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狂白狼譚 (パラレル)



※ 中華パロ

 今日は曇天なのだが往来には人の姿が絶えない。大通りともなれば、胡同や郊外に暮らす人々が物を売りに出て集まってくるのだ。どこもかしこも祭りのように賑やかで、麻花の売り込みをしている女性の声が甲高く響き渡っている。何かを蒸しているのか炊いているのか炒めているのか、ともかくどこかしこから煙が上がって薄暗い天を目指していた。
 遊戯は荷物をスリにやられないよう気を使いながら小走りにその最中を行く。荷物と言っても、小さな包みに入っているのは論語の分冊のひとつと詩経の注釈書くらいのものだから、盗られたところで痛くも痒くも無い。ただ今日は寝坊をしてしまった。手ぶらなどで出ていけば、散々に嫌味の塩漬けにされてしまう。

 大通りを随分駆けてそろそろ息も切れてきたところで、鮮やかな五色旗がやっと見えてきた。風に煽られてはたはたと遊戯を手招きしているようである。あれ、今の表現はいいな。ひょっとしてボクは詩仙の生まれ変わりかもしんないぞ。
 自分一人だけの空しい漫才もほどほどに、荘厳な大門の前で立ち止まった。息を整えてから目を上げる。そこには飾り灯が掲げられてあり、重苦しい字で『海馬』とあった。その字と同じような心地になりながら、遊戯はひとつ深呼吸をする。
 門構えからでも分かる大屋敷だと言うのに、門の周囲には駕籠舁きひとつの姿すらない。だが遊戯にはそれが却って気楽だ。門檻を踏み越えて屋敷の前庭に入る。通りから大門の先を覗かせないための陰壁には美しい絵が描かれてあり、毎度思うが見た目だけは本当に麗しい屋敷だ。その主人とどこか似ている。
 二つ目の門を抜けて中庭に出る。だがやはり屋敷の中はしんと静まり返っていた。こんなに大きいのだから、本来なら何世代、何世帯もの人間が群住していてもおかしくないものを。遊戯は慣れているが、初めてここを訪れた人間はこの静かな建築美を気味悪く思うだろう。

「海馬くん!海馬くん、お邪魔してるよ!」

 馬褂の長い袖を煩わしく思いつつ、大声を出しつつ中庭を歩き回る。古来からの慣わしと同じように、この屋敷のほとんどは中庭に面しているから、中庭を一周すれば声が届かないこともないだろう。その中庭が広大過ぎるのが問題なのだが。

「海馬くん?海馬くーん!海馬、」
「やかましい。聞こえている。入ってこい」

 東棟から億劫そうな声が聞こえてきた。聞こえていたなら答えるのが道理だろう、と思いつつも渋々東棟へ足を踏み入れた。雨水用に置かれてある水瓶を転がさないよう用心しながら食堂へ入る。

「……食事?遅くない?」
「馬鹿が。人に物を問うのは己で推測できる限界を突破してから問うものだ」

 使用人すらろくに見かけない、この見た目ぼっちのがらんどうな屋敷の中で一体誰が作っているのか。海馬の卓の上には美味しそうな点心が並んでいる。午後のお茶とでも言ったところか。磁器に浮かべられた睡蓮をつまらなそうに見下しながら、海馬は碗をぐいと傾けた。遊戯からは白い喉がよく見える。
 派手な顔でもない。特に目鼻立ちが端正というわけでもない。だが海馬には、形容しがたい『空気』がある、と遊戯は思う。だがその正体が何なのか未だに解き明かせないままでいる。

「貴様の来るのが遅いせいで水腹だ」
「えっ?待っててくれたの?じゃあこれ、ボクも食べていいってこと?」
「当然だろう」

 なんてことだろう。こんな日に寝坊してしまうなんて。慌てて謝罪の言葉を並び連ねようとしたところで――

「貴様には充分太ってもらわんと困るからな。何故いつまでも骨と皮しか無いのだこの貧弱者が!冷めてはしまったが卑しい貴様なら喰えるだろう。さっさと喰え」

 ……やっぱり、またか。
 分かってはいたのだが、騙された気持ちでいっぱいで、遊戯はため息をこらえられなかった。

「オレは貴様を喰べたいのだ」

 それは海馬の口癖だった。
 白い大褂をはためかせながら海馬が長い回廊を歩く。背筋はしゃんと伸び、白い着物がたてがみか何かのようだ。人が彼を「白狼」と呼んでいるのを聞いたことがあるが、なかなかに的を射た表現だと思う。

「……骨と皮しか無いんでしょ」
「だが美味そうだ。歯を突き立てて、臓物ごと屠り殺してやる。羹にするのもいい。肉包子に詰めてやるのもいいだろう」

 初めてここに来た時は、海馬のこの冗談にも聞こえない物言いが恐ろしくてたまらなかったものだ。いつか本当に喰われるのではと何度も足を渋らせたこともあった。

「そんなの、人間のすることじゃない。狼だ。獣だよ」

 少しでも自尊を踏みにじられる言葉を繰り出すと烈火のごとく怒り狂うくせ、今日の海馬は冷たい笑顔で遊戯を見下ろしているだけだ。馬鹿にするように息を吐いた海馬は、遊戯を母屋の私室へ招き入れた。

「何だよ。何で笑うのさ?」
「貴様が己を人間だと思っているのが滑稽だからだ」
「……ボクは人間だよ」
「そうだな、貴様は何よりも『人間らしい』。それは確かだ。だがだからこそ滑稽だ」

 相変わらず海馬は少し――おかしいと思う。狐にでもつままれたような気分で、不機嫌のまま部屋に入った。塵のひとつも無いような屋敷とは違い海馬の部屋はやや散らかっている。足下に書が数枚落ちていて、墨がそのどれにも色濃く「喫人」と綴っていた。馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、紙を拾って適当なところにまとめて置く。

「札をやるぞ。貴様も持って来ただろうな」
「……持っては来てるけど……。ボク一応、君のとこの私塾に通ってるってことになってるんだけど……」

 それなりに財と名のある家の子息は、お偉い某某先生の塾に通ったり、その先生を招いて手習いをするのが慣例だ。だが海馬家ほどの名の知れ渡った大家となると、最早家の中に塾があり、そこで海馬家の数多の子供たちが四書五経の国学を日夜勉強するということになる。時折そのような私塾に他家の子息が――大家のお墨付きと親交欲しさに――そこに加わることもあり、遊戯もまさしくその一人というわけだ。

「どうせ貴様の家は没落するのだ。貴様が今更国学を誦んじてみたところでそれは変わらん」
「……ボクがもし本当に君に食べられちゃったって、ボクより若い家族は他にもたくさん居るよ」
「そういうことではない。長男長子を洋学堂にもやらず、こんな場所で遊ばせているのだ。貴様の家の没落など見えたものだ」

 そのように没落没落と繰り返されればさすがに腹も立つ。だがたいした文句も思いつかない内に海馬はさっさと紙札の束を混ぜ始めてしまった。何だかんだは言いつつも、論語の一節さえまともに覚えられない遊戯だ。大人しく己の札を取り出す。

「まあオレに喰われる貴様には関係のないことだ。精々最後の時をオレにとって有意義に過ごしてもらおうか」
「本当に食べる気も無いくせに」
「オレは貴様が肥え太るのを待っているだけだ。だが貴様は美味そうな匂いがしているぞ。頬も柔らかい。月餅の比では無いな」
「……ろうも」
「そんなに喰われたいなら今にも喰ってやるぞ」
「遠慮しまふ」

 海馬が遊戯の片頬を引っ張ったまま愉快げに高笑いをする。海馬はこうして遊戯をからかっては楽しんでいるだけなのだ。もっともらしいことを言って、遊戯を怖がらせて喜んでいる。だが幼い頃からこのようにからかわれて慣れぬ者があるものか。

「古来にも『子供を交換して喰う』などと言ったものだ。かの李先生とやらも人間の肉こそ万病の妙薬と説いているだろう」
「それって戦国時代の話なんでしょ!李……なんだっけ?えーっととにかくその人の本にしても、君は健康だし、人間を食べる必要なんてあるの?」
「この屋敷に何故人が居ないか……知らんわけでもないだろう」

 オレが喰ったからだ、海馬がニヤリと口角を引き上げる。その残忍な笑顔を見れば、街の姑娘なんて震え上がって失神してしまうだろう。だが遊戯は知っている。彼の弟が洋学堂へ出てしまっていることと、ここ数年で海馬家にはやり病の魔の手がかかったことを。呆れて己の手札に集中した。海馬はつまらなそうな顔だ。

「大体、おかしいよ。君の方がよっぽど美味しそうなのに」
「何だと?」

 話を流そうと思って適当に口を動かしただけなので、聞き返されるとは思っていなかった。自分でも何を言ったか今ひとつあやふやだ。遊戯が答えられずに困っていると、海馬はまた笑った。今度は嘲笑とも冷笑とも言えない、なんとも言えぬ笑みだ。

「……狼子野心か」

 海馬がまた長い回廊を歩く。遊戯もその後を追う。西日が中庭を赤々と塗りたくっており、普段は暗い回廊も朱色に染めあげられていた。昼間は曇天だったというのにいつの間にか雲が細く切れている。秋の空だ。

「海馬くん」
「何だ」
「どうして髪切ったの」
「人を喰うには邪魔だからだ」

 海馬の長く美しい辮髪が揺れるのを見ながらその後を追うのが好きだったのだが。海馬はまたふざけた答えしか返さない。涼しげな首筋が随分露わになって、これも夕日を受けて赤く染まっている。

「ねえ、海馬くん真面目に答えてよ。何で……」
「やかましい」
「―――っ!」

 海馬が突然立ち止まり、こちらを振り返った。それから苛立ちの目立つ顔を遊戯にぐっと近づけ、それから遊戯の首筋に軽く噛みついた。驚いて身を竦める。その反応には満足したのか、海馬が薄く笑った。

「さっさと帰れ。喰われたくなければな。もう月が出るぞ」

 確か今日は満月だったか。遊戯はあまり月が好きではない。それが夜の王と成り果せる前にさっさと帰途に就くべきだろう。だが未だに心臓の音が迅いのだ。海馬にじゃれつかれたからではない。それはいつものことだ。そうではなくて、その首筋の思わぬ白さに目が眩んだ。
 海馬は狼子野心と言った。だがもちろん、遊戯は海馬を喰いたいなどとは思っていない。しかしそうでなければ、遊戯はその首筋に何を思ったというのだろう。

 心音は未だ迅い。

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