてどんな答えが返ってくるかと身構えていたが、三人が三人ともきょとんと目を丸めているだけだ。

「なんだ遊星、そんなにコタツが気に入ったのか?まあ確かに天国みたいに気持ちいいけど」
『まるで天国に行ったことがあるみたいな言い方だな』
「ないない、ないです!行きかけたことなら何度もあるけど!っへへ」
「笑いごとじゃないよ、十代くん……」

 あっという間に話が談笑に流れている。ここは天国ではないのだろうか。だったら一体どこだというのだろう。遊星は何故、突然この部屋の風呂で溺れるなんてことになってしまったと言うのか。

『……天国と言えばそうだし、違うと言えば違うな』
「どういうことですか」
『恐らくここは、君が元居た世界とは違う世界だ。君は相棒のことを知っているみたいだが……その相棒が君の知っている相棒と一緒だとは限らない』

 謎かけのような言葉に一瞬ではその意味がうまく拾えない。ただひとつだけ分かるのは、この『王サマ』が指す『相棒』は遊戯のことらしいということだけだ。

「オレは……死んだわけじゃないのか……?」
『それは君にしか分からないな』
「ここに来る前は何をしてたんだい」
「デュエルを……」

 かつての友の痛烈な言葉と歪んだ笑いが頭をよぎる。そして近づいてくる「地縛神」の大きな手。脇腹をぐっと掴む。確かに遊星はあの時強烈な痛みを感じていたはずだった。しかしそこにはやはり傷口のひとつも無い。

「へえ!遊星もデュエルするのか!」
『この部屋に導かれて来たんだ。決闘と無関係ってわけはないだろうな』

 話題は遊星の知りたい核心に触れているようで、その実遠ざかっている。焦らされるのは苦手だ。駆け引きも特別に得意というわけじゃない。遊戯も、王の魂も、十代も、見た目は皆若くやはり遊星とそう違いがあるようには見えない。だが不思議な浮遊感を持って遊星を優しげに見つめているのだ。夢か幻か、そういうものに騙されているような気分だ。

「……天国でもない。オレの居た世界でもない。だったらここは……何ですか」
「ここは、世界や次元を超えて特別な力を持った人を……しかもデュエルモンスターズと関わりの深い人を集めちゃう部屋みたいでね。君もその一人になっちゃったってことだと思うよ」

 丈の合っていないシャツの上から腕の痣に触れる。赤き龍が遊星をこの部屋へ導いたのだろうか。

「十代くんが最初に来た時はコタツから突然知らない顔が出てきてびっくりしたぜ……」
『ここに住み始めたばかりの頃だったしな』
「あったかくて気持ちは良かったんですけど、そのままだったら狭いし息苦しかったんです!」
「いや、出てくるなって意味じゃないんだけどね……」
『まあ、その後は普通にドアから入ってくるようになったしな』
「どうすれば、……どうすれば戻れるんですか……!」

 またも違った話題へ流れていきそうなので、慌てて声を挟んだ。十代も遊星のように突然この部屋に現れ、そして自由に出入りしているということだろう。遊星はこの空間でただ暖を取っているわけにはいかないのだ。ジャックとの闘いで垣間見たサテライトの破滅が頭をよぎる。戻れる方法があるのならば一刻も早く元の世界に戻らなければ。しかし十代は遊星の焦りなどまるで気づかぬ様子で、スプーンを頬張ってから口を開いた。

「どうするって……来れたんだから、帰れないわけないだろ?」

 からかわれているのかと思い、思わず身を乗り出した。しかし十代は不思議そうな表情で目を瞬かせている。帰れる見当がつかないからこうして焦っていると言うのに。もしかするとそれは、十代にとっては当然にできる『特別な力』なのかもしれない。いつも遊星とシグナーたちを繋ぐ腕の痣は今、何も示してない。つまり十代の言うそれは、遊星にとってはできないことなのではないか。

「もう遅いし、今日はとりあえず休むといいよ。明日また考えよう」

 遊戯が遊星を宥めるように言い、立ち上がった。コタツを片付け、押入れの布団を敷き詰めて、好きに寝るように言われる。しかし眠れる気にもならず、部屋の隅で半纏に包まったまま座り込んでいた。

「遊星くん、遊星くんおはよう」

 ハッと目を開け中腰になると、目の前にある笑顔が苦笑に変わる。遊戯だ。その向こうから物珍しげな顔で王が覗き込んでいる。

「もうお昼だけど……もっと早く起こした方が良かったかな」

 緩やかに首を横に振った。眠気が全く来ず、朝方になってやっと意識を失うようにして眠っていたのだ。いつものように朝早く目覚め、体を動かしたい気もしたが、恐らくここにはDホイールも無い。何から初めていいかさえ分からない中で寝不足だけ抱えていたってしょうがない。
 一瞬、窓から入る太陽の光に情報が混乱しかけていたが、次第に自分の置かれた状況を再確認できるようになった。目覚めれば全てが夢であれば、そう思わないわけでも無かったから、わずかに落胆している。

「ボクたちはもう朝ごはん食べたんだけどさ、君は昼と一緒でいいかな」
「いえ、」
『遠慮しなくても平気だぜ。大したものは出ないからな』
「君が言わないでよ!」

 ほら寒いでしょ、とコタツを勧められる。布団はもう片付けられていて、昨夜と同じようにコタツが部屋の中央を陣取っていた。早朝まで起きている時は少し寒さを感じていたが、今は半纏さえ着ていれば十分な気温だ。しかし遊戯の好意を無碍にもできず、もそもそとコタツに入った。

「もうすぐ三月になるのにまだまだ寒いなあ」
『そうだな』

 頷きつつ王は半透明の姿のままコタツに入る素振りをしてみせる。魂でも寒さを感じるのだろうか。凝視する遊星に気づいて、王は意味深げに笑ってみせた――少し苦手だ。

「えーっと、野菜は何か残ってたかなあ……」

 小さな冷蔵庫に頭を突っ込んだ遊戯が独り言を漏らした。伝説の決闘王自ら昼食を作ろうとしているらしい。ここでのんびりその背を見ていていいのだろうか。なんだか落ち着かない。

「ここは……ネオ童実野シティの中ですか」
「ネオ……?童実野町だったらここだけど、君はそこから来たってことかな」
「はい」
「ネオ、童実野かあ……なんだか格好良いぜ。ひょっとして遊星くんは未来の人なのかもね」

 童実野町は、ネオ童実野になる前のずっと昔の地名だ。遊戯の言うように、ここは過去の世界で、遊星は何かの衝撃――恐らくダークシグナーとの闘いにより過去にタイムスリップしてしまった、という仮説が一番有力だと思う。外の様子を確かめてみたいが、さすがに今の格好で外に出て行く気にはならない。

「あの……遊戯、さん」
「遊戯でいいのに!」
「オレの服は……」
「それならまだ乾かしてるけど、今十代くんが……」
「ただいま帰りましたっ、と!」
「おかえり十代くん」
『おかえり』

 笑顔で遊戯たちの出迎えを受け取った十代が遊星に視線を巡らした。期待したような目で見つめられるので、確信は無いが期待されているのであろう言葉を吐く。

「……おかえりなさい」
「おお!遊星、喜べよ!」
「遊星くんが着れそうな服買ってきてくれたんだよ。遠くまで行ったのかな。大変だったね」
「いやいや、人助けですから!」
『……カードショップに寄らなきゃ、もっと早く人助けできただろうにね』
「おいおい、バラすなよユベル」
「まあ、それは仕方ないかな……。ボクもよく遅刻しそうになっちゃうし……」
『つい時間を忘れるよな』
「ですよねぇ!」

 シティにあるという話ぐらいしか聞いたことのない、『カードショップ』という単語に心が動く。そんな遊星の視界を遮るように十代がコタツの上へ紙袋を置いた。それからモソモソとコタツへ潜っていく。

「あったかいぜぇ……」
『開けてみろよ遊星』
「はあ……」
『苦情は聞かないよ。センスのない十代の代わりにボクが選んだんだからね』
「服なんて寒くなきゃあなんでもいいだろ?」
『だからって頭からつま先まで真っ赤なのはどうなんだい』
「赤、かっこいいじゃんか。オレは赤が好きなんだよ」
「ありがとうございます」

 十代は芋虫のようにコタツに潜り込んでしまって、目の前に紙袋が佇む遊星からは見えない。ひとまず半透明のモンスター、ユベルに頭を下げて紙袋に手をかけた。出てきたのは紺色のスラックスと厚手の長袖シャツだ。どちらもあまりサイズを選ばないもので、シンプルだ。これならあまり違和感も無く外に出れるだろう。部屋の隅に寄って早速着替えさせてもらう。

「そう言えば帰ってくる時パラドックスに会って、本当にうんざりだったぜ」
「ゴミもちゃんと分別してるし、夜中までデュエルで騒ぐの、もうやめたのに……」
『何を言われたんだ?』
『いつものことさ。時空がなんだとか歪みがああだとか……長い戯言だね』
「デュエルも滅多にノってこないしなあ。つまらないよな」
「パラドックス……?」
「ああ、このアパートの管理人さんなんだ。ちょっと変わった人でね……。まあいつも周りの掃除とかしてくれるし、いい人だと思うよ」
『お、遊星なかなか決まってるぜ』

 丈には問題が無いのだが、スラックスの胴回りが少し余っている。ホルダーつきのベルトは抜いてあるのでそれを巻いた。ついでにデッキをもう一度確かめる。風呂から出た時も確かめたが、ダメになったカードや無くなったカードは無さそうだった。このデッキだけは、いつも変わらずに遊星と共に在ってくれる。

「それ、デッキか遊星!ちょっと見せてくれよ!」
『オレも見たいな』
「……じゃあデュエルを……」

 あまりにも王や十代の眼が輝いているので、コタツに戻った。しかし何かを炒めているらしい遊戯がストップをかける。それはボクが居る時にしてよ!ということなので、いくつかカードを抜き出してテーブルに広げた。台所から香ばしい良い匂いがする。

「へええ……シンクロモンスター……スターダストか、格好いいぜ……!」
『初めて見るカードが多いな。十代のデッキと同じで、やっぱり「別のところ」のカードは面白いぜ』
「早くデュエルしてえぇ!」

 カードに食い入るように見入る王と十代に、不思議と遊星は安堵感を覚えていた。どんな世界のどんな場所に行っても、カードを愛する人間は居て、遊星と同じようにデュエルを楽しんでいる。その実感が今目の前に広がっているのだ。

「はいはい片付けてー!」
『相棒、また「あるものの炒め物」か』
「仕方ないだろ!大学行ってから初めて料理始めたんだからさー!」
「オレ、遊戯さんの『あるもの』好きだぜ!」
「はいはい、ありがとう。じゃあ手伝ってね」
「りょーかいっ!」

 大皿に乗った炒め物がコタツの中央に来て、白米の盛られた茶碗と湯飲み、それから箸を手渡される。遊星は震えた。なんと豪華な。手を合わす遊戯と十代に合わせて恐る恐る箸をつけ、それからが早かった。気づくと茶碗には何も残っておらず、呆然とした視線を集めていた。

「ええっと……おかわり、要るかな?」
「えっ。いえっ……」
「遠慮すんなよ。腹減ってたのか?」
「いや、あの……あまりに……美味しかったので……」
「ほんと?炒めただけなんだけどなー」

 そう言いつつも照れた様子の遊戯がおかわりを持ってきてくれるので、誘惑に耐えかねてがっつく。おかずまでついて白米がこんなに食べられるとは。ぜひラリーたちにも食べさせてやりたい。持って帰りたい気分だ。何かで読んだ童話を思い出す。色々あって足の悪い少女が立つやつだ。

「ごちそうさま!さて、やろうぜ!」

 一番最後に食べ終わった遊戯が箸を置いたところで、十代がそそくさと片づけを始めた。遊戯や王、ユベルは皆苦笑を浮かべている。ふと、自分も同じ表情を浮かべていることに遊星は気がついた。

「そうだね……っと、ちょっと待ってね。誰か来たみたい……」
「おーい遊戯、開けるぞ!おっなんだ、十代も居るのか」
「ちわー、城之内さん!」
「っと、そっちは……」

 一応呼び鈴を鳴らしたものの、遠慮なくドアを開け放って部屋を覗き込んでくる男に会釈する。城之内と呼ばれたか。こちらも聞き覚えのある名だ。デュエルモンスターズの創始者、ペガサスが挙げたと言われる名決闘者の一人にそんな名前があったはずだ。

「遊星くんって言うんだ。昨日この部屋に来ちゃってさ」
「ああ……十代みたいな感じだな。オレは城之内克也!遊戯のダチだ。よろしくな!」
「不動遊星です」
「突然どうしたのさ、城之内くん。仕事は?」
「年中休みみたいなダイガクセーよりは少ないけど、オレにだって休みはあるんだよ!春休みですっかり曜日感覚無くなってるだろ、お前!」
「いやあ……あはは……」
「ったく、んなこったろーと思ってよ!久々に里帰りさせてやろうってわけだ。じーさんとこで決闘しようぜ!」
「いいね!」
「オレも!遊戯さんオレも行くぜ!」
「当たり前だよ!遊星くん、ボクの実家ってゲームショップでさ、カードもいっぱいあるんだぜ。君も一緒に行こう!」

 先ほど動かされた心が再び騒ぎ出した。どうせ外の様子を確かめたいと思っていたのだ。迷うことなく返事をして、立ち上がる。未だ湿った感のあるブーツに足を通して一歩外に出た。

「明るい……」
「晴れたね!」
「いい天気だぜ!」

 太陽が明るいせいもあるが、それだけではない。そこには見たことの無い世界が広がっていたのだ。ここは古いアパートの二階のようだが、その廊下から見える景色はどこまでも建物や道路で開けている。高層ビルと廃墟とででこぼことしているネオ童実野に比べるといくらか平らに見えた。遠くに高いビルがいくつか見える。眩しさに目を細めているとすぐ近くで笑う気配がした。

『お前の来た世界とは違うか』

 王だ。遊星は頷くことしかできない。手すりに手をかけ、身を乗り出して遠くまで見ようとして、眼下に人が居ることに気がついた。その人間も遊星を見ている。険しい顔をしているその男は、忌々しげに口を動かした。小声なのか音は聞こえない。だが確かに、その口は不動遊星、そう動いた。

「げっ、パラドックスさんだ……」
「上ってくる時は居なかったぜ?」
「仕方ないよ、急いで行こう……」

 バタバタと四人分の足音を響かせながら地上に降り立ち、そこで待ち構えるパラドックスと対峙する。金髪の長髪、ピッタリした派手な服装、それが竹箒を片手にしているのは、何か不思議な不協和音を生み出している気がする。

「えーっと、ゴミはちゃんと分別して、朝のうちに!曜日を守って出してます!掃除当番もちゃんとやってるし……夜中も静かにしてるよ!」
「それでは不十分なのだよ、武藤遊戯」
「えっ?」
「この建造物は見かけの通り古い。それはよく分かっていることだろう。そしてそれは水道管、蛇口も同じことだ。台所、洗面所、風呂場、これらの蛇口をお前たちは何の遠慮も無くひねる……するとどうなると思う。突然に大量の水を供給しなければならない老いた水道管や蛇口が悲鳴をあげる!」
『つまりうるさいってことか』
「あーえっと、それはすみませんでした。気をつけます!じゃっ!」
「待て!」
「急いでますからー!」

 城之内を先頭にして皆駆け足になる。ワンテンポ遅れた遊星の腕を十代が捕む。しかしもう片方の腕はパラドックスの手の中にあった。

「不動遊星……知っているぞ……過去におけるあらゆる事象は全て私のうちにある……!お前は不動博士がネオ童実野に送り出した呪いだ」
「遊星!」

 低い囁きを愚直に聞いたまま足が金縛りのように動かなかったが、十代の叱責にハッと我に返った。パラドックスの手の力も弱くなったので振り切って歩き出す。逃げるように明るい街に飛び込んだ。次第に歩く速度は遅くなり、会話も増えていく。しかし遊星はそれに加わる気にはなれなかった。
 「童実野町」には空を走るハイウェイがない。モノレールもネオ童実野のように町中を網羅しているわけでは無さそうだ。しかし横切るこの町は、平穏で柔らかい空気に包まれている。

 ゼロ・リバースが無ければ、今のネオ童実野も同じ空気を受け継いでいられたのかもしれない。

「っああー!負けたぁ!」

 オーバーリアクションで負けた悔しさを表現され、つい苦笑してしまう。遊星が恐らく未来から来たのだ、という話を聞くなり城之内がデュエルを申し入れてきたので、遊戯の実家だというこの店でデュエルをしていた。

「先輩のイゲンが……」
「……先輩の、威厳ですか?」
「そうだよ!未来から来た決闘者、ってことはオレたちのずーっと後輩ってことだろ?だからカッコイイとこ見せてやろうって思ったんだけどなあ……」

 はあ、大きく落胆のため息を吐き出す城之内に、オレの時もそんなこと言って負けたよなあと十代が追い討ちをかけている。

「遊戯のとこに転がり込むくらいだし弱いわけはないって思ってたけどよぉ……」
「でもいい闘いだったよ」
「見ててワクワクしたぜ!シンクロ召還……すげえ技だ!」
「未来の決闘、進んでんな……。完敗だぜ」
「いえ、先輩のデッキは決闘者のカン……のようなものを最大限に引き出した、すごいデッキだと思います。何度もヒヤヒヤさせられた」
「そ……そうか!お前、見る目あるぜ!やっぱ遊戯のとこに転がり込んできた奴が悪い奴なわけないな!」

 向かいに居た城之内に回り込まれて頭をわしゃわしゃ撫ぜられて困惑しつつも笑う。少しクロウに似ている気がした。

「城之内くんって本当にすごいよね。天井無いんじゃないかってくらい、どんどん強くなってくんだもん」
「おいおいあんまり褒めるなって。オレは……まだまだもっともっと、強くなんないとなんねえ」
「……何故ですか」
「一発どかんっと当てるためだ!」

 拳を振るって熱弁する城之内の言をまとめれば、今は大会が世界中でぽつぽつとあるぐらいだが、いずれはデュエルのプロリーグが創設される。今はまだ遊戯には到底敵わない腕だが、いずれはそこでチャンピオンになって賞金王になってやる……ということらしい。金のためってことかあ、と呆れ気味の十代を城之内がくるりと振り向いた。

「そいつは違うぜ!金はまあ階段の一段ってこった!階段が高けりゃ高いほどでっかいことに近づけるんだよな。幸せって時々たっかいとこにあるだろ?だから金に限らねえで、嬉しいって思うことを積み上げてきゃ、気づいたらオレも同じ高さになってるって気がすんだよな」

 トントン、城之内が自分の頭頂を手のひらで軽くはたいた。それから、生意気なこと言う奴は先輩のイゲンの餌食だと、十代をデュエルに巻き込んでいる。デュエルと聞いては黙っていられないのがデュエリストだ。十代も嬉々としてデッキを取り出した。

「じゃあ遊星は、オレとやるか」
「王、サマ……!」
「……別に好きに呼んでいいが、変な感じだな」

 今実体として存在しているのは王の方で、魂の姿をしているのは遊戯の方のようだった。この二人は、魂を入れ替えることができるのか。驚く遊星をからかうように遊戯が笑った。

『元気が出たね、遊星くん』

 さっきまで元気が無さそうだったから、と続けられて少し気まずい。顔には出していないつもりだったが、ずっと黙りこくっていた。あまりいい印象ではなかっただろう。

『城之内くんってカッコイイでしょ。城之内くんはね、幸せと一緒に成長できる人なんだよ』

 城之内はすぐ隣で十代とはしゃいでデュエルをしている。少なくとも今、遊星の心が少し上向いたのは、その城之内のおかげだ。

「眠れないのか?」

 夜風に当たろうとそろりと半纏姿で廊下に出たところだった。時間としては深夜で、見下ろす街明かりもまばらだ。誰かに声をかけられると思っていなかったので驚いてしまった。ドアが開いた気配もしなかったので余計にだ。隣に立つのは十代である。ユベルはおらず、一人だ。

「寝ようって時も部屋の隅っこで三角形になってるだけだしな。そんなんじゃ眠れるものも眠れないぜ?」

 十代の声音は落ち着いているが、どこか突き放すような色もあった。遊戯と居る時とは少し雰囲気が違う。初春の夜風が冷たくその髪を乱し、頼りない街灯の光が青白く十代の横顔を照らしている。

「……この町はとても明るくて、温かい」
「オレもそう思うよ」
「だが……オレの世界では……」

 言葉が続かない。同じ町の中で信じられない格差があり、そしてまた、遊星がこうしてぼうっと突っ立っている間にも滅び行こうとしている。

「怖いのか?」

 その言葉は今の遊星にずしりと重い。つい無意識に脇腹に触れた。遊星を振り返る十代の目が左右違った色で淡く輝いているように見えるのは光の加減か。

「自分の中にあるひたすら深くて、ただただ暗くて、どろどろしているものに引きずられそうで怖いのか?」

 仲間から頼りにされていると思うことはしばしばある。仲間内で自分にしかできないこともあると思っている。ただ、遊星の奥にあるちっぽけで真っ暗な空洞のようなものを見つけられてしまったらと思う。

「怖い、です」

 十代の目から逃れるようにして小さく呟いた。錆びた手すりを握り込む。本当の遊星はいつも怯えている。そしてそれに目を瞑って生きている。

「オレも怖い。……いや、怖かったよ」

 十代の声色が急にがらりと変わった気がする。しかし横目で確認するその顔にあまり変化は無かった。

「オレもお前も、誰でも、本当は怖いんだ」

 うー寒い、風邪引く前に戻ろうぜ、何事も無かったように十代は遊星をドアの向こうへ引き戻した。

「おい、起きろ、貴様」

 この世界に来てしまって二度目の朝だが、やはりそう簡単に慣れることができる環境ではない。一体ここはどこだ、この声は誰だ、どこかぼんやりした視界いっぱいに広がるこの険しい顔は何なんだと脳内を整理して――最初の問い以外はやっぱり分からないことに気がついた。周囲を見渡して中腰になる。部屋は朝方寝付く前に居た部屋で間違いないが、遊戯や十代の姿は無い。皺ひとつない白スーツに青ネクタイという、パラドックスとは違った方向で派手な格好をした男が一人居るだけだ。

「誰だ貴様は。なぜこの部屋に居る」
「お前こそ誰だ。ここは遊戯さんの部屋だ」
「フン!だが貴様は遊戯ではない。ただの不審者だ。本来ならば貴様のような不審者に親切に教えてやる義理は無いが、特別に教えてやってもいい。……貴様のような不審者に大口を叩かれたままなのは不愉快なのでね」

 息が苦しいような気がしていたが、それも当然だ。目の前の男が背後に回した手で、遊星は襟首を掴まれていた。半ば吊り上げられる形だ。つまらなそうな風で男はその手を離した。背もたれにしていた襖に軽く頭をぶつける。

「オレはこのボロアパートのオーナーだ。……いや、オーナーしてやっていると言いってもいいぐらいだな!貴様に用はない。店子に用がある。遊戯がどこに居るか吐いてさっさと消えろ」
「知らない。オレは今起きたからな」

 『オーナー』が視線を更に険しくしたが、それが真実なのだから他に言いようも無い。それにしてもこの険のある物言い、偉そうな物腰、乱暴なやり口にはどこか覚えがある。それもごく身近に。そう思うと素直に口を動かす気も無くなって男とひたすら睨み合う。

「ただいまー遊星くん起きてる……って、痛っ!」
「な……なんだか静電気みたいなの感じるぜ……」
『磁場だな』
「あっ海馬くん!何してるんだよ!っていうか靴脱いでよ!」
「フン……やっとお出ましか」

 何故か部屋に入りにくそうにしている遊戯や十代の手には買い物袋がぶら下がっている。遊星が寝ている間に買い物に出て行ったらしい。そして折り悪く、その間にオーナーがこの部屋を訪れてしまったのだ。海馬という名前にも聞き覚えがある。やはり遊戯や城之内と同じく伝説の決闘者であり、またあの海馬コーポレーションの創始者である海馬瀬人……ではないだろうか。

「突然どうしたのさ?珍しいね、君がここまで来るの……」

 言葉とは裏腹に遊戯はどこか嬉しそうだ。海馬は最早遊星からは興味を失っていて、遊戯をひたと見つめている。

「このオレがこのボロなアパートにまでわざわざ足を運んでやる理由など、ひとつしか無かろう」
「仕事が一段楽したのかな。全然連絡取れなかったし、心配してたんだよ。あ、昼ごはん一緒に食べる?」
「貴様とぼけているのか……!」

 やっと部屋に上がってきた遊戯は、海馬の剣幕など気にしていない風で買い物袋の中身を冷蔵庫や戸棚に収めている。十代もワンテンポ遅れてそれに続いた。独り言のつもりなのだろうが、相変わらずおっかないぜ、という呟きが遊星まで聞こえてくる。

「遊戯さんは今から昼飯作ってくれるんだぜ。海馬さんはオレと……」
「貴様は黙っていろ!貴様のようなどこぞの馬の骨とも知れんガキの相手をしてやるほどオレは暇ではない!」
「ひっでー……いっつもそれだよな」
「まあ座ってなよ。今日はチャーハンにしようと思うんだ!」
「やりぃー!」
『また炒め物か』
「そう言えば海馬くんさあ、何だってパラドックスさんを突然管理人さんにしたんだよ。そりゃあ……しっかりした人だけどさあ」

 フライパンをスポンジでガシガシやりながら遊戯がぼやく。座っていろと言われても素直に従う気にはならないのだろう、所在なさげに突っ立っている海馬が小さく震えた。どうしたのかと凝視すればすぐに分かった。海馬は笑っている。ワハハハ……と遮音性皆無のアパートに高笑いが響き渡った。

「貴様の利益にならんからだ!当然だろうが!」
「……つまり嫌がらせってこと」

 半眼で振り返る遊戯を仁王立ちで見下し、海馬は鼻で笑っている。海馬瀬人と言えばデュエルディスクの開発者としても名高い。密かに尊敬していたのだが、残念ながら今日でその認識は改めなければならないようだ。

「フン、くだらんオカルトなどには微塵の興味も無いが……奴はオレの前でこう言った。『必ず遊戯を倒し、歴史を変え、未来の幸福を修正する』とな。オレはできるものならやってみろ、そう返したに過ぎん。まあここはオレの所有する土地の敷地内だ。当然タダではないが」
「立ってるやつは親でも使う海馬さん……」
「貴様!何か言ったか!」
「いーえ!なーにも!」
『相変わらず素直じゃないんだね。つまり遊戯がパラドックスに負けないってことを信じてるってことかい』

 回りくどい言い回しは似たもの同士だよ、ユベルの呟きに十代が噴き出すが、海馬は怪訝げにそれを見ているだけだ。城之内もそうだったようだが、海馬にはユベルや王は見えていないのだろう。

「……あんな男、『未来』『幸福』などという薄い言葉に囚われている時点で程度が知れるわ。そんなものは常にオレの後ろに転がっている。そんなくだらん石ころに興味も無いわ!」
「じゃあ海馬くんは何に興味があるの?」

 遊戯の言葉に、海馬は見事に口角を引き上げて見せた。

「遊戯、さっさとデッキを取れ!決闘者がその場に居て、決闘以外に必要なものなどあるか!今日こそ貴様を地に這い蹲らせてやるわ!」

 ワハハハ……また高笑い。しかしその言葉は全く分からないわけでもなかった。やはり海馬もデュエリストだ。

「遊戯さんの前に、闘うべき相手がいるだろう」

 まだ寝起きの借りは返ってきていない。あからさまに煩わしげな仕草で海馬が遊星を認めた。

「いてっ!だから何なんだよこの静電気……!」

「なんだか今日は大変だったな」
「はい」

 風呂上りの十代は、タオルで頭を包み、コタツにあごを乗せてテレビを見ている。その代わりに風呂へ向かったのが遊戯だ。遊星は疲れただろうからと既に一番風呂に押し出されている。実際、疲れているようなことは何もしていないのだが、ここのところ動く伝説と遭遇してばかりいて、さながら決闘者のジュラシックパークにでも居る気分だ。一方、元の世界へ戻るための手がかりは一向に得られない。気疲れを覚えていると言えば覚えている。

「アイス食べようぜ。今日買い物行った時、遊星の分も買ってもらったからな」
「えっ……」
「なんだ?嫌いとか言うなよ、普通のバニラだよ」
「いえ……寒くないですか」
「バッカだなあ、寒い時にコタツで暖まって食べるのがうまいのに」

 バカと言われたせいもあって、半信半疑な目を向ける。やはり遊戯が居ないと、十代の口調は少し乱暴になる気がした。のそのそコタツから這い出た十代は冷蔵庫からアイスを取り出し、遊星と自分の前に置く。もちろんスプーンも忘れない。

「食ってみろって」
「ありがとうございます」

 軽く頭を下げてフタを取り、十代にならってフタにこびりついたアイスを回収して口につける。甘く、冷たく、口の中でバニラが溶ける。考えてみれば遊星はアイスをほとんど口にしたことがなかった。夏場に氷を削って食べるかき氷のイメージしか無いのだ。随分昔、ハウスに居た頃特別な日に出されたものを食べたくらいの記憶しかない。

「……うまい、です」
「だろ!」

 男二人、黙々とアイスのカップを空にする。テレビだけががやがや騒いでいた。十代が遊戯さん溺れてねえかなあとふと呟く。ユベルが王サマが居るから大丈夫じゃないかと返した。遊戯の風呂は長い。十代曰く、「遊戯さんって風呂で寝るじーさんみたいなクセあるんだよなあ」ということらしい。爺さんは風呂で寝るものなのか。遊星には確信の持てない例えだ。

「十代さんは、遊戯さんのことが好きなんですね」
「おお!なんたってあの遊戯さんだぜ!お前なら分かるだろ?」

 十代の表情が分かりやすく明るくなったので、遊星もつられて頷く。今のこの世界の遊戯にあまり自覚は無いだろうが、武藤遊戯と言えばその後の時代に脈々と受け継がれていった伝説だ。決闘者ならば誰でも憧れる存在なのである。

「それに……遊戯さんはオレの恩人なんだ」
「コタツから助けてもらったからですか」
「そうだったらお前の恩人はオレだぜ?」

 横槍を愉快げに受け止め、十代は遊星の肩を拳で小突いた。

「この世界の遊戯さんは……多分、オレの知ってる遊戯さんとは違う」
「ここが、過去だからですか」
「いや……それもあるけど、もしかしたら、この世界を『選んだ』遊戯さんはオレと出会わない遊戯さんだったかもしれないってことだ」

 分かるようで分からない話だ。だが十代の言葉が一番シンプルかもしれない。難しくしようとすれば、いくらでも難しくなる話だという気がする。

「でもやっぱり遊戯さんと居ると落ち着くんだよな。それにここに来れば遊戯さんは必ずおかえりって言ってくれるだろ。オレは色んな国や世界を旅してるんだ。デュエルモンスターズの精霊たちの声を聞いて、気ままにどこにでもな。時代まで超える気は無かったんだけど……それはなりゆきってやつだぜ」
『要は適当ってことだね』
「まあ、ともかく。でも時々、無性に、『帰りてえ』って思う時があるだろ?そういう時にこの部屋のドアを開けるとさ、安心するんだよ」
「十代さんには、帰る場所は無いんですか」
「んー……。無い、とは思ってないぜ。でもオレは一緒に過ごした奴らが笑ってる顔が、すぐ思い出せる。それだけで充分だって思ってるよ」

 遊戯や十代に常に感じている妙な浮遊感、その原因のひとつはここにある気がする。十代はその特別な力のせいか、他の人間と明らかに毎日を歩く速度が違う。十代自身にもそれがよく分かっているように見えた。そしてそれを欠陥とは思っていない。遠くの幸せを独り想う、そういう幸せだ。

「……アイス、本当にうまいですね」
「クセになるだろー。明日はコンビニ行こうぜ。スーパーより色々種類あるしな」

 種類があるとは。バニラ以外の味がたくさんあるということだろうか。遊戯の実家でカードコレクションを見せてもらった時の気持ちに近いものが湧きあがってくる。

「はい。行きましょう」
「おー。ノってきたな」

「遊星、コンビニ行くぞ!」

 大学に用事があるとのことで遊戯は今日も朝から外に出ている。遊星も今日は比較的早く起きることができた。日の出の前には眠れた気がする。座って眠るせいで凝り固まった筋肉を伸ばしながら、元着ていた服に袖を通し終わったばかりのところだった。

「今日も晴れてるみたいですね」
「そうだな。この世界の今年は早くあったかくなるのかもなあ」

 靴の踵を合わせながら十代がドアを開ける。そしてその瞬間に二人して硬直した。待ち構えるようにパラドックスが立ち塞がっているからだ。機械のような無表情のくせに、目には独特の憂いがある。十代が構えるように腰を低くした。前に出てくるなと右手で制される。しかしパラドックスの視線は遊星だけに注がれていた。

「最早戻ることを放棄したのか、不動遊星。愚かな選択だ。このパラドックスによってまた時の流れが歪み莫大なエネルギーが生じる。それは今の時点でほんの針の穴程度の大きさだが……私の世界ではこの地球を呑み込む暗黒になる」
「パラドックス……お前の話は長くて聞く気にならねえぜ」
「繰り返しても繰り返してもお前たちが理解しないからだと何故分からない?この場所は危険だ。そしてそこに集う並ならぬ力を持つ決闘者たちも。ならばこの手で始末する他にないのだよ」
「帰る方法があれば……オレは帰らなければならない、オレもそう思っている……」

 だが手がかりがどこにも無いのだ。不服を溜め込む遊星の反論を、パラドックスは憐憫さえ感じさせる目で見つめた。その目が忘れかけていた焦りと不安を煽る。脇腹を抑えた。遊星の居た世界では、遊星の周囲の人々はどうなっているのだろうか。遊星自身の存在はどうなっているのか。

「哀れだな、遊星。その選択は一方では正しい。お前の世界、お前の未来にとって、お前はただの汚点に過ぎない。お前の父親の選択が数え切れぬ人間の未来を狂わせた。お前の知る者、友も全て。その者たちにとってお前は忌むべき存在だ」

 何度も見る、音の無い夢が遅い朝の青空に閃く。騒ぎ逃げ惑う人々、追い詰められた父親の表情、泣き喚く幼い自分、淡い優しい笑顔、それから爆発。

「戻る場所など最初から無いが、ここに居れば世界に禍々しい歪みを生む……いっそここで消えるのが賢明な選択というものだよ、遊星」

 十代に腕を掴まれ名前を呼ばれたようだが、ひどく遠いことのように感じる。それはパラドックスに言われるまでも無く常に頭にあったことだ。ただ逃げて、心の隅で縮まって触れないようにしていただけで。遊星の生まれを知っていても、少しも曇らない笑みを向ける仲間のことを思った。

 ――べしゃっ

 パラドックスの、やはり無機質な感のある笑みから目を離せずにいると、突然それに何かがぶつかって弾けた。卵だ。見ていただけだが痛みまで伝わってきそうな音がした。パラドックスは表情ひとつ変えなかったが。

「昨日買い忘れたらしいが丁度良かったな。……言っておくが、ヨード卵は高くつくぜ」
「遊戯さん!」

 厳密に言えば、今表に出ているのは王の方だ。開けかけの卵パックを片手に、もうひとつ卵を握っては放り、放っては握りを繰り返している。

「消えるだの消えないだの、そんなことを決める権利は貴様には無いぜ。オレたちにも、遊星自身にも無いのさ。そこに存在する限りオレたちは闘っていかなければならない」
「愚かな考えだな、名も無きファラオ。未来の巨大な幸福のためには、個人のひとつの抵抗はただの利己だ」
「今は名も無きってわけでもないが……ま、貴様に名を呼ばれたいわけでもないしな」

 王はゆっくりと十代と遊星に歩み寄り、卵を十代に手渡し、遊星の肩を軽く叩いた。

「遊星、オレは尊敬できない奴を、嫌いな奴を、卑怯な奴を仲間とは呼ばない。お前もそうじゃないのか?それにお前の仲間だってそうじゃないのか。おべっかや同情で仲間と言いたがるような奴らなのか」
「違うっ、……違います」

 それは遊星だって分かっている。ただ怖いのだ。仲間のその優しさを抉る自分がどこかにある気がして、それが恐ろしい。王はそんな遊星に優しく笑うだけだ。それはからかう色の無い純粋な微笑だった。言葉が出なくなる。

「『未来の巨大な幸福』か……パラドックス、貴様の守りたいものはそれか」
「そうだ。そのために大いなる実験を私は繰り返す」
「長い話はもう聞き飽きたぜ。だが貴様はオレたちと決闘しようとしない。実力行使に出ようともしない。ただ真面目にボロアパートの管理をしているだけだぜ?楽しい矛盾だと思わないか」

 パラドックスが王を険しい顔で見つめている。遊星もまた、ただ王を凝視することしかできなかった。脇腹のあたりに感じていた圧迫が次第に薄れていた。少し苦手とさえ思っていた王の言葉は今、ひたすらに明瞭だ。

「貴様はもう知っているんだろう。オレたちはオレたち自身の力で未来の幸福が切り開けるってことを」
「『私の実験は間違っていた』わけではない……私が知りたいのはそれだけだ」

 パラドックスが悔しげな顔を反転させた。その姿が階段の向こうに消えてから、ふうと十代がため息を吐く。やっとアイス買いに行けるな、その笑顔に遊星も体の力が抜ける気がした。

「うまいぜ!」
「十代くんって鍋好きだよねえ」

 ボクも簡単でいいんだけどさ、と続ける遊戯に十代が勢い良く頷いた。口内にある旨味を逃がしたくないとばかりに無言である。かく言う遊星も似たような状況で黙りこくっていた。肉は少なく、出汁もシンプル、野菜だけを山盛りに鍋に突っ込み、煮込んでいるだけなのだが、不思議なほどに美味い。そして何と言っても炊き立ての白米が美味い。どうにかして持って帰れる方法は無いものだろうか。

『十代は遊戯サンの作るものだったら何でも美味いんだろ』
「んぐ!んぐ!むぐぐぐ、ぐぐぐう!」
『何だって?行儀が悪いよ、十代』
「まあ美味しいって食べてくれるんなら作ったかいがあるよ」
『ほとんど炒めものだけどな』
「それはもういいから!」

 賑やかな空気に箸が更に軽くなっている気がする。自分の元居た世界を思い返した。やはり仲間と一緒に過ごす時間は何でもよく進むと思う。

「本当に……美味しいです。オレの仲間にも食べさせたいくらいだ」
「そっか、ありがとう」

 遊戯が嬉しそうに微笑んでいる。それを見ると遊星も嬉しくなった。十代の気持ちが少し、分かる気がする。

「ネオ童実野は多分、この町の未来です。オレたちはスタンディング……普通のデュエルもしますが、Dホイールを使ったライディングデュエルが主流です」
「Dホイール……?」
「ええっと……バイクです」
「へえー!バイクに乗ってデュエルするってこと?」
「すっげえ!オレ、免許持ってて良かったぜ!」
『面白い、見てみたいな』
「オレも、遊戯さんや十代さんとライディングデュエルがしてみたい」

 未来のこの町は、想像もできない大事故により大きく姿を変えた。そしてその原因の核には遊星の父親が居るのだ。遊星の父親の研究はジャックやクロウ、たくさんの人々の家族を、命を奪った。それでも遊星は――父親の姿を、その背を見てみたいと思っている。それこそが仲間に対する何よりの裏切りのように思えて、いつも恐れていた。鬼柳の言葉は未だ鮮明に脳内に焼きついている――「この裏切り者」。

 だが遊星はそれでも仲間との絆を信じ、守り、闘っていかなければならない。遊星がここに在る限り。

「とりあえず今は、普通の決闘しようよ!」

 鍋をあっという間に平らげて、今日だけはとそれぞれ言い訳をしながら夜中までデュエルをした。そうして気づくと遊星は、コタツ布団に潜り込んだまま他の二人と同じように眠りこけていたのだった。

 ――来れたんだから、帰れないわけないですね。

 朝見た遊星の顔は、今まで見た中で一番晴れやかだった。別れを惜しむように握手を何度も交わした。帰れたんなら来れないわけもないんだぜ、十代がそう声をかけた時の笑顔はとても柔らかいものだった。そうして遊星が力強く玄関から一歩を踏み出したと思えば、ドアの向こうにはただ廊下だけが広がっていたのだ。

「十代くんももう出て行くって行っちゃったし、一気に静かになったね」
『本当だったらこれが普通なんだけどな』
「そうなんだけどさ……」

 苦笑して、遊戯は蛇口をゆっくりとひねった。食器を洗うためだ。いつもより多い洗い物が、今朝までの出来事が夢幻でないことを物語っている。

「遊星くん、ここでのこと忘れちゃうかな」
『十代みたいなやつは特殊だからな……』

 それもいいだろ、その言葉に異論は無かったので遊戯は黙った。ただ、全て忘れてしまったって、何かの拍子で力になれる無意識になれていたらいいな、遊戯はそう思う。

「また会うような、もう会ったような変な気分だよ」
『ああ』
「また会いたいね」
『できれば、オレが居るうちにしてほしいぜ』

 台所に寄りかかるようにしている半透明の姿を横目で見た。目が合って、いたずらっぽく相手が笑う。仕方なく遊戯も笑って返した。

 悲観してはいない。しがみついてもいない。期限つきの幸せを目いっぱい楽しむ、遊戯たちはそういう幸せもあると知っているだけだ。小さな幸せを積み上げて、静かに時を待っている。

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